八障連通信376号をアップします。
八障連通信【音声版】はこちらから
これより通信本文です。
【事務局通信 Vol.78】
去る 10 月 13 日(水)に行われました「第 53 回東京都盲人福祉大会 八王子大
会」に八障連代表代理として出席してきました。昨年はコロナ禍で、規模を縮小しての開催でしたが、今年は緊急事態宣言も解除され、感染防止対策を万全に、通常どおりに開催することができました。大会は「第1部 式典」「第2部 議事」「第3部 芸能コンクール」「第4部 アトラクション」に分かれて行われました。第2部の議事では、視覚障害者の生活を守ること、また共生社会の実現に向けた意思を表明する宣言案、決議案が朗読され、賛成多数により、原案のまま決定されました。内容としては、視覚障害者の職業的自立に重要となる「あん摩師等法十九条」を守ること、またコロナ禍で廃業または解雇の危機にある、あはき業従事者の生活保障を求めること、移動の安全を確保するための駅ホームへのホームドア設置の推進、情報バリアフリー化の推進などが含まれています。社会環境が変化する中で、視覚障害者の生活にも影響が出ています。一人ひとりの声は小さいかもしれませんが、このような大会を通じて、多くの意見を集約し、生活しやすい社会の実現に向けて、今後も活動していきたいと感じました。(文責:田中秩加香)
会」に八障連代表代理として出席してきました。昨年はコロナ禍で、規模を縮小しての開催でしたが、今年は緊急事態宣言も解除され、感染防止対策を万全に、通常どおりに開催することができました。大会は「第1部 式典」「第2部 議事」「第3部 芸能コンクール」「第4部 アトラクション」に分かれて行われました。第2部の議事では、視覚障害者の生活を守ること、また共生社会の実現に向けた意思を表明する宣言案、決議案が朗読され、賛成多数により、原案のまま決定されました。内容としては、視覚障害者の職業的自立に重要となる「あん摩師等法十九条」を守ること、またコロナ禍で廃業または解雇の危機にある、あはき業従事者の生活保障を求めること、移動の安全を確保するための駅ホームへのホームドア設置の推進、情報バリアフリー化の推進などが含まれています。社会環境が変化する中で、視覚障害者の生活にも影響が出ています。一人ひとりの声は小さいかもしれませんが、このような大会を通じて、多くの意見を集約し、生活しやすい社会の実現に向けて、今後も活動していきたいと感じました。(文責:田中秩加香)
【福祉課との懇談会報告】
八障連でも先日(10/28)に八王子市障害福祉他の方と八障連の会員様数名と事務局、リモート参加の会員の方で福祉課との懇談会を開催いたしました。やっとの思いでパソコン・スマホなどの通信会議に慣れてきたところでしたが、実際の出席者と通信機器を駆使してのリモート併用の会議は初めての経験で、参加者全員の顔が見えない分、進行に緊張してしまいました。でも、このような形が今後はスタンダードになっていくのかと思われます。現地に行かずして会議に参加できる。貴重な意見を拾えると思うと活用しない手はないと感じました。さて懇談会は、レジメに沿って行いました。ご意見をお寄せいただいた NPO 法人まゆだま代表の細野様、工房みどりの風の小林様の実際の声を届けさせてもらいました。ご協力有難うございました。懇談会の内容は1運営安定化事業について、重度障害者受け入れ促進事業について 2働く職員の不足 3利用者の家族の高齢化に伴う様々な支援 4移動支援(使用年齢引き下げについて)について提起させていただきました。内容は議事録にて確認をしていただくこととしますが、どこかで誰かが対応して決まっていくだろうと他力本願にできることではないと思います。制度や整備が「終わってしまった」、「決まってしまった」からでは遅いのです。どうか広い視野で今どのような問題が起きているのか、起きようとしているのか皆さんの目で見て、意見を出し合い、より良いサービスの構築をしていきたいと思います。
福祉事業所に通っているから低い工賃でいいなんていうことはありません。福祉職だから高い給与を希望することは良くないということはありません。工賃を上げるためにはそれに見合う単価のものを開拓し、意識を持てる環境を作っていく必要があると思います。そのためにはやはりサポートできるだけの人員が必要になります。でもこれらのことは一事業所では解決できま
せん。福祉事業所がそれぞれの役割を理解し連携していけるようにしなければならないと思います。まずはその一歩として、八障連の活動に参加をし、障害種別などの垣根を超え各事業所の現状を知ってみませんか? 皆様のご参加、心よりお待ちしております。(文責/立川)
福祉事業所に通っているから低い工賃でいいなんていうことはありません。福祉職だから高い給与を希望することは良くないということはありません。工賃を上げるためにはそれに見合う単価のものを開拓し、意識を持てる環境を作っていく必要があると思います。そのためにはやはりサポートできるだけの人員が必要になります。でもこれらのことは一事業所では解決できま
せん。福祉事業所がそれぞれの役割を理解し連携していけるようにしなければならないと思います。まずはその一歩として、八障連の活動に参加をし、障害種別などの垣根を超え各事業所の現状を知ってみませんか? 皆様のご参加、心よりお待ちしております。(文責/立川)
【編集部より】
通信 376 号をお届けいたします。今号は、杉浦代表の連載コラム 2 本と小濱さんの闘病記(その 58)となりました。コロナ・コロナでせわしなかった 2021 年ですが、一応落ち着きを取り戻しつつあるようにみえる今日この頃の秋
の夜長のひと時を、本誌連載コラムで展開される「杉浦ワールド」にしばし浸ってみてはいかがでしょうか。会員各団体からのご意見、近況レポートなどをお待ちしております。(編集部)
の夜長のひと時を、本誌連載コラムで展開される「杉浦ワールド」にしばし浸ってみてはいかがでしょうか。会員各団体からのご意見、近況レポートなどをお待ちしております。(編集部)
【連載コラム Vol.61 『感謝の言葉が出てこないとき』 八障連代表 杉浦 貢】
在宅で自室に控えている時も、外出時に動き回っている時も...、自分の力で
出来ることが限られている私ですので...、在宅支援に入ってくれる支援者
(ヘルパー、ボランティアどちらも)や、外出時に同行してくれる支援者(やは
りヘルパー、ボランティアのどちらも)には、常に感謝の気持ちを持ち、それを忘れぬように心がけています。
もちろん、思っているだけ、考えるだけでは相手に伝わりませんから...、心の中に湧き出た感謝を、きちんと言葉にしていくことも、怠らぬように気をつけています。とはいえ、支援を受けている最中には『時間内に何をしてもらうか』、『どんな風に指示を出そうか』ということに考えが集中するため、なかなか...『ありがとうございます』のひと声が出てこないこともあります。
指示を出したことが一つ片付けば、また次の指示を...。一日の中で支援者の人たちについてもらえる時間も、決して無限というわけでは有り得ませんから...。
自分のそばに人が付いてくれるうちに、支援の時間が切れる前に、支援者に任せられることは、なるべく任せてしまいたい。ついそんなふうに考えて、感謝の言葉が出せなくなってしまうのも、もしかしたら福祉サービス利用者としての性なのかもしれません。そんな時は、『先払い』『まとめ払い』で感謝をするようにしています。
支援に入る前『よろしくお願いいします』と挨拶する支援者さんに向かって私も、『こちらこそ、よろしくお願いします』と応じる。たったこれだけ...当たり前じゃないかと思われるかも知れませんが...たったこれだけのことで、相手の顔が綻びます。
利用者である私としては、支援の開始から終了まで、何をどんな風にやってもらおうか...段取りを組み立てること、段取りを先に進めることに頭がいっぱいになりますが、なるべくならば、支援に入ってもらう方にも、明るい気分でいて欲しい。そのためには、私の側からの言葉かけも大切だと感じています。一通りの支援を終えた後にも『ありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします』と、ひと声かけます。
当たり前といえば当たり前ですが、相手への感謝を言わずに済ます例は、利用者、支援者問わず結構多いのです。時には『言ったつもり』で声に出ていない。言葉になっていないこともあります。
支援者に指示を出す私の姿を見て『感謝なんかしていないじゃないか!』と怒ってくる人もいます。次に何をしてもらおうか、次の指示をどう出すか、ということに意識が向くと、細かいことに気が回らなくなることもあります。そうした場合にも『今日は余裕がなくて忙しいから、丁寧なやり取りは出来ないかもしれない。失礼があれば後で謝るから、その場では許して欲しい』と、事前に伝えてあったりします。
もちろん終わった後も『今日は厳しい内容をこなしてくれてありがとう』とひと声かけて別れます。そうしたやり取りは、場面の一部を切り取って見ている人には分かりませんから、仕方ないことだと思います。私も言葉が足らなったり、言葉が荒かったリしますから、見ている人が、つい何かを言いたくなるのも分かります。
これは、私も最大限に気をつけていることですが...先のことに気を取られ、つい余裕のない対応をしてしまった私の様子が、通りすがりの第三者から『利用者(障害者)からの、支援者(健常者)への虐待』として見られてしまったこともあります。
言葉が荒かったのも事実、指示が雑だったのも事実、何より、心のゆとりが私の中に無かったのも事実でありましょうから。
お叱りもご批判も真摯に受け入れますが...、私を批判した人たちが、ドヤ顔というのか、何かしら勝ち誇った顔をして去っていくのも、何かが違うと思うのです。
感謝の気持ちというものは、自分の心から湧き出るもので、他人様から出せと言われて出すものではない。と思います。
『支援者に感謝しろ』というのなら、それを言うご自身は、共にいる家族、恋人、友人、知人に、日々感謝をきちんと伝えているんだろうか?そんな疑問も頭をよぎります。
私と支援者のやり取りが、見ているどなたかを不快にさせることがあったとしたなら、それはもちろん謝罪します。
私の指示を受けた支援者は、可能な限り私に応えようとしてくれているだけですから、見ている人を不快にさせた責任も、利用者の私が責任を負うものだと思います。しかし、支援者と私の関係性、やり取りの経緯や因果関係を確認せずに...『障害者は態度が悪い』『感謝が足りてない』と言う言葉で断定されてしまうのも、困った所ではあります。
『感謝しろ。感謝しろ』 名付けるなら、感謝警察...とでも言いましょうか?ろくに事実を確認もせずに他人の落ち度を探して回り、上から目線で悦に浸る。そういう人が最近増えた気がします。コロナ禍による自粛で、みんなイライラが溜まっているんだろうなあ。
出来ることが限られている私ですので...、在宅支援に入ってくれる支援者
(ヘルパー、ボランティアどちらも)や、外出時に同行してくれる支援者(やは
りヘルパー、ボランティアのどちらも)には、常に感謝の気持ちを持ち、それを忘れぬように心がけています。
もちろん、思っているだけ、考えるだけでは相手に伝わりませんから...、心の中に湧き出た感謝を、きちんと言葉にしていくことも、怠らぬように気をつけています。とはいえ、支援を受けている最中には『時間内に何をしてもらうか』、『どんな風に指示を出そうか』ということに考えが集中するため、なかなか...『ありがとうございます』のひと声が出てこないこともあります。
指示を出したことが一つ片付けば、また次の指示を...。一日の中で支援者の人たちについてもらえる時間も、決して無限というわけでは有り得ませんから...。
自分のそばに人が付いてくれるうちに、支援の時間が切れる前に、支援者に任せられることは、なるべく任せてしまいたい。ついそんなふうに考えて、感謝の言葉が出せなくなってしまうのも、もしかしたら福祉サービス利用者としての性なのかもしれません。そんな時は、『先払い』『まとめ払い』で感謝をするようにしています。
支援に入る前『よろしくお願いいします』と挨拶する支援者さんに向かって私も、『こちらこそ、よろしくお願いします』と応じる。たったこれだけ...当たり前じゃないかと思われるかも知れませんが...たったこれだけのことで、相手の顔が綻びます。
利用者である私としては、支援の開始から終了まで、何をどんな風にやってもらおうか...段取りを組み立てること、段取りを先に進めることに頭がいっぱいになりますが、なるべくならば、支援に入ってもらう方にも、明るい気分でいて欲しい。そのためには、私の側からの言葉かけも大切だと感じています。一通りの支援を終えた後にも『ありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします』と、ひと声かけます。
当たり前といえば当たり前ですが、相手への感謝を言わずに済ます例は、利用者、支援者問わず結構多いのです。時には『言ったつもり』で声に出ていない。言葉になっていないこともあります。
支援者に指示を出す私の姿を見て『感謝なんかしていないじゃないか!』と怒ってくる人もいます。次に何をしてもらおうか、次の指示をどう出すか、ということに意識が向くと、細かいことに気が回らなくなることもあります。そうした場合にも『今日は余裕がなくて忙しいから、丁寧なやり取りは出来ないかもしれない。失礼があれば後で謝るから、その場では許して欲しい』と、事前に伝えてあったりします。
もちろん終わった後も『今日は厳しい内容をこなしてくれてありがとう』とひと声かけて別れます。そうしたやり取りは、場面の一部を切り取って見ている人には分かりませんから、仕方ないことだと思います。私も言葉が足らなったり、言葉が荒かったリしますから、見ている人が、つい何かを言いたくなるのも分かります。
これは、私も最大限に気をつけていることですが...先のことに気を取られ、つい余裕のない対応をしてしまった私の様子が、通りすがりの第三者から『利用者(障害者)からの、支援者(健常者)への虐待』として見られてしまったこともあります。
言葉が荒かったのも事実、指示が雑だったのも事実、何より、心のゆとりが私の中に無かったのも事実でありましょうから。
お叱りもご批判も真摯に受け入れますが...、私を批判した人たちが、ドヤ顔というのか、何かしら勝ち誇った顔をして去っていくのも、何かが違うと思うのです。
感謝の気持ちというものは、自分の心から湧き出るもので、他人様から出せと言われて出すものではない。と思います。
『支援者に感謝しろ』というのなら、それを言うご自身は、共にいる家族、恋人、友人、知人に、日々感謝をきちんと伝えているんだろうか?そんな疑問も頭をよぎります。
私と支援者のやり取りが、見ているどなたかを不快にさせることがあったとしたなら、それはもちろん謝罪します。
私の指示を受けた支援者は、可能な限り私に応えようとしてくれているだけですから、見ている人を不快にさせた責任も、利用者の私が責任を負うものだと思います。しかし、支援者と私の関係性、やり取りの経緯や因果関係を確認せずに...『障害者は態度が悪い』『感謝が足りてない』と言う言葉で断定されてしまうのも、困った所ではあります。
『感謝しろ。感謝しろ』 名付けるなら、感謝警察...とでも言いましょうか?ろくに事実を確認もせずに他人の落ち度を探して回り、上から目線で悦に浸る。そういう人が最近増えた気がします。コロナ禍による自粛で、みんなイライラが溜まっているんだろうなあ。
【連載コラム Vol.62 『再びかの国へ』 八障連代表 杉浦 貢】
私は、...実は 24 時間テレビに出たことがあります。番組の企画で海外にも行ったんですよ...というお話はもうずいぶん前の八障害連通信の連載記事でもお話ししたことがあります。
子どもの頃...リハビリのために通っていた東京小児療育病院の、当時の院長先生のご推薦によるものでした。
ここから先のお話は『子ども親善大使』とかいう肩書きを与えられ、フィンランドに行った時の、当時 10 歳の私の記憶です。
法律だとか制度だとか...かの国の社会の仕組みがどうなっているかは、よく分かりませんが...今あのときをふりかえって、かつての様子を現在の日本と比較しても、かなり突飛だったと感じます。また、37 年も前のことですから、フィンランドの社会も、この頃からは随分と変化していることと思いますし、この場で日本が悪い、フィンランド最高...という薄っぺらな善悪の二元論を語
りたいわけでもありません。以下は、あくまでも子どもの頃の過去の記憶を頼りに、よその国の文化に触れた者の記録...としてお読みください。
テレビ用の映像を作るため、現地の病院、福祉施設、早朝の市場、教会など、滞在期間の一週間の間は、毎朝朝 5 時に叩き起され、夜の 23 時まで、みっちり 5 分刻みのスケジュールが組まれて、色んな場所を回りました。子どもの私には、かなりきついスケジュールでした。目まぐるしいロケの合間に、周りの大人の人たちの様子を見てみると...だいたい朝 8 時 30 分~9
時くらいに始業。11 時くらいに、いったん軽食を食べて、12 時~13 時くらいにガッツリ昼食。しばらく働いたら、15 時にはもう終業、退社。17 時~18 時くらいには、もうだいたい帰宅しているという働き方でした。私がフィンランドに滞在したのは、7 月...日本の学校が夏休みに入ってすぐの、暖かい時期でしたが...『寒い国だから、あまり長い時間は外で働けない。早く家に帰って、夜は家族とゆっくり過ごすのが、この国(フィンランド)の普通なんだよ』と子どもの私に説明してくれました。
「働く時間が短くて、仕事が終わらなかったらどうするの?」と、私が尋ねると、『働ける時間が短いことが分かっているから、みんなものすごく集中しているよ。でも集中するとたくさんお腹が減るから、途中でおやつを食べるんだ』という説明...。私が学校に行くよりも早い時間に会社に向かい、私が眠る頃に帰宅した自分の父親と比較して...なんて怠けた人たちだ...と、当時はそ
の答えを...笑って聞いていたものですが...。その後、日本の経済成長はウナギ登りとなり、一時は世界一の金持ちと言われる国になりますが、子どもだった私には、たとえ景気が良くなったと言っても...それを世界一だと他国に誇れる程には、身の回りの生活が変わったという印象がありませんでした。
仕事の虫のようにがむしゃらに働いた私の父も、長年の働き過ぎと私生活の不摂生が元で、還暦前に亡くなりました。バブルがはじけて年月が流れ...近頃は『もうかつてのように爆発的な経済成長は見込めないだろう』というようなことも聞こえてきます。結局は...『働き方』というものは『働く人たち』一人ひとりの...自分の意志と選択と、決定で決まるものであり...『誰かに言わ
れて働かされる』のではなく『自らが主役』として『自分で働く』ということ、単なる労働時間の長さや、単なる労働の量ではなく『仕事の質の善し悪し』によって評価された方が良いのかな。なんてことを、ぼんやりと考えました。
全てはコロナ禍が収まってから...ということになるかと思いますが...緊急事態
宣言が解除され、海外への渡航が再び解禁になったならば...我が幼少の思い
出の地であり、個人的に第 2 のふるさと...とも思い定めている...、北欧の森と湖の国、フィンランドへ、もう一度行きたいと思っています。10 歳の頃、24 時間テレビの企画で選ばれて以来ずっと...『こんな素晴らしい国はない。こんなに素晴らしい人たちもいない』と思い続けてきました。テレビ局の言いなりに動き、テレビ局のお人形さんとして動いた日々は...もちろん大変でしたけれど、それにも増して、目に映る様々もの...、美しい自然。景観を大切にしたオシャレな街並み。道行くきれいなお姉さん。どれもがみんな、素晴らしい思い出として記憶に残っています。
あちらの名物だというトナカイのステーキ...は、くせが強くて子どもの頃にはあんまり美味しく感じなかったけれど...サケ、ニジマスなどのいわゆるトラウト、サーモンなどと呼ばれるお魚の味は、もう絶品でありました。
子どもの頃...リハビリのために通っていた東京小児療育病院の、当時の院長先生のご推薦によるものでした。
ここから先のお話は『子ども親善大使』とかいう肩書きを与えられ、フィンランドに行った時の、当時 10 歳の私の記憶です。
法律だとか制度だとか...かの国の社会の仕組みがどうなっているかは、よく分かりませんが...今あのときをふりかえって、かつての様子を現在の日本と比較しても、かなり突飛だったと感じます。また、37 年も前のことですから、フィンランドの社会も、この頃からは随分と変化していることと思いますし、この場で日本が悪い、フィンランド最高...という薄っぺらな善悪の二元論を語
りたいわけでもありません。以下は、あくまでも子どもの頃の過去の記憶を頼りに、よその国の文化に触れた者の記録...としてお読みください。
テレビ用の映像を作るため、現地の病院、福祉施設、早朝の市場、教会など、滞在期間の一週間の間は、毎朝朝 5 時に叩き起され、夜の 23 時まで、みっちり 5 分刻みのスケジュールが組まれて、色んな場所を回りました。子どもの私には、かなりきついスケジュールでした。目まぐるしいロケの合間に、周りの大人の人たちの様子を見てみると...だいたい朝 8 時 30 分~9
時くらいに始業。11 時くらいに、いったん軽食を食べて、12 時~13 時くらいにガッツリ昼食。しばらく働いたら、15 時にはもう終業、退社。17 時~18 時くらいには、もうだいたい帰宅しているという働き方でした。私がフィンランドに滞在したのは、7 月...日本の学校が夏休みに入ってすぐの、暖かい時期でしたが...『寒い国だから、あまり長い時間は外で働けない。早く家に帰って、夜は家族とゆっくり過ごすのが、この国(フィンランド)の普通なんだよ』と子どもの私に説明してくれました。
「働く時間が短くて、仕事が終わらなかったらどうするの?」と、私が尋ねると、『働ける時間が短いことが分かっているから、みんなものすごく集中しているよ。でも集中するとたくさんお腹が減るから、途中でおやつを食べるんだ』という説明...。私が学校に行くよりも早い時間に会社に向かい、私が眠る頃に帰宅した自分の父親と比較して...なんて怠けた人たちだ...と、当時はそ
の答えを...笑って聞いていたものですが...。その後、日本の経済成長はウナギ登りとなり、一時は世界一の金持ちと言われる国になりますが、子どもだった私には、たとえ景気が良くなったと言っても...それを世界一だと他国に誇れる程には、身の回りの生活が変わったという印象がありませんでした。
仕事の虫のようにがむしゃらに働いた私の父も、長年の働き過ぎと私生活の不摂生が元で、還暦前に亡くなりました。バブルがはじけて年月が流れ...近頃は『もうかつてのように爆発的な経済成長は見込めないだろう』というようなことも聞こえてきます。結局は...『働き方』というものは『働く人たち』一人ひとりの...自分の意志と選択と、決定で決まるものであり...『誰かに言わ
れて働かされる』のではなく『自らが主役』として『自分で働く』ということ、単なる労働時間の長さや、単なる労働の量ではなく『仕事の質の善し悪し』によって評価された方が良いのかな。なんてことを、ぼんやりと考えました。
全てはコロナ禍が収まってから...ということになるかと思いますが...緊急事態
宣言が解除され、海外への渡航が再び解禁になったならば...我が幼少の思い
出の地であり、個人的に第 2 のふるさと...とも思い定めている...、北欧の森と湖の国、フィンランドへ、もう一度行きたいと思っています。10 歳の頃、24 時間テレビの企画で選ばれて以来ずっと...『こんな素晴らしい国はない。こんなに素晴らしい人たちもいない』と思い続けてきました。テレビ局の言いなりに動き、テレビ局のお人形さんとして動いた日々は...もちろん大変でしたけれど、それにも増して、目に映る様々もの...、美しい自然。景観を大切にしたオシャレな街並み。道行くきれいなお姉さん。どれもがみんな、素晴らしい思い出として記憶に残っています。
あちらの名物だというトナカイのステーキ...は、くせが強くて子どもの頃にはあんまり美味しく感じなかったけれど...サケ、ニジマスなどのいわゆるトラウト、サーモンなどと呼ばれるお魚の味は、もう絶品でありました。
今では、回転寿司などでもサーモンが出されることは日本でも当たり前になりましたけど、10 歳の子どもの、いわゆる思い出補正という味付けがあったにせよ、サーモンの味に関しては、あの時にあの場所で食べたもののほうが
100 倍も美味でありました。あれからもう 37 年。思い出の国がどう変わったかも見ておきたいし、年齢を重ねて、不自由な身体が今よりさらに動かなくなる前に、旅行が出来る体力がまだ我が身に残されているうちに...もう一度、かの国を訪れておきたいと思いました。何より、私を暖かく迎え入れて下さり、現地で色々お世話になった人たちと交わした...『大人になったら、またこの国に来ます』という約束を、本当のものにするために。(了)
100 倍も美味でありました。あれからもう 37 年。思い出の国がどう変わったかも見ておきたいし、年齢を重ねて、不自由な身体が今よりさらに動かなくなる前に、旅行が出来る体力がまだ我が身に残されているうちに...もう一度、かの国を訪れておきたいと思いました。何より、私を暖かく迎え入れて下さり、現地で色々お世話になった人たちと交わした...『大人になったら、またこの国に来ます』という約束を、本当のものにするために。(了)
【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 58】
浮き沈みしながらも全体的に少しずつ回復への道を歩んでいるかなと感じていたそのさなかのこと、11 月 20 日は朝からどんよりと曇り、霧雨が降り始めていた。普段は原チャリか自転車を使うのだが、外の様子を伺った後、家人の車のキーを持ち出し、車に乗り込んだ。夏の釣りと冬のスキー以外は週 1 日だけ大学(上野原市)へ行く時にしか乗らない生活になっていた上、駐車場代もバカにならないので、自分の車を 9 月に処分してしまっていた。
天候も鬱陶しい感じだったが、私自身も頭がボーッとして体調も優れなかった。普段なら仕事は休みにして、布団にもう一度潜り込むところなのだが、その日は月曜日で日本臨床心理学会の事務局開設日だったことと年 1 回の大会の準備に追われていたので、無理に出掛けようとした。
家人はまだ寝ていたので、後で電話して車を借りたと伝えれば良いと考え、車に乗り込んだ。急発進したと思ったら、路地向かいの家のブロック塀に突っ込んだ。慌ててギアーをバックに入れたところ、今度は後ろ向きに急発進した。急ブレーキをかけたが、車庫の奥に置いてあった真新しい子供の自転車を壊してやっと止まった。何が起きたのか分からず、ただ呆然とするばかりだった。それと共に朝ご飯を食べながら、今日は事務局をお休みにさせてもらおうかと葛藤していたのに、何故そうしなかったのかと後悔の念がふつふつと湧いてきた。無理しなきゃ良かったとひどく落ち込んだまま、しばらく身動きができなかった。
天候も鬱陶しい感じだったが、私自身も頭がボーッとして体調も優れなかった。普段なら仕事は休みにして、布団にもう一度潜り込むところなのだが、その日は月曜日で日本臨床心理学会の事務局開設日だったことと年 1 回の大会の準備に追われていたので、無理に出掛けようとした。
家人はまだ寝ていたので、後で電話して車を借りたと伝えれば良いと考え、車に乗り込んだ。急発進したと思ったら、路地向かいの家のブロック塀に突っ込んだ。慌ててギアーをバックに入れたところ、今度は後ろ向きに急発進した。急ブレーキをかけたが、車庫の奥に置いてあった真新しい子供の自転車を壊してやっと止まった。何が起きたのか分からず、ただ呆然とするばかりだった。それと共に朝ご飯を食べながら、今日は事務局をお休みにさせてもらおうかと葛藤していたのに、何故そうしなかったのかと後悔の念がふつふつと湧いてきた。無理しなきゃ良かったとひどく落ち込んだまま、しばらく身動きができなかった。
我が家は狭い袋小路の突き当り近くにあり、家の前を通るのは奥にある 4 軒の住人と郵便・宅急便の配達の人くらいで、奥の家の子供たちは登校した後だし、周りに人は誰もいなかった。大音響がしたので、誰かが飛び出してくるかと思ったが、あたりはシーンと静まり返ったままだった。衝突音は霧
雨に飲み込まれてそれ程響かなかったようである。向かいのブロック塀は、お隣との境界線になっており、我が家に対しては端が縦に突っ立っている構造だったので、全く無傷だった。ブロック塀がなかったら、向かいの北隣の家は路地を挟んで我が家より一段低い所に立っているので、その家の中へ飛び込んでいただろうと思うとぞっとした。また、路地沿いにブロック塀が横
向きに立っていたら、ブロック塀をなぎ倒して、向かいの家の一部を破壊していたことだろう。
雨に飲み込まれてそれ程響かなかったようである。向かいのブロック塀は、お隣との境界線になっており、我が家に対しては端が縦に突っ立っている構造だったので、全く無傷だった。ブロック塀がなかったら、向かいの北隣の家は路地を挟んで我が家より一段低い所に立っているので、その家の中へ飛び込んでいただろうと思うとぞっとした。また、路地沿いにブロック塀が横
向きに立っていたら、ブロック塀をなぎ倒して、向かいの家の一部を破壊していたことだろう。
おろおろしながら、ブロック塀まわりに落ちていた車の破片を拾い集めた。車はフロントにブロック塀が突き刺さった形になったので、真ん中が大きくえぐれ、バンパーは少し反り返り、ボンネットはぶつかった部分が切れ込み、鋭角に盛り上がっていた。無様な姿に唖然とした。車好きの運転上手のプライドが、今度はずたずたに引き裂かれた。
向かいの家に謝りに行ったところ、なにか大きな音がしたなと感じたが、お隣のお兄ちゃんが車をふかしている音だろうと思っていたと仰っていた。家人も寝ているのを起こしに行ったが、全く気づいていなかった。その日は家人の運転で移動し、事務局の仕事はきちんとやり終えた。帰りに友人の整備
工場に持ち込み、代車を貸してもらい、家人はその車で帰った。私はそこから家までの通常なら 40 分ほどの道を 1 時間半ほどかかって歩いて帰った。雨は昼過ぎにやんでいたが、当たりは暗くなり、冷え冷えとしていた。やるせない感情を引きずりながら、頭の中はああでもない、こうでもないと後悔が
渦巻くばかりだった。
他人事としか考えなかった自動車の暴走事故、コンビニに突っ込んだり、立体駐車場の屋上から落ちたり、そのような事態が我が身に起こるとは信じがたきことだった。でも、思い直してみると、他人を傷つけることなく、大事故に至ることもなく済んだことの幸運に感謝しなければいけないと、歩きな
がら自戒した。立体駐車場の上階から落ちて死んでいた可能性もあった訳で、またひとつ命拾いをしたのかもしれない。
向かいの家に謝りに行ったところ、なにか大きな音がしたなと感じたが、お隣のお兄ちゃんが車をふかしている音だろうと思っていたと仰っていた。家人も寝ているのを起こしに行ったが、全く気づいていなかった。その日は家人の運転で移動し、事務局の仕事はきちんとやり終えた。帰りに友人の整備
工場に持ち込み、代車を貸してもらい、家人はその車で帰った。私はそこから家までの通常なら 40 分ほどの道を 1 時間半ほどかかって歩いて帰った。雨は昼過ぎにやんでいたが、当たりは暗くなり、冷え冷えとしていた。やるせない感情を引きずりながら、頭の中はああでもない、こうでもないと後悔が
渦巻くばかりだった。
他人事としか考えなかった自動車の暴走事故、コンビニに突っ込んだり、立体駐車場の屋上から落ちたり、そのような事態が我が身に起こるとは信じがたきことだった。でも、思い直してみると、他人を傷つけることなく、大事故に至ることもなく済んだことの幸運に感謝しなければいけないと、歩きな
がら自戒した。立体駐車場の上階から落ちて死んでいた可能性もあった訳で、またひとつ命拾いをしたのかもしれない。
また何より他人を怪我させることなく済んだことは何事にも代えがたいことだった。(次号に続く)
通信本文はここまで。