八障連ブログ

八障連(八王子障害者団体連絡協議会)運営委員会より、情報提供を行っています。(「八障連について」カテゴリーを参照)

八障連通信368号をアップします。

2021年04月17日 | 八障連通信
八種連通信368号です。


八障連通信【音声版】はこちらから

ここからは通信本文です。

【事務局通信 Vol.75】
早いものでもう年度末。昨年の年度末はコロナの情報収集でバタバタしてい
る状況であった記憶があります。また、いろいろなイベントの中止やその手
配に追われ、各関係者の皆さんにもご迷惑をおかけしたことを記憶してお
ります。それから 1 年。まだまだ終息という段階ではないと思われますが、皆様におかれましてはどのような変化がありましたでしょうか。施設運営、利用の仕方にも変化が起こり、戸惑った利用者さんや職員さんが少なくなかったと思います。私も間違いなくその一人でした。しかし、このまま「できない」とばかり言っていては、安心をして施 設利用をしていただくことはできないので、あの手この手と試行錯誤を繰り返してきました。そのような中で先月の 2 月 18 日に八王子市障害福祉課の方々と懇談会を開催いたしました。今回はコロナ過ということもあり、事前に質問のある団体さんに参加を
していただき、ごく限られた人数ではありますが皆様より寄せられた意見を集約させていただき、障害福祉課の方々へお伝えいたしました。市として今後取り組まないとならない課題や、法改正のもと起きてくるサービスから取りこぼされてしまう利用者さんの問題。行政と各事業所は互いに各問題へ取り組んで いると思いますが、個々に取り組むのではなく、情報共有・課題解決に向けて、協力して取り組まなければならないのでは思われました。 内容の詳細については、議事録にてご確認お願いいたします。
報酬単価見直し・変更について
各事業所に置かれましては、日々各事業形態の基準を守り、日々利用者さんへのサービス提供に取り組まれていると思います。 2 月には厚生労働省より各事業所の報酬単価の変更や、取り組む内容の見直しがあったと思います。 10年 20 年前と社会の状況も変わり、従来の取り組みとは変わってきていること、変わってはい けないこと、変わらないといけないことが打ち出された内容で分かるように私は感じました。それぞれ読み取り方は多少のずれはあると思いますが、私たちが取り組むべきことを共通化するために各所独自解釈ではなく情報交換をし、同じ課題を持っている事業所との連携が欠かせなくなると思われました。しかし、各事業所に置かれましては、日々の業務に追われ、自分たちで発信をして協力体制を作っていくことは大変なことであると思いますので、是非八障連の場を活用していただければと思います。
福祉フォーラムについて
3 月 6 日福祉フォーラムを開催いたしました。会場は収容人数 80 名でしたが、感染拡大防止のため YouTube 配信も行うということで、今回は会場参加者を減らさせていただきました。少人数での開催ということもあり、登壇していただいた高崎さんの計らいで、参加された会場の方からの意見交換など行うこととなり、有意義な時間となりました。上映内容や期間限定で配信を行いますので、同封された案内を確認の上、是非ご覧いただければと思います。 (文責 事務局立川)

【編集部より】
八障連通信368号をお届けいたします。はや3月、2020年度も年度末を迎えましたが、今年度は地球規模でのコロナ過で翻弄された年でもありました。まだ終息に関しては見えない部分もあり、変異株による夏以降の第4派を懸念する声も聞こえてきてますので予断を許しません。今号では、そんなコロナ過の中でも開催された八障連主催の「福祉フォーラム報告」を特集記事として掲載しました。感想・ご意見等があれば編集部までお寄せください。また今後4月以降、総会に向けて次年度方針の議論が運営委員会を中心になされますが、各団体からの活発な問題提起をお待ちしております。(編集部)

【八障連福祉フォーラム報告と湧き出した私的妄想録 パオ 小濱 義久】
『Secret ofPukapuka 』、画面いっぱいに溢れる笑顔の連続に久し振りに気持
ちがほっこりした。映画終了後は高崎明さんの素敵な話も聞け、すっかり「ぷかぷかウイルス」に感染してしまった。横浜線の十日市場からバスで 10 分位の所にあるらしい。コロナ状況が少し落ち着けば、彼らと一緒にお昼を食べに出かけようと思う。このところ老化現象なのだろうが、涙腺の締まりが悪くなってきたようで、思わず目頭が熱くなることもあった。
映画に出てくる街の人たちの素敵な笑顔が全てを物語っていた。「ぷかぷ
かさん」は周りの人たちの心をほっこりさせ、それぞれのぷかぷかさんにファンがついているというからすごい。高崎さんが街を耕し、豊かにすると仰っていたが、ぷかぷかさんが周りの人たちの心を耕しているのだなと感じた。
2010 年 3 月に特別支援学校を定年退職となった高崎さんが、ほれ込んだ障がいのある人たちと一緒に働く場「ぷかぷか」をその 4 月からオープンさせた。パン屋とカフェ、弁当・総菜のお店、アートスタジオと次々に拡大し、 2 年前にはカフェをぷかぷかさん と一緒にお昼を食べる食堂へと大胆に形態を変えている。パン教室、料理教室やいろいろなワークショップを開催し、地域の人たちとの交流の機会を増やし、地道に街を耕し続け、「ぷかぷかさんと一緒に生きていった方がいいね」と自然に感じられるような関係を作り出していく中で、偏見という大きな壁はいつの間にか消えているのだ。
「見てきたような嘘をつき」となってはいけないので、報告はこの辺までで終わりとしたい。障がいが地域を耕し、豊かにするという高崎さんの実践から八障連としても学べるところが多かったように思った。フォーラムを続 けるのは矢張り大切だなと感じた次第。以下は、フォーラムに参加し、点火された私の妄想録である。
「福祉労働」という言葉に初めて出会ったのは、『福祉労働』という雑誌の題名からだった。喉に魚の骨が引っかかるような感じがした。昭和 20 30 年代のご飯にはしばしば粒石が混じっていた。美味しい白米を食べている最中に味わったあの複雑な食感にも似ていた。
次に出会った「家事労働」という言葉。「家事」という言葉は、そもそも家庭生活を維持するのに欠かせない働きを指し、仕事と位置付けているが、それに「労働」をわざわざ付け加 えている。「家事労働」という概念 はマルクスが使い出したようだが、資本主義社会だけの問題ではない。 女性たちを 家庭内に縛り付ける「奴隷状態」から救い出す大きな役割は 果たした。
僅か半世紀ばかり前までの日本社会において、家業や家事の一部を子供たちは手伝わざるを得なかったのであり、「子供の仕事」とされた。地球全体を見まわすと、子供たちが「賃労働」をして稼がないと食べていけないという悲惨な状況に置かれている社会も未だにある。
「賃労働」とは言っても、「賃仕事」とはあまり言わない。仕事にはお駄賃が付くこともある。「仕事人」とは言っても、「労働人」とは言わない。労働「者」と言われるが、会「社」と対比しているのだろうか?「必殺仕事人」とは言っても、「必殺労働者」ってどこか変。
「労働」とは労力を時間単位で切り売りするものだが、「仕事」は切り売りできないもの。レジェンドや名人と言われるようになった人たちを「労働者」とは呼ばず、「仕事人」と言う。もしくは「仕事師」と言う。「仕事」には概ね自由裁量が認められるが、「労働」には認められないことが多い。「労働」というとチャップリンを思い出す。「労働者」は誰でも交代がきくが、「仕事人」 はその人にしかできないことをする。
万物はすべからく動いている。動きを止めると死ぬか、消滅する。だから動くこと、活動すること、働くことは自然であり、課された命題でもある。太陽は核融合を繰り返し、すべての星にエネルギーを与え、地球は自転しながら太陽の周りを廻っている。地球自身も地盤を形成するマントルが常に動き、その時の化学変化によりマグマが生成され、火を放つ。
恐らく人 間 以外の万物は苦も無く活動を続けており、「苦しきことのみ多かりき」と嘆くのは人 間 だけなのだろう。古代の人たちは現代の人たちのように生きる苦 しみを感じていたのだろうか?マルクスは「労働の疎外」を資本主義に起因するとしたが、社会主義体制でも事態は同じだ。
疎外された労働に喜びを見出すことは難しい。労力を切り売りしているのだから、できるだけ消耗しないようにコストパフォーマンスを考えるのは自然である。何がしかの生産過程の一部に歯車として組み入れられた労働者が、自分が何を生み出したのかを知ることすら難しい状況に置かれ、労働の成果を味わうこともたやすくない。労力が生み出したものを評価するのは買う側
にあり、一方的に断罪されることもある。働く喜びは給与と地 位に換算されて、労働者にもたらされるだけである。
福祉という分野は、近代までは家族、共同体の中で全員が何らかの役割を持ち、助け合いの精神で補われてきた。家族の仕事であり、共同体の仕事でもあった。村落共同体の崩壊とともに、福祉は仕事から労働へと変質を余儀なくされた。疎外された労働に喜びはなく、楽しさもない。
今や、福祉はサービスと言われるようになった。だが、サービスは楽しみも喜びもない労働に支えられている。なのに、いや、だからこそ「サービスの向上」と口やかましい位に喧伝されるのだろうか。おためごかしの嘘くさいサービスには身が縮む想いがする。いっそのこと、介護ロボットを相手にしていた方がまだ気が休まる。
疎外された労働をどう仕事へと転化させられるのか。

【連載コラム Vol. 5 4 『 祖母と電動車いす 』 八障連代表 杉浦 貢】
東大和の私の実家には、96 歳の祖母が、母と一緒に住んでいます。
ばあちゃんはこれまでの人生で『電動車いす』というものに接したことがなく、私の愛車のことを『バイク』と呼んだりします。ばあちゃんにとって、『車いす』というのは、あくまでも人の手で押したり自分で漕いだりするものであり…電動で走るものがあるなんて、考えたこともないようです。
私も…《死んだじいちゃんが使ってた車いすがあったでしょ。アレを電気で動くようにしただけだから、これ愛車 も車いすなんだよ》と言うのですが…どうにも腑に落ちていないようです。ボタンとレバーで動かしてるんだよ。というのを目の前で見せても…
あまり理解した様子は見られません。実家に戻るたびに、ばあちゃんが「貢の乗ってるアレは、なんて言う機械なのかねえ?バイクかねえ」と、同じことを聞いてくるので…私も同じように説明してみるのですが…やはり分からないようです。何も、ばあちゃんにきちんと覚えてもらおうとは思いません。ずっと同じことを聞かれても、別にうんざりしたりはしません。一世紀近い昔に生まれたばあちゃんには、機械のこと や技術のこと、バリアフリーやユニバーサルのことは、まあ理解するのはむずかしいでしょう。
それでいいんだと思います。盆暮れ正月などに実家に戻ると…部屋にずっと篭もりきり、というのも退屈なので、懐かしい地元をちょっと走り回ってみたりするのですが。
そのたびに『貢はいつもアレに乗って、どこに行くんかねえ』…と心配してくれるそうです。『ただの散歩だよ』と母がフォローしても 、 『 1 人で平気なんかねえ…』 。 今年の正月にも、『あのデッカイの 電動車いすとは絶対言わない を、良く上手に動かせるねえ…』と褒められました。 「 もう 20 年以上も乗っているから、いい加減もう、自分の身体と同じだよ 」 と説明するのですが…ばあちゃんは『ほえー』と驚くばかり。『世の中は、便利になったんねえ…』。 ここ…実家に来るにも、 『 「 電動車いすに乗ったまま、電車(京王線)と(多摩都市)モノレールで八王子から東大和まで来たんだよ 』 と言っても、どうしても想像が追いつかないようです。もう少し元気でばあちゃんが群馬に住んでいた頃は…親が私に付き添って、実家の車で移動することを考慮して、必ず手動の車いすに乗るようにしていましたし、電動車いすに乗る私の姿の方が、ばあちゃんにとっては珍しいのです。
多分今後も『アレはバイクかねえ。車かねえ』と聞かれることはあるでしょうが…《車いすだよ。ただの車いす》と答えるだけです。しかし、今後これから歳を取って老いていく世代の人たちにとっては… より便利な機械やテクノロジーが、もっともっと、より身近で当たり前 。という世の中になっていて欲しいものです。


【連載コラム B型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 5 1】
びに、仕事に、ボランティア活動にと動き回っていたが、いつも体調が良かった訳ではない。毎日の生活は朝起きてみないとどう動けるか分からなかった。目が覚めて起きようとしても、体のだるさが尋常ではなく、そのまま再び寝込んでしまったり、朝ご飯を食べている途中で食べるのをやめてその場で横になったまま過ごすなんてこともあった。
自分で事業を起こした通所施設には電話一本入れておけば、ゆっくり休んで回復してから出勤するという事が可能だが、事業委託を受けている仕事(大学の学生相談、企業の精神衛生相談、専門学校での講義など)については無理をしても出向かなければならないことがある。ラッシュアワーの時間帯に電車に乗らなければならない都心での仕事では大変な思いを何度もしている。吊革に冷や汗を流しながらぶら下がり、床に座り込みそうになるのをすんでのところで堪えたということも度々。 座席を変わって貰えないかと言葉が迸(ほとばし)り出そうになったことも数度。
いつ頃からか赤いハートの形をした「ヘルプマーク」が出回るようになったが、今の私には殆ど必要はなくなっている。この存在を知った時、あの頃これがあったら随分助けられただろうなぁとほぞを噛む想いを抱いた。電車を利用する場合に、疲れ切っている時や本を読みたいと考えている時は座席を探すが、未だに基本的には立つことにしている。
3年程前仕事仲間で乳癌になった女性がいて、気休めになるかと思い私の闘病体験を話して聞かせた。のちほど勇気を貰ったとお礼を言われ、自分の為に「ヘルプマーク」を手に入れたついでに私の分も貰って来たと言ってプレゼントして下さった。それには自分の通院先などの情報を記載して同時に携帯するカードも付いていたので、それ以来外出の際には愛用している。
都心まで定期的に出掛ける仕事はもうなくなっていたが、不定期に年間 30 40 日位は都心で仕事をすることがある。「ヘルプマーク」をリュックに付けていると、 2 度も席を譲られた。好意を踏みにじらないように、お礼を言って座ったが、どちらも中高年の男性だった。しかし、意外と見て見ぬ振りの人の多さも気に掛かっている。
一見して分かる病気や障害は他人からの理解が得やすいが、人には見えにくい、分かりづらい病気は周りから具合の悪さを分かってもらえず、辛い思いをする。肝臓病はそういった病気のひとつだが、精神病や難病など周りの理解 が得られず四苦八苦している人たちが数知れずいる。病気そのものの苦しさの上に周りの無理解から来る侮蔑・苦痛・ストレスが病気に悪影響を及ぼすという負のスパイラルを起こしていることも多い。
治療はうまく行っている筈なのに、なかなか病状が良くならない背景にそういった環境的なマイナスの負荷がかかっていたりする事になかなか医療従事者が気付けないことがある。医学モデルだけでなく、社会モデルが必要とされる所以だ。私が一時勤めていた心療内科時代に経験した透析患者さんとの出会いは、そういった気付きを私にもたらしてくれた。治療 的にはうまく行っている筈なのに、ヘマトクリットがなかなか上がって来ず、精神的に何かあるのではないかと感じた主治医が私に面接の依頼をしてきた。
アメリカに数年の留学経験がある頑張り屋のお嬢さんで、私より少し年上の美しい人だった。日本へ帰って来て、暫く翻訳の仕事をしながら家庭教師もしていた。体調が悪い事は自覚していたのに、教え子の受験を控え頑張り過ぎて倒れてしまった。その時何故これほどになるまで受診しなかったのかと医師に怒られたそうだ。即刻透析を開始しないと危ない状況だった。そんなこんなを毎週 1 時間足らず、話 をしている内に数値が上がってきたのだ。
精神科だけでなく、全ての科でパラメディカルスタッフが関われる体制ができれば、病者のクオリティオブライフを上げることにつながり、ひいては医療費の削減をももたらせられると考えるのだが。 (次号に続く)


通信本文はここまで。





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