芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

縮図

2016年09月30日 | コラム
   
 
 東京都中央卸売市場の豊洲新市場建設担当者たちは、端から豊洲の土壌に強い不安を抱き続けていたに違いない。あの土地は食べ物を扱う市場としては「不適格」だと。
 豊洲新市場は100年続く市場だという。いかに東京ガス時代の土を2メートル削り取り、砕石を敷き詰め、その上に2メートルプラス2.5メートルの盛り土をしても、10年、20年もすれば、きれいな盛り土に、あってはならないベンゼンやトルエン、シアン化合物、六価クロム、ヒ素が地下水とともに浸透し、再び汚してしまうのではないか。
 地下水も、それらに含まれるそういった毒物も、一定のところに留まらないのである。それらは動く。ましてや日本は地震国である。震度3程度でも地下でそれらは動く。震度5で液状化し、噴出する恐れもある。きれいな盛り土をし、土壌汚染対策工事を施したとしても、数十年も経てば地下の危険物は染み出してくるのではないか、という強い不安である。

 しかし絶対命題は「何が何でも豊洲新市場への移転」である。それは築地の土地を売却し、アジア有数のカジノや超高層ホテル、超高層マンションを誘致・開発したい利権集団たちに、そそのかされ、せがまれた都議や、国会議員、権力者たちがいるからだろう。さこへオリンピック誘致の成功と、オリンピックのためのインフラ建設をを、これ幸いと結びつけた利権集団たちに、そそのかされ、せがまれた都議や、国会議員、権力者たちがいるからだろう。
 石原都知事時代に東京ガスの豊洲の土地に目をつけ、東京ガスに売却を要請した担当トッフは、都知事本局長の前川耀男氏(※)であった。彼のもとで、都と東京ガスの間で合意がなされたと発表され、その後、前川氏は東京ガスに執行役員として天下った。利益相反する相手側への天下りである。
(※ 前川氏は2014年春に練馬区長選に出馬し、自公の推薦を受けて当選した。現在2期目である。)
 
 そこへ2011年3月11日の大震災と震度5強の揺れで豊洲の用地は液状化し噴砂した。このとき猛毒が検出されたと思われる。土壌・建設担当者はショックだったに違いない。それは豊洲の用地は食の市場としては不適格であるということだ。しかし「築地市場の豊洲新市場移転」は利権集団たちから命じられた絶対命題である。まず、液状化と毒の噴出を隠さなければならない。
 20日後の31日に、東京都は東京ガスと、東京ガス豊洲開発から豊洲用地を10.5ヘクタール分を蒼惶と購入した。瑕疵担保特約のない異例の土地購入であった。
 さらに同日、東京都は日建設計に建物部分の仕様書を示し、蒼惶設計の契約を結んだ。仕様書には建物下のモニタリング空間も要検討と添えられていたという。
 6月に日建設計から都に提出された最初の設計図には、建物下は空洞になっている。わずか三ヶ月で巨大施設の設計図はできない。つまり日建設計とは1年以上前から仮発注あるいは不正な闇発注をしていたのであろう。
 とにかく日本中の目が東北の震災と津波、原発事故という未曾有の激甚災害に向いているうちに、「蒼惶と」市場としての不適格を隠蔽するように契約を急いだのだろう。
 しかも、後々その決定過程や、不適正な様々な決定がバレた時の、責任の曖昧さを幾重にも緩衝材のように挟み込み、さらに曖昧に分散し、縦割り、横の情報共有なし等の言い訳も想定し、故意の操作もしてきたのだろう。
 私には二年間の土壌検査の結果もデータも改竄、捏造していたとしか思えない。もうそれだけ信頼性はないのである。

 おそらく、この豊洲新市場も、オリンピック予算が当初の7千億が3兆を超えるという話も、まことに大日本帝國的、日本的な社会の縮図で、山本七平や丸山真男らが指摘した通りの、責任の所在がはっきりしない、誰も責任をとらないシステム、無責任の体系そのものなのであろう。

                                                     

後の先

2016年09月29日 | 相撲エッセイ
 
 この一文はだいぶ前に書いたものだが、いつのものか忘れてしまった。白鵬の優勝回数が大鵬に並んだとあるから、その頃のものにちがいない。



 白鵬がついに大横綱・大鵬の優勝回数三十二回に並んだ。あとは前人未踏の記録に挑み続けるのだろう。
 彼は角聖と呼ばれた双葉山の「後の先」を理想としているそうである。「後の先」は柔道、剣道、相撲など、多少異なるようである。相撲における「後の先」とは、立ち合いである。
 少年たちは相撲部屋に入門するとすぐ、立ち合いのスピードを叩き込まれる。両者が仕切り線で睨み合い、相手より速く鋭く踏み込むことを叩き込まれるのだ。十両から幕内に上がると、立ち合いのスピードが全く違うと言う。さらに上で取るには、より鋭い力強い踏み込みが必要なのである。
 千代の富士や白鵬、日馬富士の立ち合いのスピードは凄まじい。かつて中京大学スポーツ科学の湯浅景元教授が千代の富士の立ち合いの速さを計測すると、それは陸上短距離の王者カール・ルイスのスタートと全く同じスピードだったという。
 相撲の、双葉山の「後の先」は、相手より遅れて立つ立ち合いである。しかし双葉山はすぐ自分の十分な組み手となって相手の動きを止め、相手を押し込み、仕留めるのである。白鵬は双葉山の古い映像を繰り返し見ながら、「後の先」の奥義を研究しているらしい。しかし白鵬でも、その「後の先」を年に数番しか見せていない。
 これは当たり前で、白鵬も角界入りした十代後半から、誰よりも速い、鋭い立ち合いを叩き込まれてきたのである。立ち合いでは本能のように身体が動き、その鋭さ、速さは素晴らしい。
 さらに、双葉山の「後の先」は、作戦としての立ち合いではないからである。それは相手より遅れて立ってしまったときに、本能のように対処する方法なのである。
 相手より立ち合いが遅れてしまっても決して慌てない。慌てて前に出ようとか、変化しようとか、腰高のまま攻めようとかしてはいけない。相手より腰(重心)を低く、下から、内から、スッと入る、差すのである。基本は重心の低さであり、慌てない不動心なのである。この双葉山の「後の先」は大鵬にも見られた。相手の突進を受けて立ち、組み止める。


加藤省吾と海沼實

2016年09月28日 | エッセイ
                                                              

 海沼實は才能にあふれ、自身仕事が早く、また上質な曲を数多く手がけた。その仕事の手早さや上質さを、他者にも要求した人かもしれない。もちろん、その方たちの才能や質を、海沼が信頼していたからに違いないが。

「スグオイデコフ カイヌマ」の電報に呼ばれた斎藤信夫は、千葉の成東町から急ぎ上京し、海沼の家を訪ねた。それは芝であったろうか。その頃の海沼は自分が歌唱指導する音羽ゆりかご会の童謡歌手・川田姉妹の家の二階に暮らしていたらしい。
 海沼はJOAK(NHK)ラジオの依頼で、「外地引き揚げ同胞激励の午后」という特別組のために曲をつくるのだが、その詞を斎藤の「星月夜」にしたいと言った。そして新しい三番の詞を書いてくれという。
 聞けば、12月の24日の1時半ころに、最初の復員兵を乗せた船が浦賀に入港するので、彼らを迎えるため、1時45分からの現地生中継放送になるのだという。
 船が接岸し、船を降りた将兵たちを前に「引き揚げ援護局」の偉いさんが挨拶し、その後、海沼のピアノを伴奏に少女歌手の川田正子の歌で、そのご苦労を慰め、励ますという。海沼はすでに「星月夜」に曲を付けていたのに違いない。
 しかし海沼が局からの要請を受けてから、詞を選び曲を作るまで十分な時間があったとは思えない。彼は手元のたくさんの詞の中から、記憶に残っていた詞を探し、「これだ」と決めたに違いない。
 おそらく海沼は斎藤に「こんな感じの曲を付けました」と、聴かせたのではないか。
 斎藤信夫は焦ったかも知れない。ほとんど時間がない。おそらく斎藤はその日は成東に戻らず、旅館に投宿して、そこで三番の詞を作ったのでないか。
 斎藤がその詞を渡したのが当日の朝である。ここで初めて海沼から「里の秋」に改題しませんか、と提案されたのだろう。そして、浦賀港からの生中継は回線故障のため、内幸町のスタジオからの放送に変更になったことを聞いた。
 彼らは(おそらく斎藤も同行したのではないか)川田正子を連れて、共に内幸町に行ったのではないか。局の担当者が、すぐにGHQの民間検問部の許可をもらいに走り、OKをもらってくるまでの間、海沼はいつものように川田正子の音域に合わせ、ワンフレーズごとに歌って彼女に教えた。この天才的童謡歌手はすぐに覚え、歌えた。
 まことに忙しい「師走」のクリスマスイブだったのだ。まあ当時はクリスマスイブなんていう時代ではなく、みんな飢え、生き延びるのに必死だったのだ。…私の勝手な想像まじりの「里の秋」の話である。
 ちなみに川田正子と音羽ゆりかご会のことである。昭和8年、海沼が音羽の護国寺の貫主・佐々木教純の共感を得て、寺内の一室を借り受け、児童合唱団の会をつくった。それを喜んだ海沼實の同郷(松代)で彼の恩師であった草川信が、自分の代表曲「ゆりかごの歌」を会歌として贈り、「音羽ゆりかご会」となった。川田正子とその妹の孝子、そして美智子の姉妹はそこから育ち、正子は童謡のスター歌手となったのである。

 築地市場最後のイベント、築地市場祭り「ありがとう築地」のステージで、童謡歌手の雨宮知子さんに歌っていただいた。その時に私から「必」としてリクエストしたのは、「かわいい魚屋さん」であった。それは歌っていただいたが、彼女がオープニングの曲に選んだのは「みかんの花咲く丘」であった。築地には青果市場もあり、それもいいだろうと思った。
「かわいい魚屋さん」は加藤省吾の作詞、山口保治の作曲である。そして「みかんの花咲く丘」の作詞も加藤省吾であった。

 加藤省吾が生まれ育った静岡県の大潟村(現富士市)は、高台に位置し、田子の浦が眺望でき、さらに駿河湾が霞みながらどこまでも広がっていた。
 田子の浦では、荒天や波の高い日を除けば、朝ともなると地曳網が引かれ、種類も豊富なたくさんの魚が獲れた。昼頃には、天秤の両端に魚を入れた籠を担いだ行商(振り売り)が、村々の家を回って歩いた。威勢良く「こんちわーす! 魚いかがです?」
 加藤省吾の家は十代続いた旧家で裕福だった。しかし父親が相場で失敗し、両親は四人の子を残して失踪した。兄弟も離散し、彼は富士宮の菓子屋の子守奉公に出され、その後に叔父の家に預けられた。辛い日々であった。しかし両親を恨む気持ちはわかなかったという。きっと、止むに止まれぬ事情があったのだろう…。
 昭和10年に東京に出て、薬屋に勤め、旋盤工になり、やがて印刷会社に就職した。自転車に乗って回る営業だったという。
 彼は以前から古賀政男作曲、島田芳文作詞の「丘を越えて」を聴いて励まされ、自分もああいう詞を書きたいと思い、詞を書いてはレコード会社に持ち込むようになった。
 しかしどこのレコード会社にも専属の作詞家がいて、流行歌を手がけていた。加藤はそれらの専属作詞家があまり手がけることのないジャンルの詞を書こうと思った。例えば童謡もいい、そうだ童謡を書いてみようと思った。
 ある日、自転車で回っているときに、庭先でゴザを敷いて「ままごと遊び」をする幼い子どもたちを見た。彼は着想を得た。このままごと遊びの中に、当時普通にあった「御用聞き」を入れよう、いや生まれ育った村でよく見た「振り売り」「棒手(ぼて)ふり」の魚屋さんを入れよう…。江戸時代の話に登場する一心太助も「棒手ふり」だ。その晩、彼が書いたのが「かわいい魚屋さん」である。

   一
    かわいい かわいい 魚屋さん
    ままごとあそびの 魚屋さん
    こんちわお魚 いかがでしょ
    お部屋じゃ子供の お母さん
    きょうはまだまだ いりません
   二
    かわいい かわいい 魚屋さん
    てんびんかついで どっこいしょ
    こんちわよいよい お天気で
    こちらのお家じゃ いかがでしょ
    そうねえきょうは よかったわ
   三
    かわいい かわいい 魚屋さん
    ねじりのはちまき はっぴ着て
    こんちわお魚 いかがでしょ
    大だい小だいに たこにさば
    おかんじょじょうずに いっちょにちょな
   
 昭和13年、「かわいい魚屋さん」はビクターから8インチ盤で出て、加藤省吾の初ヒットとなった。加藤省吾、23歳のときである。翌年に10インチ盤をつくると言われて収録スタジオに行った加藤は、「四番の詞を急いで書いてくれ」と言われた。本番録音の一時間前だったという。

   四
    かわいい かわいい 魚屋さん
    ままごと遊びの 魚屋さん
    こんちわお魚 売り切れだ
    まいどありがと ございます
    にこにこ元気で またあした

 そして加藤は消息も知れなかった両親と再会した。両親はずいぶん小さく見えた。彼には二人を恨む気持ちはなく、ただ生きて会えた喜びを素直に伝えた。
 やがて彼は印刷会社を辞め、音楽新聞社に入って雑誌の記者をしながら作詞も続けた。
 終戦後の昭和21年8月のまだ暑い盛りの頃である。加藤は月刊誌「ミュージックライフ」の編集をしていた。当時12歳の川田正子を取材に、芝の川田家を訪ね、そこで作曲家の海沼實にも会う約束をしていた。後に加藤は「運命の日」と言った。
「加藤さん、昼飯はまだだろ。お赤飯があるんだが、どうぞ召し上がれ」
 まだ昼には早かったが、お赤飯は滅多に食べられない時代だった。加藤は遠慮なくご馳走になった。食べている間に海沼が恐ろしいことを言った。
「加藤さん。実は正子が明日、静岡県の伊東市で、生放送のラジオ番組に出るのだが、その時に歌う曲がまだできていないんだ。これは東京のNHKのスタジオと伊東市の西国民学校の講堂をつないで、ラジオ初の二元放送をやるんだ。『空の劇場』という番組なんだがね。まあ、一回限りの放送なんだが…。今日の午後一番の列車で伊東に向かわなければならない。加藤さん、ちょうど良かったよ、詞を書いていってよ」
「ええっ〜」
 時計を確認すると猶予は30分もない。しかも海沼は加藤に注文を出した。
「伊東の丘に立って、海に浮かんだ島を眺めていると、黒い煙を吐きながら船が通っていく…。そんな情景を入れてほしいね…」
「…ぼくは静岡県の田子の浦を望む高台で育ちました」
「おお、いいねえ。それはちょうどいい」
 故郷の情景、なだらかな丘、みかんの木、みかんの可憐な白い花、海に浮かぶ島、沖を行く船を思い浮かべ、そして幼い頃の楽しい暮らし、母の笑顔も思い浮かべた。それは優しい母の顔だった…。戦争で母親を失くした子どもたちがたくさんいる。彼らの母親への想いも歌に託したい。
 加藤は20分で一気に「みかんの花咲く丘」を書き上げた。
 海沼はその原稿用紙をひっつかみ、正子の手を取って飛び出していった。列車の中で、海沼は加藤の詞を読み、曲を作っていった。列車は八分の六拍子で伊東に向かった。

   一
    みかんの花が 咲いている
    思い出の道 丘の道
    はるかに見える 青い海
    お船が遠く かすんでる
   二
    黒いけむりを はきながら
    お船はどこへ いくのでしょう
    波にゆられて 島のかげ
    汽笛がボウと なりました
   三
    いつか来た丘 母さんと
    いっしょに眺めた あの島よ
    今日もひとりで 見ていると
    やさしい母さん おもわれる

 伊東の旅館に着くと、海沼は東京のNHKの担当者に電話かけ、加藤の詞「みかんの花咲く丘」を書きとらせて、すぐにGHQ民間検問部の許可を取るよう伝えた。そして正子に列車の中で作ったメロディーを教えた。旅館の海沼に、GHQ民間検問部の許可も出たという電話が入った。…
 翌日、正子は海沼が自分の名刺の裏に書いた詞を見ながら、間違えないように歌ったという。
 やがて「みかんの花咲く丘」は大ヒットした。
 それが契機となって、加藤はコロムビアレコードと専属契約を結んだ。その後にキングレコードに移籍し、子ども向けのテレビ番組「隠密剣士」や「怪傑ハリマオ」などの主題歌を書き、それも大評判になった。
 そして加藤は年老いた母を引き取り、その最後を看取った。

                                                                 

再び赤川次郎さんの言葉

2016年09月27日 | 言葉
                                                               


 「積極的平和主義」って何ですか。言葉をそこまでばかにしていいのかと
 腹が立ちますね。
 なぜ言葉を変えようとするのかといえば、何かを隠そうとしているから
 ですよ。本質をどう隠すかということに苦労した挙句、戦争を平和と言
 いかえて、平和のために戦争に参加するんだと言う。


中山晋平の音楽世界

2016年09月26日 | エッセイ
   

 NHKの紅白歌合戦は、当初から年末に行われていたわけではない。第1回も2回も、1月3日に東京放送会館の第1スタジオを使い、夜の7時半から9時までの一時間半の生放送だったのである。第3回は1月2日に放送されている。
 この昭和27年の第2回紅白歌合戦の審査委員長は中山晋平だった。
 この年の秋、黒澤明の「生きる」(東宝製作・配給)が発表された。東宝創立20周年記念映画である。志村喬がブランコを揺らしながら「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンは有名である。この映画はその後、第4回ベルリン国際映画祭で、ベルリン市政府特別賞を受賞し、第26回キネマ旬報ベスト・テンの1位、昭和27年度芸術祭賞を受賞した。

  一
   いのち短し 恋せよ乙女
   あかき唇 あせぬ間に
   熱き血潮の 冷えぬ間に
   明日の月日は ないものを
  (映画では「明日という日も/ないものを」と歌っている)
  二
   いのち短し 恋せよ乙女
   いざ手をとりて かの舟に
   いざ燃ゆる頬を 君が頬に
   ここには誰れも 来ぬものを
  
 大正4年4月、島村抱月と松井須磨子の芸術座が、ツルゲーネフの「その前夜」をかけた時に、その劇中歌が「ゴンドラの唄」で、中山晋平作曲、吉井勇の作詞だった。この歌は大ヒットした。
 …それから37年も経った。昭和27年の12月1日、晋平はこの「生きる」を恵比寿駅前の映画館に見に行き、あまり座り心地のよくない客席に身を沈め、志村喬の唄う「ゴンドラの唄」を聴いた。
 その翌日、晋平は倒れた。病院に運び込まれ診察を受けると、彼は膵臓癌に冒されていた。晋平は自宅のある熱海の熱海国立病院に運ばれて治療に入った。しかし年の瀬の30日に、その生涯に幕を閉じた。

 中山晋平は、明治20年、長野県下高井郡新野村の代々名主の家の四男として生まれた。父は村長も務めた。晋平は幼い頃から、近くの新野神社に奉納する式三番叟の笛役に加わった。「ほう」と周囲の大人たちが感心した。晋平の音楽の才であろう。
 日清戦争が始まった頃、中山家を相次いで不幸が襲った。父と長兄が亡くなったのである。家の暮らしは急迫した。母ぞうは残された四人の子どもを育てることになった。晋平は下高井高等小学校に進んだ。音楽好きで、先生にオルガンの弾き方を教えて貰った。しかし、満足に学費が払えずに中退せざるをえなかった。彼は小諸の呉服店に奉公に出て家計を助けたが、母と別れた淋しさから店を辞め、家に戻って来てしまった。
 母は晋平を復学させ、働きづめに働き、彼を卒業させ、さらに長野県師範学校講習科第三種に進学させた。晋平は無事修了すると、瑞穂村柏尾尋常小学校の代用教員になった。16歳である。
 彼は子どもたちに音楽を教えることに喜びを感じた。子どもたちも彼を「唱歌先生」と呼んだ。準訓導になったが、どうしても本格的に音楽を学びたいと強く思うようになった。
 縁あって、島村抱月の実弟に嫁いだ北信濃出身の女性から、早稲田大学教授の島村抱月が書生を求めていると聞いた。耳よりな話である。抱月はイギリス、ドイツ留学から帰国したばかりであった。晋平は兄弟から反対されたものの、母の後押しもあって上京し、抱月の家を訪ね、彼の面接を受けた。
 こうして晋平は抱月の書生となり、家事全般から雑用、論文の清書、「早稲田文学」の編集助手まで、なんでもやることとなった。
 その間、事あるごとに抱月は「大衆なくして芸術は存在しえない」と晋平に言い聞かせたという。やがて抱月は晋平の音楽の夢を叶えるべく、洋楽家の東儀鐡笛の書生になることを勧めた。抱月と鐡笛は親しく、家もごく近所だった。晋平は鐡笛の書生となった。鐡笛は晋平にヴァィオリンを教えた。
 再び抱月の家に書生として呼び戻された晋平は、彼から金を借りて中古オルガンを買い音楽の勉強を続けた。明治41年に晋平は東京音楽学校予科に入学した。さらに本科ピアノに進級し、たまたま同郷の先輩・高野辰之から、歌謡史を学ぶ機会も持った。
 卒業後、浅草区の千束尋常小学校で音楽教師となったが、学校へは抱月の家から通った。
 
 時代は大正に入った。この頃、晋平は三角関係に巻き込まれる。それは師の抱月と芸術座の看板女優・松井須磨子、抱月の妻の三角関係である。抱月の妻は、晋平に二人について探りを入れさせるのである。これが晋平の心を悩ませた。やがて夫人は抱月と須磨子の現場を押さえ、一悶着あった。晋平はうんざりした。
 大正3年、芸術座は第三回公演にトルストイの名作「復活」をかけた。抱月は晋平にその劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を命じた。作詞は抱月と相馬御風によるものである。
「カチューシャの唄」は松井須磨子の独唱で、大評判となった。このデビュー曲で、作曲の中山晋平の名は一挙に知られたのである。晋平27歳であった。
 晋平の曲の特徴は「ヨナ抜き」と「ピョンコ節」である。つまり西洋音楽の七音音階からファとシを抜いた五音音階が活かされており、またスキップしたようなリズムなのである。
 翌年4月、「ゴンドラの唄」で再び大評判をとった。その成功の直後、母のぞうが亡くなった。母の葬儀から戻る車中、その悲しみが晋平にひとつのメロディを口ずさませた。それが「生ける屍」の劇中歌「さすらいの唄」となった。作詞は北原白秋である。これも大ヒットとなった。
 大正7年の11月、師の島村抱月が大流行のスペイン風邪で亡くなった。その二ヶ月後に、悲しみにくれた松井須磨子が自殺し、芸術座は消滅した。

 中山晋平は北原白秋や野口雨情と組んで、童謡に曲を付けるようになった。これらも評判となり、晋平は千束尋常小学校を辞め、作曲に専念することにした。白秋や雨情とは童謡に限らず、歌謡曲や新民謡も手がけた。白秋とは「砂山」「にくいあん畜生」「恋の鳥」「酒場の唄」「アメフリ」…。雨情とは「船頭小唄」「シャボン玉」「黄金虫」「波浮の港」「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」「雨降りお月さん」…。また西条八十ともコンビを組み、「東京行進曲」は佐藤千夜子の歌唱で大ヒットした。さらに東京音楽学校出身の声楽家たちとの仕事も増えていった。それにしても、中山晋平の音楽の幅は広く、大きく、なんと豊かなのだろう。

   一
    己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき)
    同じお前も かれ芒
    どうせ二人は この世では
    花の咲かない 枯れ芒
   二
    死ぬも生きるも ねえお前
    水の流れに 何変(かわ)ろ
    己もお前も 利根川の
    船の船頭で 暮らそうよ

 晋平と雨情は、その童謡に対する考えもほとんど一致し、また新民謡づくりでも一致した。晋平は野口雨情を心から敬愛した。

   一
    磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
    波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
    明日の日和は
    ヤレホンニサ 凪るやら
   二
    船もせかれりゃ 出船の仕度
    島の娘たちゃ 御神火ぐらし
    なじょな心で
    ヤレホンニサ いるのやら

 昭和に入った。軍靴の音が近づいてくる。やがて日中戦争が起こり、それが長引き、拡大していった。
 さらにアメリカとの戦端が開かれると、本居長世らと平和の同志であった野口雨情は失意のうちに、茨城に、さらに宇都宮の鶴田に疎開していった。
 山田耕作らが盛んに忠君愛国、戦意高揚の軍歌を作る中、本居長世は音楽活動を止めた。晋平は公的な役職は続けたが、軍歌は苦手で、ほとんど作曲しなくなった。そしてかねてから持っていた熱海の別荘に居を移した。
 晋平を衝撃が襲った。昭和20年1月、敬愛する野口雨情の訃報が入ったのである。晋平は慟哭したという。晋平はついに沈黙し、熱海に籠り、終戦を迎えた。…

   一
    ソソラ ソラ ソラ うさぎのダンス
    タラッタ ラッタ ラッタ
    ラッタ ラッタ ラッタラ
    あしで 蹴り 蹴り
    ピョッコ ピョッコ 踊る
    耳にはちまき
    ラッタ ラッタ ラッタラ
   二
    ソソラ ソラ ソラ 可愛いダンス
    タラッタ ラッタ ラッタ
    ラッタ ラッタ ラッタラ
    とんで 跳ね 跳ね
    ピョッコ ピョッコ 踊る
    あしに赤靴
    ラッタ ラッタ ラッタラ

 この雨情と晋平の「兎のダンス」は、聴くたびに思わず微笑んでしまう。まさに中山晋平の特徴とされる「ピョンコ節」の真骨頂だろう。