芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

鈴木安蔵と憲法

2016年06月30日 | エッセイ
                                                     


 鈴木安蔵は福島県の南相馬の人である。幼い頃からキリスト教会に通った。早くに父を亡くし、母の手で育てられた。
 正義感が強く、相馬中学の三年生のとき、上級生による止まぬ暴力制裁(リンチ)を止めさせようと、七十名の仲間の先頭に立ってストライキを敢行し、謹慎処分にされたらしい。上級生の暴力は止んだ。
 大変な秀才で、飛び級で旧制第二高等学校に進み、新カント哲学に夢中となり、やがて貧困、飢餓、売春、失業など社会矛盾に取り組むため、社会思想研究会を結成した。
 1924年に京都帝国大学の哲学科に進んだが、翌年にマルクス主義の研究のため経済学部に転部した。その京大社会科学研究会での活動が、治安維持法の適用第一号となって逮捕された。安蔵は京大を自主退学を余儀なくされ、在野の研究者となった。1929年、再び治安維持法で逮捕され、二年半の獄中生活を送った。
 彼は獄中で日本の憲法学者の著作を読み漁り、憲法学の歴史的かつ批判的研究を始めた。出獄後に安蔵は「憲法の歴史的研究」を出した。これは民衆の立場に立ち、民衆の幸福を実現するための、社会科学としての憲法学なのである。

 日本はポツダム宣言を受諾し、1945年8月15日、当然の帰結、敗戦の日を迎えた。連合国軍総司令部(GHQ)はポツダム宣言の趣旨に沿った新憲法作りを幣原喜重郎内閣に促した。幣原内閣は松本烝治を委員長に草案作りに入った。
 民間や政党でも憲法草案づくりが行われていた。共産党、社会党、大日本弁護士連合会も憲法草案に取り組んだ。鈴木安蔵をリーダーに、高野岩三郎や憲法学者やジャーナリストらで構成する「憲法研究会」ができ、「憲法草案要綱」という草案をつくった。
 また高野は社会党の憲法草案づくりにも加わっている。その中で高野は「象徴としての天皇」という概念を打ち出している。また稲田正次の「憲法懇談会」も草案をまとめた。こうして、政府の松本委員会草案、近衛文麿案の他、十二の草案が作られたのである。
 GHQは明治憲法公布以前の自由民権運動のさなかに作られた著名な憲法草案を集め、目を通していた。また、稲田や高野らの憲法草案、そして鈴木安蔵らの草案にもつぶさに目を通し研究した。GHQは日本政府から出された草案に深く失望した。これは事前に毎日新聞にスクーブされ、多くの国民の知るところとなり、嘲笑され失望を与えた。
 そもそも日本政府は「受諾」したポツダム宣言に則り「言論、宗教、思想の自由と基本的人権の尊重」を保障しなければならず、ポツダム宣言に続いて提示された二つの政策文書に則り、非軍事化と民主化は完全にかつ永久でなければならなかったのである。しかし松本烝治の委員会草案は、大日本帝國憲法の文言を少しばかり変えた代物であった。
 そもそもそれは、自由民権運動のさなかに起草された私擬憲法より退嬰的で、基本的人権も民主化もほとんど理解していないのであった。
 GHQがもっとも注目した草案が、鈴木安蔵ら憲法研究会の草案であり、高野岩三郎らの「象徴としての天皇」概念であった。
 政府案のいい加減さに、ついにGHQ案が提示された。これは鈴木安蔵や高野岩三郎、稲田正次らの草案をつぶさに検討し、鈴木安蔵らの草案をほぼ汲み上げた内容の「日本国憲法草案」であった。「天皇の臣民」は「国民」となり、「主権は国民」にあるとされたのである。
 後に鈴木安蔵は、日本国憲法の「間接的起草者」と呼ばれるのである。また憲法9条の戦争放棄は、幣原喜重郎がマッカーサーに申し出た条項である。

 ドナルド・キーン氏が言った。
「米国から押し付けや米国の力で新しい憲法がつくられたと言うひともいますが、それは違うのではないでしょうか。日本人は戦前から憲法九条のような平和主義が欲しかった。ただ、言える状況になかった。私は日本人と米国人が一緒につくったものだと思っています。
 平和主義について、日本は今、世界で一番進んでいます。」

                                                      
             高野岩三郎

新オッペケペ

2016年06月29日 | 
 現代の青少年は、高校の歴史の授業で近現代史を教えてもらえないそうである。幕末から明治維新のところで、時間切らしい。
 そんな青少年たちのために、川上音二郎の「オッペケベ節」を借り、作詞しで近現代史を概観してみた。
 


  薩長藩閥とくせん倒し
  文明開化の幕開けが
  古代の昔に逆戻り
  王政復古に祭政一致
  水干直垂平安烏帽子
  太政官と神祇官
  不平等条約改正できず
  異国衣装で鹿鳴館
  オッペケペ、オッペケペッポー、ペッペッポー

  富国強兵に邁進し
  演説中止に発禁発禁
  統帥権に陶酔軍人やりたい放題
  ここが日本の生命線と
  どんどん外地にせせり出て
  多くの外地を苦しめた
  長い戦に明け暮れて
  叩き潰されすべてを失くし
  オッペケペ、オッペケペッポー、ペッペッポー

  多くの同胞犠牲にし
  得たのが平和な憲法だ
  薩長藩閥やしゃ孫どもが
  再び古代の昔に憧れて
  国民主権は制限付きで
  平和な憲法捨て去って
  自由言論政権批判は許さない
  美しい国を目指すとさ
  オッペケペ、オッペケペッポー、ペッペッポー

                                                     

市原悦子さんの言葉

2016年06月28日 | 言葉
                                                   

…戦争や飢えの体験はないほうがいい。戦争がいかに恐ろしく、人を狂わせるか。80歳を過ぎて語っている戦争体験者の話に釘付けになります。
 集団的自衛権を使うことが認められましたね。「自衛のための戦い」とか「戦争の抑止になる」とか、信じられません。原発事故への対応もあやふやなままなのに、国は原発を輸出しようとしている。被爆者、水俣病患者を国は救済しましたか。「国民の命と財産を守る」と言っても空々しいですね。
 先の戦争で犠牲になった300万人もの方々がどんな思いで死んでいったか。そして戦争によって人の心に何が起こったか。それを知れば、私たちがこの先どうすべきか見えてくると思います。


              (朝日新聞 2014年7月8日)
    


廃炉かな

2016年06月27日 | 
                                                                                       

 永さん、サブちゃん、ごめんなさい。替え歌を作っちゃいました。よかったら余興で歌ってください。


   廃炉かな

    〽技術なくて言うんじゃないが
     廃炉かな 廃炉かな
     国の圧力 ますます強い
     だけど気になる やっぱり福一
     廃炉かな 廃炉はよそうかな 

    〽悔しくて言うんじゃないが
     廃炉かな 廃炉かな
     村の帰還は 基準値変更
     そぞろ気になる やっぱり汚染
     廃炉かな 廃炉はよそうかな

    〽できなくて言うんじゃないが
     廃炉かな 稼動かな
     やればやれそな 寿命の延長
     金ももらって また再稼動
     廃炉かな 核廃棄物どうしようかな



 放射性廃棄物の処理の方法も場所も決まっていないし、そもそも、日本に廃炉技術があるのだろうか。

 
 

光陰、馬のごとし 続・強い馬

2016年06月26日 | 競馬エッセイ

 たくさんの強い馬たちを目撃してきた。自ら目撃できなかった古い馬たちに関しては、残された競走データや記録映像で、その馬の強さや個性を記憶してきた。
 先に書いたように、強さとは相対的なものなだが、私が最強馬だと本当に実感した馬は、94年の三冠馬ナリタブライアンである。無論2005年の三冠馬ディープインパクトも、84年の三冠馬シンボリルドルフも64年の三冠馬シンザンも甲乙つけがたい。そして彼等は、全て個性が違うのだ。

 日本の長い競馬史に、三冠馬は六頭しかいない。ナリタブライアンは唯一デビュー戦を勝利で飾れなかった三冠馬である。また最も負け数の多い三冠馬でもある。しかし私の記憶の中の印象では、彼こそが最強馬なのである。そして三冠レースでナリタブライアンが2着馬につけた着差の合計15馬身半は、ダントツの第一位なのである。
 彼には弱点があった。自らの影にすら怯える繊細な気性、そして興奮しやすい烈し過ぎる気性である。また一度落ち込むと立ち直りに時間がかかる精神的な弱さもあった。だからダービーに至るまでによく負けもし、また古馬になってからは故障に泣き、あるいは精神的に落ち込んでは負けていた。
 しかし負けたレースにおいても、騎乗した騎手たちはナリタブライアンを「凄い馬だ」と評した。主戦騎手だった南井克己は「今まで乗った馬の中で一番強い」と語った。一度乗って勝ったベテラン清水英次は「これは器が違う」と舌を巻いた。大久保正陽調教師は「全くモノが違う」と胸を張った。生産者の早田牧場の早田光一郎は「これは人智を超えた馬だ」と評した。ライバル馬に騎乗していた武豊は「全く勝てる気がしない」と語った。フランスの名騎手オリビエ・ペリエは日本の印象に残る馬を尋ねられて、唯一ナリタブライアンの名を挙げた。理由を聞かれ「あの馬は世界クラスだよ」と答えた。イギリスのマイケル・ロバーツ騎手も同様の評価をして絶賛した。
 シンボリルドルフを育てた野平祐二調教師は、ナリタブライアンが現れるまで「ルドルフは日本競馬史上の最強馬」と言い続けてきた。ルドルフに騎乗した岡部幸雄も「ルドルフのような馬は二度と現れないだろう」と言い続けてきた。野平祐二はナリタブライアンが完勝した皐月賞を「まるで大人と子供の闘いだ。一頭だけ別次元のレースをしている」と評した。そして菊花賞でルドルフ以来の五頭目の三冠を達成した時、野平は「現時点ではナリタブライアンが上だ」とシャッポを脱いだのである。
 JRAが2000年にファンから公募して発表した「20世紀の名馬」では、ナリタブライアンは第1位に選ばれた。あのシンボリルドルフは6位、シンザンは7位である。しかしこれは、つい最近競馬を始めた若者たちの記憶が反映されたものに過ぎない。
 血統研究家で作家の山野浩一や競馬評論家たちで構成されている「全日本フリーハンデ」(競走馬の強さを負担斤量で表す、イギリス発祥の国際的評価法)では、3歳時のナリタブライアンは129ポンドの評価を受け、現在まで第1位のままである。ちなみにシンボリルドルフは128ポンドであり、2006年6月時点でディープインパクトは127ポンドの評価である。これは同世代のライバルたちの力も比較勘案された、相対的で客観的な評価である。
 ナリタブライアンの豪快な追い込みを目の当たりにした時の驚きを、私は決して忘れることはないだろう。ナリタブライアンは460~70キロの均整の取れた黒鹿毛の馬体であった。その強い!という印象は、直線で中団から馬群を割って出てくる凄みのある走りにある。それは馬群を豪快に「割る」という印象が強い。似たような戦法の馬にカツラノハイセイコがいたが、彼は後方から馬群を「斬り裂いて」出てきたという印象なのだ。かつてシンザンを育てた名伯楽・武田文吾は二冠馬コダマと比較し「コダマはカミソリの切れ味、シンザンはナタの切れ味」と評した。至言である。
 ナリタブライアンとカツラノハイセイコの印象の違いも、ナタとカミソリの違いだろう。ちなみに名騎手・河内洋はインタビューでこれまで最も印象に残る馬を尋ねられ、「カツラノハイセイコ」と答えている。その理由は「あの馬は本当に恐かった。いつも怒っていたよ」と言葉を継いだ。それは恐ろしかったであろう。カツラノハイセイコは僅か40~50センチの間隙でもあれば、騎手の意思とは無関係に、そこを目がけて突っ込んでいく危険な狂気を持った馬だったからである。
 話題が逸れた。 ナリタブライアンが馬群の中団に位置することが多かったのは、彼の四囲を馬で包み込んで、烈しすぎる気性から来る暴走を抑える南井騎手の戦法だったのだろう。豪快な追い込みを得意とする南井は、ナリタブライアンならいつでも馬群を突き抜けると思っていたのだろう。
 さてナリタブライアンとディープインパクトとの比較である。豪快なナリタブライアン、安定性のあるディープインパクトと、二頭は全く個性が違うのだが、私の印象では…勝つ時の凄み、強烈さで言えば…しかしあの素軽さ、速い脚を長く使える凄みは …でもあの豪快さは…。彼等は個性も、ライバルたちも違うのだ。


         (この一文は2006年12月28日に書かれたものです。)