1956年のアメリカ映画。マリリン・モンロー主演の映画である。
マリリン・モンローの映画を見るのは実に久しぶり。存在を忘れていたと言っても良いくらい、長いこと見ていなかった。
この女優の肉体的な魅力は言うまでもないが、今回見ていて、表情が変化に富んで、それらはみんな肯定的な、接するものをみんな虜にしてしまうような、はじけるような明るいものだということを改めて認識した。
表情と言うものの魅力は表情だけでは十分でなく、仕草が絡まるとその良さを倍増させる。
別にモンローウオークで歩かなくったって、普通に歩いても人と違うような歩き方なんである。
腕の振り方、指先の表情、肩の動き、首の傾げ方…。もちろん目の動き、眉の動かし方、口の開き方やすぼませ方…。それらみんなすべて、人間にとって当たり前のことが他の人間と一味もふた味も違う。
多分演技ではなくて、本能。身に備わった自然な振る舞いが、見るものをして特別なものに感じさせてしまう。
加えて、あの甘い声…。
魅力というものは本来、にじみ出るもので、自分で意識して作り出してまき散らすようなものではないから、マリリン・モンローと言う女優の“体臭”そのものなんだろう。
セクシーな表情はもちろん、愛嬌、愛くるしさ、少女のようなはにかみ…、そういうものがしみだしているんである。
難しい顔をしてみたり、怒った表情の演技の中にも、そうした“体臭”のような部分がにじんでしまう。
彼女の場合は、その魅力のすべてが“体臭”だから、しかも、その“体臭”はかなり強いから、いくら演技をして別な“体臭”を出そうとしても、消せないんである。というか、到底消えないんだと思う。
つまり、演技の幅は限られてしまうということでもある。
もしかして「天性の華」もそういう部分に悩んでいたのかもしれない。
セックスシンボルとして、女優として人気が出た後も、ニューヨークの演劇学校に通って勉強したのもそういう思いだったのかもしれない。
アーサー・ミラーと結婚したのも知性を身につけるためだった?
自分自身では不満だったんだろうけれど、明るく天真爛漫で、人に幸せを振りまく演技が魅力的なら、十分存在意義はある。
映画の後、書棚の奥深くにしまってあった本を取り出した。「お宝」なのである。
今から32年前の1983年発行の新潮文庫。
「M・モンロー」という2冊の文庫本の写真集である。
赤ん坊から検視のためにロサンゼルスの自宅から運び出されるところの写真まで、実にたくさんの弾けるような笑顔を見ているうちに、何か胸が苦しくなってきて、まともに見られないような気分になり、泣きそうになってしまった。
もしかして、私生児として生まれ、孤児院で育ち、不審な死を遂げてロサンゼルスの高級住宅街の自宅から運び出されるまで、36年間すべてが“体臭”なんかではなくて、演技だったのかもしれないと思って…。
1962年8月5日が命日である。14歳の中学2年生だった。もちろんマリリン・モンローはその前から知っていた。
秘蔵の写真集
やや細めだが、庭のゴーヤが25センチほどに育ってきた
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