天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮 上巻末尾

2011年09月11日 23時24分21秒 | 文芸

さあて、庚申研修会かあ・・・たしか神奈川の住所だったよなあ」

 と、つぶやく。神奈川の電話帳はなかったので、ちょうど蒲田に集金にでかける用事があるから、そのとき電話ボックスで調べてみようかと思う。ともかく、十万円の経費ぶんの仕事はしたかった。まず、なんとしても赤塚さんに会ってからだ。、旦那への報告は本人の意向を聞いてからでないと、恨まれるかもしれない。赤塚さんと秘密を共有しているのは確かなのだから。たいした秘密でもない気がしたけれど。それでも、一晩泊めてもらったアブナイ一夜があったわけだし、半分はこちらも共犯との意識もないではなかった。

 社主の大曲泰造も消息がわからない。ミドリちゃんもいつ帰ってくるかわからない。赤塚さんの失踪の理由もまだはっきりしない。『猫文書』の著者、稲葉峯生氏も音信がプツリと途絶えている。自分の周囲から、次々に人が消えていく。他人というものは、こうもたやすく目の前から消えていくものなのだろうか。それとも、消えた人はそれぞれが、探してほしいというサインを残しているのだろうか。

 自分はグズグズと紅花舎の社屋にくすぶっていて、熱心な捜索をはじめようとはしない。それぞれの足どりを追いかけているうちに、とてつもない迷路にふみこみそうな嫌な予感がする。こんなことが、ずっと以前にもあったような気がしてならないのだ。やはり夏の夜であったような気がする。しかし、記憶をたどろうとすると、ふいになにかの幕がおりるように、記憶がぼやけてくるのだった。

「明日、蒲田の奥をさがしてみよう」

 と、つぶやいていた。よりによって、いちばんなじみの薄い人物の消息からはじめようというのだ。稲葉峯生氏はどこへ消えたのか。消極的な選択にはちがいないが、最後にきた手紙のことが妙に気になっていたのだ。霊媒師。自分のまえに口をひろげている迷宮にふみこむまえに、なにかしらアリアドネの糸のようなものをつかんで出かけたかったのかもわからない。糸口の連想からそんなことを考えてみただけだったが、果たしてどのような霊媒師が待っているのか、いないのか。すくなくとも、あやしげな宗教団体にふみこむよりはましなような気がした。

 それに、シラネアキラの依頼もある。神官のなりをした少年。しつこく父親をさがせと懇請してくる子ども。彼はいったい何者なのだろう。

 

 出口のみつからない迷路だとて、ふみこまねばならないときもある。あえて戻ってこようとも思わなければ、おそれることもない。

 独りでいるうちに、いよいよおかしな覚悟のようなものがわいてきた。母親が死に、世間にたった一人で投げだされたときから、だいたいそんなふうにして世の中を渡ってきたようなものだ。いずれ、仮の住処も追い出されるようにして出なくてはならないはずだ。あらたに部屋を借りるほどの蓄えもない。

 この夏、一匹の野良猫のようにあの町この町をあるきまわるというのも、なにか自分にふさわしいことなのかもしれない。

「かまやしないさ。いけるところまではいくだけだ」

 声にはださなかったが、ことあるごとに心の中でつぶやいてきたいつもの言葉が、出発の合図だったような気がする。

 それでも、それからふみこんだ迷路というのが、まるでおもいがけない方角に自分をひきずりこむものだったとは、このときは、まだ予感すらできなかった。いや、正しくいうなら、引きもどされ、そのあとで、またぞろズブズブと引きずりこまれたとでもいうべきだろうか。

 いずれにせよ、長くて暑い夏になったのだ。。

 

                       『猫迷宮』上巻了


裏庭の記憶

2011年09月11日 23時16分43秒 | 文芸

小学生の頃、陽のあたる校庭よりも、びえてとして、苔の匂いのする裏庭のほうが気になってしかたがなかった。子どもたちが去った放課後、なにかの用事でひとり居残って、がらんとした渡り廊下を歩いていると、うっすらとした沈丁花の花の匂いがした。わたしは、その花がどこにあるのか知っていた。校舎の裏の金網沿いに一株だけ、とのり残されたように植わっている。その丈の低い木の根元に、ある日死んだ雀の子がころがっていた。薄い羽毛もまだ生えそろっておらず、白濁した眼も、この世でなにかを見たというには、あまりに貧弱だった。おそらく、うすぼんやりとした光と、母鳥の黒い翳りのほかは、なにもうつらなかったろう。子どもの時代の私が、はたしてこのような感慨にとらわれたかどうかは、うたがわしかったが、病弱でよく学校を休んでいた私は、ひょっとしたら、その死んだ幼鳥は、自分の未来であるかもしれなとでも思ったのだろう。おそろしい、というよりは、じっと凝視せずにはおれなかった。ただ、見つづけていたのである。 

  しばらくして裏庭の死骸はすっかりかたづけられていた。あるいは猫かなにかがくわえていったのかもしれない。私は友達のだれかに、その死んだ雀の子のことを話したかった。けれども、休み時間の明るい笑い声のなかに、その話題を持ち込むことはどうしてもできなかった。雀にいだいた気持ちを説明することも憚られた。友達はなんでそんな裏庭にいったのかといぶかるかもしれない。  そのときから、今日にいたるまで、私が裏庭で眼にしたいくつもの死骸について、誰かに話したことはない。そして、小学校で机をならべていた子どもたちも、いまではどこに行ってしまったのか、誰もいなくなってしまっている。渡り廊下を歩いて教室にもどった私が、それからどうしたかは、覚えていない。 

                         未発表ノート                                   

 


夏の記憶

2011年09月11日 23時15分49秒 | 文芸

 夏休みに学校のプールに行くと、カードにひとつずつハンコを捺してもらうことになっていた。ある年の二学期に、判子の数があまりにすくないと、体操の教師に叱られたことがある。日頃、病弱な私はからだを鍛えなくてはいけないといわれていた。真っ黒に焼けるほど泳ぎに来なくてはない、とその教師はいったものだ。

  私は、もともと水泳が好きではなかった。なにが面白いのだろうと思ったこともある。それに、夏休みには、家の近所にある大きな病院や、県の産業試験場の構内に、虫取りにいく愉しみがあった。

  日盛りの午後、ふたつ年下の弟を連れて、夏木立のあいだを息をひそめて歩き回る愉しさにくらべたら、十五分おきにプールサイドにあげられたり、飛びこまされたりする水遊びの単調さばかりが嫌悪の種になった。そして、かならずとおらされる消毒剤の冷たい浴槽と、冷たいシャワー。思えば、運動にかんしては、甚だ子どもらしくなかった。  木漏れ日のなかで、蝉たちに樹液をあびせられたり、蟻の行列をじっと眺めていたほうが、ずっと性にあっていて、捕らえた虫たちと図鑑をひきくらべてみるようなことに、無上の喜びを感じていたのである。

  わたしを叱った教師に、そんなことを説明する気にはなれなかった。ましてや、こっそり忍び込んだ病院の裏窓に見えた入院患者の異様にかぼそくて、白い脚のことや、それが私くらいの少年だったことなど、話せばやぶ蛇になりそうだった。

  ただ、たいていは夏の終わりの頃であったが、夕方、プールから帰るさの、まだ日中の火照りの残る大気のなかを、サンダルで歩いていくときの気分は嫌いではなかった。校庭の青桐の大きな葉をゆすっている夕方の風が、日焼けした肌に心地よく、まだいくばくか残ってる夏休みの日数を勘定したり、母が冷やしていてくれているはずの三矢サイダーのことも思いうかべたりもした。 

 あの頃は、そんな夏が永遠につづくような気がしたものだけれど、それからもう三十年が過ぎてみると、夏はもう息子たちのものになっていて、あの頃の友だちもゆくえがしれない。                  

                     夏『水の感傷について』未発表ノート