胃腸が弱くて痩せていた伯父がいつも夕食の後に「わかもと」と平仮名で書かれた大きな瓶から、小さな麦焦がしにそっくりな錠剤を数粒取り出して飲んでいたのを覚えている。
じーっとその様子を見つめていると「XXちゃんも食べてみるかい」と、今思えば「飲む」と言わずに「食べる」と言った言い方がおかしいが、ほかの従兄弟たちと一緒にひと粒づつもらって神妙な顔つきで「食べ」てみた記憶が甦った。
勧めるだけあって、確かに苦くはない。麦焦がしのように甘みを感じさせる味だったように記憶しているのだが。
この「わかもと」で財をなした長尾欽彌という人物が昭和9年に鎌倉山に築いた「扇湖山荘」というのが、わが家から15分ほど歩いたところにある。
今は鎌倉市に寄贈されているこの屋敷と庭が、昨日と今日の2日間、一般公開されている。
14000坪の広大な敷地からはいくつもの緑の丘陵越しに相模湾が見え、起伏のある屋敷内には散策路が設けられて竹林やら梅林やらを巡るようにできている。
母屋は飛騨高山の民家を移築して改築したもので、昭和前期の和風文化を画す代表的な大型遺構とされ、鎌倉市内でも明治以降の建築物の中では屈指のもので、庭を含めて歴史的・文化的価値を有するものであるという。
母屋の北側の丘の上には明治時代の皇族であった伏見宮邸から移築された別邸茶室もあり、モミジの巨木に囲まれて、こちらもなかなか風情のある建物である。
改築に携わったのは日光東照宮の修復や明治神宮宝物殿、厳島神社宝物殿の造営に携わった大江新太郎という人が中心となり、大江の弟子たちが実際の設計と現場を手掛けている。
造園を受け持ったのは山縣有朋別邸無鄰菴、岩崎小彌太熱海陽和洞などに携わった小川治兵衛という人物。
「建築主の長尾、改築設計の大江、造園の小川の3人は昭和初年の和風文化史上特筆されるべき存在であり、三者の出会った作品として現存する唯一の遺構である」というのが保存して時たま公開する鎌倉市の説明である。
建物や庭の価値が歴史的・文化的側面を含めて那辺にあるのかはともかく、明治・大正から戦前の昭和までの商業資本家がいかに財をなしたのかの証が、現代とは少し桁の違うスケールとなって現れ、残されているのである。
封建時代とは異なり、新しく勃興した資本家と収奪の対象である労働者階層というのが如実に分かれていた時代の遺構である。
敗戦で社会構造は大きく変わったが、今また新自由主義と訳されるネオリベラリズムの台頭で格差は拡大し始め、一方で積極的平和主義なる怪しい呪文を唱える者の登場によって、世の中はおかしな方向に向かいつつあるかのようである。
日々の生活に追われる人びとは、なかなかそうした事柄まで目が行きとどかないのも事実であり、そこもまたつけこまれる大きな要因である。
1票に託すしか方法はないのであるが…
扇湖山荘の正面入り口の門
伏見宮邸から移築された建物を茶室として使っていた
茶室の屋根に柔らかく降り積もるモミジの落葉
屋敷内の谷を跨ぐ木橋
木橋から表門を見る
茶室から母屋へは竹林を抜けてゆく
母屋にかかるモミジの巨木
相模湾を見渡す母屋からの眺望。海が扇のように広がっているところから名前が付けらた
飛騨の民家を移築して改築した母屋
母屋の玄関
囲炉裏のある居間
母屋の和室
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