八障連通信357号です。
通信357号【音声版】はこちらから
ここより通信本文です。
【2019年度の活動を振り返って八障連代表 杉浦 貢】
今年度も残りあとわずか...振り返ってみればあっという間でありました。特に年度の後半は新型ウィルスの蔓延を警戒し、必ずしも不要ではないものの、できうる限り不急の外出を避けるという判断をした上で、開催を次年度に延期したイベントもありました。4 月 7 日には、政府より来月 7 日までの期間、首都圏など7 都道府県を対象に「緊急事態宣言」が発せられました。一刻も早い日常生活の回復が待たれるところです。
さて今年度...年度が新しくなってからの主な動きとしてはまず、7 月末に開催した、高齢者サービス従事者の方々との意見交換会が挙げられると思います。かねてより...65 歳以上の高齢障害者が、それまでの障害福祉のサービスから介護保険サービスに移行する問題について...八障連でも度々話題にしてきましたが...介護保険のサービスでは拾いきれないニーズが多々あること...。また、高齢者サービス従事者の方々の中でも、障害のある人をいかに支えていくかについて、現場で戸惑うことがあるなど...。障害福祉の側面から物を見るだけでは、わからないことを、改めて認識し課題を共有する良い機会となりました。
10 月 12 日から翌 13 日深夜にかけては台風 19 号が日本に上陸し、関東甲信はじめ東北地方などで記録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。 八王子でも、これまでに経験したことのない大雨に見舞われ市内各所で土砂災害、河川の氾濫、床上・床下浸水、道路の冠水などの被害が発生し、後々まで長く尾を引きました。
八障連でもワークセンターとの連名にて、特に被害の大きかった高尾青年の家様へのカンパ募集にご協力させていただきました。
年が明けて、1 月 14 日には障害福祉課との懇談会を開催し、10 月の台風被害の報告と今後類似かつ同程度の災害に見舞われた場合の緊急対応、市内在住の知的障害者の支援、精神障害者に対する賃貸住宅契約更新などの課題について、福祉課と加盟団体とで意見交換、情報共有を行いました。
そして現在...コロナウイルスの蔓延を警戒し、各所でイベントの開催中止や延期が相次いでいます。八障連でも市議との懇談会と福祉フォーラムの延期を決定させていただきました。買い物に出る人の姿さえ少なくなる日々です。まず明るい日常が戻らなければ、障害者の社会参加もあり得ません。
あと数ヶ月後には『あのときはしんどかったね』と笑って言える日が来ることを待つばかりです。
さて今年度...年度が新しくなってからの主な動きとしてはまず、7 月末に開催した、高齢者サービス従事者の方々との意見交換会が挙げられると思います。かねてより...65 歳以上の高齢障害者が、それまでの障害福祉のサービスから介護保険サービスに移行する問題について...八障連でも度々話題にしてきましたが...介護保険のサービスでは拾いきれないニーズが多々あること...。また、高齢者サービス従事者の方々の中でも、障害のある人をいかに支えていくかについて、現場で戸惑うことがあるなど...。障害福祉の側面から物を見るだけでは、わからないことを、改めて認識し課題を共有する良い機会となりました。
10 月 12 日から翌 13 日深夜にかけては台風 19 号が日本に上陸し、関東甲信はじめ東北地方などで記録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。 八王子でも、これまでに経験したことのない大雨に見舞われ市内各所で土砂災害、河川の氾濫、床上・床下浸水、道路の冠水などの被害が発生し、後々まで長く尾を引きました。
八障連でもワークセンターとの連名にて、特に被害の大きかった高尾青年の家様へのカンパ募集にご協力させていただきました。
年が明けて、1 月 14 日には障害福祉課との懇談会を開催し、10 月の台風被害の報告と今後類似かつ同程度の災害に見舞われた場合の緊急対応、市内在住の知的障害者の支援、精神障害者に対する賃貸住宅契約更新などの課題について、福祉課と加盟団体とで意見交換、情報共有を行いました。
そして現在...コロナウイルスの蔓延を警戒し、各所でイベントの開催中止や延期が相次いでいます。八障連でも市議との懇談会と福祉フォーラムの延期を決定させていただきました。買い物に出る人の姿さえ少なくなる日々です。まず明るい日常が戻らなければ、障害者の社会参加もあり得ません。
あと数ヶ月後には『あのときはしんどかったね』と笑って言える日が来ることを待つばかりです。
【編集部より】
八障連通信357号をお届けいたします。地球規模で猛威を振るうコロナウイルスの感染拡大の中で、特措法による「緊急事態宣言」が出されました。本号ではそのような中で、当事者の方の「こんなときだからこそ」の視点でのコラム・レポートを特集として掲載しました。(砂長美んさんからの近況報告は長文となっているので、2回に分けての掲載となりますので、ご了承ください。)/さて、日々コロナウイルス感染者拡大の報道がなされている今日この頃ですが、どうなるのでしょうか。まだ出口が見えないなかでの日常生活となりますが、「『あのときはしんどかったね』と笑って言える日」を早く迎えることができるよう歩んでいきましょう。
【連載コラム vol.22 『こんなときだからこそ・』 ハーネス八王子 鈴木 由紀子】
世界中で新型コロナウイルス感染症、(COVID-19)騒動が始まって 2カ月が過ぎました。この原稿を書いている間に、ここ東京都など一都七県には「緊急事態宣言」も出され、それこそ「見えない敵」が迫っているんだなという思いがあります。
科学の分野は全く苦手な私ですが、連日連夜ラジオでその話題がニュースの
トップ項目になるので、「これって、なあに」と辞書で調べてみたくなりました。すると、いろいろな説明が出ていましたが、かい摘んで書いてしまうと、ウイルスとはラテン語で「毒」のこと。そして、一個のコロナウイルスの大きさは約 100 ナノメートル(1 メートルの 1000 万分の 1)、光学顕微鏡でも見ることのできない小さな生物だと出ています。とても難しくて、よくわからないのですが、とにかく、その小さなウイルスがヒトの体内でどんどん増えて元気に活動し、生命を蝕んでいくのだというのですから、その恐ろしさは計り知れませんね。終わりの見えないこの状況に、不安さえ感じます。
障害のある私たちにとって、こんなときの課題の一つは買い物。この間(かん)、マスクやトイレットペーパーのような紙製品が一挙に品薄になりました。また、ネット上のデマに惑わされて買いだめをする人も続出したとかで、結果的に、いつもなら山積みされていても気に留めないような消費財が店頭には全くないという状態が、この間ずっと続いているのです。
しかし、障害のある私たちは自由に買い物に出かけられません。健丈者なら、その気になれば、車で早々まとめ買いもできそうですが、そのような姿は、私たちにとっては別世界のこと。特に視覚障害者の私は、どの店に行ったらマスクやトイレットペーパーが手に入るのか分かりません。また、たとえそれらの品物が目の前にあったとしても、物理的に一人では見つけることができません。
そんな中、視覚障害者が多く参加しているメーリングリストに、こんな投稿が届きました。「4 月 6 日の夜 9 時のNHKニュースナインで、コストコジャパンが、コロナ感染対策の一環として、4 月 7 日から 4月末日までの期間、毎週火曜日午前 8 時~8 時 45 分までの時間を、65 歳以上、および障害のある顧客の買い物時間とすると発表しました」というものでした。コストコジャパンは会員製の卸売店と言ってよいでしょうか。会員だけが対象なので特殊なのかもしれないと、私は思いました。しかし、神戸でしたか、生協の一社も同様のサービスを行っているそうです。
さらに、アメリカのワシントン州在住の方からは、以下のような情報が寄せられました。「ほとんどの食品スーパーや薬局も、朝オープンしてからの 2 時間は、60 歳以上のシニア、リスクの高い持病のある人、障害者が買い物できることになっています。トイレットペーパーも朝のうちに無くなってしまいますが、シニアの人は買うことができます」と。
これは画期的な「合理的配慮」です。一部の人だけを優遇するのは「公平」の原理に反するという声も聞かれそうですが、特にこんな非常事態のさなかだからこそ、買い物弱者を優先してくれるサービスが私の身近にもあったらいいのにと、ムシのいいことを潜かに考えています。
科学の分野は全く苦手な私ですが、連日連夜ラジオでその話題がニュースの
トップ項目になるので、「これって、なあに」と辞書で調べてみたくなりました。すると、いろいろな説明が出ていましたが、かい摘んで書いてしまうと、ウイルスとはラテン語で「毒」のこと。そして、一個のコロナウイルスの大きさは約 100 ナノメートル(1 メートルの 1000 万分の 1)、光学顕微鏡でも見ることのできない小さな生物だと出ています。とても難しくて、よくわからないのですが、とにかく、その小さなウイルスがヒトの体内でどんどん増えて元気に活動し、生命を蝕んでいくのだというのですから、その恐ろしさは計り知れませんね。終わりの見えないこの状況に、不安さえ感じます。
障害のある私たちにとって、こんなときの課題の一つは買い物。この間(かん)、マスクやトイレットペーパーのような紙製品が一挙に品薄になりました。また、ネット上のデマに惑わされて買いだめをする人も続出したとかで、結果的に、いつもなら山積みされていても気に留めないような消費財が店頭には全くないという状態が、この間ずっと続いているのです。
しかし、障害のある私たちは自由に買い物に出かけられません。健丈者なら、その気になれば、車で早々まとめ買いもできそうですが、そのような姿は、私たちにとっては別世界のこと。特に視覚障害者の私は、どの店に行ったらマスクやトイレットペーパーが手に入るのか分かりません。また、たとえそれらの品物が目の前にあったとしても、物理的に一人では見つけることができません。
そんな中、視覚障害者が多く参加しているメーリングリストに、こんな投稿が届きました。「4 月 6 日の夜 9 時のNHKニュースナインで、コストコジャパンが、コロナ感染対策の一環として、4 月 7 日から 4月末日までの期間、毎週火曜日午前 8 時~8 時 45 分までの時間を、65 歳以上、および障害のある顧客の買い物時間とすると発表しました」というものでした。コストコジャパンは会員製の卸売店と言ってよいでしょうか。会員だけが対象なので特殊なのかもしれないと、私は思いました。しかし、神戸でしたか、生協の一社も同様のサービスを行っているそうです。
さらに、アメリカのワシントン州在住の方からは、以下のような情報が寄せられました。「ほとんどの食品スーパーや薬局も、朝オープンしてからの 2 時間は、60 歳以上のシニア、リスクの高い持病のある人、障害者が買い物できることになっています。トイレットペーパーも朝のうちに無くなってしまいますが、シニアの人は買うことができます」と。
これは画期的な「合理的配慮」です。一部の人だけを優遇するのは「公平」の原理に反するという声も聞かれそうですが、特にこんな非常事態のさなかだからこそ、買い物弱者を優先してくれるサービスが私の身近にもあったらいいのにと、ムシのいいことを潜かに考えています。
【砂永美さんお便り】
地球社会を巻き込んでの新型コロナウイルスですが、政府より「緊急事態宣言」が出されているなか皆さまどのようにお過ごしでしょうか。さて、砂長美んさんから「2020 年の春のお便り」が届きました。大変長文のレポートになっていますので 2 回に分けて紙面に載せることにしました。レポートではマスクの製造販売を社会貢献として始めていることなども触れられているので、ぜひ参考にしてみてください。(編集部)
こんにちは。砂長美んです。今回のお知らせニュース。
19 年ぶりの 2020 年 2 月帰国。私のロンドン、スエーデン、オーストラリア旅行中から始まったコロナウイルスアウトブレイク。19 年ぶりの、ヨーロッパを楽しみ、そして、これから頑張って行こうー、と誓ったと思っていたら、あらー。。。
こんな今、みんなで自宅からできる社会貢献を考えました!Do something good for socially good! 何か社会に良いことを!
〇冷蔵庫プレゼント fax 機も。茨城県つくば市の自宅に小さめ 2 個あります。
〇再利用可能、ガーゼマスク製造プロジェクト 作ったマスクは、こちらで販売します。
サンプルのマスク写真もこちらで見れます。http://arigatoshop.jp/info/ガーゼマスク完成、販売開始!/既に 150 枚完売しました。
3 月 20 現在、3 件の講師、講演等等の延期、商品卸先の博物館休館、お土産屋さん等々を影響受けて、売上も激減して、働く障害者のお仕事も同時に減っている状態で本当に申し訳ない気持ちです。殆どの、B 型と言われる、障害者施設は、時給ではなく、商品が売れた分だけの給料となっています。私も経営者なので、同じ状況です。( ́∀`)
でも、こんな状況の今だから、新しいプロジェクトの発信を決めました。マスク製造を全国の障害者施設と 1 日 100 個くらい作っています!一個 560 円税込み 一個あたり 10 分で慣れれば出来ます。材料高騰、当たり前の賃金 80 円 1 枚純賃金払い。とにかく今は、一枚でも欲しい方に届けることを目標として作りました。北海道、熊本県、福岡県 3 ヶ所の障害者施設で製造中。3 月末の初回はすでに、100 枚近く予約で、数件の皆様にお届け。★是非買ってください。 100 枚以上で、割引します。
〇洗って使える再利用可能ガーゼマスク一枚あるととても便利。子供用もあります。
〇 材料提供 ゴム、ガーゼある方お譲りください。マスク差し上げます
〇 再利用可能ガーゼマスク買ってくれる方、是非連絡ください
★ 障害者施設で、マスク作ってくれる事業者、是非連絡ください
材料調達します!
少しでも働く障害者、ありがとうショップの運営収入に。(材料、送料全て当方負担)実は、巾着袋とか縫い物やってる、技術ある施設は、沢山全国あるのです。(次号に続く)
【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史その40】
2002 年 6 月から 4 ヶ月続いた激動の日々も毎日がそうであると、少しずつ慣れてくるもので、ストレスに対する耐性も増し、それなりに日々が過ぎて行くようになった。途中何度か心が折れそうになることもあったが、しぶとく乗り切れた。それもこれも周りの誰彼に支えられてこその賜物と心の底から感じ入った。支えを失えば、たちまち立ち行かなくなり、地獄の底へまっしぐら。薄氷を踏む毎日には違いなかった。
パオ開設前にはあれこれ夢を描いてはいたが、そのとっつきの処で私に癌が発生したこともあり、流れに任せ右往左往しながらの 8 年が過ぎていた。パオは私のガンライフと共にあり、私が癌にならなければもっと違った展開になっていた可能性が大であった。当初の活動の柱に据えた「ピアサポート」と「アート活動」のふたつは今に至るも続いており、アート活動のないパオは考えられないものとなっている。
初代のアート講師である菊地雅子さんは結婚を契機に北海道へ戻り、現在もアールブリュットの中心的な存在として活動を続けておられるが、途中で彼女自身が身体障害者手帳を持つようなことになるとは、その頃知る由もなかった。
菊地さん退職後の一時期アート活動が中断されたが、土居さんからの紹介で風姫さんと出会うことができ、2002 年 10月から講師として参加して戴けることになった。
そんな流れがあり、第 1 回目のパオ作品展を 2003 年 1月に開催している。発表の場を設けるというのは風姫さんと出会わなきゃ実現しなかった。職員もメンバーも参加したい人が出品、出演できる形を取っており、私も大体継続して出品している。第 1 回目の作品はあれこれ悩んだ末に、作品展の直前にクラッシュしたパソコンを出展することにした。サイドカバーを外し、内部を晒す形にして展示した。題名は「クラッシュ」。激動の日々を耐え忍んだ私の身代わりのように感じたパソコンへのオマージュであった。市民の『こころの健康』情報紙「はあと」No.9 にその作品展の取材記事が載っており、私の作品が紹介されていた。大量生産大量廃棄社会への批判か?と解説されていたが、そんな高尚な話ではなかった。瀬野佳代さんという方がおられ、作品展を観に来て下さった。
開口一番「小濵さんそのもの」とのたまわった。なんでやねん!
北海道浦河で毎年開催されている「べてるまつり」に私が 2001年に初めて参加し、その時に出会ったのが瀬野さんで、話をしていると国立看護大学校の
教員と分かった。私の友人にも看護大の教員がいる旨伝えると、よく知っているとの事で、浦河で親しく話をさせて貰った。そのたった 1 度の会話だけからの見事さ。さすが精神科看護。恐るべし。
ただ、クラッシュにはとてもショックを受けていた。というのも、元々文章を書くのが苦手で、小学校から大学時代に至るまで作文やレポートというものを最も嫌っていた。自ら進んで文章を書いたのは高校 2 年の時の恋文が初めてである。生来の人見知りで直接会っても何も言えない悔しい想いを募らせていた。その溢れんばかりの想いを文字に替えて伝えるようとする試みは自らの生を繋ぐ必死の行為でもあったが、書き続ける中で楽しさも味わえるようになって行った。以来生涯で何十通という恋文を書くようになるが、それが修練の場となり、その後の原稿書きに生かされるようになるまでには更に数十年を必要とした。
40 歳を過ぎたあたりから苦しみながらも頼まれ原稿を書くようになり、書き溜めたものがパソコンに保存されていた。その苦しみの結晶が一瞬にして吹っ飛んでしまったのだ。ハードディスクの復旧が何とかできないかと駆けずり回ったが無理だった。とんでもないお金を出せば可能だと分かったが、老
後エッセイ集にして自費出版でもできればと楽しみにしていただけの事。多大なお金を掛けるほどの中身もなし、道楽も過ぎようというものだ。楽しく原稿が書けるようになったのはこの闘病記が初めてである。(次号に続く)
パオ開設前にはあれこれ夢を描いてはいたが、そのとっつきの処で私に癌が発生したこともあり、流れに任せ右往左往しながらの 8 年が過ぎていた。パオは私のガンライフと共にあり、私が癌にならなければもっと違った展開になっていた可能性が大であった。当初の活動の柱に据えた「ピアサポート」と「アート活動」のふたつは今に至るも続いており、アート活動のないパオは考えられないものとなっている。
初代のアート講師である菊地雅子さんは結婚を契機に北海道へ戻り、現在もアールブリュットの中心的な存在として活動を続けておられるが、途中で彼女自身が身体障害者手帳を持つようなことになるとは、その頃知る由もなかった。
菊地さん退職後の一時期アート活動が中断されたが、土居さんからの紹介で風姫さんと出会うことができ、2002 年 10月から講師として参加して戴けることになった。
そんな流れがあり、第 1 回目のパオ作品展を 2003 年 1月に開催している。発表の場を設けるというのは風姫さんと出会わなきゃ実現しなかった。職員もメンバーも参加したい人が出品、出演できる形を取っており、私も大体継続して出品している。第 1 回目の作品はあれこれ悩んだ末に、作品展の直前にクラッシュしたパソコンを出展することにした。サイドカバーを外し、内部を晒す形にして展示した。題名は「クラッシュ」。激動の日々を耐え忍んだ私の身代わりのように感じたパソコンへのオマージュであった。市民の『こころの健康』情報紙「はあと」No.9 にその作品展の取材記事が載っており、私の作品が紹介されていた。大量生産大量廃棄社会への批判か?と解説されていたが、そんな高尚な話ではなかった。瀬野佳代さんという方がおられ、作品展を観に来て下さった。
開口一番「小濵さんそのもの」とのたまわった。なんでやねん!
北海道浦河で毎年開催されている「べてるまつり」に私が 2001年に初めて参加し、その時に出会ったのが瀬野さんで、話をしていると国立看護大学校の
教員と分かった。私の友人にも看護大の教員がいる旨伝えると、よく知っているとの事で、浦河で親しく話をさせて貰った。そのたった 1 度の会話だけからの見事さ。さすが精神科看護。恐るべし。
ただ、クラッシュにはとてもショックを受けていた。というのも、元々文章を書くのが苦手で、小学校から大学時代に至るまで作文やレポートというものを最も嫌っていた。自ら進んで文章を書いたのは高校 2 年の時の恋文が初めてである。生来の人見知りで直接会っても何も言えない悔しい想いを募らせていた。その溢れんばかりの想いを文字に替えて伝えるようとする試みは自らの生を繋ぐ必死の行為でもあったが、書き続ける中で楽しさも味わえるようになって行った。以来生涯で何十通という恋文を書くようになるが、それが修練の場となり、その後の原稿書きに生かされるようになるまでには更に数十年を必要とした。
40 歳を過ぎたあたりから苦しみながらも頼まれ原稿を書くようになり、書き溜めたものがパソコンに保存されていた。その苦しみの結晶が一瞬にして吹っ飛んでしまったのだ。ハードディスクの復旧が何とかできないかと駆けずり回ったが無理だった。とんでもないお金を出せば可能だと分かったが、老
後エッセイ集にして自費出版でもできればと楽しみにしていただけの事。多大なお金を掛けるほどの中身もなし、道楽も過ぎようというものだ。楽しく原稿が書けるようになったのはこの闘病記が初めてである。(次号に続く)
通信本文はここまで。