私が上記のような「奇説」を書くのは「歴史は自分の頭で考えないと分からない」と考えているからです。つまり「人の書いたものを理解するだけではいけない、つまらない」と思っているから。取るに足らない「奇説」「珍説」ですが、一応まっとうな歴史学者さんの本を参考に書いています。しかし「だから正しいと」いう気などさらさらありません。
源頼朝は反乱軍として(平家が官軍)スタートし、朝廷とは関わりなく勝手に土地の「安堵」を行っていきます。ただそのうちにやや路線が変わって「朝廷ともうまくやっていこう」となります。挙兵には後白河法皇の院宣があったという方もいますが、その証拠は全くありません。愚管抄は否定しています。それどころか、後の奥州藤原氏戦争は、後白河法皇の強い反対を押し切って強行されます。法皇は「追認」という形で、形式を整えました。
そうして出来上がった東国を拠点とし、東北を「支配下」に置く政権は、実に貧弱な政治システムしか持っていませんでした。当時の「政権」の主な仕事は「土地裁判」です。これがある程度システム化されたのは(それでも貧弱ですが)北条泰時の時代とされます。それまでは源頼朝が決めており、その下に何人かのブレーンがいました。貧弱な役所も一応はありました。しかし膨大な数の案件を公平に処理できるような「システム」はなかったのです。これが二代目将軍源頼家の不幸でした。18歳の彼は、安定した「裁判システム」のもとで政治を行うことはできなかったのです。頼家が「適当に線を引いて土地の分配をした」という話が伝わっていて、学者さんの中には「嘘だ」という人もいます。ただ膨大な案件を「公平に」裁くことは、システムがなければ至難の業であり、「線を適当に引きたくもなる」というものです。
武士の政権ですから、武力は持っています。しかし政治力(裁判力・調停力)は未熟でした。地頭の「やり口」も洗練とはほど遠く、剥き出しの暴力で物事を解決することも多かったわけです。
さて「奥州藤原氏戦争」に勝利し、一応「政権」を構築した源頼朝は、やっと上洛して後白河法皇と会談します。朝廷との利権調整が行われました。ここで源頼朝は有名な一言を言います。法皇に直接言ったのではなく、九条さんにですが「すでに朝の大将軍たるなり」と言ったのです。
これはどういう意味でしょうか。「朝」とは「朝廷」か「日本」のことでしょう。「すでに」とはどういうことか。「朝廷が認めようと認めまいとそうなのだ」ということなのか。
しかし朝廷はこれを「朝廷のもとの大将軍」と捉えました。別に間違った解釈ではありません。現代の歴史家の一部が「鎌倉幕府とは国家の警察、軍事部門を担当した一権門に過ぎない」というのは、この朝廷の解釈をそのままなぞっているからですが、幕府がそう「宣言しちゃった」ことは史実です。朝廷、幕府の当事者意識はそうなのですが、実態としてそうであったかは別問題でしょう。頼朝の意識など所詮は当事者の主観であり、歴史学は客観を重視すべきものであるはず、です。なお「権門」というのは、支配層のことで、公家(王家)、寺社、武家(鎌倉幕府)が「権門」です。
朝廷は院政期、武家(平家)を治安維持と、荘園公領制の維持の為に使ってきました。荘園公領からの税は未納されがちでした。「武士が徴収してくれるなら」、むしろ朝廷にとってはありがたいことでした。もっとも地頭はそんなに「いい人」じゃありませんから、取っておいて貴族には送らないという事態も頻発します。
頼朝、というか「幕府」は「国家の警察、軍隊」であることを宣言したせいで、とんだ重荷を背負います。上記のような反抗的な地頭を取り締まらないといけない。そもそもの仕事である「土地の裁判をしなくてはいけない」。そして「大番役として荒れ果てた京都の治安を守らないといけない」(これは御家人だけの名誉とされました)、、、そしてついには「次の天皇を誰にするか決めなくてはいけなく」なります。
本来「次の天皇を決める」のは「警察や軍隊の役目ではない」はずです。しかし朝廷では天皇家の「跡目争い」が激化していました。保元の乱といった「殺し合い」も起きていました。鎌倉幕府は「ヤクザみたい」と言われますが、この時代の朝廷だって大差ありません。殺し合いで次の「治天」を決めていたのです。
天皇を朝廷内の二つの派閥で、戦争なく交代させるには、第三者である幕府の判断が必要だったのです。幕府は承久の乱後は天皇を指名しましたが、ずっと指名役をやることには「乗り気」ではありませんでしたが、やがてこれが「習慣」となって「深入り」します。もっとも後鳥羽系の天皇が生まれるとまた「やりたくもない戦争をしないといけないはめ」になる恐れがあったので、それを避けたいという意図が働き、乗り気でないと言っても、後鳥羽系だけは断固拒否でした。
幕府はなるほど「権門」でしたが、最初の方に書いた通り、その政治的実力は未熟でした。だんだんと成熟していきますが、武士の全てを統合しているわけでもなく、非御家人と言われる「幕府に属さない武士」も存在していました。正確には「本所一円地住人」と呼ぶそうです。
本来は「東国政権」に過ぎないのです。でも「権門体制の権門だ」「全国の警察、軍隊だ」と頼朝が宣言してしまいました。「すでに朝の大将軍たるなり」です。これが幕府滅亡への道につながります。東国政権に過ぎない存在が、「日本に責任を持つ」と宣言してしまったのです。執権政治下でもその考えは引き継がれました。でも西国は「朝廷がやるもの」と安心していたと思います。
しかし後鳥羽院が承久の乱を起こし、幕府が勝利し、幕府は本当に「全国チェーン」になってしまいます。西国まである程度の責任を負うことになるのです。
朝廷が西国を「きっちり」やってくれたら、幕府も楽だったでしょう。しかし朝廷は承久の乱の後、裁判力、政治力を減衰させていきます。というか院政期すら平家(武家)なしには相手を政治、裁判の決定に従わせることは難しかったのです。自然、全国政権の実力はない幕府に「おんぶにだっこ」という形に頼っていくようになります。朝廷は裁判も行っていたでしょうが、大きな「政治」としては、伊勢神宮の遷宮、大嘗会、内裏の修理新築、大仏殿の再興などがあります。これらの費用は「一国平均役」という税でまかなわれ、幕府もその徴収に進んで協力します。「建物の建設が政治、行事が政治、儀礼が政治」というのは、現代の感覚からするとおかしな話です。でも朝廷は本気で政治だと思っていました。朝廷の政治の根本には儒教の徳治思想があり、それは儀礼や行事を通じて実現されるとされていました。文章経国というこれまたおかしげな儒教思想もありました。大金を使って「漢詩の会」を催し、飲んで食って詩文を作って文学を盛んにすることが、社会を安定させる政治だという思想です。これが「政治なら」、なるほど朝廷は政治をしていたのでしょう。しかし現代の感覚からみても、現実な政治効果を考えても、それらを政治と呼んでいいのか。朝廷の「政治」の中身は、きちんと考えていくべきことだと思います。なおその「政治」に幕府も積極的に協力した事実も、考えてみるべきことの一つでしょう。朝廷が古く、幕府が新しいわけではありません。
さて、話は幕府に戻ります。既に時頼あたりの時代から、幕府は変質し、徐々に「王朝政権のように」なっていきます。「家格によって地位が決まる」ようになり、政治が硬化し、御家人の中に貴族階級(得宗、御内人、北条氏など)が生まれ、政治が儀礼化していきます。そのくせ、六波羅探題にすら「最終決定権」を与えず、鎌倉中央集権に妙にこだわったようです。
そして「次の天皇を決める」という幕府が「いやいや引き受けた仕事」が致命傷となりました。「自分の子をどうしても天皇にしたい」と考えた後醍醐帝が、「幕府を倒さないと自分の子供を天皇にはできない」と考え、不屈の闘志で3回も倒幕を企て、なんと成功してしまいます。高い家格を有しながら、御家人の貴族階級としては認められず、政治の中枢に参加できなかった足利尊氏が「北条幕府」を見限ったことが、成功の原因でした。
もちろん私は教科書的な「幕府滅亡のいくつかの要因」を知っています。悪党の跳梁、蒙古対策の費用、蒙古戦争での恩賞への不満、貨幣経済の進展、惣領制の動揺、得宗専制、高時の個性、足利尊氏、直義兄弟の意図、などです。しかしいずれも決定的な要因かというと、疑問もあり、しかしながら最後の決め手となったのは、後醍醐帝のわが子を天皇のしたいという意思であり、彼の強烈な個性である+足利尊氏と思っています。蛇足ですが、この「決め手」がなければ、室町幕府のように問題を抱えながらも続いたのか。足利尊氏は幕府を見限らなかったのか。それは面白い問題ですが、学者さんですら「まだ考え始めたところ」というのが実態のようです。
その後60年以上、社会は大混乱に陥ります。しかし大混乱の末、武家政権はやっと「非御家人」の問題を解決し、全国の武士(非御家人を含めて)の上に立つ政権となります。「土地裁判」に関しても、「幕府、中央だけで、できもしないのにやる」という姿勢を捨て、地方分権を選択します。室町幕府はどうやら「本当の全国武士の政権」のようで、後醍醐帝の功績は、公家の世を作ろうとして、「本当の武士の世を作った」ことにあるようです。(嘘つくな。バラバラじゃないか、と言われそうですが)。室町幕府は地方の親分化した大名の統制がうまくいかず、「あんな感じ」でしたが、やがて江戸幕府が「地方分権型中央集権」の「いい形」を作り、200年以上の「太平の世」が訪れます。江戸幕府は室町幕府の最終完成形態?なのかも知れません。(室町幕府の再評価はこの10年でしょうか。「あんな感じ」じゃなかった可能性もありますが、私はまだ不勉強で、いまだに「あんな感じ」です。)
現代でも地方分権が問題となります。地方のことは地方に任せた方がうまくいくのですが、「地方の親分が勝手気ままを始める」という問題が生じます(室町幕府の問題、ちなみに、分権なんだから勝手気ままでではないという考えもありうる)。現代の日本政府はよく地方に「丸投げ」しますが、地方分権型中央集権の「いい形」が構築できるなら、地方に任せること自体は、悪いことではないのかも知れません。日本史は、中央集権と地方分権の「いい形」を模索する歴史であり続けています。
源頼朝は反乱軍として(平家が官軍)スタートし、朝廷とは関わりなく勝手に土地の「安堵」を行っていきます。ただそのうちにやや路線が変わって「朝廷ともうまくやっていこう」となります。挙兵には後白河法皇の院宣があったという方もいますが、その証拠は全くありません。愚管抄は否定しています。それどころか、後の奥州藤原氏戦争は、後白河法皇の強い反対を押し切って強行されます。法皇は「追認」という形で、形式を整えました。
そうして出来上がった東国を拠点とし、東北を「支配下」に置く政権は、実に貧弱な政治システムしか持っていませんでした。当時の「政権」の主な仕事は「土地裁判」です。これがある程度システム化されたのは(それでも貧弱ですが)北条泰時の時代とされます。それまでは源頼朝が決めており、その下に何人かのブレーンがいました。貧弱な役所も一応はありました。しかし膨大な数の案件を公平に処理できるような「システム」はなかったのです。これが二代目将軍源頼家の不幸でした。18歳の彼は、安定した「裁判システム」のもとで政治を行うことはできなかったのです。頼家が「適当に線を引いて土地の分配をした」という話が伝わっていて、学者さんの中には「嘘だ」という人もいます。ただ膨大な案件を「公平に」裁くことは、システムがなければ至難の業であり、「線を適当に引きたくもなる」というものです。
武士の政権ですから、武力は持っています。しかし政治力(裁判力・調停力)は未熟でした。地頭の「やり口」も洗練とはほど遠く、剥き出しの暴力で物事を解決することも多かったわけです。
さて「奥州藤原氏戦争」に勝利し、一応「政権」を構築した源頼朝は、やっと上洛して後白河法皇と会談します。朝廷との利権調整が行われました。ここで源頼朝は有名な一言を言います。法皇に直接言ったのではなく、九条さんにですが「すでに朝の大将軍たるなり」と言ったのです。
これはどういう意味でしょうか。「朝」とは「朝廷」か「日本」のことでしょう。「すでに」とはどういうことか。「朝廷が認めようと認めまいとそうなのだ」ということなのか。
しかし朝廷はこれを「朝廷のもとの大将軍」と捉えました。別に間違った解釈ではありません。現代の歴史家の一部が「鎌倉幕府とは国家の警察、軍事部門を担当した一権門に過ぎない」というのは、この朝廷の解釈をそのままなぞっているからですが、幕府がそう「宣言しちゃった」ことは史実です。朝廷、幕府の当事者意識はそうなのですが、実態としてそうであったかは別問題でしょう。頼朝の意識など所詮は当事者の主観であり、歴史学は客観を重視すべきものであるはず、です。なお「権門」というのは、支配層のことで、公家(王家)、寺社、武家(鎌倉幕府)が「権門」です。
朝廷は院政期、武家(平家)を治安維持と、荘園公領制の維持の為に使ってきました。荘園公領からの税は未納されがちでした。「武士が徴収してくれるなら」、むしろ朝廷にとってはありがたいことでした。もっとも地頭はそんなに「いい人」じゃありませんから、取っておいて貴族には送らないという事態も頻発します。
頼朝、というか「幕府」は「国家の警察、軍隊」であることを宣言したせいで、とんだ重荷を背負います。上記のような反抗的な地頭を取り締まらないといけない。そもそもの仕事である「土地の裁判をしなくてはいけない」。そして「大番役として荒れ果てた京都の治安を守らないといけない」(これは御家人だけの名誉とされました)、、、そしてついには「次の天皇を誰にするか決めなくてはいけなく」なります。
本来「次の天皇を決める」のは「警察や軍隊の役目ではない」はずです。しかし朝廷では天皇家の「跡目争い」が激化していました。保元の乱といった「殺し合い」も起きていました。鎌倉幕府は「ヤクザみたい」と言われますが、この時代の朝廷だって大差ありません。殺し合いで次の「治天」を決めていたのです。
天皇を朝廷内の二つの派閥で、戦争なく交代させるには、第三者である幕府の判断が必要だったのです。幕府は承久の乱後は天皇を指名しましたが、ずっと指名役をやることには「乗り気」ではありませんでしたが、やがてこれが「習慣」となって「深入り」します。もっとも後鳥羽系の天皇が生まれるとまた「やりたくもない戦争をしないといけないはめ」になる恐れがあったので、それを避けたいという意図が働き、乗り気でないと言っても、後鳥羽系だけは断固拒否でした。
幕府はなるほど「権門」でしたが、最初の方に書いた通り、その政治的実力は未熟でした。だんだんと成熟していきますが、武士の全てを統合しているわけでもなく、非御家人と言われる「幕府に属さない武士」も存在していました。正確には「本所一円地住人」と呼ぶそうです。
本来は「東国政権」に過ぎないのです。でも「権門体制の権門だ」「全国の警察、軍隊だ」と頼朝が宣言してしまいました。「すでに朝の大将軍たるなり」です。これが幕府滅亡への道につながります。東国政権に過ぎない存在が、「日本に責任を持つ」と宣言してしまったのです。執権政治下でもその考えは引き継がれました。でも西国は「朝廷がやるもの」と安心していたと思います。
しかし後鳥羽院が承久の乱を起こし、幕府が勝利し、幕府は本当に「全国チェーン」になってしまいます。西国まである程度の責任を負うことになるのです。
朝廷が西国を「きっちり」やってくれたら、幕府も楽だったでしょう。しかし朝廷は承久の乱の後、裁判力、政治力を減衰させていきます。というか院政期すら平家(武家)なしには相手を政治、裁判の決定に従わせることは難しかったのです。自然、全国政権の実力はない幕府に「おんぶにだっこ」という形に頼っていくようになります。朝廷は裁判も行っていたでしょうが、大きな「政治」としては、伊勢神宮の遷宮、大嘗会、内裏の修理新築、大仏殿の再興などがあります。これらの費用は「一国平均役」という税でまかなわれ、幕府もその徴収に進んで協力します。「建物の建設が政治、行事が政治、儀礼が政治」というのは、現代の感覚からするとおかしな話です。でも朝廷は本気で政治だと思っていました。朝廷の政治の根本には儒教の徳治思想があり、それは儀礼や行事を通じて実現されるとされていました。文章経国というこれまたおかしげな儒教思想もありました。大金を使って「漢詩の会」を催し、飲んで食って詩文を作って文学を盛んにすることが、社会を安定させる政治だという思想です。これが「政治なら」、なるほど朝廷は政治をしていたのでしょう。しかし現代の感覚からみても、現実な政治効果を考えても、それらを政治と呼んでいいのか。朝廷の「政治」の中身は、きちんと考えていくべきことだと思います。なおその「政治」に幕府も積極的に協力した事実も、考えてみるべきことの一つでしょう。朝廷が古く、幕府が新しいわけではありません。
さて、話は幕府に戻ります。既に時頼あたりの時代から、幕府は変質し、徐々に「王朝政権のように」なっていきます。「家格によって地位が決まる」ようになり、政治が硬化し、御家人の中に貴族階級(得宗、御内人、北条氏など)が生まれ、政治が儀礼化していきます。そのくせ、六波羅探題にすら「最終決定権」を与えず、鎌倉中央集権に妙にこだわったようです。
そして「次の天皇を決める」という幕府が「いやいや引き受けた仕事」が致命傷となりました。「自分の子をどうしても天皇にしたい」と考えた後醍醐帝が、「幕府を倒さないと自分の子供を天皇にはできない」と考え、不屈の闘志で3回も倒幕を企て、なんと成功してしまいます。高い家格を有しながら、御家人の貴族階級としては認められず、政治の中枢に参加できなかった足利尊氏が「北条幕府」を見限ったことが、成功の原因でした。
もちろん私は教科書的な「幕府滅亡のいくつかの要因」を知っています。悪党の跳梁、蒙古対策の費用、蒙古戦争での恩賞への不満、貨幣経済の進展、惣領制の動揺、得宗専制、高時の個性、足利尊氏、直義兄弟の意図、などです。しかしいずれも決定的な要因かというと、疑問もあり、しかしながら最後の決め手となったのは、後醍醐帝のわが子を天皇のしたいという意思であり、彼の強烈な個性である+足利尊氏と思っています。蛇足ですが、この「決め手」がなければ、室町幕府のように問題を抱えながらも続いたのか。足利尊氏は幕府を見限らなかったのか。それは面白い問題ですが、学者さんですら「まだ考え始めたところ」というのが実態のようです。
その後60年以上、社会は大混乱に陥ります。しかし大混乱の末、武家政権はやっと「非御家人」の問題を解決し、全国の武士(非御家人を含めて)の上に立つ政権となります。「土地裁判」に関しても、「幕府、中央だけで、できもしないのにやる」という姿勢を捨て、地方分権を選択します。室町幕府はどうやら「本当の全国武士の政権」のようで、後醍醐帝の功績は、公家の世を作ろうとして、「本当の武士の世を作った」ことにあるようです。(嘘つくな。バラバラじゃないか、と言われそうですが)。室町幕府は地方の親分化した大名の統制がうまくいかず、「あんな感じ」でしたが、やがて江戸幕府が「地方分権型中央集権」の「いい形」を作り、200年以上の「太平の世」が訪れます。江戸幕府は室町幕府の最終完成形態?なのかも知れません。(室町幕府の再評価はこの10年でしょうか。「あんな感じ」じゃなかった可能性もありますが、私はまだ不勉強で、いまだに「あんな感じ」です。)
現代でも地方分権が問題となります。地方のことは地方に任せた方がうまくいくのですが、「地方の親分が勝手気ままを始める」という問題が生じます(室町幕府の問題、ちなみに、分権なんだから勝手気ままでではないという考えもありうる)。現代の日本政府はよく地方に「丸投げ」しますが、地方分権型中央集権の「いい形」が構築できるなら、地方に任せること自体は、悪いことではないのかも知れません。日本史は、中央集権と地方分権の「いい形」を模索する歴史であり続けています。