冷えた微風が漂う暗夜の午前3時。
珠子達女性群は目覚まし時計で起きると、外の井戸端で洗面したあと、各人は昨夜健ちゃんから指示された通りに、宿のお女将さんのお握り造りの手伝いを終えると、部屋に戻って日焼け止めの薄化粧をしたあと薄手の長袖ブラウスにジャケットを着てジーパンを履いて装い、珠子の勧めで首に予め用意してきた色とりどりのタオルを巻き、揃って入り口前に出ると、すでに、男性群は支度を整え彼女達を待っていた。
健ちゃんは腰に吊るした鉈で小枝を落とし杖を作っており、各人を見ると皆に渡していた。
彼女等は、男性群は二日酔いで自分達より遅いと思っていただけに、口々に「流石に、男性は違うわね」とコソコソ囁いていたら、六助は彼女達の服装を見て
「いやぁ~、登山訓練とはかけ離れて華やかだなぁ。 まるで、フアッション・ショウーのようで、これでは本当に婚活の予行練習だなぁ~」
と囃し立てると、すかさず、マリーが
「若い男女が集まれば、常に婚活だゎ~。ねぇ~奈緒さん、そう思わない?」
と、まぜっかえして答えると、一同が彼女の絶妙な答えに声を上げて笑い出し、出発前の緊張した雰囲気を明るく和らげた。
健ちゃんが苦笑しながらも、皆を前にして
「熊は出ないと思うが、蛇はたまに出ることがあるかも知れないが、杖や足で構うことの無いように」
と一言注意し、皆の気を引き締めるために、敢えて自衛隊口調で、自分が先頭になり、中ほどの女性達を永井君と大助が傍らを護衛して、殿を六助が全体を見渡しながら、転倒等怪我をしない様に隊列を組んで進むことを指示したあと出発した。
健ちゃんは額に装着したヘットライトで細い道を探りながら先導して登り始めた。
十三夜の月も山の端に沈み、闇夜の空には宝石を散りばめた様に星が燦燦と輝いていたが、静寂な暗い夜道で、頬を撫でる冷えた空気が、彼等を神秘な世界へと導かれて行く様な心境にさせ、誰も声を出すこともなく黙々として前の人に従って進んだ。
山道から見下ろす朝靄に包まれた村々は、まだ深い眠りを貪っており、健ちゃんが熊笹を掻き別けながら「六根清浄」と、たまに声を出すと、静寂な闇夜を突き刺す様に吃驚するほどバカ高く響いた。
1時間程歩いて、愈々本格的な登山道の入り口に差し掛かり、健ちゃんは立ち止まって振り返り
「中腹には休憩小屋がありトイレもあるが、もう1時間位頑張ってくれ」
と声をかけて細く急な山道を進んだが、健ちゃんや大助が道際の熊笹を杖で払い別けるカサカサと聞こえる音以外静寂な闇夜の静けさは格別で、こんもりと繁る杉や雑木林の中を通り抜けるときは、漆を塗った様に暗かった。
ヘットライトの光に驚いたのか、身近で鳥の慌てた羽ばたきが聞こえたりすると、彼女達の誰かがヒヤーッと小声で悲鳴を発し、その声に反応して彼女達は思わず無意識に互いに身を寄せあった。
小高い山を超えると、やっと中腹の草原にたどり着き、朝靄のなかに視界が開けて、周囲が見渡せるようになり、早くも穂を孕んだ若いススキの穂先が朝露にぬれて、そよ風に揺れており、皆は、山奥に来たんだなぁ~と実感した。
草原に輪を作る様に腰を降ろして朝食を食べながら、健ちゃんはマリーの「ロッコン・ショウジョウ」の意味についての問いかけに答える様に
「漢字では”六根清浄”と書くんだが」
『 ほらっ。日本中の山の頂上には神社や祠があるだろう、これは、日本に佛経が渡来する以前の”雑蜜”と言われていた時代から、山の頂上には祖先の霊が存在すると誰しもが考えて信仰してきた証しなんだょ。
例えば、越後と羽越の境にある縄文時代の三面遺跡を見学したときの案内人の説明によれば、頭部が太陽の昇る東側になる様に小高い山の上に石を並べた墓が作られており、今度、六助と旅行するとき見学してきてごらん。
明治以降の神仏習合で、頂上に祀られていた仏が神に代わったが、学説や地域の伝承で多少は解釈が異なる様だが、俺も自衛隊当時山岳訓練の際、先輩からの又聞きで正確なことは判らないが、つまり、簡単に言えば
人は死後、その霊は50年かけて、その地域の高い山の頂上に向かい歩き続けて、生前の心の汚れを山の精霊で清め、再び、50年かけて生まれ育った故郷に舞い戻って来て、地元の鎮守様の氏神様となり、子孫や農作物を守護すると、信じられているんだよ。
まぁ~現代のせせこましい世の中では、都会では尚のこと、こんな話も単なる美しい夢物語となってしまったようだわなぁ~。
”六根清浄”と言う言葉も佛経から来ていると言われるが、佛経発祥のインド人は数に強い関心を持っており、人の心はそのときの環境に応じて、移ろいやすく、これを戒める教訓として最も卑しい世界を”四羊蹄迷心”となぞらえていた。
簡単に言えば、四羊蹄迷心の地獄から始まって、餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・如来と十戒あるうちの、最初の六段階を、六根と言って、これを山の精霊で清めると言い伝えられているんだよ。
言いえて妙で、成る程、昔の人の自然と共生する生活の知恵は素晴らしいと思うよなぁ~』
と説明していた。
皆は、お盆も近いこともあり、お握りを食べながら健ちゃんの話を素直な気持ちで静かに聴いていたが、マリーは
「わたしなんか、毎日、患者さんの汚物整理や血まみれのガーゼの交換、そして何よりも辛いのは、患者さんの我侭を、自分の感情を殺して聞いてあげること等で、健太さんの話良く理解出来るゎ」
「けれども、六助の心の移ろいの激しさは中途半端でなく、なにかいい方法を教えてくれない?」
と口を挟んで健ちゃんを面食らわせ、お握りをほうばっていた六助は言い訳の言葉も思いつかず、肘で彼女をこずき、余計なことを言うなと睨みつけていた。
その間にも、奈緒は大助の食欲旺盛な様子をみて自分のお握りを一個、彼に無言で顔を見ることもなくソット差し出したら、彼はニコット嬉しそうな顔をして受け取り額の前にかざして感謝の意を示していた。
姉の珠子と健ちゃんも、その仕草を横目で見ていて、共に願うことは一つで満足そうに笑顔をかわした。
一行は、身支度を整えると、隊列を組んで頂上を目指して歩き始めたが、途中で直子が健ちゃんに
「チョット~。もう少しゆっくり歩いてょ。やっと高い所に来たとゆうのに、この素晴らしい景色を見て心を癒すゆとりもないゎ」
と注文をつけると、六助が後ろから来て、健ちゃんの腰につけた革バンドの吊り輪に縄を結んで、その先を彼女に渡し
「時々、これを引張れよ。調教されているから、上手く速度を調整できるよ」
と言ったところ、健ちゃんは
「おいっ!六助。おれは競走馬ではないぞ!」
と、強い調子で文句を言ったが目は笑っていた。
マリーはこれを見ていて
「直子先生。今から男性を上手に操る練習もいいことだゎ」「残念ながら、健ちゃんは妻子もちだが、山の中ではこれくらいのことは、神様も許してくれるゎ」
と言いながら、奈緒の顔を見て
「奈緒ちゃん!大助君も足が長く歩幅が広いから、彼の腰に縄をつけなさいょ」
「一層のこと、この際、このイケメンが余所見しないように、絶対に切れない神様の赤い紐をねっ!」
と、彼女らしく陽気に話して、皆の笑いを誘っていた。
それからも、小休止をとりながら随分長い時間をかけ、潅木林や草原や谷間を超えて、うねり曲がった尾根の細道を登り続け、最後の山ひだにはいった。
大きな岩ずたいに両手両足に力を込めて崖を這い登る途中、細々と水が錚々と流れており、その爽やかな音が、下界の感覚を懐かしく呼び覚ましてくれた。
下界を見下ろすと霞の切れ間に緑の平野が視界に入り、背丈の低い笹薮をわけて登りつめて、予定の時間通りに頂上に辿りついた。
頂上は、想像していた以上に広く平らな草原となっており、所々に池のような水溜まりがあり、四方を遮るものがなく見晴らしの素晴らしい所であった。
一同は、頂上の平原に立ち周辺を眺望すると、皆が、山頂の景観と遠くに望むアルプスや噴煙を微かに靡かせている浅間山と近くに見える赤城山の悠然とした山容等周辺の山々や、薄い雲の切れ間にキラキラと光っている利根川が見える下界の景色に心を打たれ、達成感もあり、清々しい気分になって、揃ってワァ~と歓声を上げて手を取り合って喜んだ。
山頂の涼風は、汗ばんだ身体を程よく冷やしてくれ、健ちゃんを中心に輪となって、湿り気の無い草わらに腰を降ろし、各人が途中の景色や、雲を眼下に見る幻想的な感想、それに崖を登る時にみせた苦闘する互いの姿等を楽しそうに語りあっていた。