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芳野星司 はじめはgoo!
童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。
再び 野坂昭如さんの戦争
2016年10月05日
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言葉
「火垂るの墓」を書くことで、戦争を伝えられるとは思っていなかったし、それは今も同じ。ぼくは未(いま)だに自分が小説家なのかどうか、あやふや。
だが、少しは戦争を知っている。飢えも心得ている。あんな馬鹿げたことを、繰り返してはいけない。戦争の愚かしさを伝える義務がある。あれこれあがいた結果、書くことが残った。
(2012年3月13日付朝日新聞朝刊)
草川信と戦争の時代
2016年10月04日
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エッセイ
「兵隊さんの汽車」は富原薫の作詞、草川信の作曲である。
一
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕らも手に手に 日の丸の
旗を振り振り 送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん 兵隊さん 萬々歳
二
汽車汽車 来る来る
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
窓からヒラヒラ 日の丸の
旗を振ってく 兵隊さん
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん 兵隊さん 萬々歳
三
汽車汽車 行く行く
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
まだまだヒラヒラ 日の丸の
旗が見えるよ 汽車の窓
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん 兵隊さん 萬々歳
御殿場に陸軍の演習場があった。連日、御殿場駅から送り出される兵隊たちを見送る光景が続いていた。小学校教師・富原薫はそれを詞にし、草川信が曲を付けた。
信は大好きなシューベルトの「軍隊行進曲」を参考にしたという。「いただいちゃったよ」と悪戯っ子らしく笑いながら、次男の誠さんに言ったらしい。
この歌は戦中大ヒットした。しかし草川は軍歌や軍国的作曲を嫌い、その後はクラシックの演奏家や声楽家のための作曲に専念した。やがてその曲調から明るさが消え、悲しげな曲が増えた。
1945年の年の瀬である。御殿場の富原の家に日本放送協会の近藤という番組制作者が訪れた。日本放送協会は大晦日に「紅白音楽合戦」という番組を企画しているが、GHQがタイトルの「合戦」を不許可としたため「試合」と修正したと言う。またその番組で「音羽ゆりかご会」の童謡歌手・川田正子に、「兵隊さんの汽車」を歌わせたいと考えているが、やはり軍国主義的な歌詞であるとされたため、その詞を改作してほしいとの依頼であった。富原は近藤を待たせて歌詞を直し、題名も「汽車ポッポ」に変えた。
一
汽車汽車 ポッポ ポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポ
僕らを乗せて シュッポシュッポ シュッポッポ
スピード スピート 窓の外
畑も とぶ とぶ 家もとぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな
二
汽車汽車 ポッポ ポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポ
汽笛を鳴らし シュッポシュッポ シュッポッポ
ゆかいだ ゆかいだ いいながめ
野原だ 林だ ほら 山だ
走れ 走れ 走れ
トンネルだ トンネルだ うれしいな
三
汽車汽車 ポッポ ポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポ
煙をはいて シュッポシュッポ シュッポッポ
行こうよ 行こうよ どこまでも
あかるい 希望が まっている
走れ 走れ 走れ
がんばって がんばって 走れよ
敗戦の世相に希望を持たせ、平和になった日本に願いを込めた詞となった。歌う川田正子もそれを強く感じ、明るく歌い上げた。
「夕焼け小焼け」「揺籠のうた」で知られる作曲者・草川信は、1893年(明治26年)に、信州の松代町(現長野市)に、銀行員の四男として生まれた。兄弟は三人が音楽に、一人が博物学に進んだ。信は母の琴や兄のオルガン、バイオリンの影響を受けたのだという。また長野師範学校付属小学校で、後年武蔵野音楽学校を創立した福井直秋に音楽を学び、彼のその後を決定づけた。
1913年(大正2年)に東京音楽学校に入学し、バイオリンとピアノを学んだが、そのときのバイオリンの師は安藤幸(幸田露伴の妹)、ピアノの師が弘田龍太郎であった。
成田為三と弘田はともに「赤い鳥」に参加したが、その成田がドイツ留学で抜けるため、弘田が草川信を「赤い鳥」運動へ誘った。
信は1921年(大正10年)に「夕焼け小焼け」を作曲して、童謡作曲家としてその名を知られるようになっていった。その後も「揺籠のうた」や「どこかで春が」など、バイオリン奏者らしい流れるような旋律の、心に残る美しい曲を世に送り出した。
後に自身が「想い出の記」に記しているように、少年時代の信はとんでもない腕白坊主だったらしい。ドジョウを獲るため田んぼの畦に穴をあけ、田の水を流れ出させて大目玉を喰らい、酒を買ってきたお使いの少年に悪戯してその酒瓶を割って泣かせ、いつも遊び場にしている寺の裏山から大きな石を転がし落とし、寺の屋根に大穴をあけ、またオルガンの鍵盤を箒の柄でグリッサンドして黒鍵をすべて折ってしまったという。野球に熱中する一方で、水彩画の高名な先生について学び、これにも夢中になっていたという。
彼のゆったりとした美しい旋律からは、なかなか想像がつかぬ、やんちゃ時代の逸話の数々である。
大正11年に北原白秋の「揺籠のうた」に曲を付け、「赤い鳥」10月号に発表され、これが彼の代表曲となった。
同郷の松代出身の海沼實は、草川信に学んだ。海沼が音羽の護国寺に児童合唱団を作ったとき、信は「揺籠のうた」を会歌として送った。児童合唱団はそれにちなみ「音羽ゆりかご会」となった。
草川信は「ねんねこねんねこねんねこ、よ」のあの詞に合う旋律を生むにあたり、「子供の頃、灰色の空から雪の舞い下りる様子を炬燵の中からじっと見ていたことや、薄い氷の張った床を打つ、つららの五太鼓を、夢の枕に聞いたことを思い出していた。あのリズムをね。」と語っている。彼にとってそれはやんちゃで楽しい、美しい時代だったのだろう。
東京音楽学校で学んでいた長男の宏が、応召されフィリピンに出征すると、信は次第に塞ぎ込むようになった。終戦後も宏の安否は全く知れなかった。
1947年、信は病に倒れた。翌年5月に草川家に宏の戦死公報が入ったが、家族はそれをあえて信に伝えず、隠した。信の心と健康を気遣ったのである。その9月に信は帰らぬ人となったが、まだ55歳という若さであった。
菅原文太さんが憲法を語る
2016年10月03日
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言葉
改憲派の政治家はよくこう言って現行憲法を否定します。
「いまの憲法は戦後、GHQに与えられたものだ。なぜ、進駐軍にもらった憲法を守らなければならないのか。そろそろ自分たちの憲法を持つべきだ」
この認識は正しいとはいえません。知り合いの学者に聞いた話ですが、いまの憲法は、日本人が作成した草案を参考にして作られたそうです。社会統計学者で社会運動家だった高野岩三郎や法学者の鈴木安蔵らの「憲法研究会」が、敗戦の年に発表した「憲法草案綱領」がそれです。
この草案には「主権在民」や「基本的人権」という民主的な概念が盛り込まれていました。GHQのある将校は非常に優れた憲法草案だと高く評価し、新憲法作成の下敷きにしました。
いま大切なのは、われわれ国民が政府のデマゴギーにそそのかされず、自分で考えることでしょう。書物や新聞を読み、多くの人の話を聞いて、平和を維持するために自分は何をするべきかを模索する。熟慮の末に真実を知れば、戦後ひとりの戦死者も出していない憲法9条がいかに素晴らしいものであるかが分かるはずです。
(2014年12月1日「日刊ゲンタイ」インタビューより)
競馬エッセイ 馬の競走データ
2016年10月02日
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競馬エッセイ
競走馬のデータを調べるとき、現役馬なら「netkeiba.com」 を見る。現役馬か抹消馬か、牡牝、馬齢、毛色、生年月日、調教師、馬主、生産牧場、生産地、空欄の場合が多いがセリ取引価格、中央競馬獲得賞金、地方競馬獲得賞金、通算成績、主な勝鞍、近親馬、血統、適正レビュー(コース適性、距離適性、脚質、成長力、重馬場)。そして競走成績。登録すればレース映像も見ることができるが、通過順、ペースと前半3ハロンのタイム中盤3ハロンのタイム、上がり3ハロンのタイム、馬体重、勝ち馬(2着馬)、そのレースでの獲得賞金がわかる。
そのレースを実際に見ていなくても、データを眺めているだけで、その時のレースぶりが目に浮かんでくる。
しかしnetkeiba.comでは古い馬のデータが少ない。ハイセイコーの競走データもない。シンザンやシンポリルドルフのような、G1を何勝もした馬のデータなら見ることできるが、重賞1勝程度の馬のデータはない。
古い馬を調べるには「優駿達の蹄跡」(ahonoora.com)が実に重宝する。「個人による 日本・海外競馬のデータベース」とある。中央競馬・地方競馬・海外競馬、競走馬・レース等のデータベースサイトなのだ。
このサイトでは、特に中央競馬のこれまでの全重賞勝ち馬のデータが素晴らしい(重賞勝ち馬でもないのに掲載されているのは、ソロナオール、ロイスアンドロイスくらいであろうか。どちらも万年3着の個性派であった)。
掲載データは、引退競走馬名鑑、現役競走馬名鑑(特に重賞で活躍中のオープン馬)、生年別競走馬名鑑、国内重賞史、年別海外主要重賞競走一覧、受賞馬一覧、引退中央騎手一覧、引退中央調教師一覧、Special Data(賞金ランキング、競走馬記録等)、そしてアホヌラゲーム館。
「アホヌラ」とはこのサイトの管理人の方のハンドルネームである。アホヌラ(Ahonoora)…これまた実にマニアックな馬名ではないか。
アホヌラ(アホヌーラ)は1975年生まれのイギリスの古い重賞勝ち馬で、クラリオン系の種牡馬であった。同年生まれの日本の馬で言えば、ファンタスト、サクラショウリ、インターグシケンの時代である。
アホヌラはクラシックのG1で活躍したわけではなく、GII、GIIIのスプリント戦を勝った典型的な短距離のスピードのスペシャリストであった。種牡馬として、さらに母の父としては、欧米で名うてのスプリンターやスピード馬を数多く輩出した。インディアンリッジなどが後継種牡馬として産駒にそのスピードを伝え、成功している。
またアホヌラの産駒の適正距離は、父よりも伸び、イギリスダービー馬ドクターデヴィアスも出した。
1992年、産駒のドクターデヴィアスはイギリスのダービー馬となった後に、3歳のダービー馬として初めてジャパンカップに参戦したが、トウカイテイオーの10着に敗れ、そのまま日本で種牡馬となった。
福島記念を勝ったオーバーザウォールや、ファンタジーステークスを勝ったロンドンブリッジを出し、ロンドンブリッジは桜花賞2着、オークス優勝馬のダイワエルシエーロを出し、母の父としても結果を出した。しかしドクターデヴィアスは買い戻され、イタリアで種牡馬となって、2006年、2007年にはリーディングサイアーに輝いている。何といってもイギリスのダービー馬なのである。
こういうことを調べるには、「優駿たちの蹄跡」は実に便利この上ない。このデータを眺めているだけで、実に楽しく飽きることがない。ここにはレース展開、レース中の位置取りは載っていないが、次々と記憶がよみがえってくる気がする。また自分の記憶違いや思い込みにも気づかされる。
かつて寺山修司は、アメリカで競馬観戦を楽しんだおり、向こうの競馬新聞のレーシングフォームに感動したことを書いている。それぞれのレースと、それに出走する競走馬の過去のデータを列記した一覧表(日本のスポーツ紙では馬柱と呼ぶ)である。彼がそれをエッセイに紹介したことが契機になり、日本の馬柱も改良され、特に精緻に進化したものが「競馬ブック」だった。
しかし寺山は「馬の個人史」というものが知りたいと書いた。例えば、ヒカルメイジ、コマツヒカリのダービー馬兄弟を輩出した盛田牧場は、雪深い青森の牧場で、雪解けになった春の放牧場は、いつも泥田のようにぬかるんでいる。そこで育った兄弟は道悪が得意になった。…という馬の個人史である。さすがにまだそれは、レーシングフォームに反映されていない。
また「netkeiba.com」や「優駿達の蹄跡」にも、それらの牧場や育成場などの情報は掲載されていない。私が知りたい情報は、どんな仔馬だったのか。甘えん坊? きかん坊? いつもひとりぼっち? 育成牧場時代に仲が良かった同期生は?…まさに馬の個人史のデータ(情報)である。
浅田次郎さんの日本憲法
2016年10月01日
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言葉
改憲をしなければならないと言っている人たちによくあるのが、アメリカから押し付けられたものだ、という言い方なんですけれども、出自は関係ないと思うんです。内容だと思います。日本国憲法はとてもよくできた憲法だと僕は思います。
長い歳月の間に憲法解釈を超えている法律と現実との齟齬というのは、法治国家として何とかしなければならない、とは思うけれども、日本国憲法の精神は大切にしてほしい。
(「憲法を考える日本ペンクラブの集い 文学者と憲法)
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