鈴木安蔵は福島県の南相馬の人である。幼い頃からキリスト教会に通った。早くに父を亡くし、母の手で育てられた。
正義感が強く、相馬中学の三年生のとき、上級生による止まぬ暴力制裁(リンチ)を止めさせようと、七十名の仲間の先頭に立ってストライキを敢行し、謹慎処分にされたらしい。上級生の暴力は止んだ。
大変な秀才で、飛び級で旧制第二高等学校に進み、新カント哲学に夢中となり、やがて貧困、飢餓、売春、失業など社会矛盾に取り組むため、社会思想研究会を結成した。
1924年に京都帝国大学の哲学科に進んだが、翌年にマルクス主義の研究のため経済学部に転部した。その京大社会科学研究会での活動が、治安維持法の適用第一号となって逮捕された。安蔵は京大を自主退学を余儀なくされ、在野の研究者となった。1929年、再び治安維持法で逮捕され、二年半の獄中生活を送った。
彼は獄中で日本の憲法学者の著作を読み漁り、憲法学の歴史的かつ批判的研究を始めた。出獄後に安蔵は「憲法の歴史的研究」を出した。これは民衆の立場に立ち、民衆の幸福を実現するための、社会科学としての憲法学なのである。
日本はポツダム宣言を受諾し、1945年8月15日、当然の帰結、敗戦の日を迎えた。連合国軍総司令部(GHQ)はポツダム宣言の趣旨に沿った新憲法作りを幣原喜重郎内閣に促した。幣原内閣は松本烝治を委員長に草案作りに入った。
民間や政党でも憲法草案づくりが行われていた。共産党、社会党、大日本弁護士連合会も憲法草案に取り組んだ。鈴木安蔵をリーダーに、高野岩三郎や憲法学者やジャーナリストらで構成する「憲法研究会」ができ、「憲法草案要綱」という草案をつくった。
また高野は社会党の憲法草案づくりにも加わっている。その中で高野は「象徴としての天皇」という概念を打ち出している。また稲田正次の「憲法懇談会」も草案をまとめた。こうして、政府の松本委員会草案、近衛文麿案の他、十二の草案が作られたのである。
GHQは明治憲法公布以前の自由民権運動のさなかに作られた著名な憲法草案を集め、目を通していた。また、稲田や高野らの憲法草案、そして鈴木安蔵らの草案にもつぶさに目を通し研究した。GHQは日本政府から出された草案に深く失望した。これは事前に毎日新聞にスクーブされ、多くの国民の知るところとなり、嘲笑され失望を与えた。
そもそも日本政府は「受諾」したポツダム宣言に則り「言論、宗教、思想の自由と基本的人権の尊重」を保障しなければならず、ポツダム宣言に続いて提示された二つの政策文書に則り、非軍事化と民主化は完全にかつ永久でなければならなかったのである。しかし松本烝治の委員会草案は、大日本帝國憲法の文言を少しばかり変えた代物であった。
そもそもそれは、自由民権運動のさなかに起草された私擬憲法より退嬰的で、基本的人権も民主化もほとんど理解していないのであった。
GHQがもっとも注目した草案が、鈴木安蔵ら憲法研究会の草案であり、高野岩三郎らの「象徴としての天皇」概念であった。
政府案のいい加減さに、ついにGHQ案が提示された。これは鈴木安蔵や高野岩三郎、稲田正次らの草案をつぶさに検討し、鈴木安蔵らの草案をほぼ汲み上げた内容の「日本国憲法草案」であった。「天皇の臣民」は「国民」となり、「主権は国民」にあるとされたのである。
後に鈴木安蔵は、日本国憲法の「間接的起草者」と呼ばれるのである。また憲法9条の戦争放棄は、幣原喜重郎がマッカーサーに申し出た条項である。
ドナルド・キーン氏が言った。
「米国から押し付けや米国の力で新しい憲法がつくられたと言うひともいますが、それは違うのではないでしょうか。日本人は戦前から憲法九条のような平和主義が欲しかった。ただ、言える状況になかった。私は日本人と米国人が一緒につくったものだと思っています。
平和主義について、日本は今、世界で一番進んでいます。」
高野岩三郎