大助は、お爺さんが隣の大座敷で毎朝恒例の勤行のために打ち鳴らす、心地よい余韻を残して流れる鐘の音で目を覚ますと、美代子が何時起きたのかわからなかったが、枕元に用意してあった下着を着替え、廊下の藤椅子に腰掛けて窓外の松の大木をボンヤリと眺めていると、美代子が
「アラッ 起きていたの」
と言いながら機嫌良さそうに爽やかな笑顔で入ってきて
「枕元に用意しておいた下着を着替えたでしょうね」
と声をかけたので、彼は
「アァ 今、お爺さんの鳴らす鐘の音を聞いて起きたところだよ」
と答え、彼女に促されて洗面所に向かった。
彼は、彼女のあとについて廊下を歩きながら、彼女のタイトスカートでクッキリと引き締まった魅力的な腰の曲線に魅せられて、昨夜の余韻が甦り、深い意味も無く悪戯っぽく軽くタッチしすると、彼女は振り返って
「Hッ! アサカラ ナニヨ」
と言って、彼の手を払ったが目は笑っていた。
彼女は、薄手の白い丸首セーターを着て黒のタイトスカートに紫色のソックスを履き、長い金髪を纏めて首の横に垂らし、白いエプロンをまとって洗濯物を抱え、見るからに溌剌として清楚な感じを漂わせていた。
その朝、彼女は眠っている彼に悟られないように静かに床から抜け出すと、キッチンに行き入院患者の朝食の準備をしていた賄いの小母さんに挨拶して
「今日、大助君の引越しにお手伝いに行くので、お昼のお弁当を作りたいんだけど・・」
と言うと、小母さんは
「マァ~ エプロン姿が似合うゎ。すっかり若奥さんみたいだわね」
「好きな人が来ると、女はこうも変わるもんかねぇ~」
と、彼女に見とれて笑いながら言うと、彼女は
「イヤネェ~ 冷やかさないでよ」
と恥ずかしそうに答え、小母さんの傍らに並んで、アドバイスを受けながら、梅チソをまぶした海苔巻きのお握りや稲荷寿司に卵焼きと鮭の焼き身に昆布巻きと漬物やレタス等を用意して重箱に綺麗に詰めて、麦茶をポットに注ごうとしたとき、キャサリンにダイニングに来る様にと呼ばれた。
美代子が、タオルで手を拭きながらダイニングに行くと、キャサリンは不機嫌そうな顔で、彼女にとげとげしい声で
「昨夜は、なによっ!」 「あなたの声は感高く廊下に響き、深夜に悲鳴を上げるなんて恥ずかしくないの」
「大助君が好きで、全てを承知の上で彼の部屋に入ったのでしょうに・・」
とテーブルを拭きながら小声で小言を言い、更に黙している彼女に諭す様に
「大学生でしょうに。 生理のことは母さんが細かく言はなくても・・」
「初めてのときは、女性は肉体的な構造から多少の痛みは仕方なく我慢するものよ」
「母さんは、昨夜、あなたの声を耳にして、恥ずかしさと情け無さで毛布をかぶってしまったゎ」
「赤ちゃんを産むときは、もっと痛く切ないものよ」
と、いきなり説教されたので、彼女は思いがけない咄嗟の説教に返す言葉もなく、少しの間、俯いて黙っていたが、なおも、キャサリンが
「そんな子供みたいな幼稚さでは、大助君に嫌われてしまい、母さんもあなたの面倒を見切れないゎ」
と追い討ちをかける様に言はれたので、彼女は俯いたまま気まずそうに小声で
「母さん、何か勘違いしているんだゎ」
「昨夜は、わたしの悪戯書きを彼に見られてしまったので、思わず大声を出して、彼から取り返したのよ」
「わたし達、春にお別れするとき永遠の愛の契りを結んでおり、ご心配なさらないで・・」
「わたし達、母さんが想像なさるようなことは、とっくに卒業し、もう、立派な大人なのょ」
と抗弁した。
キャサリンは、彼女の返事を聞いて唖然として、顔を少し赤らめ
「そぅなの~」
と、彼女から顔をそらして弱々しい声で返事したあと
「それにしても、貴女には、何時もハラハラ ドキドキさせられて、母さんも心配が尽きないゎ」
と言って、不安と安堵が入り混じったような複雑な顔をして俯き、美代子から顔を背けてテーブルを拭きながら
「避妊だけは、貴女の責任で忘れないようにしてよ」
と小声で注意していた。
お爺さんは、ダイニングに顔を出すと、二人の様子を見て
「なんだ美代子。また不始末して朝から説教されているのか」
と言って一寸睨んで椅子に腰掛けると、続けて大助も入ってきて、二人はお爺さんの勧める自家製の梅干を口に含んだあと、キャサリンの注ぐ緑茶を美味しそうに飲んでいた。
美代子は早速朝飯をキッチンから順次運んできて揃えると、皆が揃って箸を運んだが、大助が小魚の佃煮をかざして
「これは美味しいわ。久し振りだなぁ」
と言って食べると、お爺さんは
「大助君、これはヤマメといって川の最上流にいるんだよ」
「初夏のころ、寅太が捕ってきたものだが、寅は裏山を自分の庭の様に熟知していて、時期になると必ず持って来てくれるんだ」
「落ち着いたら、君も一緒に行き、とって来なさい」
「自然に親しむことは楽しいことだよ」
と話かけているので、彼女はお爺さんの説明が長く、壁掛けの時計を見ながら、大助の食事に邪魔と思って業を煮やし
「お爺さん、朝の読教のとき打つ鐘は、下手な消防団員が火の見櫓の鐘を無茶苦茶に叩いているようで、大助君には迷惑だゎ」
と皮肉を込めて言いながら、何時もと違い、ご飯を勢いよく食べるので、大助が見かねて
「美代ちゃん、今朝は沢山たべるんだね」「今日、君がする仕事はたいしてないよ」
と言うと、彼女は、朝、キャサリンから説教されたことが面白くなく
「ヤケグイヨッ」 「オンナハ タマニワ コンナコトモ アルワ」 「大ちゃんには関係ないので、沢山食べてね」
と答えると、キャサリンは箸を置きながら、呆れて「威張ってるぅ~」と溜め息を漏らすと、お爺さんは
「大助君。この子は、たまにこんなことがあるが、今後は、彼女の教育を君にも任せるので、失礼なことがあったら、防大式に遠慮なくビンタをくれて、身体で覚えさせてくれ給え」
と、打鐘のことを皮肉られたのが癪に触り言い返していた。 彼女は、そんなお爺さんの話を意に介さず
「彼はそんな野蛮な人ではないゎ」
と言って、口答えしながら黙々と箸を運んでいた。
大助は、そんな会話を耳にし、やはりこの家は美代子を中心に生活が廻っているんだなぁ。と、思いながらも、荷物整理のことに頭をめぐらせていた。
朝食後、お茶を飲みながら、お爺さんは、大助に
「朝晩、布団の上げ下げは大変なので、今日、業者を呼んでベットを用意しておくから」
「机と書棚等は、費用は用意するから、美代子と相談して使いやすい物を選んで、あとで店に行き注文してくれんか」
と言うと、美代子は間髪をいれず
「ベットは、照明つきの ダブル ヨッ」
と語気を強めて口を挟み、渋い顔をするお爺さんが
「お前のは自分の部屋にある物を使えばよいでないか」「すぐその様に勝手なことを言うんだから・・」
と言うと、彼女は
「イイカラ ワタシノユウトウリニシテョ」
と、無理矢理注文をつけていた。
大助は「和室で布団のほうが、頭が休まるのでいいんだが・・」と、率直に答えていた。
お爺さんは、彼の意見に頷きながらも、彼女の話を無視して
「座敷にベットは似つかわしくないが、春になったら、君の都合で、美代子の洋間を改築工事して使用してもよいが・・」
「美代は、君の居間と離れた別の部屋に移すつもりだわ・・」
と言いかけたところ、賄いの小母さんがダイニングに顔を出して「お友達が見えましたゎ」と、寅太達が迎えに来たことを告げた。
皆が、玄関に出ると、お爺さんは愛想よく
「おぉ 寅太に三郎。今日は日曜で休みだろうが、御苦労だが大助君のため応援頼むよ」
と言うと、寅太は
「お爺さん、いちいち社長に電話しないでくれよ」
「先生から電話があると、社長は緊張してしまい、帰り際に、明日はきちんと遅れずに医者ドンにゆけよとか。朝は早くから電話をしてきて、モタモタしないで早く行け。と、言ってきて、五月蝿くてかなわんわ」
と返事をすると、三郎も寅太の話に便乗して
「施設長も、お前また悪さしたのか。と、心配して、俺言い訳に困ってしまったわ」
と付け足した。
お爺さんは、スマンスマンと珍しく彼等に頭を下げていたが
「お前達は、中学時代暴れん坊で街中に迷惑をかけたが、今では街中でも評判の模範青年になり立派なもんだ」
「晩飯は、御馳走するからな」
と言って笑っていた。
彼等は、何時もは小五月蝿い老先生にしては珍しい褒め言葉以上に、作晩、美代子から貰った多額の小遣いのことが嬉しく、休日返上の手伝いに気合を入れていた。
寅太は、美代子の服装を見て
「美代ちゃん、そんな綺麗な服装で、何しに行くんだい」「埃で汚れるし、遊びでないんだよ」
と注意すると、彼女は大急ぎで部屋に戻り、緑色の7分袖のワイシャツにグレーのトレパンに着替えて来た。
中秋の山麓の朝は冷えていて、玄関先に出ると、鰯雲がまばらに見えるが快晴で、空気は冷えていて大助は思わず肩をすぼめたが、良く晴れ渡った秋空に、細い綿屑の様なものがキラキラと朝日に照り映えている光景を見て珍しかったので、美代子に
「ほらっ あの光って見えるもんはなんだろうなぁ」
と聞くと、彼女は
「あぁ~ あれは蜘蛛のイトが寒風に切れて舞い上がり、上昇気流に乗って空を浮遊しているのょ」
「この地方では”雲迎え”と、お年寄りが言っているが、雪の季節が近いことを知らせてくれるらしいのょ」
と、飯豊山の麓に位置する田舎町の風習を教えてくれた。
大助は、空気が澄んで遠くの山並みが青く望め、刈り遅れた稲の穂先がたれる自然が残る田舎の風景が好きで、引越しの煩わしさを一瞬忘れて、清々しい気持ちになった。