八障連ブログ

八障連(八王子障害者団体連絡協議会)運営委員会より、情報提供を行っています。(「八障連について」カテゴリーを参照)

八障連通信356号をアップします。

2020年11月01日 | 八障連通信
八障連通信356号です。


八障連通信356号【音声版】はこちらから
【事務局通信 Vol.67】
【お知らせ掲示板】
【連載コラム 『日々のなかから、』 <持ちつ持たれつ> Vol.48 八障連代表 杉浦 貢】
【連載コラム vol.21 『利口な不服従』 ハーネス八王子 鈴木 由紀子】
【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史その39】


ここからは通信本文です

【事務局通信 Vol.67】
春が近づき、出掛けやすい日が増えてきていますが、今年インフルエンザは抑えられ安心をしていたのですが、年明けから新型コロナウイルスの問題があり、さらに世界規模での広まっている状況。早く終息に向かってもらいたいと思います。対策として「手洗い」や「うがい」、不要不急の外出は極力減らすなど言われていますが、今はじっと我慢ですかね...そんな中、感染者が出れば、差別的な扱いや言動が目立つように感じ、ネットでは何か「不足になるかも...」と言われれば買い占めに走ってしまう傾向にあったりして、本当に必要なところに行き届かなくなる。こんなことで、本当にこの国は大丈夫なのだろうかと思ってしまいます。正しい情報を
チョイスしていくということは、今現在情報の過多の中で難しいと思いますが、基本「過ぎる」ことはよくないと思いますので、ひとまず節度をもっての行動を心がけたいと思います。
八障連の活動について、他のお知らせでお伝えしている通り、3 月 28 日(土)に開催予定であったバリアフリー上映会延期や、高齢事業所との勉強会、市議会議員の方々との懇談会についても延期となりました(バリアフリー上映会は 9 月 5 日(土)に延期、その他懇談会等は決まり次第お知らせいたします)。そのほかにも皆さんご存知の通り研修・勉強会や交流会、情報交換会などが軒並み中止や延期になっています。私自身も楽しみにしていたものが多く、この状況ではやむを得ないのですが、非常に残念でなりません。ただただ、一時も早く新型コロナウイルス流行が終息し、通常の生活に戻れることを願ってやみません。
悲観してばかりはいられませんが、この福祉の情勢も色々と動きが出てきているように思われます。共生社会についての動きや各事業の見直しなど色々と情報が錯綜しているように思われます。八王子では運営安定化事業(家賃補助)の見直しなどもあります。良い・悪いと賛否両論あると思いますが、八障連では引き続き正確な情報発信と、なぜそのような方向に進んでいくのか、進んでいく中で施設を利用されている方々に不利な状況にならないのか等、皆さんと話し合い検討し、市への要望等につなげていく活動をしていきます。そのためには、今年度活動していく中で、もう少し活動へご理解とご協力を得られる人材が必要であることを強く感じられました。会員の皆様も
お忙しい中で大変だとはおもうのですが、ぜひご理解をいただき少しの時間でも構いませんので、八障連の活動にご協力をいただきたいと思います。また、各団体の管理をされている方々も、できましたら職員の情報交換の場として活用していただければとも思いますので、ご理解ご協力をいただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
(文責/立川)


【お知らせ掲示板】
✦3 月 28 日(土)に開催予定だった「福祉フォーラム 2020」は、9 月 5 日(土)に延期になりました。(運営委員会)


【連載コラム 『日々のなかから、』 <持ちつ持たれつ> Vol.48 八障連代表 杉浦 貢】
私がこの通信のコラムを書かせていただくことになってずいぶん経ちますが...毎回のネタ探しというのもなかなか大変なのです。文章そのものがうまいかどうかは別にして、書くこと自体は好きですし、苦にはなりません。
手を動かす作業自体にかなりの時間と労力がかかるため、常に 2 号か 3 号先までの原稿のストックを作っておくのですが...最近はそれもすぐに無くなります。何か原稿の種になるようなことは無いかと頭をひねるのですが、『書
こう』『書かねば』という時にはなかなか原稿が浮かばず、案外何にもしないでいるときにこそ、ふっと浮かんで来たりします。
これはそんな中から思い出したお話ですあれは...私がまだ養護学校の高等部に通っていた頃の事ですから、もう 20 年以上、そろそろ 30 年近くにもなろうかという昔のことです。学校から通学バスが、自宅の近くまで来てくれるのですが、東大和の私の実家の場合、マンションの自宅玄関からバスの停車位置までは、かなり距離がありました。当時まだ若さに溢れていた私はその頃、手動の車いすを使っていて...、筋トレとリハビリの意味から、あえて親の付き添い無しで、バスまで自力で移動していました。近所に、特に仲の良かった小学四年の女の子がいました。彼女が、やるよと申し出たわけでも、私が、お願いしますと頼んだわけでもないのですが...。いつの間にか、バスが待っている場所まで、その子が私の車いすを押してくれる事が毎朝の習慣になっていました。相手が子どもとはいえど、ご厚意で私の車いすを押そうとしてくれるのですから、その気持ちに応えなければバチが当たるような気になりました。いつしか...自分が乗るバスの手前で私が「ありがとう」と言い、小学校に向かう彼女に手を振って別れるのが、とても自然なことになっていきました。ほんの短い道すがらでしたが、その子はよく自分の話を私に聞かせてくれました。『あのね、アタシが正しいと思ったことなのに、みんなは、お前カッコつけるな、ってヘラヘラ笑ってるの』『誰かをからかったり、誰かの悪口を言って平気でいられる人が信じられない』。彼女の笑顔はどこまでも明るく、話す声も朗らかな感じなので、ただ聞くだけでは深刻そうな感じはしませんでしたが、かなり重い内容の話が多かったようにも思います。どうやら、あまりに素直で正義感の強い彼女は...そのせいで周りから浮いた扱いになり...クラスの中でも苦しい立場にいるようでした。毎朝、ほんの 10 分足らずのやりとりとはいえ、少し心配になったりもしましたが、私になにができるわけでもありませんから、黙って聴いているしかありませんでした。
彼女は、学校であったこと、楽しいことやしんどいことなども、たくさん話をしてくれました。中には『お父さんとお母さんにも言わないよ』というようなこともわざわざ打ち明けてくれました...。
私がしたことはただ...「そうだね」「すごいね」と、話に合わせて合いの手を入れて、うなずくくらいの事でした。お別れは突然でした。ある休日のこと、その子のお母様が私の自宅を訪ねてきたのです。
突然のお客さんに緊張し、親が不在でなんのおかまいも出来ませんと恐縮すると、お母様は、むしろ私に用があるのだと言ってくださいました。聞けば...
『実はあの子、学校でいじめられていたようなんです。ウチは共働きであの子にあんまり構ってやれなくて、一時不安になったんですが...お兄さん(つまり私)とお話する様になって、気分がスッキリしたって言うんですよ。元々が明るい子ですから、親の方があの子の明るさに甘えていたかもしれません。あの子は大きくなっても、お兄さんのことは忘れないと思います。ありがとうございます』 深々と頭を下げるお母様。思えば、大人の人から真剣にお礼を言われたことなどは、それまでなかったことでした。大したことをしたつもりもないのに、突然かしこまって礼を言われてしまい、ただ困惑するばかりの私でありました。『今度、夫の仕事の都合で引っ越すことになりまして、あの子も転校するんです。その前にお礼とご挨拶をしておこうと思いまして...』。身体に障害を持ち、車いすで生活していると、日々、たくさんの人のお世話になります。普通に生活するだけでも、たくさんのお礼を言うけれど、自分が人からお礼を言われる場面は、なかなかありません。お礼を言われる側になるという事はこんなに気持ちのいいことなのか、と...この時初めて自覚したのでした。そして...今後誰かに礼を言うときは、もっと心を込めなければと、自分に言い聞かせたのでした。
あの子は今頃どうしてるだろう。とっくにイケメンのダンナでも見つけて、元気に子育てしてるのかもしれないな、なんてことを時々思い出して、今もホンワカする私です。


【連載コラム vol.21 『利口な不服従』 ハーネス八王子 鈴木 由紀子】
皆さん、こんにちは。ワンちゃんといつも一緒の鈴木です。新型コロナウイルスへの感染拡大を予防するため、あらゆる行事が中止されたお蔭で、アーサのお出かけの機会も少なくなり、毎日私とゆったり過ごしています。
さて、目が見えない私たちの歩行を助ける盲導犬の行動の一つに「利口な不
服従」と呼ばれる事柄があります。今回はアーサのそのお仕事ぶりについて書かせていただきます。
アーサと歩くとき、私は「ストレイト(真っすぐに進んで)」とか「ライト(右に行って)」などと絶えず指示を出しながら歩きます。しかし、目の前に危険な状態が迫っていると、盲導犬は、それらの命令には従わずに、危険を回避する行動をとるように、あらかじめ訓練されます。むしろ、そのことが盲導犬としての適正を測る試験の重要な点の一つになっていると聞きます。そして、その賢い盲導犬の判断力のお蔭で、私たちが安全に歩くことができると言っても過言ではないでしょう。
ここで私の体験を書きます。あるとき小さな田舎まちで、15 分ほどかかる直線路を「ゴー」と指示を出して歩き続けていました。しかし、途中でアーサが急に止まりました。「えっ、何だろう」と、こわごわ片足を出すと、その先には穴がありました。あとでわかったことは、そこはお魚屋さんの前で、汚れた水を流すために、マンホールの蓋を一部取ってあったのだそうです。もしアーサがそこで止まってくれなければ、私は間違いなく、その穴につまずき、思わぬケガをしていただろうと思うと、ぞっとしました。
目の前に階段や段差を発見したときも、アーサはその手前でさっと止まり、私がそれらの位置を足で確認するまで待って進みます。
こんな出来事もありました。数年前の初夏の夕方、ハープの素敵な演奏を聴いて八王子駅にたどり着いたとき、遠くで雷が鳴り、雨もパラパラ落ちてきました。それで「あっ、夕立が来るのね」と、思わず足速に歩き出しました。ところが数 10メートル行ったところでアーサが急に足を踏ん張って、走るような状態だった私の歩みを止めました。そのとき小さな駐車場から一台の車が道路に出てきて私がそれにぶつかりそうになり、間一髪、アーサがその危機から救ってくれたのでした。
アーサは周りの人の歩調に合わせて進むスピードを調節します。何やらおしゃべりをしながら、ゆっくり歩く若者の後ろに付くと遅い足取りで、速足の人の後ろだと、ストイックなほど速足で進みます。そして、背後から車が近
づいてきたり、脇道から自転車が出てくると、さっと止まったり、よけたりします。アーサは人間の言葉をしゃべれないけれど、小さな頭でしっかり考え、一つのハーネス(盲導犬の背中に付いている胴輪)を通して私と息を合
わせ、私を誘導してくれているのです。
アーサと歩いた経験を通して、私はいつもこう思っています。私に「カーナビ」は使えないけれど、「アーナビ」で楽しく歩けるので大丈夫。私にとってアーサはかけがえのない、とても頼もしい存在なのです。
そんなアーサも、この秋には 12 歳になります。八王子のまちの、あちらこちらにアーサのにおいもついていそうです。盲導犬として十分働いてくれたことに感謝しつつ、アーサをこのお仕事から引退させてあげなくてはいけな
いと思い始めています。


【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史その39】
視鏡を使って食道静脈瘤を取り除く手術を初めて受けた 2002 年という年は、肝硬変になってから 16 年、肝癌手術から 8 年の歳月が経過していた。小さい頃病弱だった私は医者通いが欠かせず、病院で黄色や土気色の顔をした人を見かける事が度々あった。昭和 20 年代から 30 年代にかけて病院へ行くとそういう人たちをよく見かけた。胆汁がそうさせており、肝硬変の末期にそういう黄疸症状が出てくると、そう先は長くないと大人達から聞かされた。当時は肝硬変になると 10 年もつかどうかと言われていたものだ。そういう記
憶が鮮明に残っていたので、肝硬変になって 16 年もそれなりに元気に過ごせているのは驚きであり、ありがたくもあった。
8 月の熊田 Dr の診察の時には、8 年も癌が再発せずに経過しているからこのまま行くかもねといった楽観的な言葉が口から洩れた。肝臓癌で亡くなった叔父の最後の姿を見ているだけにそんな有り難い言葉はないのだが、まだ手打繰り状態の肝炎治療の道、ホントかなと冷ややかに受け止めてもいた。1984 年ステロイドリバウンド療法で一度ウイルスが消失し、抗体ができたので、Dr 共々喜んでいたら、いつの間にかウイルスが再び出現してしまった。
ウイルスが消え、抗体ができることをセロコンバージョンと言い、それは治療の成功を意味する目標だった。やったねと喜んだ後の、失望。地獄に落とされたような感じがした。現在大騒ぎになっている新型コロナウイルスも、感染の疑いのある人が検査後一旦陰性と判明したものの、後に陽性になっている人が何人も出ている。ウイルスは厄介だ。
話は前後するが、4 月には大学の演劇サークル仲間との京都旅行を敢行。いつまでも元気で居られる訳じゃないと企画されたものだ。食通がいて、案内してくれた 2 泊3 日の旅行中の食事の何と美味しかった事。京都山科にある「瓢亭」での贅沢なひと時、祇園の懐石料理の繊細さ、老舗の和菓子屋で食べた生麩菓子の驚き、南禅寺近くの湯豆腐料理の味わい。修学院離宮のお庭の素晴らしさ、宝泉院の額縁庭園の美しさと血天井の禍々しさも忘れ難いし、醍醐寺の桜、高瀬川沿いの桜並木も良かった。高校時代に通い慣れていた京都とは、全く違った味わいだった。
高校時代は大阪にいた。目指す高校に無事合格できたのに、その夏に母が亡くなり、人生の目的を見失った。それからは、何かあると京都まで出掛け、当てもなく彷徨ったり、庭を観にいろんな寺を巡ったりしていた。庭を見て
いると妙に心が落ち着くのだ。気の合う庭に巡り合うと、何時間も座敷に座って眺めていたから、よく僧侶から声を掛けられ、いろんな話をした。心配して下さったのだろう。
嵯峨野に大覚寺という寺があって、そこの五大堂のぬれ縁から見える比叡山を借景にした大沢池の姿はいつまで観ていても飽きなかった。座禅を組んでいるような感じなのだろうか、何を考えるということもなく、ボーッと眺めていると日常を忘れられた。そこの庭も素晴らしくて、1 時間以上見呆けていたか、僧侶が話し掛けてきた。私の綺麗事の仏教談議の相手をしてくれた最後に、傍にある竹林に行ってみなさいと言われた。そこの地面は焦げ茶に染まっていると言う。修行僧たちが血反吐を吐いた跡だそうだ。
4 月の素敵な京都旅行の後、6 月からはとんでもないことが待ち受けていた。その出来事については私自身の事ではないので、書き記すことが叶わないが、とても大変だった。血沸き肉躍る、ちがうな、阿鼻叫喚とでも言い表
したくなるような日々を過ごす事になった。一時期はまともに眠れない日々が続き、精神的にもかなり追い詰められた。軽い精神安定剤も処方して貰った。そんなある日、末の息子と買い物に出掛けた二人きりの車内で「人生最大のピンチ」とつい私が漏らすと、「もっと大変な時があるかもしれない」と子供から冷静な応答があったのには吃驚したが、何か救われたような気もした。

通信本文はここまで。

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