芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

微風のひと

2016年05月31日 | エッセイ
                                                       


 先日「晶子、らいてう、智恵子」という一文を書いた。あらためて高村光太郎が智恵子について書いたものに触れてみたい。

   智恵子は東京に空が無いといふ、
   ほんとの空が見たいといふ。
    …
   智恵子は遠くを見ながら言ふ。
   阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
   毎日出てゐる青い空が
   智恵子のほんとの空だといふ。

 良い文章だ。散文で、こういう文を綴ってみたいものだ。
 光太郎の有名な詩集「智恵子抄」の一編である。むろん詩であって散文ではない。それにしても良い文章だ。詩の全文はこうである。

    あどけない話

   智恵子は東京に空が無いといふ、
   ほんとの空が見たいといふ。
   私は驚いて空を見る。
   桜若葉の間に在るのは、
   切つても切れない
   むかしなじみのきれいな空だ。
   どんよりけむる地平のぼかしは
   うすもも色の朝のしめりだ。
   智恵子は遠くを見ながら言ふ。
   阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
   毎日出てゐる青い空が
   智恵子のほんとの空だといふ。
   あどけない空の話である。
               (昭和三・五)

 こんな詩もあった。その冒頭である。

   あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
   あの光るのが阿武隈川。

 この二行のフレーズが、詩の真ん中と最後に繰り返されるのだ。「樹下のふたり」である。
――みちのくの安達が原の二本松 松の根かたに人立てる見ゆ――

   あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
   あの光るのが阿武隈川。

   …(中略)…

   あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、
   ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
   ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
   ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
   無限の境に烟るものこそ、
   こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
   こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
   むしろ魔もののやうに捉(とら)へがたい
   妙に変幻するものですね。

   あれが阿多多羅山、
   あの光るのが阿武隈川。

   ここはあなたの生れたふるさと、
   あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
   それでは足をのびのびと投げ出して、
   このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
   あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
   すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
   私は又あした遠く去る、
   あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
   私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
   ここはあなたの生れたふるさと、
   この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
   まだ松風が吹いてゐます、
   もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

   あれが阿多多羅山、
   あの光るのが阿武隈川。
              (大正十二・三)

 おそらく智恵子は生来おっとりとした微風のような「癒しの女性」「不思議ちゃん」であったのだろう。「不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて… 何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふ」「あなたの生まれたふるさと… この不思議な別箇の肉身を生んだ天地」
 おそらく、智恵子は光太郎と並んで足を投げ出して座り、おっとりと指差しながら「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」と、少しばかり間をおいて、ゆっくりと繰り返し呟いたのに違いない。

                                                       

晶子、らいてう、智恵子

2016年05月30日 | エッセイ
   


 それにしても日露戦争のナショナリズムに沸騰する時代に、与謝野晶子は、よくもこのような詩を書いたものだ。なんと昂然とした勇気だろう。その詩は弟に対する愛情に溢れ、直裁な真情は胸を揺さぶる。彼女は両親の想いを代弁し、さらに戦地に息子を送り出した全ての母親たち、妻や恋人たちの真情を代弁したのだ。

    君死にたまふことなかれ (旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて)

   あゝをとうとよ、君を泣く、
   君死にたまふことなかれ、
   末に生れし君なれば
   親のなさけはまさりしも、
   親は刃(やいば)をにぎらせて
   人を殺せとをしへしや、
   人を殺して死ねよとて
   二十四までをそだてしや。

   堺(さかひ)の街のあきびとの
   舊家(きうか)をほこるあるじにて
   親の名を繼ぐ君なれば、
   君死にたまふことなかれ、
   旅順の城はほろぶとも、
   ほろびずとても、何事ぞ、
   君は知らじな、あきびとの
   家のおきてに無かりけり。

   君死にたまふことなかれ、
   すめらみことは、戰ひに
   おほみづからは出でまさね、
   かたみに人の血を流し、
   獸(けもの)の道に死ねよとは、
   死ぬるを人のほまれとは、
   大みこゝろの深ければ
   もとよりいかで思(おぼ)されむ。

   あゝをとうとよ、戰ひに
   君死にたまふことなかれ、
   すぎにし秋を父ぎみに
   おくれたまへる母ぎみは、
   なげきの中に、いたましく
   わが子を召され、家を守(も)り、
   安(やす)しと聞ける大御代も
   母のしら髮はまさりぬる。

   暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
   あえかにわかき新妻(にひづま)を、
   君わするるや、思へるや、
   十月(とつき)も添はでわかれたる
   少女ごころを思ひみよ、
   この世ひとりの君ならで
   あゝまた誰をたのむべき、
   君死にたまふことなかれ。

 明治という時代が終わりに近づいていたとき、平塚らいてうが女性たちの文芸誌「青鞜」を出そうとしたところから、新時代が息吹はじめたと言っていい。文芸同人誌の体裁をとったのは、新聞紙法をかわすためであった。思想や時事問題を扱う場合は新聞紙法では保証金を支払わなければならなかつた。文芸同人誌はその適用を受けなかったのである。厳しい検閲も多少はやわらぐ。
 らいてうは八歳年上の与謝野晶子をその家に訪ね、「青鞜」創刊の巻頭を飾る詩を依頼した。与謝野晶子は「そぞろごと」という詩を寄せた。
   
   山の動く日来る。
   かく云へども人われを信ぜじ。
   山は姑(しばら)く眠りしのみ。
   その昔に於て
   山は皆火に燃えて動きしものを。
   されど、そは信ぜずともよし。
   人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
   すべて眠りし女(をなご)今ぞ目覚めて動くなる。
   
   一人称にてのみ物書かばや。
   われは女ぞ。
   一人称にてのみ物書かばや。
   われは。われは。

 宣言は平塚らいてうが書いた。
 あの有名な「原始女性は太陽であった。----青鞜発刊に際して----」である。

   原始、女性は実に太陽であつた。真正の人であった。
   今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような
   蒼白い顔の月である。
   偖(さ)て、ここに青鞜は初声を上げた。
   現代の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
   女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
   私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或るものを。
   そして私は少しも恐れない。
   …

「青鞜」の創刊号の表紙の絵を描いたのは長沼智恵子であつた。彼女は後に高村光太郎の妻となり、「智恵子抄」に描かれた。

                                                       

広島、恨み…そして安吾の随筆から

2016年05月29日 | エッセイ
   

  
 広島をアメリカの現職大統領として初めて、オバマが訪れた。多くの日本人が「謝罪」を期待したのかもしれない。むろん謝罪の言葉はない。
 オバマ大統領のヒロシマ訪問に際してのアメリカと日本の大騒ぎに対し、即反応したのは中国と韓国であった。すなわち「ヒロシマを持ち出し、戦争の被害者面をするな。日本は戦争加害者であることを忘れるな」ということであろう。
 両国ともまことに執念深く、正直、日本人としてはなはだ不快の念を禁じえない。しかし日本が戦争加害国であることは間違いない。加害者はじきに忘れても、被害者はその恨みを忘れがたい。
 坂口安吾が「堕落論」に書いたように、特に概して日本人は忘れっぽく、昨日の敵は今日の友などと「思い込む」。お互い、いろいろあったが水に流して仲良くやろうと「思い込む」。相手は「お互いだと、水に流せだと」と思っているのに。
 さっぱりと、済んだこと、終わったこと、過去のことと、簡単に水には流せない。しかし、例えば中国では政治的な理由(低利の円借款を結ぶにあたって)で、それを口に出さず、国民が口に出すことも禁じていた時代があった。その後に国力が十分に付き、日本人が忘れていた(ふりをしていた)ことを、彼等はまた政治的な理由で言い出し、日本を戸惑わせ続けるのである。
 日本は中国に対し厖大な額に上るODAを、つい近年まで続けてきた。三百億円程度の無償援助は今も続いている。相手は世界第二位となった超大国なのである。何か日本政府に「負い目」があってのこととしか思えない。

 確かに、日本は加害国であった。その負い目があるのだろう。南京の虐殺は数の問題ではない。十万人だろうが三万人だろうが三千人だろうが虐殺は虐殺だ。またヒロシマ、ナガサキの原爆投下も虐殺は虐殺だし、三月九日から十日にかけての一晩の空襲で十万人の人が亡くなったのも虐殺だ。
 愚かな指導者による戦争は、加害国となり、戦場となった国々に大きな被害を与え、また国内に甚大な被害を受けたのである。さらに大陸や半島から内地に引き揚げる途次に、多くの日本人が虐殺にもあったのだ。
 しかし、アウシュヴィッツとヒロシマは第二次世界大戦の残虐性において絶対悪の象徴となったのである。ヒロシマも東京大空襲における焼夷弾の雨も、残虐性においては異なるところはない。一瞬に焼かれたか、一晩中燃え続けた炎に追われて焼死したかの差でしかない。
 あらゆる戦争による死、国家の名で行われる暴力は残虐なのだ。この残虐の惨状の原因は、日本の政治指導者、軍事指導者ら戦争指導者にあり、彼等の罪業を許すわけにはいかない。もちろん伊丹万作の言う通りでもある。
「だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらない…。…だまされたものの罪は、…あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしに封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。」

 中国や韓国等は声も大きく執拗だが、フィリピンは第二次世界大戦で最も多くの死者を出している。またマレーシアの作家イスマイル・フセインの次の言葉を知るべきだろう。

「広島に原爆が落とされたとき、私自身は十二歳でした。その時に、原爆に対して私の家族がどんな反応を示したかをよく覚えています。大変に興奮状態でした。原爆の投下をラジオで聴いて、家族は、大変な技術の進歩だ、…長い間の戦争に終止符をうってくれたと話していました。長い間のマレーシアの苦しみがこれで終わって、戦争から解放されたという興奮がマレーシアの村々を駆け巡ったのです。」

 マレーシアの小さな村なのである。広島に原爆が投下された翌日には、それが
「原爆」であることがラジオで報道されたのだ。小さな集落の家々から老若男女が飛び出し、歓喜にわいたのである。
 注目すべきは二つある。日本はマレーシアの人々にそれほど憎まれていたということである。何をやってきたかが知れるであろう。また、日本国内では広島に大きな爆弾、(何か新型爆弾)が落とされたらしい、というわずかな報道と噂だけのときに、マレーシアの小さな村で、かなりの情報が報道されていたということである。日本国内はそれほど情報統制がなされていたということなのである。日本人は南京陥落の報道にわき、祝賀行事も行われたが、南京で何が行われたかについては東京裁判で耳にするまで、ほとんどの国民は知らなかったのである。報道統制とは愚民化政策、奴隷化政策のことでもある。

 さて、坂口安吾の「堕落論」にこうある。
「この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で…。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
 武士は仇討のために草の根を分け乞食になっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼等の知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照し、忽ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。…今日の軍人政治家が未亡人の恋愛に就いて執筆を禁じた如く、古の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。」

「私は天皇制についても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生み出されたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起こしたこともあるけれど、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。…
 要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変わり易いから「節婦は二夫に見えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於いて人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於いて軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。」
 安吾は「続堕落論」でこう続ける。
「いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。…
 自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。」
 さらに坂口安吾はこう続けた。
「日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。」

 私は今ほとんど新しい本を読まないが、古い本を引っ張り出しては読み直すことにしている。内容を完全に失念しているため、実に新鮮で刺激的である。特に昨今の政治状況、事件や報道を見聞きするにつれ、その危険に思い当たるのである。坂口安吾の「堕落論」も「散る日本」も面白い。つまり今の状況と日本、日本人が、それらのエッセイが書かれた時代が示す符合が、思い当たるのである。

三浦鐵太郎の小日本主義

2016年05月28日 | 言葉
三浦鐵太郎は東洋経済新報社の主筆、専務として、日本の大国主義、軍備の拡張・軍事費の急拡大、帝国主義的拡張・大日本主義に真っ向から反対し、小国主義、小日本主義の論陣を張った。

「大日本主義か小日本主義か」

小日本主義は小軍備主義を意味す。何となればこの主義の眼目とする所は、内外に対する商工業の発展にありて、領土の拡張にあらず、ただ軍備に待つ所のものは、自国の絶対的平和と、対外貿易の安全とを擁護し得れば足り、このほかに何ら望む所なければなり。かくてこの主義の立場より観れば、軍備なるものは国民生活上むしろやむを得ざる必要に属し、決してこれによって国民の威厳を維持し、その福祉を増進せんとは願わず。これをもって軍費はこれを極度の小規模に維持するをもって理想とし、産業はいうに及ばず、思想、道徳、文芸、科学の向上を進歩を持って誇りとす。


東洋経済新報社は町田忠治(後に民政党総裁)が創立し、天野為之が活躍した。天野の教えを受けた植松孝昭、三浦鐵太郎の同期生らが編集、執筆し、植松が代表の時に片山潜を招き、その論陣は急進化していった。三浦は片山の強い影響を受け、後に新報社の経営を担当し、編集・主筆を石橋湛山に任せた。この植松、三浦の思想は石橋に引き継がれ、だいぶ後に武村正義に引き継がれている。

光陰、馬のごとし キーストン

2016年05月27日 | 競馬エッセイ
                                                             


 競馬は時に劇的である。喜劇は常に多くの競馬ファンによって演じられ、悲劇はいつも馬に降りかかる。馬の悲劇は見るものの胸をつまらせ、時に涙が止まらない。
 私はその馬のレースを見ていない。その時のレース映像はどこかにあるのだろうが、まだ見る機会を得ていない。だがその馬の生涯最高のレース「東京優駿(ダービー)」は、東京競馬場のミュージアムで見ることが出来る。
 馬の名をキーストンという。古い競馬ファンたちは一様に言う。今まで一番泣けたのは、キーストン最後のレースだと。彼らは四十年以上前の、その時の様子を話しながら、うっすらと目を潤ませる。
 キーストンの父は、ソロナウェーという日本に最初に入ったアイルランドの一流馬である。9戦6勝、アイルランド2000ギニーの優勝馬だ。血統的にはスピード系のマイラーで、早熟型である。イギリスのオークス馬や2000ギニー馬を輩出して日本に来た。母のリトルリッジもアイルランドから来た。リトルリッジの父はミゴリという長距離血統の馬で、その父は底力血統の長距離馬ボアルセルである。
 日本でもソロナウェーは期待に背かぬ良い産駒を出した。キーストンとテイトオーの二頭のダービー馬と、ベロナ、ヤマピットの二頭のオークス馬であり、ハツユキは桜花賞馬となった。

 キーストンの馬主は伊藤由五郎といい、大の鉄道ファンで知られた。彼は持ち馬に特急の名前をつけた。二冠馬コダマ、皐月賞馬シンツバメ、アサカゼ、ヒカリ等である。無論キーストンは、アメリカのペンシルヴァニア鉄道の超特急キーストンから名付けられたものである。
 キーストンは関西の松田由太郎厩舎に預けられた。彼に騎乗したのは山本正司騎手である。山本は武田文吾厩舎からデビューしたが、兄弟子に天才騎手の栗田勝がいて、山本より一年デビューが早い松本善登騎手も騎乗機会が少なかった。山本は不満を抱き、五年目に高橋直厩舎に移籍した。その時、武田師はすこしも咎めなかったそうである。後に山本は移籍を後悔したという。もっと武田門下で、下積みとして学ぶことがたくさんあった筈だったと…。
 キーストンは栗毛に近い明るい鹿毛の馬だった。そして男馬にしては430キロ台と小さかった。SF作家の石川喬司は「半ズボンの似合う少年のようだ」と書き、多くのファンがその形容に同意した。どこか幼さが残る、どこか頼りなげな、どこか初々しい馬…。
 キーストンの背で山本は胸が弾んだ。何という素軽さだろう、何という柔らかさだろう、そして何というスピードだろう。まるで雲に乗っているようだ。そして何と重馬場が上手な馬なのだろう。
 デビューから無傷の六連勝。うちレコード勝ちが三回。ハナから先頭を切って、ゴールまで他馬を寄せつけず逃げ切るのである。おそらく逃げようとして先頭に立ったのではなく、スタートからの絶対スピードの違いで先頭に立ったのである。しかも二着馬に十馬身差が二回、七馬身差が一回。
 しかし…キーストンには不安があった。まず距離の壁である。そして世評では、栗田勝騎乗のダイコーターが一番強い。ダイコーターはシンザンと同じヒンドスタン(その父ボアルセル)の子である。底力のある長距離血統だ。どんなレース展開になっても関係なく、相手をねじ伏せるような横綱相撲の差し切り勝ちである。一度キー ストンに敗れているが、そもそも晩成型の血統なのである。スプリングSでキーストンは軽快に逃げたが、ゴール前であっさりとダイコーターにかわされて七連勝はならなかった。ダイコーターは強かった。がっしりとした大人の男なのである。少年のようなキーストンは、まさに子ども扱いにされた。
 競馬はやってみないとわからない。最初のクラシックレース皐月賞で、二番人気のキーストンはいつものように逃走したが、十四着に沈んだ。一番人気のダイコーターも穴馬チトセオーに届かず二着となった。あの強いダイコーターが負けた。

… ダービーの前、大先輩の栗田勝が山本に声をかけた。 「おい正司…ええか、ダービーは2400メートルやで。お前はキーストンで逃げてばかりおるけど、ダービーはそうはいかへんよ。もし本番でお前が、ただ逃げの一手にでたら、俺がゴール前できっちり差し切ったるよ」
 皐月賞馬チトセオーが故障し、キーストンは二番人気になった。この美しい少年のような馬を応援したい、というファンの判官贔屓と思われる。ダイコーターは圧倒的な一番人気である。山本の耳に自信満々の栗田の声が蘇った。しかしキーストンには逃げしかない。当日は昨夜来からの雨である。蹄の大きなダイコーターには苦手な馬場で、キーストンは重馬場巧者である。「勝てるかもしれない」と山本は思った。
 キーストンの馬体も雨に黒く濡れていた。彼はハナから先頭に立ち、泥も被らず先頭のまま三コーナー、四コーナーを曲がり、最後の直線も先頭のままゴールをめがけて走り続けた。馬群を割って泥だらけのダイコーターが猛追してくる。しかしキーストンは、二馬身近い差を保ってダイコーターに勝った。
 武田文吾師は「おめでとう正司、うまく乗ったな」と山本を誉めた。
 秋の菊花賞は重馬場だったが、キーストンはダイコーターに差されて二着に敗れた。古馬となってからダイコーターは急に弱くなった。晩成型の血統なのに。…疲労が蓄積したか、おそらく精神的な理由で闘争心をなくしたのだろう。
 キーストンも体調を崩したり、脚部不安も出た。誰もが引退を予想したが、六歳(現馬齢五歳)になったキーストンは競馬場に戻ってきた。復帰戦に二着した後、いずれも中距離のレースを飛ぶように逃げて四連勝した。五馬身差、八馬身差、五馬身差、七馬身差の圧勝である。
 そして12月17日、阪神大賞典3000メートル、負担斤量59キロ、キーストンとの対戦を避ける馬が多く、わずか五頭立てである。無論、圧倒的な一番人気だ。
 キーストンは当然のように先頭に立ち、軽快に逃げた。向こう正面では八馬身の差をつけた独走状態である。第四コーナーも後続馬を離したまま回った。…突然、キーストンが前のめりになると、山本正司はその首から放り出されたように前方に飛んだ。倒れた山本から7、8メートル前に出てキーストンは止まった。黄色く冬枯れて穴だらけの芝は硬く、頭から叩きつけられた山本は昏倒したまま全く動かなかった。キーストンは首を曲げて振り返り、そんな山本を見た。彼は山本のところに戻るように歩き出した。それは三本脚である。痛めた左前脚は皮一枚でつながり、ぶらぶらと揺れた。スタンドから悲鳴があがった。駄目だ、動いては駄目だ、じっとしていろ…。しかし キーストンは三本脚でそろそろと、倒れたままの山本の傍らにたどり着くと、彼の顔に鼻先を付けた。二度三度、鼻先を山本の耳に、顔に押しつけた。何度もそれを繰り返し、山本を起こそうとしているのである。「大丈夫? ねえ起きて」「ごめんね…ねえ、起きて」…キーストンが歴戦の盟友・山本を気遣っている。山本は朦朧とした意識のうちに、キーストンの鼻先と、彼の顔を心配そうに覗き込む 大きな黒い目を見た。「大丈夫? ごめんね」とキーストンの優しい目が言った。山本はゆっくりと両手を動かし、その鼻先と顔を撫でた。彼はキーストンの脚が折れてぶらぶらしているのに気づかなかった。「大丈夫だ、キーストン、ありがとう、大丈夫だ…」
 厩務員や競馬会の職員たちが駆け寄って来る足を、山本は見た。山本は再び意識を失った。そのレースを実況していた関西テレビの松本暢章は、ふるえた涙声で放送を続けた。スタンドのファンは、みな泣きながらその様子を見まもった。馬運車で運び出されたキーストンは、直後に予後不良と診断され、苦しまぬよう薬殺処分された。
 その夜、病院のベッドでキーストンの骨折と死を知らされた山本は、声を上げて泣き続けた。その後、山本正司はキーストンの話になると、人前も憚らず泣いて、涙が止まらなかったそうである。騎手を引退し、調教師となり、定年で調教師も引退した山本正司は、 今もキーストンの話になると、泣くそうである。そして、四十二年も経つのに、古い競馬ファンたちは、声を震わせて語り、涙ぐむのである。ああ、キーストン…。

              (この一文は2009年4月18日に書かれたものです。)