雑誌や新聞に掲載される書評を読んでから本を買うことはまず無い。
ましてや「○○賞受賞作品」の類は、内容はともかく文書としての質を期待する先入観を抱かされてしまい、なんとなく読み前から構えてしまうからである。
読書なんていう自慰的行為がこんな心境で行われるのであれば、これは正座してAVを見るようなものだ。
ただ一方で読書には感性を磨く要素があると信じているわけで、どうもその偏読のなれのはてが今の僕の思考習性を形成するのにかなり影響していることは間違いない。
先日綱島駅近くの書店で町田康氏の「自分を憐れむ歌- テースト・オブ・苦虫7」を見つけて購入した。
町田康氏の文章を読んでいつも感じるのは思考ロジックがかなり自分と似ていることである。
自分は考え方が近い人が周りにいると安心してしまうが、むしろそのことよりも物事を見て感じた心象を言葉に置き換えるとき、彼のような才能があればここのブログだってもっと更新できるのにとついつい自分の文才の無さを嘆く。
しかし僕は物書きではないからそんな才能があろうがなかろうが社会に対しての影響は皆無。
ではなぜ文才を欲するかと言えば、たとえばここのブログの文章の仕上がりにいつも妥協点というか着地点を見つけてエントリーを完了させるための「投稿」ボタンをクリックするが、その時もっとすっきりするのではないかと思うからである。
読むことも自慰なら書くことも然り。
最近このことに気付いた次第。
ましてや「○○賞受賞作品」の類は、内容はともかく文書としての質を期待する先入観を抱かされてしまい、なんとなく読み前から構えてしまうからである。
読書なんていう自慰的行為がこんな心境で行われるのであれば、これは正座してAVを見るようなものだ。
ただ一方で読書には感性を磨く要素があると信じているわけで、どうもその偏読のなれのはてが今の僕の思考習性を形成するのにかなり影響していることは間違いない。
先日綱島駅近くの書店で町田康氏の「自分を憐れむ歌- テースト・オブ・苦虫7」を見つけて購入した。
町田康氏の文章を読んでいつも感じるのは思考ロジックがかなり自分と似ていることである。
自分は考え方が近い人が周りにいると安心してしまうが、むしろそのことよりも物事を見て感じた心象を言葉に置き換えるとき、彼のような才能があればここのブログだってもっと更新できるのにとついつい自分の文才の無さを嘆く。
しかし僕は物書きではないからそんな才能があろうがなかろうが社会に対しての影響は皆無。
ではなぜ文才を欲するかと言えば、たとえばここのブログの文章の仕上がりにいつも妥協点というか着地点を見つけてエントリーを完了させるための「投稿」ボタンをクリックするが、その時もっとすっきりするのではないかと思うからである。
読むことも自慰なら書くことも然り。
最近このことに気付いた次第。
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