みなさん「痛いからこれが出来ない」とか「痛くて動けない」とか「痛くて起き上がれない」なんて感じたことがありますか?
これも小林正観先生の本に書いてあってなぁるほどぉと納得した言葉です。そこには「動物には痛みはない」とも書いてありました。
痛みを感じるのは人間だけだとφ(.. )
それはね、痛みという言葉を持っているから
そういわれてみるとなるほどと思います。
例えば以前おできを切開した時のこと。麻酔が切れて「そうだ、メールチェックしないと」と、病室の外のメールを出来る場所(渡り廊下)まで行ってたんです。そこで痛みで意識が薄れるまでギリギリ踏ん張って、ベッドへ戻って気絶する。そういうのを繰り返してたんですね。看護士さんに見つかってえらい怒られたんですけど 正気で動ける状態じゃないのになにやってんですかと。実はそのとき鎮痛剤の処方は頓服で出ていたんだけど、僕が「痛い」って言わないもんだからくれなかった。僕も薬のことは何も聞いてないんで、痛みはあるんだけどまぁそんなもんかと。
一晩危篤ギリギリまでいってたらしいし「そうか、助かったんだな。これを感じるのも生きている証拠、ありがたいことだ。うれしいなぁ」と、しみじみ生還した喜びをかみしめていたし。そして緊急入院だから当然仕事のメールは入るわけで、それに対応しなきゃならないって意識が強かったから、動いてたわけです。
さて、この実例から読み取るとこういうことが言えると思います。
痛みがあるから何か出来ないではなくて、痛くて辛いからやれないんじゃないの?
要するに「痛み」という言葉でストレスレベルが上がってしまうことによって、活動が制限されるわけです。
「だけど、痛いもんは痛いんだよ」
だからさぁ痛みに意識を向けるから痛いんだよ
そういう時は、なにかしなきゃいけないこととか、楽しいことを考えたりするの!
それから「痛みがなくなった時の幸せ」をしみじみ感じられるために、いま痛いんだ。って考えてみたりしません?
ですから、いろいろな方法でストレスレベルを下げるようにすることで、痛みとして表現される神経伝達現象は存在しても、それだけになる。すなわち活動は制限されることがない。
「痛いのは生きている証拠、人間の証明。 ありがとう」
だまされたと思ってこれを繰り返してみてください。ストレスレベルが下がると、自分の心に占める痛みの割合が下がります。
なんか楽になっちゃうんですよね。
これも小林正観先生の本に書いてあってなぁるほどぉと納得した言葉です。そこには「動物には痛みはない」とも書いてありました。
痛みを感じるのは人間だけだとφ(.. )
それはね、痛みという言葉を持っているから
そういわれてみるとなるほどと思います。
例えば以前おできを切開した時のこと。麻酔が切れて「そうだ、メールチェックしないと」と、病室の外のメールを出来る場所(渡り廊下)まで行ってたんです。そこで痛みで意識が薄れるまでギリギリ踏ん張って、ベッドへ戻って気絶する。そういうのを繰り返してたんですね。看護士さんに見つかってえらい怒られたんですけど 正気で動ける状態じゃないのになにやってんですかと。実はそのとき鎮痛剤の処方は頓服で出ていたんだけど、僕が「痛い」って言わないもんだからくれなかった。僕も薬のことは何も聞いてないんで、痛みはあるんだけどまぁそんなもんかと。
一晩危篤ギリギリまでいってたらしいし「そうか、助かったんだな。これを感じるのも生きている証拠、ありがたいことだ。うれしいなぁ」と、しみじみ生還した喜びをかみしめていたし。そして緊急入院だから当然仕事のメールは入るわけで、それに対応しなきゃならないって意識が強かったから、動いてたわけです。
さて、この実例から読み取るとこういうことが言えると思います。
痛みがあるから何か出来ないではなくて、痛くて辛いからやれないんじゃないの?
要するに「痛み」という言葉でストレスレベルが上がってしまうことによって、活動が制限されるわけです。
「だけど、痛いもんは痛いんだよ」
だからさぁ痛みに意識を向けるから痛いんだよ
そういう時は、なにかしなきゃいけないこととか、楽しいことを考えたりするの!
それから「痛みがなくなった時の幸せ」をしみじみ感じられるために、いま痛いんだ。って考えてみたりしません?
ですから、いろいろな方法でストレスレベルを下げるようにすることで、痛みとして表現される神経伝達現象は存在しても、それだけになる。すなわち活動は制限されることがない。
「痛いのは生きている証拠、人間の証明。 ありがとう」
だまされたと思ってこれを繰り返してみてください。ストレスレベルが下がると、自分の心に占める痛みの割合が下がります。
なんか楽になっちゃうんですよね。