二人姉弟である大助の姉、城珠子は、老人介護施設に勤めてから2年目となり、最初は戸惑った仕事の運びも、入所者の心情を少しでも理解仕様と日々努力したことが実を結び始めてきて、悩みと障害を抱えるお年寄りの人達とのコミュニケーションも、どうやら上手くとれるようになり、職場でも人気が出てきて、それにつれ仕事にも幾分心に余裕を持って臨める様になった。
そんな珠子の周辺では、永井君との結婚話が秘かに進んでいた。
彼女は毎日お年寄りを見ているためか、自分が嫁いだあと、一人身である母親の孝子に、将来、必ず訪れる介護のことが時に触れ脳裏をよぎり、確かに結婚するには若すぎる弟の大助と、日頃、まるで親戚同様、お互いが家族的な付き合いをして気心が知れ、実の妹の様に可愛がっている奈緒との交際関係が、自分が望んでいる様に進んでいないことが、唯一、心残りであった。
都立病院の看護師をしている母親の孝子は、珠子に対して、「大助は大学を卒業して歳相応になれば、家や自分の老後のことは自然に考える様になるので、永井君と生涯暮らしてゆける自信がついたならば、女には適齢期があり相手に望まれているうちが花で、相手に御返事をするためにも、決心がついたら教えておくれ。」と、ことあるごとに言うことが多くなった。
奈緒は、珠子を真似る様に介護士になるべく、介護の専門学校に通い、課業を終えると、珠子の家に寄る日が以前より多くなり、珠子も仕事から帰ったとき、奈緒の顔が見えるとホットして、その日の苦労や疲れも忘れ、夕方二人で買い物したり夕食の仕度をするのが楽しみであった。
母親の帰りを待って、三人で和気藹々と食卓を囲んで、明るい話が弾んだ。
夕食後、奈緒もリラックスした気持ちで、珠子や看護師である孝子の介護現場の話を聞いたり、周囲の人達の噂話の雑談に花を咲かせていたが、その様なとき、何時も、珠子が気を揉んで奈緒に対し
「大助とは、手紙や電話で連絡がとれているの?」
「皆で山に遊びに行ったあと、大助は私達に、からっきし何の話もしてくれないが・・」
「奈緒ちゃんが、此処の家にお嫁に来てくれれば、母さんも私も大歓迎で、大助にも、せめて口約束でも良いから、奈緒ちゃんに、はっきりと意思表示をしておきなさい。と、言っておいたのだけれども」
「ときには強い口調で、まごまごしていて、奈緒ちゃんに、逃げられて悔やんでも、わたし、知らないからね。と、強く言い聞かせておいたゎ」
と、機を見て話を振り向けると、奈緒は途端に俯いて黙り込んでしまい、孝子がみかねて
「珠子や。奈緒ちゃんに、何時も同じことを言うんでないよ」
「母さんは勿論大賛成だが、奈緒ちゃんには、奈緒ちゃんの考えもあることだし・・」
と、珠子の話を遮ってしまうが、珠子は、そんな母親に、人の心配も考えないで。と、チョッピリ不満を感じていた。
その実、孝子も奈緒の母親とは顔を合わせる度に、さして根拠もない「西郷星」になぞらえて変革の願望を込めて、大助と奈緒のことを気にして、互いに遠慮することもなく話あって、二人が一緒なってくれることを、人生の最大の楽しみにしてた。
厳しい酷暑や集中豪雨の夏を過ぎて、朝晩の風がひんやりと感じられ、時々、澄んだ青空に鰯雲が見られる様になったころ、永井君の母親の熱心な話を受けて、珠子と永井君の挙式の段取りが進んでいた。
二人の挙式をむやみに急いだのは、プロポーズのときもそうであったように、永井君よりも彼の母親だった。
少し我侭で軽はずみなところがある一人息子を、安心して任せられるのは珠子さんしかないと思いつめ、彼女の決意が翻ってしまうことを恐れていたからである。
確かに、珠子が永井君とデートする度に、将来の生活設計の話を持ち出すと、彼は自動車の性能や営業の話には熱の入った話をするが、彼女の問いかけには、彼女が期待することを満足に答えることもなく、彼女も、仕事に生きる男とは皆そうゆうものかと思い、深く気に留めることもなかった。
ただ、登山旅行から帰ったあと、以前の様に、機会を見ては、身体を求めることがなくなったのは、自分の言うことを聞いて理解してくれ、浮いた話も耳にしなくなり、それなりに精神的に成長したのかなと思い、彼の素直さが不思議でならなかった。
珠子が、永井家の急な申しいれに対し、自分も母親と足並みを揃える気になったのは、彼女自身、迷ったり躊躇ったりする自分に愛想ずかしをして、確実に訪れる当てもない自分の描く理想的な生活に目をつぶって、周囲の人達が祝福してくれる今が潮時で良縁かもと考え、目の前の現実的な生活を選択するのが正しいのかなと思ったからである。
珠子と永井君は、クリスチャンではないが、花嫁が文金高島田に髪を結い、重い衣装を着て、神主の勿体ぶった祝詞で、エスカレーターに乗せられた様に、次々と新夫婦が作られてゆく職業的な神前結婚よりも、教会形式の式を望み、両家の親達も二人の希望を聞き入れてくれ、婚約者の永井君の母親の手配で、知り合いの牧師と相談して、古びたホテルに急造の会場を作り、挙式することになった。
挙式の準備も、永井君の家の方で手際よく進められ、明日は愈々挙式かとゆう前の夜、珠子は怖い夢を次々と見て、安眠できなかった。
荒れた海を小船に乗って漂流し、いつひっくりかえるかと怯えている夢で、目を覚ますと肌に軽く汗をかいていた。
彼女は、そんなとき、どうしても心から離れない一人暮らしとなる母親の生活や老後のこと、大助と奈緒のすっきりしない交際、それに、今迄親切に付き合ってくれた八百屋の昭二さんに対する未練等を次々に思い浮かべては、この期にいたっても悩んでいる自分が悲しくなった。
挙式の招待状は、いつも顔を合わせている町内の健太夫婦や六助とマリーに、それに昭二にも届いた。
挙式当日の早朝。 昭二が健ちゃんの店に沈んだ表情で現れ
「健ちゃん、俺、今日は悪いけど欠席させてもらうわ」
と、御祝儀袋に招待状を添えて差し出したので、健ちゃんは
「俺の力量不足で、お前と珠子さんを結ばせることが出来ず、本当に済まない気持ちで一杯だ」
「お前の気持ちを察するに、悲しみは充分過ぎる位に判るが、だが、今日はそれを乗り越えて、是非、恋の戦いに敗れたとはいえ、吉田松陰の辞世に
”身はたとへ 武蔵野の野辺に朽ちるとも 忘れおかまじ大和魂”
と、あるように様に男昭二として勇気を発揮して、お前の心の広さを皆に知らしめ、堂々と潔く出席し、彼女の門出を祝ってやってくれ」
「これは、親友としての俺の心からのお願いだし、それが友人として仲良く過ごした彼女への最大の花むけだと思うよ」
「また、嫁に行ったとしても、今後もお前の店に買い物に来ることだし・・。お得意様には変わりないしなぁ」
と、如何にも健ちゃんらしく、大袈裟な表現で、昭二を勇気ずけるために励ましているのか、気合を入れて諭しているのか、自分でも判らないくらい声を強めて、無理矢理嫌がる昭二を説得し、昭二もその剣幕に圧倒されて、渋々ながら出席する旨返事をせざるをえなかった。
健ちゃんの傍らでは、彼の愛妻の愛子が、朝から玄関で大声で話している夫の声に触発されて顔を覗かせ
「私の様に再婚して大輪の花を咲かせることもあり、人の運命は判らぬもので、悲しいでしょうが、一度躓いたからといって落ち込まず、元気を出してね」
と優しく話しかけて、自らの経験に基ずき、夫である健ちゃんの言葉足らずを補い、一緒になって励ましていた。
大助は、奈緒から美代子のことについて聞かれたとき、彼女の胸の中を慮って正直に答えてよいかどうか迷って、返事を躊躇していたので、二人の間に少し沈黙の重苦しい時が流れたが、この際、ある程度のことは正直に話しておいた方が彼女の心の霧が晴れるんでないかと思い
『 美代子は、家庭内の複雑な事情で、母親のキャサリンの故郷であるイギリスに行ってしまったよ。
春、別れる時、お互いに、美代子は見知らぬ土地での生活、僕は規則の厳しい大学の寮生活と、夫々が、これからの生活に馴染むまで、連絡は取り合わないことにしようと約束したんだ。
最も、これは、彼女のお爺さんが、僕達のことを気遣かって好意的に言ってくれたことなんだが・・。
考えてみれば、若い僕達には当然のことで、目先の恋愛感情に溺れて、大事な勉強がおろそかにならない様にとの気遣いで言ってくれたことと、僕はそれなりに納得しているが、正直寂しさはあるが不満はないよ。
僕達は若過ぎるし、大学卒業後、果たして自分達の思う様に自立した生活が出来るかどうかは全く未知数で、それに遠く離れていれば、生活環境に左右されて自然と感情が薄れるだろうし、この先、今まで通りの交際が続くかどうか自信がもてないや』
と、近況を説明したところ、奈緒は道脇の熊笹の葉をいじりながら
「そうなの。 孝子小母さんや珠子さんから、ある程度は聞いていたけれども、本当なのねぇ。
わたし、思うんだけれども、二人が愛し合っていれば、家庭の事情がどうであれ遠く離れていても、美代子さんとの絆は切れることは無いと思うゎ。
彼女は志の強い人で、その様なことで挫ける人ではないと思うけれど・・。
わたしも、あんな風になれたらなぁ。と、羨ましく思う時があるゎ」
と、返事をしたので、彼は
「愛し合っているなんて、大人ぽい難しいことを言うが、普通、人間は生活環境に左右されて、少しずつ大人の目で物事を見て考え成長してゆくんでないか・・。
それにしても、地図を見てもイギリスはやっぱり遠い国だわなぁ~。まるで地球の裏側だよ。
例え、将来、彼女と別離することがあっても、それは失恋だと思いたくなく、これまでのことは、だれもが経験する青春のヒトコマで、夢の世界の出来事だったと割り切って考え様と思うんだ」
と話したあと。奈緒の落ち着いた表情を見て
「人の運命なんて、そんなものじゃないのかなぁ」
「永い期間、離れて暮らせば、自然と感情が薄れて行き、これは避けて通れない道だと思うよ」
と付け足して答えておいたが、美代子と肌をあわせたことを隠して話したことが、罪悪感となって強く胸を締め付けた。
奈緒は、表情を変えることも無く黙って聞いていたが、急に、きりっとした顔つきななり
「大ちゃん、随分、冷たいことを言うのね」
と言ったあと、傍らの熊笹の葉を掴んで、彼の顔を見ることもなく
「大ちゃんは、そんな人とは思いたくなく、わたしを庇って無理して言っているのがよく判るゎ」
「大ちゃんが、そお言ってくれる心遣いは正直嬉しいが、わたし、あなた達の迷惑にならない様にしようと、すでに、心に堅く決めたので、今迄通り、お友達でいられれば、それでいいゎ」
と返事をして、彼の顔をチラット見た。
大助は、彼女が意識的に自分から一歩距離をおいている様に思え寂しい気持ちに襲われて、それ以上話す気になれなかった。
二人はそのあと、言葉を交わすこともなく、彼女は大助の後ろに付いて坂道をくだり宿に向かった。
宿に着くと、小母さんが入り口で機嫌よく迎えてくれ
「六助さんが、外人さんの彼女と生簀からマスを取り上げて、塩焼きを作ってくれているが、二人は、まぁ~なんとも賑やかで、美味しい料理が出来ると思うゎ」
と、笑いながら教えてくれた。
一同は、温泉で疲れた身体を癒したあと、テーブルに向かい、山鳥とキノコや豆腐の鍋とウドやウルイにワラビ等の山菜料理や天麩羅に加えてイワナの刺身に鱒の塩焼き等盛り沢山に用意された豪華な夕食を楽しそうに、山の感想を語りあいながら箸を運んだが、珠子が隣の健ちゃんに対し声を殺して
「あの二人は、どうだったのかねぇ~」「奈緒ちゃんに聞いたけれども、何だかパットしないゎ」
と言いながら、大助と奈緒の様子をチラット覗き見たら、二人は喋ることもなく、奈緒が大助の皿に刺身と天麩羅を、人目を盗むようにさりげなく、そっと分けているのが見えた。 健ちゃんは
「上手いこと行っているのでないか、あの二人は、幼いときから一緒に過ごしてきたので、互いに知り尽くしており急に燃え盛ることはないが、俺の後ろでなにやら真剣に話しあっていたよ」
「帰ったら、お袋さんに大成功だと報告しておけよ。きっと、大喜びするよ」
「あんたも、これで心おきなく、永井君と結婚でき、一人の男の哀しさを除けば目出度しメデタシだ」
と親友の昭二を慮って言ったところ、珠子は
「そうかしら、私のことは余計なことだが、奈緒ちゃんの表情を見ると、女心を理解出来ない大助だけに、奈緒ちゃんが可哀想で心配だゎ」
と答えていた。
健ちゃんは、珠子のお酌で上機嫌でお酒を美味しそうに飲んでいたが、皆が疲れているせいか話声も少なくなく沈んでいる雰囲気をみてとり、なんとか話題をと考えた末、過去に経験した、この宿にまつわる夏向きな話題を思いつき
『 あのなぁ。3年ほど前のことだが、習志野の降下部隊にいたとき、休暇で同僚と二人でこの温泉に来たときの話だが、本当にあったことなんだ。
そうだなぁ。 時刻は草木も眠る真夜中の丑三つ時に露天風呂に入ったところ、崖ぷちの雑木の小枝に吊るされた薄暗い行灯の下に、妙齢の中肉中背の御婦人が背を向けて腰から上を湯の上に晒して立っていたんだ。
俺達はビツクリして顎まで湯に沈めて息を殺して見とれていたが、肌の色は蝋燭の様に白く、背筋がくっきりと通っていて湯際の尻は熟した桃の様にフックラとしており、それは男の欲情をそそるほど凄く官能的で、まるで、ミロのヴィーナスの彫刻の像を背面から見ている様だったわ。
ところが何時までたっても、こっちの方を振り返らないので、俺達は酒を飲んでいたこともあり湯にのぼせてしまい、それになんとなく不気味に思って、そぅと湯から上がってしまったが、翌朝、再び昨夜の露天風呂に行き、遥か下に清流を望む崖の渕で、幻の彼女の立っていた場所に行ってみたら、その場所は大きい台石が置かれていて湯の深さは俺の膝下位までしかなく浅くなっているんだよ」
「さぁ~、ここまで話せば判ったと思うが・・」
と、意味ありげにニコッと薄笑いしたところ、直子が
「わたしの顔ばかりジロジロ見て話をしないでよ」「わたしなんて、そんな官能的な女でないゎ」
「お酒を飲んで温泉に入ったために、日頃、頭の中に潜んでいる願望が幻想となって見えたのじゃないの?」
「枯れ尾花をお化けと間違って見るように・・」
と言ったところ、健ちゃんは真面目な顔になって
「いや、そうじゃないんだ」
「その朝、食事のあとで宿の小母さんに、そのときの話をしたら、小母さんは宿の評判にかかわるので、その話は決してよそで話さないでおくれ」
と厳しく注意されたことを話したあと、続けて
「内緒話だが、小母さんが言うには、数年前、大学の山岳倶楽部の若者が冬山登山に来たとき、その中の一人が雪崩で命を落としたことがあり、その恋人が悲嘆にくれて彼の後を追って自死したらしく、その霊が彼を慕って恋しさのあまり現れると言うんだ」
「愛し合った女性の宿業は恐ろしいもんだなぁ」
と話したところ、今度はマリーが
「病院でもそれに似た話を聞いたことがあるゎ」
と話すと、健ちゃんは皆の表情を見て
「まぁ、そんなに深刻にならんでもよいわ」「山や海には色々と神話的な話があるもんだよ」
「ところで、今晩は十五夜で、食事後、小母さんが座敷で山の神に祈祷するので、俺達も今日の登山が無事に過ごせたことを神に感謝して、一緒にお参りさせてもらおうよ」
と話を締めくくった。
六助は、ビールのコップを片手に、神妙な顔つきで話を聞きながら「少し寒気がしてきたわ」と言いながら刺身や塩焼きを食べていたが、隣のマリーが
「ねぇ~、私の作ったマスの塩焼き美味しい?。それとも女将さんの作ったイワナのお刺身のほうがいい」
と、いたずらっぽく聞くと、彼は
「このイワナは養殖物で、脂身も薄く余り美味しくないわ」
と言って、続けて塩焼きをほおばったあと
「これは塩加減が良く効いていて旨いわ」「合格!」
と、満足そうに言ったので、マリーがすかさず
「六ちゃん、本当!。初めて褒めてもらったけれど、わたし、魚屋さんのお嫁さんになれるわね」
と、声を上げて喜んだので、皆が、彼等を見ていて漫才みたいで可笑しくなり笑い出すと、六助は急に「うぅ~ん」と唸ってタオルで口を押さえたので、直子が「どうしたの?。大丈夫」と心配そうに声をかけると、彼は「喉に小骨が刺さった」と答えるや、マリーは
「大丈夫ょ。 私が彼のお嫁さんに合格と、遂、口を滑らせて本心を言ってしまったので、照れ隠しに大袈裟にしているのょ」
と言って、嬉しそうに声を殺してククット笑っていた。
皆は、そんな二人の滑稽な様子を見て、手をたたいて大笑いした。
大助だけは姉の珠子の表情がなんとなく冴えなく見えたので、もしやと思い傍らの奈緒の顔を覗いたら、彼女は健ちゃんの話にあまり興味がないようで、普段と変わりない澄ました表情で黙ってデザートのスイカを食べていたので、姉には霧の中での出来事を話してはいないなぁ。と、胸をなでおろして安堵した。
その反面、もし美代子なら、陽気なマリー同様に、この際、自分の立ち位置を珠子や健ちゃん達にはっきりとアピールする絶好の機会ととらえて、霧の中での出来事を大袈裟に説明したと思うと、母親の仕事を手伝い生活の苦労を多少なりとも知っている奈緒と、祖父の庇護のもとで裕福に暮らしていた美代子との違いは、単に性格的な静と動だけではなく、やはり日本人と外国人の生活環境が自然と齎すものかと考えさせられた。
夕闇が迫ってきたころ、宿の小母、さんが
「今晩は、幸いに晴れて、月光が蒼い夜空に峰々を神々しく照らしており、わたしの家では先祖からの慣わしで、山の神々にお参りする日なので、皆さんもよかったら、今日の登山を無事に果たせたことに感謝して一緒にお参りしませんか」
と、村や宿の風習を教えてくれたので、一同は、是非、お参りさせてくださいとお願いした。
ほどなくして、白い羽織袴の装束で身つくろいした小母さんが、用意が出来ましたと迎えに来たので、座敷に行くと、山に面した幅の広い廊下のガラス戸を開いて、白布に覆われた祭壇の中央に御霊鑑の前に白玉団子とお神酒を乗せた三方を供え、下段にはスイカやトマトそれにマクワウリや茄子と胡瓜等の自作の野菜などを大きい笹の葉の上に並べて供え、祭壇の両脇は新鮮な榊と若いススキの穂で飾り、その前に正座した小母さんが座り、やがて、皆の方をそろうと振り返って
「みなさん、本日はご苦労様でした。沢山の思い出があったことでしょうが、何よりも無事で登山を終えたこを感謝いたしましょう」
「二礼二拍手だけ、わたしにあわせ、あとは楽な姿勢で、皆さんが夫々に胸の中で、楽しかったことや苦しかったことなどを思いだして、安全に登山できたことを神に感謝してくださいね」
と言っ一同を見まわしたあと、「みなさん、心を静めるために、深呼吸を二・三度してください」と言って皆が深呼吸を終わると、大助にたいし
「男衆の中で一番若そうな貴方のお名前はなんとゆうんですか?。背が高く少し頬に髯を蓄え精悍な顔をしており、立派な若い衆ですねぇ」
と、いきなり問いかけたので、彼は虚を突かれビックリしたが、小さい声で「城 大助です」と答えると、小母さんは次に彼の脇に座っている奈緒に「貴女は・・」と聞いたので、彼女もヤット聞き取れるような細い声で気まずそうに「ナオです」と答えた。
小母さんは、二人の名前を聞くと、にこやかに
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんですよ。 山の霊がお二人の絆を一層強めてくれたことでしょうね。 恋人同士ですか?。山奥に住む老婆には、滅多に逢えない若い貴方達が凄く羨ましく見えるんですよ」
と、皆の気持ちを和らげるためか声をかけたた。 健ちゃんは、すかさず張のある声で
「小母さん、そうなるように願って今日連れて来たんですが、正直のところ90%の完成度ですかね」
と返事すると、大助も平静さを取り戻して特有のユーモアで「僕は口下手なので、まぁ、そんなところです」と言うと、奈緒は彼の腿をつねり<よくもそんな心にもないことを神様の前でヌケヌケと言うはねぇ>と言わんばかりの表情で覗きこんだ。
健ちゃんは、小母さんのそんな問答を聞いていて、なにか全てを見透かしているようで、内心、質素であるが今宵の儀式に畏怖心を覚えた。
小母さんは、ころあいをみて「それでは、始めましょうか」と言うと、その瞬間から、小母さんの顔は厳粛な表情となり眼光も鋭くなった。
小母さんは、月光の映える峰々に向かって正座すると、祭壇の蝋燭に火をつけ恭しく礼をして二回拍手をしたあと、静かだが心の奥底に優しく響きわたる音色の鈴を鳴らし終えると、小さい櫓太鼓をリズミカルに打ち鳴らしながら、言語明瞭な朗朗とした声で、ゆっくりと
「山深き越後の里に生まれてきし、このかた・・」
と長い祝詞を何も見ずに恭しく唱え、最後に
”幽世の大神守り給え 惟神霊幸倍坐世”
<カクヨウノオオカミ マモリタマエ カムナガラ タマチハイマセ>
と、二回繰り返して真言を唱えて、拍手をして深々と頭を垂れて終わるや、少し間をおいて、彼等に向き直ると、普段の柔和な顔に戻り
「はい、終わりましたよ」
「この山頂には、”コノハナサクヤヒメ”と言う女神の神霊が祀られており、若い皆さんを守護してくだされ、これから幸せが沢山訪れますよ」
と祝福してくれた。
そのあと、小母さんは
「私は、近くの村の神職の娘として生まれ、この宿に嫁ぎましたが、主人が数年前に、春先の残雪が残る山で遭難し、遠い世界に旅立ちましたのよ」
と話すと、一同は濃い霧に覆われ雷鳴に畏怖を感じたことを思い出し、厳粛な気持ちになった。
奈緒は、大助が巧みに表現した霧の中での”魚の接吻”。 彼に力強く抱擁され無心にしがみついたこと。等々、ひと夏の秘められた出来事を思い出して、隣の大助の横顔を見ると、彼は神妙な表情で姿勢を正していたが、その表情から風雨の中の優しい彼と異なり、無精髭が目立つ厳しい顔つきで、なにを思い巡らせているのか察しられずチョッピリ寂しい思いにかられた。
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