平方録

あんた野狐じゃあないか?

元気いっぱいの姫が母親の下に帰ってしまって寂しい限りだが、こちらの生活は日常に戻った。

昨日は円覚寺の日曜説教座禅会。
奇数日曜日の座禅会が午前8時の開門と同時に始まるのに対し、偶数日曜日は午前9時開始なので楽である。
彼岸になって朝の寒気も緩んできていて、自転車でかっ飛ばして行くにもそう苦にならなくなってきたことが嬉しい。
本当に春めいてきた。

毎月第4日曜日は説教する人の顔ぶれが違う。
ここの説教会では法話を語る人は名乗らないのでどこのだれが話しているのか、まったく分からない。
今回は老人の和尚である。
話の中身から「南箱根」という言葉がちらほら出てきて、どうもそのあたりのシゼンインとかいう寺の住職らしい。
しかし南箱根とはどこを指すのだろうか。

話の中身は「業と宿業」と題するものだったが、たいして感銘も受けなかった。
話している中身が自分の考えなのか、他人の考えなのかすら判然としないのも一因である。
と、偉そうなことを書いているが、実のところは当方の側に話の中身を受け止められる力がなかっただけのことかもしれない。

しかし、味のある老僧だった。
自ら語ったところによると、今年93歳になるという。
さすがに禅僧のはしくれである。
背筋はピンと伸び、足の運びも実にしっかりしているし、声も大きい。
1時間の話の間中、立って話をした。

草取りが趣味で、草を抜き始めると時間を忘れてしまうそうで、毎日のように3時間は草を抜いていると言っていた。
この日の講義内容もほぼ1年前に決めて、ブツブツと口ずさんで草に語り聞かせて練習してきた、と人を食ったような事を言う。
その割にはたどたどしかったけれど…

毎年、春のお彼岸ころに登場しているらしい。
去年も話したそうだ。
「割れんばかりの拍手をいただいてね、嬉しいもんでしたよ」
「話をして大きな拍手をいただくなんて、儀礼的じゃあない思わず手をたたくような拍手は、そうざらにあるわけじゃあないんですよ」とも。
来年は来られるかどうかわからないが、来るつもりでいるという。

話の中で、円覚寺の小冊子の彼岸号に書いた私の文章を読みましたか、と語りかけていたのを頼りに、バックナンバーをめくってみたら見つかった。
円覚寺の僧堂で修行している時、縁あって静岡県の貧乏寺からお呼びがかかり、そこの住職になって奮闘した話を書いていた。
確かに読んだ覚えがあった。
寺だけでは食えないので学校の教師をやり、境内では妻が畑を耕し、鶏やヒツジ、ヤギを飼って食べる足しにしていたという話である。
静岡刑務所の教誨師を20年も勤め、日曜説教には31年続けて出していただいている、という。

最後に質問はないかと呼びかける。それも再三再四。
ようやく1人の男性が手を挙げた。
質問は他愛もないもので、「百丈野狐」の話をした際、和尚が生半可な知識をひけらかす相手に向かって「あんた野狐じゃあないか?」と言って退散させた、まさにそのフレーズが聞き取れなかったので、何て言ったか教えてほしい、というものだった。
和尚は耳が遠いらしく、質問者のところまで近寄って「え」とかなんとか何度も聞き直すそぶりをしながら、頓珍漢な答えをしていたが、さてころ合いかと見定めたように相手の顔をしげしげと覗き込むようにして「あんた野狐じゃあないか?」。

これには満場大爆笑の拍手大喝さい。
付け加えて「野狐とは、生半可な知識、こだわる必要ないもののことなんだよ」と締めくくった。
いや~、実に見事なもんでした。
31年も続いているわけだ。

小冊子の文章には安藤宗博とサインがあり、調べてみると伊豆函南のシゼンインではなく、修禅院の和尚であった。
近いうちに奮闘記の舞台を尋ねてみたくなった。



円覚寺黄梅院ではミツマタが咲き始めている

  
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