芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

競馬エッセイ 馬の競走データ

2016年10月02日 | 競馬エッセイ
                                                      

 競走馬のデータを調べるとき、現役馬なら「netkeiba.com」 を見る。現役馬か抹消馬か、牡牝、馬齢、毛色、生年月日、調教師、馬主、生産牧場、生産地、空欄の場合が多いがセリ取引価格、中央競馬獲得賞金、地方競馬獲得賞金、通算成績、主な勝鞍、近親馬、血統、適正レビュー(コース適性、距離適性、脚質、成長力、重馬場)。そして競走成績。登録すればレース映像も見ることができるが、通過順、ペースと前半3ハロンのタイム中盤3ハロンのタイム、上がり3ハロンのタイム、馬体重、勝ち馬(2着馬)、そのレースでの獲得賞金がわかる。
 そのレースを実際に見ていなくても、データを眺めているだけで、その時のレースぶりが目に浮かんでくる。
 しかしnetkeiba.comでは古い馬のデータが少ない。ハイセイコーの競走データもない。シンザンやシンポリルドルフのような、G1を何勝もした馬のデータなら見ることできるが、重賞1勝程度の馬のデータはない。

 古い馬を調べるには「優駿達の蹄跡」(ahonoora.com)が実に重宝する。「個人による 日本・海外競馬のデータベース」とある。中央競馬・地方競馬・海外競馬、競走馬・レース等のデータベースサイトなのだ。
 このサイトでは、特に中央競馬のこれまでの全重賞勝ち馬のデータが素晴らしい(重賞勝ち馬でもないのに掲載されているのは、ソロナオール、ロイスアンドロイスくらいであろうか。どちらも万年3着の個性派であった)。
 掲載データは、引退競走馬名鑑、現役競走馬名鑑(特に重賞で活躍中のオープン馬)、生年別競走馬名鑑、国内重賞史、年別海外主要重賞競走一覧、受賞馬一覧、引退中央騎手一覧、引退中央調教師一覧、Special Data(賞金ランキング、競走馬記録等)、そしてアホヌラゲーム館。
「アホヌラ」とはこのサイトの管理人の方のハンドルネームである。アホヌラ(Ahonoora)…これまた実にマニアックな馬名ではないか。
 アホヌラ(アホヌーラ)は1975年生まれのイギリスの古い重賞勝ち馬で、クラリオン系の種牡馬であった。同年生まれの日本の馬で言えば、ファンタスト、サクラショウリ、インターグシケンの時代である。
 アホヌラはクラシックのG1で活躍したわけではなく、GII、GIIIのスプリント戦を勝った典型的な短距離のスピードのスペシャリストであった。種牡馬として、さらに母の父としては、欧米で名うてのスプリンターやスピード馬を数多く輩出した。インディアンリッジなどが後継種牡馬として産駒にそのスピードを伝え、成功している。
 またアホヌラの産駒の適正距離は、父よりも伸び、イギリスダービー馬ドクターデヴィアスも出した。
 1992年、産駒のドクターデヴィアスはイギリスのダービー馬となった後に、3歳のダービー馬として初めてジャパンカップに参戦したが、トウカイテイオーの10着に敗れ、そのまま日本で種牡馬となった。
 福島記念を勝ったオーバーザウォールや、ファンタジーステークスを勝ったロンドンブリッジを出し、ロンドンブリッジは桜花賞2着、オークス優勝馬のダイワエルシエーロを出し、母の父としても結果を出した。しかしドクターデヴィアスは買い戻され、イタリアで種牡馬となって、2006年、2007年にはリーディングサイアーに輝いている。何といってもイギリスのダービー馬なのである。

 こういうことを調べるには、「優駿たちの蹄跡」は実に便利この上ない。このデータを眺めているだけで、実に楽しく飽きることがない。ここにはレース展開、レース中の位置取りは載っていないが、次々と記憶がよみがえってくる気がする。また自分の記憶違いや思い込みにも気づかされる。
 かつて寺山修司は、アメリカで競馬観戦を楽しんだおり、向こうの競馬新聞のレーシングフォームに感動したことを書いている。それぞれのレースと、それに出走する競走馬の過去のデータを列記した一覧表(日本のスポーツ紙では馬柱と呼ぶ)である。彼がそれをエッセイに紹介したことが契機になり、日本の馬柱も改良され、特に精緻に進化したものが「競馬ブック」だった。
 しかし寺山は「馬の個人史」というものが知りたいと書いた。例えば、ヒカルメイジ、コマツヒカリのダービー馬兄弟を輩出した盛田牧場は、雪深い青森の牧場で、雪解けになった春の放牧場は、いつも泥田のようにぬかるんでいる。そこで育った兄弟は道悪が得意になった。…という馬の個人史である。さすがにまだそれは、レーシングフォームに反映されていない。
 また「netkeiba.com」や「優駿達の蹄跡」にも、それらの牧場や育成場などの情報は掲載されていない。私が知りたい情報は、どんな仔馬だったのか。甘えん坊? きかん坊? いつもひとりぼっち? 育成牧場時代に仲が良かった同期生は?…まさに馬の個人史のデータ(情報)である。

競馬エッセイ 田辺裕信騎手について

2016年09月02日 | 競馬エッセイ
                                                               

 田辺裕信は三十代前半の中堅騎手である。実は私は数年前から「田辺裕信がいま一番上手い騎手ではないか」と言ってきた。特にその成績を精査したわけではなく、印象からそう思ったのである。
 競馬学校の騎手課程を出たばかりの新人以外では、フリー騎手がほとんどという現在、彼は珍しく美浦の小西一男厩舎の所属だった。しかし今年(2016年2月)からフリーとなった。
 彼は乗り馬と騎乗数に恵まれず、相当苦労していたように思う。騎手のリーディング上位で大活躍する乗り手の多くは、社台・ノーザンファーム系の生産馬やその所有馬と、それらの馬を管理する一握りの調教師・厩舎(特に関西・栗東)、そして何々軍団と称される辣腕エージェントと契約できた人たちで、先ず幸運な機会を掴んだと言ってよい。実は大した腕を持ってなくても、それなりにリーディング上位を争う騎手となれるのではないか。調教師も騎手もその実績が上がれば好循環を生み続ける。
 なにしろ社台・ノーザンファーム系の馬は極めて能力が高く、また外厩としてのトレーニングセンターで調教、出走、メンテの循環も良く、常に最高の状態に整えられ、万全の態勢でレースに臨んでくる。
 したがってレースでは常に評価も高く、人気馬となることが多い。能力が高く、万全の体調で臨むわけだから、騎手も勝つ、もしくは上位に入線する可能性が高くなる。しかしそれはごく一握りの調教師、一握りの騎手に偏る。

 しかし現在の中央競馬において、本当に上手い騎手とは、非社台・ノーザンファーム系の馬、人気薄の馬、明らかに能力の劣る馬に乗りながら、それを上位にもってくる、あるいは勝利に導く騎手であろう。私の印象では、田辺裕信がそういう騎手なのである。
 私は田辺裕信の、その数字を精査したわけではなかったが、明らかに能力も見劣りし、人気薄の馬に乗りながら、上位に突っ込んでくる、実に穴っぽい騎手なのである。そういうレースは、田辺が一番多いのではないか。しかも田辺は「確実な」穴っぽい騎手なのである。

 彼は年間の騎乗数が三百数十鞍と少なく、30勝台の騎手であった。しかし田辺裕信騎手は2011年を境に変身した。結婚が契機かもしれない。
 その年は、868鞍に乗り、前年の成績を大きく上回る88勝を挙げて「中央競馬騎手年間ホープ賞」を受賞した。アンタレスステークスで初の重賞勝ちも果たした。デビューから10年の初重賞制覇は遅いほうであろう。上手い騎手だと思うのだが(2014年に「フェアプレー賞」を受賞)、地味で、重賞レースもG1レースも騎乗機会が少なかったのだ。
 彼が騎乗しオープンクラスに出世した馬は、重賞レースになると実績のある騎手に乗り替えられてしまうのである。たまに騎乗する重賞レースは、その馬の主戦騎手がもっと有力な馬に騎乗することが決まったか、あるいは騎乗停止処分中、あるいは怪我で乗れない場合などであった。
 彼にフェブラリーステークスで初G1勝ちをもたらしたコパノリッキーも、そういう馬であった。それまではルメールや福永祐一、戸崎圭太が騎乗していた。田辺はフェブラリーSでコパノリッキーに初めて騎乗した。彼らは16頭立ての16番人気だった。
 その後、田辺とコパノリッキーは5戦して2勝2着2回であったが、年が変わると武豊に乗り替えられた。
 今年、田辺はロゴタイプで安田記念(G1)を勝った。ロゴタイプは三年前の皐月賞馬(デムーロ騎乗)だが、その後全く勝てなくなっていた。デムーロ騎手やルメール騎手でも勝てなかった。田辺は中山記念からロゴタイプに騎乗した。このときは7着である。前走のダービー卿チャレンジトロフィーでは連に絡む2着に来ている。安田記念はモーリスが1番人気で、ロゴタイプは8番人気に過ぎなかった。しかし彼らは鮮やかに勝った。

 つい最近、「神競馬マガジン」というサイトに田辺騎手に関する記載を見つけた。その筆者は私と同じように「田辺は上手い」という強い印象を抱いていたと思われる。彼はその数字を精査した。
「田辺裕信騎手は上手いと言われるが本当か? 回収率はなんと…」という記事である。
 筆者はデータ(データ期間2010年9月4日〜2015年8月9日までの過去5年間)とその表を示してくれる。これが素晴らしい分析と比較なのである。表は割愛し、少し長いが引用させていただく。
「…そして、その他の騎手の全騎乗成績。…他のトップ騎手と比較するとその(田辺騎手の)回収率の高さがわかる。単勝回収率は川田騎手とならんでトップ。複勝回収率は福永騎手よりは低いものの川田騎手と並んで2位タイと、両方とも高い水準である。それと合わせて、田辺騎手の勝率・複勝率を見てみるとその凄さがわかる。トップ騎手と比べると著しく勝率(8.8%)・複勝率(25.9%)が低いのである。しかしそれなのに回収率は高い。もしかすると田辺騎手は人気薄をよく持ってくる騎手なのか? 
 そう思って調べてみると、単勝1.0倍~単勝9.9倍の馬の単勝・複勝回収率は共に89%。
 一方単勝10.0倍以上の単勝・複勝回収率は91%・83%と、そこまで人気薄を得意としている印象はなく、人気馬もしっかりと勝たせている。
 では何が違うのか? それは騎乗した馬の平均オッズである。福永騎手は平均単勝14.1倍、岩田騎手は平均単勝14.6倍というように、トップジョッキーは平均オッズがおのずと低くなる。しかし田辺騎手の場合は平均単勝36.5倍とかなり高い。
  一般的に平均オッズが低くなる理由は2つ、1つは騎手が人気であること。それを象徴するように武豊騎手は平均オッズ13.8倍と低い。そして2つめは強い馬に乗せてもらっていること。福永騎手、岩田騎手は実力も凄いが、乗っている馬の質も凄い。馬の質が良いとオッズも下がり配当も低くなる。」
「つまり田辺騎手は人気の馬に乗せてもらえる機会が圧倒的に少ないということだ。馬に恵まれず勝率・複勝率は低いが、人気の馬もしっかりと乗りこなせる技術はもっている。…全体の回収率も高いが重賞は単勝回収率202%、複勝回収率105%と抜群に高く、新馬も単勝回収率137%、複勝回収率106%とこちらも優秀。「田辺騎手は上手い騎手」これは本当のことであり、回収率的には「田辺騎手はおいしい騎手」ともいえる。」

「神競馬マガジン」のこの筆者、素晴らしい! 私は印象だけで「田辺は上手い、人気薄に乗って上位に持ってくるのだから」と言っていたのだが、彼はそれを数字で証明してくれたのである。
 最近、やっと田辺裕信騎手の評価が高まり、関西の有力調教師からの騎乗依頼も増えつつあるらしい。

光陰、馬のごとし 花に舞う

2016年08月26日 | 競馬エッセイ
           この一文は2009年3月24日に書かれたものです。


   春三月 縊り残され 花に舞う
 三月二十日、駅に向かう途次、道沿いの小学校の桜の木を見上げ、つぼみのふくらみぐあいを見た。ふとこの句を思い出し、それを呟いた。妖しくも美しい句である。
 1911年の一月、大逆事件の幸徳秋水や管野すが等が絞首刑となった。その春、大杉栄はおそらくその生涯で唯一の俳句を詠んだ。大逆事件のおり赤旗事件で獄中にあった大杉は、奇しくもそれがアリバイとなって、近代天皇制の国家暴力から免れ得たのだった。近年、地球温暖化の影響で桜の開花は早まっているが、この年の開花も早かったのであろう。三月に舞う花びらの下にたたずみ、大杉は死んだ秋水や管野すが等を思ったに違いない。

 今回の話は、大杉栄や大逆事件、日本近現代史の癌である近代天皇制などという大それたものではない。たんなる競馬の話なのである。
 その日、新聞社会面の片隅に安田伊佐夫の小さな訃報記事を見つけ、また「春三月 縊り残され 花に舞う」という句が脳裏をよぎった。
 安田伊佐夫については2007年の暮れに書いたことがある。それは「元JRA騎手に有罪判決」という報に接してのエッセイである。元JRA騎手とは穴のヤスヤスと呼ばれた安田康彦のことであり、彼の父が安田伊佐夫だった。

 安田伊佐夫はシンザンで著名な、かの武田文吾調教師の弟子としてデビューしている。その後、島崎厩舎の騎乗依頼を受けることが多くなり、主戦騎手となった。やがて一頭の馬に出会った。タニノムーティエである。この馬はフランスの至宝シカンブルの血を引く。シカンブルは1948年生まれ、競走成績は9戦8賞。フランスの大レースを総ナメにした。典型的な底力血統である。
 その子ムーティエも大レースの勝ち馬だったが、気性と健康に難があって、「血統の墓場」日本に来た。気性と健康の難とは、つまり気違い馬だったのである。ムーティエには「身喰い」という悪癖があった。身喰いは自傷行為である。彼は自分の胸の肉を噛み切るような馬だったのだ。

 タニノムーティエも気性の激しい馬であった。しかしデビューから連戦連勝、圧倒的な強さを見せた。そして東上し、これまた連戦連勝の東のアローエクスプレスと激突した。彼らはトライアルレースを含めダービーまで、まさに一騎打ちの死闘を続けた。皐月賞、ダービーのアローの鞍上は関東のリーディングジョッキー、闘将・加賀武見だった。
 当時ラジオ関東の競馬実況に、ガナリのとっつぁんと親しまれた窪田康夫アナがいた。彼の名実況は忘れるものではない。「アローとムーティエがまたやった!アロー!ムーティエ!アロー!ムーティエ!やっぱりムーティエだっ!!ムーティエが強い!!」
 皐月賞、ダービーを制したのはタニノムーティエだった。狂気の名馬タニノムーティエを得て、安田伊佐夫は颯爽と二冠ジョッキーとなった。
 三冠も期待されたタニノムーティエだったが、その後は喘鳴(のど鳴り)のため全く精彩を欠いた。走る彼の喉からは、ヒューヒューという悲しい笛の音がファンの耳にも聞こえた。彼は引退し種牡馬になった。しかし、アローエクスプレスが種牡馬として大成功したのに引き比べ、彼は全く精彩を欠いた。彼らの戦いは、現役時代とは全く逆転したのである。

 年月は飛ぶように流れる。安田伊佐夫は引退し調教師となった。そしてハイセイコーの子のライフタテヤマの調教師として健在ぶりを示した。やがて息子の康彦も騎手としてデビューした。康彦はなかなかいい騎乗センスを見せた。また度胸もよく、大レースで大穴を出し、それなりの活躍をしていた。インタビューを受けて見せる笑顔は愛嬌もユーモアもあった。父が管理していたメイショウドトウで宝塚記念も制した。秋華賞も制し、よく重賞レースで人気薄の馬に騎乗しては大穴を開けた。ファンは「穴のヤスヤス」と呼んだ。
 しかし彼については、その素行の悪さが噂にのぼるようになった。二日酔いで調教を休んだり、酔ったままで調教に乗って調教師等から叱られた。またレース当日になって理由なく騎乗をキャンセルした。失踪騒ぎも起こした。こうして厩舎とのトラブルが絶えなかった。
 2000年の夏、康彦は札幌市内を酒気帯びの危険運転とスピード違反で現行犯逮捕された。2ヶ月間の騎乗停止処分を受け、騎乗が決定していた大レースを棒に振った。その後、彼は次々と有力なお手馬を降ろされ、騎乗数が激減していった。康彦の素行はますます荒れた。酒に溺れ、荒んだ生活を送った。馬主も他厩舎の調教師も、そしてついに父も彼を見放した。伊佐夫は自厩舎の馬に武幸四郎を乗せるようになり、康彦を騎乗させなくなった。

 これは私の想像に過ぎぬが、ある晩、父は子を激しく詰り、伊佐夫はついに息子に手を挙げたのではないか。康彦も酒に酔って暴れ、ことによると父伊佐夫に暴力をふるったのではないか。その晩康彦はふらつく足で家を飛び出したのではなかったか。
 おそらく翌日、伊佐夫は康彦の引退届を提出したのだ。突然の康彦の引退はファンを驚かせた。何があったのだろう。そう言えば康彦は最近さっぱり騎乗してないな…。
 その後、康彦の失踪が伝えられた。行方知れずだという。2007年初秋、康彦は京都市内のコンビニ店で店員に難癖をつけ、「殺すぞ」と恐喝の上、五千円未満の商品を奪ったことで逮捕された。このとき記者たちに取り囲まれた伊佐夫は「すでに勘当し、親子の縁を切っております」と言った。暮れに京都地裁は康彦に懲役二年、執行猶予三年の刑を言い渡した。

 短い記事によれば、伊佐夫は京都の大学病院で息を引き取ったとのことである。享年64歳、病死だという。まだまだ若いと思う。彼が息子の康彦のことを思わなかった日はあるまい。その悲しみが彼の命を縮めたか。康彦とは和解したのだろうか。康彦は父の死に目に会えたのだろうか。
 親族だけの密葬らしい。その席に康彦はいるのだろうか。「お別れの会」が京都のホテルで開かれるとのことだが、ぜひその会場に、がなりのとっつぁんの実況録音のテープを流して欲しい。
「アローとムーティエがまたやった! アロー!ムーティエ! アロー!ムーティエ! やっぱりムーティエだっ!! ムーティエが強いっ!!」…
 
 なぜか「春三月 縊り残され 花に舞う」という句が、私の脳裏から去らない。

                                                               

光陰、馬のごとし 功労馬の話

2016年08月20日 | 競馬エッセイ
           (この一文は2009年の1月に書かれたものです。)

 昨年の11月、アジア競馬会議を記念して、あのオグリキャップが東京競馬場に姿を現した。23歳である。既に種牡馬も引退している。馬体は雪のように真っ白だった。ファンとの事実上のお別れなのだろう。
 オグリキャップは「芦毛の怪物」と呼ばれた。母ホワイトナルビーも、その父シルバーシャークも芦毛である。父のダンシングキャップもその父ネイティヴダンサーも、ダンシングキャップの母の父グレイソブリンも芦毛である。オグリキャップの芦毛はこれらの血によるものである。シルバーシャークやグレイソブリンということは、本質的にマイラー色の強い血統であろう。

 彼は岐阜の地方公営競馬・笠松でデビューした。あまり注目を集めることのない競馬場である。母のホワイトナルビーの所有者だった小栗氏の仔分けの形で、彼の馬として鷲見厩舎に入った。生産者の稲葉牧場には二百五十万円支払われたという。中央競馬に入る馬たちの数千万円や超一流血統馬の数億円に比べれば、格安の馬だったのだ。
 父のダンシングキャップの子どもたちは地方競馬に実績があったが、中央では強い馬を出していない。つまり小回りのダートコース向き血統だったのだ。安馬オグリキャップはこの地方の小さな競馬場で12戦10勝を挙げて注目された。主戦騎手は笠松のリーディングジョッキー安藤勝巳(通称アンカツ)である。二度の敗戦は、笠松が小回り過ぎたためであろう。後に手綱をとった武豊は、オグリはコーナーで手前を変えるのが下手だったと証言している。広く直線の長い競馬場なら、多少コーナーでもたついても彼の瞬発力が補って余りあったことだろう。

 やがてオグリは中央競馬に馬主登録のある佐橋氏に二千万円で売却された。「俺も中央で、オグリに乗り続けたい」とアンカツは痛切に思ったにちがいない。アンカツは二度とオグリの手綱をとることが叶わなかった。
 地方競馬の騎手が中央に移籍することはできなかった。年に数度の騎手や馬の交流レース、招待レースでしか、中央で騎乗することはできなかったのである。しかしアンカツの痛切な思いはやがて徐々に叶っていくのである。あのアンカツを中央で走らせたい…競馬界にも様々な規制緩和が検討され始めた。オグリと彼の笠松時代の主戦騎手アンカツが、その契機となったのだ。

 こうしてオグリは中央競馬の栗東・瀬戸口厩舎に入ったが、四歳クラシック登録がなく、皐月賞にもダービーにも菊花賞にも出走できなかった。オグリを追加登録で出走させよというファンの声も挙がったが、それが認められることはなかった。追加登録が認められるようになったのはその数年後であり、オグリがその契機となったのだ。
 思えばオグリキヤップは、JRA、競馬界における幾つかの規制緩和の契機となったのだ。オグリキャップの功労であろう。
 
 クラシックに出走できないオグリは、関西の皐月賞トライアルに相当する毎日杯に楽勝したが、その時敗ったヤエノムテキが皐月賞に優勝したのである。そしてダービーはサクラチヨノオーが、菊花賞はスーパークリークが優勝し、彼らは強い世代と評された。しかし彼らより強いのはオグリではないかと囁かれていた。
 彼らの本当の勝負の決着は古馬となってからである。そして彼らの一年上の世代に、古馬になって急激に強くなった馬が二頭出現した。一頭は芦毛のタマモクロス、もう一頭は公営大井競馬のイナリワンである。彼らはやがて凄まじいまでの死闘を演じることになる。ここではそれらの激闘を振り返ることはしない。

 オグリキャップは小さな地方競馬からやってきて、中央のエリートたちを敗り、国民的なアイドルホースとなった。オグリは縫いぐるみとなって、車に飾られ、家の窓辺に置かれ、子どもたちに抱かれた。彼は第二のハイセイコーと呼ばれた。
 この間にオグリは佐橋氏から近藤氏に数億円で売却された。佐橋氏が脱税で馬主資格を剥奪されることになったからである。この所有の変更は名義貸しだったとも囁かれているが、無論オグリには馬耳東風のことであったろう。
 私はオグリを見続け、つくづく馬が精神的動物だと教えられたものである。オグリは一時全く不振に陥ったのだ。素晴らしい調教タイムを叩き出し、見事に馬体が絞られ、芦毛に連銭が美しく浮き出、毛艶が良くても、全く精彩を欠くレースを繰り返したのである。彼は全く闘志を失っていたのだ。闘志が蘇ったのが、彼の最後のレース、有馬記念であった。

 オグリキャップは種牡馬として全く不振だった。唯一の後継種牡馬となったノーザンキャップは47戦3勝の二流馬で、ろくな機会のないまま廃用となった。ロマンや可能性より、競争原理と市場原理のみが支配するようになった競走馬の生産界には、あの吉田権三郎や一太郎のような頑固な信念のロマンチストはいなくなったのである。
 可能性というのは、オグリキャップの祖父ネイティヴダンサーは、その能力が隔世遺伝する傾向があると言われてきたからだ。オグリの父ダンシングキャップは二流だが、オグリは一流だった。そのオグリの子は二流三流でも、次の世代に一流馬が出る可能性はあったと言うのだ。これは妄説である。その可能性は全くなかっただろう。
 ネイティヴダンサーの直仔でも、ダンサーズイメージやレイズアネイティヴのような超一流馬も出ている。特にマジェスティックプリンス、アリダー、イクスクルシヴネイティヴ、ミスタープロスペクターを輩出したレイズアネイティヴの種牡馬としての実績は凄まじい。
 オグリは凡庸な能力しか持たなかった父ダンシングキャップの仔として生まれ(※)、地味な地方競馬場でデビューし、その類い希な能力で中央へと駆け上り、エリート馬たちに互して全く引けを取らず、彼らを敗り、ファンの胸を高鳴らせた。彼は奇蹟の馬だったのだ。実に競馬界の素晴らしき功労馬である。なぜなら、彼の子どもたちは未勝利馬でも短歌を詠ませ、エッセイを書かせるのだ。
 かつて安倍晋三が「美しい日本」を連呼していたおり、私は「美しい日本に」と題したエッセイを書いた。かの「オダギリ馬」の一頭であるウツクシイニホンニを、寺井淳の「聖なるものへ」という歌集の中に見出したのだ。未勝利のまま死んだ彼女は、オグリキャップの娘だった。

    ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知

※ 母ホワイトナルビーはオグリローマン(父ブレイヴェストローマン)を出し、名牝の仲間入りをした。この半妹も笠松競馬場でデビューして7戦6勝(主戦騎手はアンカツである)、中央に移籍し桜花賞を勝った。


                                                               

競馬エッセイ 雑草たちの挽歌

2016年08月16日 | 競馬エッセイ
                                                               

 むかし競馬に興味を持ち始めた頃、スポーツ紙の競馬欄や予想紙の出馬表に、そして血統欄にサラ系、アア系などの表記があって気になった。アア系とはアングロアラブ系のことである。
 当時、中央競馬にイナリトウザイという小柄な牝馬が、アア限定レースでデビューし、恐ろしく強かった。父はサラブレッドのカリムで、その短距離のスピード馬という血を受け継いでいた。アア限定レースで3戦3勝(レコード勝ち2回)、サラ系のオープンレースに駒を進め、3戦3勝(レコード勝ち1回)、後の桜花賞馬となった良血馬タカエノカオリも破っている。その時点で彼女は「アラブの魔女」と異名をとった。その年、優駿賞最優秀アラブに選ばれた。
 翌年オープンクラスで4戦1勝後、アラブのレースが数多く組まれていた公営競馬の大井競馬場に移籍した。大井ではアラブダービーに優勝し、その後のアラブ王冠賞は彼女との対決を回避する馬でレースが不成立となった。その憂さ晴らしのようにサラ系の重賞・東京盃(1200)に出走し、驚異的なコースレコードを叩き出した。このタイムは当時の東京競馬場・芝1200のレコードタイムより0.3秒も早く、計時係は時計の故障を疑った。ダートで、芝のレコードより速いタイムを出したのである。引退し繁殖入りしたイナリトウザイはキタノトウザイを生み、キタノトウザイは種牡馬となって、四度、アア系のリーディングサイアーに輝いた。

 イナリトウザイよりずっと以前に、「アラブの怪物」と呼ばれたアア系のセイユウという馬がいた。父はサラブレッドのライジングフレーム。とにかく強くアア系の重賞・読売カップでは7馬身差の圧勝。66キロや68キロの斤量も、全く苦にすることもなかったという。もはやアア系では敵はなく、以後サラブレッドを相手に戦い続け、皐月賞馬や後の天皇賞馬も破り重賞も制した。
 彼は天皇賞6着を最後に引退したが、レース後に骨折が判明した。渡辺正人騎手はそれがなければ「勝っていたかもしれない」と言った。生涯49戦26勝(うち対サラブレッド戦は24戦5勝)。種牡馬となってアア系の肌馬を数多く集め、「性雄」と異名をとった。

 今はアラブのレースそのものが消滅したが、サラ系の表記はそのままである。サラ系のレースとはサラブレッド及びサラブレッド系種の馬のレースである。サラブレッド系種とは、血統が不明なためサラブレッドとして認められていないがサラブレッドと思われる馬、あるいはサラブレッド以外の馬とサラブレッドを掛け合わせた馬のことである。
 現在は、8代続けて純血サラブレッドを配合し、加えて国際血統書委員会に「サラブレッドと同等の能力を有する」と認められた馬は、サラブレッドとして登録することが可能となっている。

 血統不明、不肖、混血の、この「サラ系」と蔑視されたような馬たちに、いつしか私は惹かれていた。サラ系のヒカルイマイが、とても届くまいと思われるような最後方から、良血のサラブレッドたちをゴボウ抜きにして、皐月賞とダービーを勝ったせいだろう。ヒカルイマイは雑草、反逆児、風雲児と呼ばれた。
 調べると、サラ系は決して能力が劣っているとも言えないのだが、種牡馬としてはアテ馬扱いで冷遇されるのであった。橋田俊三調教師が書いた小説「走れドトウ」にその悲哀が描かれていた。モデルはヒカルイマイと皐月賞馬のランドプリンスである。
 日本のサラ系は牝馬から始まっている。サラ系とされながら特に優れた牝系に、ミラ系とバウアーストック系がいた。ミラはオーストラリアから輸入されたが、港に着くと血統書がなかった。そのためサラ系とされた。
 バウアーストックはその血統書の中に、血統不明の馬がいたため、サラ系とされた。しかし近年の研究によるとほぼ確実に純血サラブレッドであると判明したという。
 そもそも日本の第一回東京優駿(日本ダービー)を優勝したワカタカはミラ系である。戦時中の優勝馬カイソウは母系にトロッター系種が入っていたため種牡馬になれず、名古屋師団の師団長の乗用馬となり、空襲で行方不明になった。カイソウは実は菊花賞に相当するレースも勝っているのだが、そのレースそのものが不成立となってしまった。

 ヒカルイマイもランドプリンスもミラ系であった。
 バウアーストック系もなかなか華々しい。まず成功のはじめは牝馬バウアーヌソルからであろう。このバウアーヌソルからアシガラヤマ(中山大障害・春)、キタノオー(父トサミドリ)が出た。キタノオーは朝日杯3歳ステークス、菊花賞、天皇賞・春に優勝し、ファン投票第1位に選ばれた有馬記念は2着だった。さらにキタノオーの全妹のキタノヒカリが朝日杯3歳ステークスを優勝。続いて全弟キタノオーザが菊花賞に優勝した。
 母となったキタノヒカリから牝馬のアイテイオー(父ハローウェー)が出てオークスに優勝した。さらにキタノダイオー(父ダイハード)が出た。この馬は函館3歳ステークス、北海道3歳ステークスなどを勝ち、ダービーの一番手と言われながら故障し、二年の長期休養後一度は復活したものの、底を見せずに7戦7勝の無敗で引退。種牡馬としてもサラ系のハンデがありながら、そこそこに評価されていた。
 繁殖にあがったアイテイオーは牝馬のアイテイシロー(父セダン)とアイテイグレース(父ゲイタイム)を出した。アイテイシローは重賞・京都牝馬特別に優勝した。アイテイグレースはヒカリデュール(父デュール)の母となった。

 ヒカリデュールは大井競馬場でデビューしたが、後に船橋に転厩した。古馬の5歳(現馬齢4歳)から愛知に転厩し、中京・名古屋・笠松で走り、着実に力をつけ始めた。6歳の夏になって中央競馬に転厩してきた。中央初戦の朝日チャレンジカップを7番人気ながら快勝。続く天皇賞・秋は5番人気で2着、その年の暮れ有馬記念は3番人気で優勝した。彼はサラ系としては初めて、優駿賞年度代表馬に選出された。
 しかし、翌年の天皇賞・春でレース中に故障を発生し、競争中止となった。競争能力喪失の重症だった。引退して種牡馬になったが「サラ系」のため恵まれず、やがて廃用となり、その後は行方不明となったという。
 ヒカリデュールは流れ者である。その後は流れ流れて、どこかに乗用馬として引き取られ、幸せに天寿を全うしたと思いたい。それにしても、グランプリホースが行方不明になるとは、これが日本の競馬文化のレベルなのだろう。

 1984年のキョウワサンダーによるエリザベス女王杯優勝を最後に、「サラ系」のG1制覇は記録されていない。ちなみにキョウワサンダーはキタノヒカリのひ孫にあたる。
 また2000年1月にマイネルビンテージが京成杯を優勝して以降、サラ系馬の重賞勝ちは記録されていない。サラ系種は消滅寸前なのであろう。