芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

戯曲 ルドルフ あるいは…父たち、男たちの夜と霧(6)

2016年01月19日 | 戯曲
                                                          
10

   アウシュヴィッツ収容所
   背景に五本の巨大な煙突が見え、黒い煙を吐き出している。

   地の底から響くような不気味な音楽がかすかに聞こえる。
   暗く赤色ゆらめく舞台。

   死者たちが観客に向かって並んでいる。

  死者1 「囚人たちは脱衣室に導かれる」
  死者2 「今から身体を洗い消毒を受ける。各自の衣類は自分のものが分
      かるように、きちんとたたんで場所を覚えておくように申し渡さ
      れる」
  死者3 「脱衣後導かれる部屋には、換気孔や水道栓、シャワーがついて
      おり、完全に浴室らしく見せかけてある」
  死者4 「まず、子供を連れた女たちが、続いて男たちが入れられる」
  死者5 「ドアが音を立てて閉まり、外から手早くネジ締めされる」
  死者6 「天井の投入孔から、ガスを投入する。即座にガスを発生させる
      仕掛けが働く」
  死者7 「三分の一は即死する。ほどなく数分のうち全員が倒れる。10
      分後には身動きする者もない」
  死者8 「天候の具合、乾湿、寒暖の度合い、健康者か老人か子供かで、
      ガスの効果が現れるのに3分から5分の差がある」
  死者1 「ガス投入30分後、ドアが開かれ、換気装置が作動する」
  死者2 「すぐ屍体の引き出しが行われる」
  死者3 「肉体的変化は全く認められない。顔面に苦悶の跡はない」
  死者4 「屍体から、特殊部隊員が口をこじあけ金歯を抜く。指輪を抜き
      取る。女は髪を切られる」
  死者5 「屍体は昇降機に乗せられ、上の階の熱してある炉に運ばれる」
  死者6 「焼却時間は屍体の条件によって異なるが、平均20分である」
  死者7 「灰は炉棚から下に落とされ、運び出されて粉砕機にかけられる」
  死者8 「骨粉は、トラックでウイッスラ河に運ばれ、河に投げ込まれる」
  死者1 「流れはすぐに灰を運び、溶かしてしまう。
      …囚人たちは脱衣室に導かれる…こうして作業は間断なく続け
      られる…」

   音楽、音量大きくなり舞台は闇


11

   アウシュヴィッツ収容所
   所長室? 背景に五本の巨大な煙突が見え、黒い煙を吐き出している。

   暗く赤色に染まった舞台、赤い炎がゆらめくような効果。
   阿鼻叫喚の入り混じった不気味な音楽は、しだいに音量を増していく。

   その中で、部下たちに何やらてきぱきと指示したり、図面を広げたり、
   壁にかけたグラフにかきこませたりしているヘス。

   壁には《労働は自由への道》のスローガンと《卍(ハーケンクロイツ)》
   旗がある。
   舞台上を出たり入ったり、忙しそうに立ち回っている部下たち。

   死者たちの群れ、舞台ソデより次々と登場、首をたれ、ヘスたちの働き
   回るかたわらを行進していく。

   音楽に爆音も混じりはじめ、やがて音量最大となり、舞台しだいに暗く
   なっていく。

   突然《労働は自由への道》のスローガンが横に大きく傾き、やがて音を
   立てて落下する。
   《卍(ハーケンクロイツ)》の旗も片側がはずれ、ダラリと垂れている。
   時折、閃光が舞台上を走る。

   やがて舞台は完全な闇に包まれる。
   闇の中、サイレン、空襲、爆弾の落下音、炸裂音などが聞こえる。
   高射砲、機銃の射撃音も聞こえる。


12

   独房、暗い

   ヘスが観客に向かい合うかたちで机の前に座っている。
   ヘス淡々と、ほとんど無感情というほどに、淡々と語り出す。


  ヘス  「責任?…はい、当然私にあります。
      収容所内で起こった全てのことは、たとえどんなことであろうと
      も、最終的に所長の責に帰するものです。
      なぜならば、収容所規則には…収容所長は当該収容所の全部門に
      わたって完全に責任を負うと、明記されていますから。

       後悔? 反省?…いろいろあります。
      例えば…囚人の遺留品の仕分けは、もっと能率の上がる方法が
      あったはずだとか、隊員による着服を防げなかったことだとか…

       今になっても、技術的にあの個所をこうすれば良かったのでは
      ないかとか、ちょっとしたアイデアを思いつくことがあります。
      (かすかに笑う)今頃思いつくなんて…馬鹿げたことですね。
  
       悩み?…私だって心を持った人間です。
      ドクター・ギルバード、私だって人間です。
      …子供たちと充分遊んでやれなかったこと…
      私はいい父親ではなかったにちがいない。
      妻も子供たちも、ずいぶん淋しかったにちがいない。

      …今、たえず私を不安にさせるのが家族のこと、それだけです。
      みんなどうなるのだろうか、子供たちは立派に教育を受けられる
      だろうか、立派に成長していってくれるだろうか、妻は…妻はど
      うなるのだろうか…え?
      …いや妻は何も知りません。私の仕事の内容も、収容所内で行わ
      れていたことも、彼女は何も知りません!…いいえ! 彼女は何も
      知るはずがない、知らなかったはずです、
      本当です!
      …ドクター・ギルバード、彼女は何も知ってはいなかったのです
      …本当です…

      最近、不安で夜もなかなか寝つけません。
      家族を思うと…気がかりです。それだけが気がかりです。

       悔しいこと?…そう、上官に理解されなかったこと、同僚に妬
      まれていたこと、部下にいい目をしていると誤解されていたこと
      …。
       あの大量虐殺の開始以来、もう私は幸せではなくなっていまし
      た。重要任務、引きも切らぬ仕事、仕事、おおいかぶさってくる
      責任、責任…。

       ヒムラーもグリュックスも決して私の窮状に耳を傾けようとは
      しませんでした。グリュックスにいたっては、私の唯一の楽しみ
      が仕事だと思っていたのです。

       誰が…誰が好む仕事でしょう。…
       同僚たちは、私が上司にゴマをすったとか、うまく取り入って
      出世しただとか、陰口や嫉妬で私を悩ませました。露骨に足を引
      っ張られたことも度々あった。
      私は彼らに言いたい! 
      じゃあ君たちは、どれほど努力したのか? 私ほど仕事への熱意
      を見せたのか? 
       精一杯、努力、創意、工夫をしてきたか? 血の小便が出るぐ
      らい無我夢中で働いたか? 勤勉、努力、創意、工夫、己の人事
      を尽くさず、人の出世を妬むのはやめたまえ!

      …人への誠実、国家への忠実、仕事に対する熱意、勤勉、努力、
      創意、工夫、私は人事を尽くした! 

       私は走った、走った、ただ黙々と走り続けた…走っても、走っ
      ても、走っても、走っても…走っても荒野ばかり…
       時には緑の農場が見えたとも思ったが、それは地平線の蜃気楼、
      私の夢、ただの幻…誰も地平線までたどり着くことなんてできは
      しない。…でも、私は、人事を尽くしたのです。

      (いつしかヘスの両頬は涙にぬれている。涙をかくすように立ち
      上がるヘス)

      …ドクター・ギルバード、男は走り続けるしかないのです。

       ヒムラーは、たえず、信頼できぬ無能な分子を排除しようと努
      力していました。そのため、部下をたえずフルイにかけましたし、
      たえずテストが行われ、要求をいっそう厳しく重くしていきまし
      た。ほとんど人間に耐えられるギリギリの要求…そう精神的にも
      肉体的にも…耐えられる者だけが、彼に重用されたのです。

       彼は部下たちに口癖のように言っていた。強くなれ! 図太く
      なれ! 己を鍛え抜け! そして我が民族に尽くせ! その命
      を愛する祖国のために捨てよ! 愛する祖国に生きる愛する者
      たちのために死ね! その者たちのために血を流せ! 強くな
      れ、図太くなれ、鍛え抜け、
      …ヒムラーは実用的な、有用な人材を育てようと努力していまし
      た。強い精神力と実用的な能力を育てようとしていました。

      それがドイツの教育方針でもあったのです。…
      『知的な教育は意味がない。知識は子供たちや青年を損なうだけ
      である。現代社会に有用なことのみを身につけよ!』…まあ、も
      ちろん世界中のどこの国家でも同様でしょう。…ええ、私も、実
      用化された子供です。

       命令?…ええ、私は「はい」と言う他はなかったのです。命令
      を拒むなどということは…たとえどんな命令でも…思いも及ば
      ないことでした。私は組織の中の一人だから…私は命令を受けた、
      だから…それを実行しなければならなかった…しなければ、なら
      なかったのです。

       私にとって、問題はただ一つ。ひたすら前進すること、全体の
      状態を改善し、命じられた措置を達成すべく、がむしゃらに推し
      進めること…それだけでした。
       そう、あらゆる人間的感情を沈黙させねばならなかったし、心
      の奥深く埋め込まねばなりませんでした。
       私は命令を受けた。だから私は部下たちに、冷たい鉄の心を持
      った命令機械のようにふるまった…苛酷に。
       そう、たしかに私も、部下に対して苛酷であったと思います。
      失態や怠慢に腹を立て、ののしりもし、絶対に許されぬ振る舞い
      に及びもしました。

       しかし、私の立場、私の職掌柄から、私は、それらしく演じな
      ければならなかったのです。泣きじゃくる幼子も、心も裂けよと
      泣く母親も、慈悲を乞う親たちも、ガス室に入れるよう命令し、
      立ち会いもしました。ためらう部下をののしって、幼子を脇に抱
      えてガス室に投げ込んだりもした! 
       私が! 自ら! そう演じなければならなかった!

       昼となく夜となく、屍体を造り焼却させる、屍体から金歯を抜
      き取らせる、毛髪を切り取らせる…私は命令し、監督し、自ら何
      時間もその作業に立ち会い、直接手を下したこともありました。
       私は部下の者一同に、私が下した命令は、たとえどんな無惨、
      苛酷な命令であろうとも、断固として必要な命令なのだと、自ら
      確信しているかのように見せなければならなかったのです。…
       私は全員に注目されている存在だったから、命令、指令を下す
      ばかりでなく、どんな作業であれ、至る所、自ら立ち会う用意が
      あることを、全員に示す必要があったのです。

       もちろん、あの凄まじい作業、あの無惨な勤務に当たった部下
      たちは、時には監督中の私に歩み寄り、時には所長室に泣きなが
      ら入って来て、自分たちの沈痛な気持ち、自分たちの苦悩をぶち
      まけ訴えて来ました。しかし私は、彼らと同じ態度を取るわけに
      はいかない…同じ疑問、同じ苦悩を抱いていても…彼らと同じ態
      度は取れぬ。私は彼らをどなり飛ばし、その弱気をなじり、時に
      総統命令を楯に説き伏せ、なだめ、実行させました。

       この仕事は、ドイツを、我々の子孫を、手強い敵から永遠に解
      放するために必要なのだと。解放! 解放、誰もがこの言葉に弱
      かった。それでも落ちぬ者には総統の名を出した。我々全員にと
      って、総統命令は断固として背き得ないものであり、我々は、そ
      れを完遂しなければならないのだと。…そして、私は…同じ疑念、
      同じ苦悩を…誰にも…告白できませんでした。誰にも…。

    (椅子に座り込むヘス)

       ええ、私は、それらしく、演じなければならなかったのです。
      弱気は許されなかった。…私は弱気と見られぬよう、苛酷という
      評判を得ようと思ったのです。アウシュヴィッツの建設、大量虐
      殺の方法と工程の開発、その執行…私は苛烈に指揮を執り、命令
      しました。

       歯車?…ええ、そうでしょうね。私は第三帝国の巨大な虐殺機
      械の歯車の一つだったのでしょう。その機械が打ち砕かれ、エン
      ジンが完全に停止した今、私は運命を共にしなければならない。
      世界がそれを要求し…私もそれに異存はない。

       ユダヤ人?…個人的には、恨みも、憎しみも持っていません。
      …わかりません。危機感はありました。…仕事だったのです。

       そう、仕事だったのです。ヒムラーにしたってそうだったと思
      います。いつだったか、彼がアウシュヴィッツの視察を終えた後、
      車の中で独り言をつぶやいたのを、私は聞き漏らしませんでした。
       ヒムラーはこう言ったのです。『辛い仕事だ…』
       仕事だったのです。

      …ただ、ナチスのユダヤ人に対する認識は、本質的には間違って
      いなかったと思っています。しかし、方法的には失敗でした。
       そうでしょう、反ユダヤ主義を煽るはずが、世界中の同情を集
      めさせる結果になり、彼らの望みがかなえられる結果になるので
      すから。…
      だがユダヤ人は一つの象徴、あまりにも腹立たしい存在の別名…」

   ヘス、再び立ち上がり、舞台上をゆっくり、ゆっくりと歩き出す

  ヘス  「平和?…そりゃあ誰もが平和を望みます。
       (かすかに微笑を浮かべて)
       そしてやがて、平和という名の鳩どもが、地上を白いフンで
      分厚く被い尽くすにちがいない…私はそういう時代に生まれたか
      った。
       ヨーロッパで行われたことどもも、アジアで行われたことども
      も…愛も、憎しみも、おぞましきことどもも…
       (さも憎々しげな口調となるヘス)
       そう、あの不満そうに鳴く平和という名の鳩どもは…
      白いフンで分厚く覆い隠してしまうだろう。…その時私は…そう、
      今度はアジアがいい…その時私は産業戦士の一人として (胸を
      張るヘス)、 例えば、松上電器常務取締役藤沢工場長として、
      あるいは東京五洋電機専務取締役群馬工場長として、生産性の
      向上に寝食を惜しまない。例えば、四菱商事燃料事業本部海外炭
      部長として、国益のためと称して一社独占を画策する。
       例えば、日商岩田の航空機部長として、あらゆる手段で売りま
      くる。例えば、ソッチ水俣工場取締役総務部長として、当社と、
      患者の発病原因にはいっさい因果関係はございませんと頑張り通
      し、人知の限り裁判での勝利を目指す。
       例えば…例えば、私はきっと人事を尽くすに違いないのです。
      私はそういう時代に死にたかった。

       死?…死は風景、アウシュヴィッツ時代の私には…環境です。
      人は何にでも慣れっこになってしまうものです。
       戦場も、収容所も、職場も家庭も独房も、慣れてしまえば全て
      日常…累積する死も、降り積もる悲しみも、たとえどんな現実で
      も、繰り返されれば平板化していくものです。…そしてやがて、
      風化していく。
       どんな現実も、どんな悪夢も。それが現実。現実は全て夢。
       夢ですよ。目を閉じると、素晴らしく美しい緑の農場が見える
      のに、目を見開いたまま、目覚めの悪い夢を見てしまう。

       ドクター・ギルバード。
       精神鑑定の結果、ヘスは完全に正気だったと、こう皆さんに
      報告してください。ただ、ヘスは、疲れている、とても疲れて
      いるようだったと、伝えてください。
       そしてドクター・ギルバード、ヘスは正気だが、率直に言って
      自分はヘスを理解できないと、付け加えてくださってかまいませ
      んよ。そう言うと、世界中の正気の人々がほっとする。

      …それから、ドクター・ギルバード、ヘスはこうも言っていたと
      報告してください。…世界はおぼつかない偶成物から成り立ち、
      慣性の法則、作用と反作用がそこに働く…それがわかれば、世界
      は理解したも同然だと…」

   ゆっくりと、あたりを見回すヘス

  ヘス  「…私は子供の頃から、大の動物好きでしたので、(遠い日々を
      懐かしむように遠くを見る) 父母が私のある誕生日に『世界の
      愉快な動物たち』という絵入り写真入りの本を贈ってくれたこと
      があったのです。私はうれしくてねえ…日がな一日飽かず、その
      本をながめる毎日でした。

       中でも、私一番のお気に入りがバク。夢を食べるっていうのが
      気に入ったんですよ。そして一番興味を抱いた動物が…(ゆっく
      りあたりを見回し) こうして四角い独房の中で寝起きしている
      うちに、その動物のことを思い浮かべてしまうのです。
      …カメレオンってご存知でしょう? ええ、アフリカのマダガス
      カルや南アジアに棲息する爬虫類ですよ。体長は、そう20セン
      チから大きいもので60センチ、長い舌を素晴らしい速さで延ば
      し、虫を捕らえる。
       このカメレオンの最も際だった特性が、周囲の色に応じて自分
      の膚の色を、それに合わせてしまうことなのです。
       ジャングルの雨季が過ぎ、あたりが若葉で鮮やかな緑になると、
      彼は鮮やかな緑色になる。やがてジャングルが濃緑色となればそ
      れに合わせる。捕らえられ赤茶けた大地に置かれると、赤茶けた
      大地に同化する。時には、彼の棲息地、あの南国の空の色にさえ
      似てしまう。なんという順応性、なんて素晴らしい適応力。

      …この独房の壁に囲まれて考えた…カメレオンを、ぐるり六面、
      全て鏡でできた檻に入れたとき、彼は何色になるのだろう?
      …きっと、大きな目をぐりぐりさせて、ひどくみっともなく、
      とまどうのではないだろうか? …そう、その時カメレオンは、
      はじめて自分自身に似ることを、彼が彼自身であることを要求さ
      れるのです。
       自分本来の膚の色って何色だろう、自分の本当の姿はどれだろ
      うって。
       人間も実はカメレオンのように、いやカメレオン以上の、比較
      にならぬほどの順応性、適応力を備えているのじゃないか…時代、
      風土、社会、職場、サークル、家庭…。この独房の中で考えたの
      です。私、私本来の色とは何色だろう。私が私に似るとは…私自
      身って何なのだろう?…何者なんだ…私は?…何者?」

   ヘス、いつか舞台の前の方に立っている。その顔は無表情で固く、空間
   を見つめる目は冷たく、この世のものでない。ヘスの頭上より、トップ
   ライトのみの照明

  ヘス  「ルドルフ・ヘス?…(ゆっくりと、うなづく) そう、それは、
      私です…そして私は…(観客の方に指をさす。任意の点を指して
      いく)あなたです…あなたです、あなたです…あなたです、あな
      たです…あなたです…(指の動きは止まり、やがてゆっくり降ろ
      されていく腕)…

       人はみな、この世に生まれ落ちたその日から、営みという檻に
      囚われの身。…ここに入りたる者は、煙突による救い以外に出口
      はない」

   瞼を閉じるヘス
   舞台真っ暗闇となる
   阿鼻叫喚の入り混じった不気味な音楽が、かすかに鳴りはじめ、やがて
   裁判長の判決文を読み上げる声が響いてくる。

  判決文を読み上げる声「…ナチスドイツによる強制収容所において、奪わ
      れたユダヤ人の人命は、なお調査中の現在において、判明しただ
      けでも既に600万人を超し、うちアウシュヴィッツ強制収容所
      において虐殺された数は、300万人に及ぶ。
       この人間の尊厳を踏みにじった、残虐極まりない悪魔の如き所
      業は、断じて許し難い。
       1945年8月8日のロンドン協定、及びそれに付加された法
      廷規約、国際軍事法廷の定款にのっとり、ポーランド最高人民裁
      判所は以下の通りの判決を下すものである。
       判決。…平和に対する犯罪、戦時国際公法に対する犯罪、人道
      に対する犯罪を、全て起訴状の通り有罪と認め、元ナチ親衛隊首
      席警戒隊長、アウシュヴィッツ強制収容所最高司令官ルドルフ・
      フランツ・フェルディナンド・ヘスに対し、死刑を申し渡す。
      1947年4月2日」

   音楽、音量最大となる

   やがて暗く赤色ゆらめく照明が灯り、舞台上に全出演者が死者の如く立
   ち並んでいる…

                        幕 
                                               

           1980年9月 脱稿
           1982年3月 流行語、話題の事件等を加筆
           1985年12月 流行語を加筆

戯曲 ルドルフ あるいは…父たち、男たちの夜と霧(5)

2016年01月18日 | 戯曲



   保安本部、会議室
   ヒムラー、アイヒマン、グリュックス、ヘス、他にダッハウ、ブッヒェ
   ンワルト、マウトハウゼン、ザクセンハウゼン、オラニエンブルク、グ
   ロース・ローゼン収容所等の各所長がいる。おなじみの顔ではローリッ
   ツの姿も見える。
   全員テーブルにつき、資料などを見ている。
   ヒムラーの後ろに、棒グラフと線グラフ等が描かれた大きな紙が貼って
   ある。何やら発言しているアイヒマン。

   二人の男、舞台ソデに登場。例の作者と看板男である。

  作者  「ここに初めてアイヒマンが登場するが、彼は間違いなく狂人で
      ある。私としては、私自身に迷惑をかけさえしなければ決して嫌
      いな人物ではない。川俣軍司だって片桐機長だって私に迷惑さえ
      かけなければ嫌いではない。人間なんてみんなそんなものであ
      る。
       ところでこれは余談だが、私は今※《小田実氏と小室直樹教授
      の金網デスマッチ対談を企画中である。決して最後まで人の話に
      耳をかそうとせず、すぐ人の話をさえぎる両氏の対戦は、イノキ
      とババの試合が不可能な今、最もエキサイティングで耳をおおう
      ばかりの試合となろう》」
   ※(《》はアドリブで、原則として次回公演の予告などを語る)
   看板の男、《作者談》の看板を出し、二人退場。

  アイヒマン「…以上のように、ユダヤ人問題最終解決の実施は、当初の計
      画通りに進んでおり、このグラフが示すように、カーブが上昇線
      を描いていることには満足をおぼえています。しかし、確かに全
      体の数量は達成し得たものの、この棒グラフが示すように、これ
      はアウシュヴィッツ収容所のダントツの好成績が寄与したもの
      であります。いくつかの、ノルマも達成し得なかった収容所長は
      大いに恥じ、猛省していただきたい。収容所長としては失格です
      ぞ!
      …今後、ユダヤ人問題最終解決計画は諸般の軍事的、政策的事情
      により、その完遂を目指して、いっそうスピードアップすること
      となり、したがってノルマは従来の比でなく、より高い数字を、
      厳しいものを要求していきます」

  ヒムラー「いま、アイヒマン君から全体状況の報告があったように、…確
      かに目標数は確保した。しかし、ノルマを達成し得なかった収容
      所は無論のこと、ノルマを果たした収容所も、それでほっとされ
      ては困るのである! ノルマとは達成すべき最低の目標であり、
      各々が自ら課すべき目標はより高きにおかなければならん。各人、
      各収容所は、より大きな、より高き目標を掲げ、それを達成せん
      が為に、各々一人一人、自らを厳しく律し、精励せねばならん。
       この手元の資料にあるように、またこのグラフに示されるよう
      に、数字というものは実に冷厳なものである。口でいかに立派な
      理想を吐いても、実績が、数字がともなわなければなんにもなら
      ぬ。
       理想は高いが鼻は低い女、理想は高いが実績は低い男では困る
      のだ。そんな空しい理想は八百屋の犬にでも喰わしてしまうがい
      い。
       この数字が示す実績こそが冷厳なる事実、諸君の、冷厳なる審
      判者なのである。くやしかったら数字を上昇させる以外にない。
      …いかに好ましい人物であろうとも、いかに優しい男であろうと
      も、いかに学識豊かであろうとも、冷厳なる事実、数字が上がら
      ぬ者は決して評価されることはない。それが現代の物差しだ。男
      どもは、悲しいほどに知らされる。それが現代社会というもの
      だ! そうだな、グリュックス統監」
  グリュックス「はい、全くもって閣下のおっしゃる通りです」
  アイヒマン「そう、何にせよ数字が全てを評価する!」
  ヒムラー「ウム…そうだな、ローリッツ君」
  ローリツツ「え? あ、はい。全く」
  アイヒマン「本当にわかっているのかね、ローリッツ所長」
  ローリッツ「わかっております、身にしみて。数字というものは…悲しい
      ものです」
  ヒムラー「フム、くやしかったら数字を上昇させる以外にない。ローリッ
      ツ君、君のところの先月の達成数には大いに不満を覚えているよ、
      私は」
  アイヒマン「あの数字は情けない。全くもって不満ですな。君は所長失格
      と言われても仕方ないな」
  グリュックス「まあ、まあ、アイヒマン課長。それは後ほど…」
  ヒムラー「ローリッツ所長、来月の目標数はどうかね? 
      どのぐらい、いくかね? 確実な線で」

  ローリッツ「は、(あわてながら、手元の資料をさかんにめくる。資料や
       らノート、手帳が、彼の手元に山と積まれている)私共のとこ
       ろでは、ご存知のように、ただ今新たな焼却施設を建設してお
       り、しかし何分、この物資不足と予算的な問題で、もたついて
       いるんですが、えー(さかんに資料をめくる)来月半ばには、
       そのー、なんとか完成する予定ではありまして、したがって…
       えーなんとか月間…えー月間…」

  ヒムラー「資料をどっさり抱えこんで、いちいち見ないと答えられんのか
      ね! 私なんかこれだけだよ、これだけ(小さな手帳を見せびら
      かす)」
  ローリッツ「は、どうも」

  アイヒマン「(指揮棒で壁のグラフを指しながら)ローリッツ所長はこれ
      だけですよ、これだけ」
  ローリッツ「は、どうも(恐縮して)…えーなんとか月間…四千五百ぐら
      いは達成したいと…」
  ヒムラー「したい?」
  アイヒマン「したいですと?」
  ローリッツ「いえ、その、可能になると思われ…」
  ヒムラー「全くもって話しにならん問題外の外、唾棄すべき希望的観測だ。
      希望! それは抱き方によっては不潔な虫、抽象的な虫だ! 
      この虫に男どもはいつの間にか蝕まれ、何事もなさぬうちに老い
      さらばえることがある。気を付けろ、他の諸君らもだ!」

  アイヒマン「ローリッツ所長、君に欠けているのは憎悪だ。熱く煮えたぎ
      る赤い鉄塊のごとき憎悪だよ。もっと、もっと憎むのだユダヤ人
      を! 私は若い頃ユダヤ人に間違えられてリンチに合った。それ
      が今の私の原点だ。私はドイツ人だ! 誇り高きゲルマンの血が
      流れるドイツ人だ! 私はドイツが好きだ! ドイツを愛して
      いる! 私はドイツ人だ! 憎悪せよ我が敵を!」
  ヒムラー「ウン、わかったアイヒマン君、わかった、わかった。ローリッ
      ツ所長、少しはアウシユヴィッツを見習ってもらいたいものだ
      な」
  グリュックス「そうですヒムラー閣下、ヘス君の成功例を聞こうじゃあり
      ませんか」
  ヒムラー「ヘス君、諸君にアウシュヴィッツでの成功の実例を聞かしてや
      ってくれたまえ」

   他の所長、顔を寄せ合い、何やらヒソヒソ話しをする。

  ヘス  「は、私どもアウシュヴィッツ全体の処理能力は、現在一日五千
      五百体になりますが」
  ヒムラー「一日だぞ、一日!」
  アイヒマン「全くもって満足すべき素晴らしい成果です。素晴らしい、い
      や素晴らしいことだ!」
  ヘス  「これは私どもで先に完成させました新ガス室、及び第三、第四
      焼却室が、かなりの技術改良を加えた結果、炉一基当たり一日最
      高千八百体の処理が可能な性能を持ちましたことが、大きな原動
      力となっております。
       現在第五焼却炉を設計中ですが、こちらはさらに技術改良をは
      かり、処理能力も、一日四千五百と大幅に向上、しかも稼働経費
      の大幅なコストダウンもはかれる性能を持っております。
      (周りではしきりに感心、驚嘆の様子)
      この新焼却室は、来月早々着工に取りかかる予定です」
  アイヒマン「満足ゆく報告です」
  他の所長1「しかし限られた予算枠で、どうやってその建設費などを捻出
      できるのかね?」
  他の所長2「それと建設資材の確保はどうやって…」
  アイヒマン「そりゃ君」
  ヒムラー「(さえぎって)ヘス君、話したまえ」

  ヘス  「はい、アウシュヴィッツでは、ガス室、焼却炉は言うに及ばず、
      各部署で経費削減目標を掲げ、そのために様々な努力、技術改良、
      事務処理の改善、工夫をはかっております。一例ですが、特別に
      訓練した猛犬、これは軍用犬ですが、一五〇頭を収容所内に配置
      しております。もちろん彼らは囚人の看視の任務についているの
      です(一同笑う)。この犬一頭で看守二人分の経費が削減できる
      のです。また、こうやって省かれた人材は、レンガ、ブロック等
      の建設資材の内製化に投入しております」
  ヒムラー「うん、うん。焼却室の具体的改良点について説明してくれない
      か」
  ヘス  「は、えーそれでは、私どもアウシュヴィッツでは、焼却室のど
      こを技術改良したかと申しますと…(図面などを広げ、指で示す
      など何やら話し始めるが、俳優は口をぱくぱくさせるだけでよい。
      アイヒマン、グリュックス、ヒムラー等は時折うなづきながら、
      満足そうに聞いており、質問などもする様子)…」

  他の所長1「ふん、あのゴマスリめが。ろくな経歴もないくせに…」
  他の所長2「しー、声が大きい。見ろ、あのグリュックス統監のうれしそ
      うな顔。一の子分が誉められるのは、自分が誉められているよう
      なものだからな」
  他の所長3「なにせ統監も出世病患者だからな」
  他の所長1「ヘスは実にうまく立ち回っている。ヒムラー閣下に完全に取
      り入ったね」
  ローリッツ「例によって裏でいろいろ画策しているんだろうさ」
  他の所長2「近く、功績が認められてヒットラー総統の山荘に招かれるっ
      て噂だ」
  他の所長3「そのうちベルリンにでも栄転、特進するんだろう」
  他の所長1「そんな話しが出ているのかい?」
  他の所長2「また進級するのか?」
  ローリッツ「いやだねえ、あくせくあくせく出世病患者は」
  他の所長3「鬼のアイヒマンとも仲がいいらしいから、いまや怖いもの知
      らずだろう」
  他の所長1「鬼なんてものじゃない。狂人だよ、一種の…」
  他の所長2「二人とも?」
  他の所長3「一人は要領がいいだけだろ」
  ローリッツ「一人は間違いなく狂人だ」
  他の所長1「優秀な狂人だということは認めるがね」
  他の所長2「その彼と仲良くやっていけるのは、あいつぐらいなものさ」
  他の所長3「きっと気が合うのさ」
  他の所長1「人間の皮をかぶった冷血漢だからね、二人とも」
  他の所長2「爬虫類だね」
  ローリッツ「じゃあ直に冬眠するさ」
  他の所長3「冬眠しない爬虫類もいるがね」
  他の所長1「二人とも、たまには眠り続けて欲しいものさ」
  他の所長2「そう、いっしょに走らされるこっちの身が持たない」
  ローリッツ「全くだ。ウサギもカメも眠るものだ」
  他の所長3「何のことだ?」
  ローリッツ「ウサギとカメの話しさ」

  ヘス  「…アウシュヴィッツ強制収容所では以上のことを完全に実行し、
      成果を上げております」

   ヒムラー、アイヒマンなど大いに満足そう

  ローリッツ「いやあ、さすが! 非常に勉強になりました、ホント。
      ねえ、みなさん」
  他の所長1「いや、全く」
  他の所長2「我々も負けてはいられません。早速にでもヘス所長のアイデ
      アを取り入れますよ」
  アイヒマン「実に素晴らしいアイデアだ! アイデアの連発だね、ヘス所
      長。さすがだ」
  ヒムラー「うん、成績の良い者は皆、それなりの努力、創意工夫を怠らぬ
      ものだ」
  他の所長3「そう、創意工夫、技術の革新ですな」
  他の所長1「うちでもすぐ取りかかってみよう」
  ローリッツ「私の努力不足がつくづくわかりました。ヒムラー閣下、私も
      頑張りますよ、これからは。金を注がず情熱注げ」
  グリュックス「それだよ、ローリッツ所長。ヘス君の所へ、他の収容所長
      を早速にでも視察にやる必要がありますな、ヒムラー閣下」
  アイヒマン「徹底的にアウシュヴィツツの良いところを学んで欲しいもの
      ですな」

  ヒムラー「うむ。他の収容所にも、惜しむことなく技術指導、運営指導を
      してやってくれたまえ。素晴らしく加速度的に改良されていく技
      術。
       しかし、かってヒットラー総統が喝破されたように、技術とい
      うものは痴呆的でさえある。したがって我々は、確固たる目標と
      哲学を持たねばならんのだ。そうだ、全ては作業能率向上を目指
      した生産性の哲学だ!」
  アイヒマン「はい、効率のアップ、生産性のアップ」
  ヒムラー「これこそが現代的な有用性というものだ」
  アイヒマン「これからの世界は、効率性、生産性の高さこそが、正義とも
      なり神ともなる時代となりますぞ。私は断言してもよい!」
  ヒムラー「うん、ドイツのあらゆる分野での生産性向上のために、財団法
      人ドイツ能率協会でもつくろうかね。《能率手帳》なんていうの
      も作ってね。(全員笑う)」
  ローリッツ「ドイツ生産性本部なんてのもいかがでしょう(二、三の者笑
      う)」
   険しい表情にもどっているヒムラー

  ヒムラー「諸君…実のところ、ユダヤ人問題最終解決計画は大いに急がね
      ばならん。…諸君もうすうす知ってはいよう。諸般の情勢は予断
      を許さぬのだ。
       急いで、可能な限り急いで、全ヨーロッパのユダヤ人を殲滅す
      るのだ。ユダヤ人を全て煙突送りにせねばならぬ。もはやユダヤ
      人どもは、煙突による救い以外に出口はないのだ!」

   手をふるい甲高い声を張り上げるアイヒマン
  アイヒマン「そうだ! 屋根裏部屋に潜み隠れるアンネ・フランクだろう
      がユニチャーム・フランクだろうが逃がしはしない! 容赦なく
      引きずり出せ! ドイツのためだ! ナチスのためだ! 死刑
      だ!」
  ヒムラー「諸君、たとえ…たとえドイツが崩壊しても、これだけは達成せ
      ねばならぬ」
  アイヒマン「(立ち上がり、激して)たとえドイツが崩壊しても、これだ
      けは達成しなければならぬ! ヨーロッパからユダヤ人という
      ユダヤ人を引きずりだせ! ユダヤ人を根絶するのだ!」

   全員立ち上がり、こぶしを上げ

  全員  「全ユダヤ人を煙突送りにするのだ!」
  全員  「もはやユダヤ人どもは、煙突による救い以外に出口はない!」
  ヒムラー「気おくれは総統への裏切り。限りなき栄光への道か底なし地獄
      への失墜か、不断の上昇か転落か、その時代の運命を生きて滅び
      る我々には、恐るるものなどなにもない」
  アイヒマン「手にとどく限りのユダヤ人を一人残らず抹殺するのだ。仮借
      なく、できるだけ早く、容赦することはどんな些細なことであろ
      うとも、全て後になって手厳しい仕返しを受けるだろう。全ユダ
      ヤ人を煙突送りにするのだ!」
  全員  「もはやユダヤ人どもは、煙突による救い以外に出口はない!」

  ヒムラー「(まるで観客に向かって言うように)そう…煙突による救い以
      外に出口はないぞ」

   アイヒマン、舞台上を憑かれたように歩み出し、つぶやくように
  アイヒマン「みな殺しだ、みな殺しだ…みな殺しにしてやる…幾百万、幾
      千万人のユダヤ人の、累々たる死体を思い浮かべれば…(ニタリ
      と笑い)いざという時私は、笑いながら自分の墓にとびこんでみ
      せる」
   爆発的に哄笑するアイヒマン
   彼の笑い声に阿鼻叫喚の入り混じった不気味な音楽が重なり、舞台は完
   全な闇となる。

                       (暗転)
 

戯曲 ルドルフ あるいは…父たち、男たちの夜と霧(4)

2016年01月18日 | 戯曲



  
 アウシュヴィッツ収容所
   所長室
   不気味な音楽の鳴り響く中、何やら話し合っている男たち。
   ヘス、フリッツ、親衛隊下級指導者のグラブナー、パリッチ、オーマイ
   ア、クランケンマン、ヘイゲン。
   テーブルの上に図面、書類ね施設の模型も見える。筆記具などを手にし
   ている。
   ヘイゲンは立って図面を指し、発言している。
   音楽、音量しだいに小さくなる。
   着席するヘイゲン。

  ヘス  「…よし、わかった。それでは有刺鉄線網の柵は、埋設して固定
      する従来の方式をやめ、これから建設するものについては全て、
      下に車を取り付けた移動式のものにしよう。
      いいかな、ヘイゲン君」
  ヘイゲン「はい。わかりました」
  フリッツ「移動式にすれば必要に応じた囚人の取り込みができますから
      ね」
  ヘイゲン「我々も楽になりますよ」
  ヘス  「あまり楽にはならんよ。その余力を他に向けてもらうからね」
  ヘイゲン「はい」
  ヘス  「しかし、建設資材が不足しているおりだから、移動式有刺鉄線
      網は大変な節約になる。ヘイゲン君、あとで建設部隊の担当の者
      に指示を出せ。工程表の提出と、あ、チェック事項も忘れないよ
      うにな」
  ヘイゲン「わかりました」

  ヘス  「よし、次に進もう。パリッチ君、囚人の選別だが、作業に適
      しているか不適かの選別は、あまり厳密にやるな。作業につける
      者が不足してきてるぞ」
  パリッチ「はい、それは大丈夫です。むしろ、ここ二、三日は増えていま
      す」
  ヘス  「そうかね」
  パリッチ「はい、この間採用したパレード方式が医療部員の助けも必要と
      しませんので、最も簡単に確実に選り分け得る方法と思うんです
      が…ただ」
  ヘス  「ただ何だね?」
  パリッチ「ええ、昨日あたりから気付いたんですが、囚人たちが胸を張っ
      て大きく腕を振って行進しているんです。みんな無理して元気よ
      く見せようとしはじめたんですよ、畜生めが」
  クランケンマン「そりゃあ生死を分けるパレードだもの、みんな必死に行
      進しますよ。どっちみち死ぬのに…」
  ヘス  「増えすぎるというのもまずいな、何か方法を考えなければな」
  パリッチ「はい」

  ヘス  「グラブナー君、銃殺は効率が悪いな」
  グラブナー「ええ、今も十人一組にしましてネ、例の黒い壁の前に立たし
      てやっていますけんど、こう囚人が続々と送りこまれて来たら焼
      け石に水でさ。先日も朝から撃ちまくって撃ちまくって、やあ今
      日はこれで終めえだ、と思って後ろ振り返ったら、なんとまだ百
      人ばっか並んで順番待ってるんでさ」
  クランケンマン「あの黒い壁の前の広場は、いつも血でジャブジャブぬか
      るんでるんだ。おととい、滑って転んでしまいましたよ」
  ヘス  「銃殺は脱走者対策としての見せしめなどを除いて中止しよう。
      徹底的にガスに注力するのだ。…そうだパリッチ君、こうしよう。
      貨物プラットホームに到着した連中を、そのままパレードさせ、
      そこで最初の選別をしよう」
  パリッチ「なるほど、連中も、まさか生死を分けるパレードとは思うまい
      から、自然な状態で歩くでしょうね」
  ヘス  「そうだ、不適な者は直接焼場に直行させるのだ。そこからグラ
      ブナー君の任務だ。片っぱしから処理しろ」
  パリッチ、グラブナー「わかりました」
  クランケンマン「千五百名様ご案内ィだな」
  グラブナー「んだ」

  ヘス  「(図面を広げ、立ち上がりながら)フリッツ君、このガス室の
      構造なんだがね(のぞきこむフリッツ、他の者たちも同様に)…
      チクロンBガスが投入されてから全員が絶命するまで一○分だ
      ったな?」
  フリッツ「はい、約一○分ですな」
  オーマイア「一○分以上かかることは稀ですよ」
  ヘス  「うん。先日から考えていたんだが…この壁を特殊に造って、例
      えば隙間からガスを注ぎ込むようにした方が、より効果的ではな
      いかと思うんだが、どうかね…(ヘス、紙の上に何やら図を描く)
      例えばだな、こんなふうに…特殊構造にして…」
  フリッツ「ガスの特性をより引き出そうというわけですね。…ここんとこ
      ろは(図を描く)…問題は…」
  ヘイゲン「あの、(図を指し)この隙間にガスが残りませんかね?」
  フリッツ「ウン大丈夫だろ。ここにも換気装置を取り付ければいいんだか
      ら…」
  オーマイア「それよりネックになるのは(机上の図を指し、何やら描き入
      れる)ここでしょうね。…
      まてよ(模型を手に取り考え込む様子)…」

  ヘス  「何かいいアイデアでもあるかね」
  オーマイア「ちょっと単純なんですが、こんな面倒な構造にするよりも、
      壁の四面、それと上部にノズルのような物を取り付け、ガスをノ
      ズルで霧状に噴出させたらいかがでしょう」
  パリッチ「ノズルねえ…」
  オーマイア「そうです(図を描く)。この管の中にチクロンBを投下する。
      ノズルで霧状になってここから噴出する…自分の推測ですが、三
      分いや、一瞬のうちに処理できるのではないかと思うんですが
      ね」
  フリッツ「なるほどね、面白いね、これはいけると思いますよ。一度実験
      してみる価値はありますよ。明日早速実験してみようじゃないか、
      オーマイア君」
  ヘス  「よし、やってみてくれ」
  オーマイア「後で設計図をひいてみます」

  パリッチ「しかしガス室の回転がよくなっても、焼却室の炉も改良されま
      せんとね」
  フリッツ「炉の研究は進んでるよ」
  ヘス  「なんとか、この部分を自動化したいものだな。先づガス室にぶ
      ち込む」
  オーマイア「ガスが送り込まれて、一○分後に電気調整器が活動し始め…」
  フリッツ「死体を昇降機で自動的に運び、焼却炉に持ち上げる…」
  ヘス  「…それでなくとも人手が足りないのだ。この部分を自動化する
      よう早速プロジェクト・チームを組織して検討してくれたまえ。
      もし可能なら、ここで省かれた人手を、衣装や所持品の仕分けや、
      他の部門に投入できる」
  全員  「はっ、わかりました」

  ヘス  「そうだ、フリッツ君。クレール博士の方には囚人をどのぐらい
      提供しているのだね?」
  フリッツ「は、先月末までに一万二千人送っております。エンドレッド博
      士考案の石炭酸注射も取り入れているようです」
  ヘス  「そうか…(全員に)他に改善すべき点、技術改良点はないか?
      …いいアイデアがあったらどんどん出してくれよ。……ユダヤ人
      問題最終解決は急がれている。我がアウシュヴィッツには、ベル
      ギー、フランス、オランダ、ギリシアなどからも大量の囚人が到
      着し始めている」
  フリッツ「全く、何でもかんでも送りこんでくるんだから」
  ヘイゲン「たまりません」

  ヘス  「命令には論議の余地はない。我々の責務は、徹底的に処理する
      ことだ。…処理能力を何とか一日一万の大台に乗せたいものだ。
      いいか、毎朝、各部署において工程の打合せ、各部署間の段取り
      連絡、プラン・ドゥ・チェックを怠るな!…我々はより作業効率
      を高め、ユダヤ人問題の最終解決に努力せねばならない。諸君も
      そのつもりで任に当たってもらいたい」
  全員  「はい」
  ヘス  「(時計を見ながら)よし、では本日の工程会議は、これで終了
      する。ご苦労」

   全員席を立ちはじめる

  オーマイア「空き倉庫の地下室を使いましょう」
  フリッツ「うん、男女の大人、それと子供もぶち込んでデータをとってみ
      よう…」

   クランケンマンが自分の服をつまんで、においを嗅いでいる

  グラブナー「クランケンマン、お前何やってんだ?」
  クランケンマン「チッ!完全にしみ込んでやがる」
  グラブナー「ユダヤ人のにおいか?」
  クランケンマン「いや、ロシア人のだ」
  グラブナー「おまえ、さっき死体と激しく抱き合ってたもんなあ」
  クランケンマン「上からどっと崩れ落ちてきたんだ。危うく下敷きになる
      とこだったぜ」
  グラブナー「女だったろ」
  クランケンマン「ああ、オバンばっかり」
  グラブナー「若い女だったらよかったんだけどね」
  オーマイア「おしいけどねー」(笑い)
  クランケンマン「でも死体だぜ、俺はその趣味はないよ。たまらん臭いだ、
      あとでしっかり洗濯しよう」
  パリッチ「毎日たくさんの死体に囲まれてるんだから、いくら洗濯したっ
      て無駄さ」
  クランケンマン「この臭いは洗濯ぐらいじゃ落ちませんかね」
   部屋を出ていく部下たち
  パリッチ「ああ、毎日毎日、大量の死体に囲まれて」
  オーマイアの声「俺たちみんな」
  グラブナーの声「骨までしみ込んでるべさ」
  フリッツの声「さあ、もう一仕事残ってるぜ」

   遠のく部下たちの声
   室内にひとり残るヘス
   クランケンマンがやったように、自分の服をつまんで、臭いを嗅ぐヘス。
   悲しげに首を振るヘス。
   《労働は自由への道》のスローガンの前にたたずむヘス。スローガンを
   じっと見つめている。

   しばらくして、もう一度自分の服をつまんで臭いを嗅ぐヘス。

   じっとたたずんでいるヘス。突然激情し、テーブルを両手のこぶしで激
   しく打ち叩く。うなだれ、テーブルにもたれかかるヘス。
   不気味な音楽鳴り響き、舞台は真っ暗闇となる。



   
   ヘスの官舎
   居間、テーブルの上に赤い薔薇をさした花ビン。
   ヘス、ヘス夫人、ヘス家の家庭教師トムゼン夫人。上品な感じのする
   女性である。
   外ではしゃぎ回る子供たちの声が聞こえる。
   美しい音楽が流れている。

  トムゼン夫人「みんな素直ないい子たちですわ」
  ヘス  「いたずら盛りでね」
 
   ヘス夫人、舞台ソデ、外の子供たちに向かって立っている様子
  ヘス夫人「これこれ、花壇の中に入っちやいけません。早く出なさい、お
      花が可哀そうでしょう…ええ、お花にだって生命があるの、さ、
      出なさい。…みんな早くプールで泳いでらっしゃい(笑う)。
      …あ、タオル持った?」

   タオルを渡している
  子供の声1「パパー、泳ごうよう」
  子供の声2「泳ごうよう」
  ヘス  「あとから行くから先に泳いでなさい! 
      必ず準備運動をオイチニってやるんだぞ!」
  子供たちの声「ハーイ」
   子供たちの歓声、遠のく

  トムゼン夫人「みんなお父様がいるものだから、いつもよりよけい元気!」
  ヘス  「こうして休みをとれる日は滅多になくてね、トムゼン先生」
  トムゼン夫人「そのようですわね、ヘスさん。私がこちらへ家庭教師で伺
      うようになって、ヘスさんにお会いできたのは、今日でたったの
      三回目ですわ」
  ヘス  「家族のためにあまりにも時間をとってやれないので、いつもか
      わいそうだと思ってるんですよ。(夫人の方に顔を向けて)いつ
      も言われてるんですよ。勤めのことばかり考えていないで、少し
      は自分の家族のことも考えろって、家族の前ではくつろげって
      ね」

   お茶を運んでくるヘス夫人
  トムゼン夫人「大変ですわね、ヘスさんほどの地位になると。それはそれ
      は激務でしょうからねえ。(お茶を配る夫人に)ありがとう」
  ヘス  「(お茶を配る夫人に)ありがとう」
  ヘス夫人「たとえ少ない時間でも、家ではお仕事を忘れてくつろいで欲し
      いもの…いつも緊張のしっぱなしでは疲れがとれませんものね」
   うなづくトムゼン夫人
  ヘス夫人「…主人は、お仕事のことで頭をいっぱいにして帰って来るんで
      す。お食事の時もうわの空。あれじゃお料理の作りがいもありま
      せん」
  ヘス  「ちゃんと味わっているよ」
  ヘス夫人「うそ」
  ヘス  「いつも美味しくいただいてますって」
  トムゼン夫人「(笑って)じゃあ褒めなくちゃ。私たち女って、そんな一
      言がとてもうれしいものですよ」
  ヘス  「このジャガイモ美味しいなってですか?」
  トムゼン夫人「(笑って)奥様の味つけをですよ」
  ヘス夫人「これですからね」
  ヘス  「これからはなるべく褒めますよ」
  ヘス夫人、トムゼン夫人「マァ! なるべくですって」(笑う三人)

  ヘス夫人「(真顔になって)主人がお仕事のことで悩んでいるのがわかり
      ますの。端で見てると辛くなりますわ。私で手伝えることでした
      ら手伝いたい」
  ヘス  「馬鹿言うな」
  ヘス夫人「え?」
  ヘス  「女にできる仕事じゃない」
  ヘス夫人「辛いのよ、端の者だって」
  ヘス  「…」
  ヘス夫人「ずっと前のことだけど、集団農場で一緒に働いていた頃は、よ
      く仕事のことで話し合ったものなのに、今は何も話してくれませ
      んの…だから…」
  トムゼン夫人「うちの主人もそうですわ。男の方って、自分の仕事のこと
      を話すのが照れくさいみたい…(ヘス夫人に)きっと威厳を保つ
      作戦ですわ」
   笑う二人、ヘスだけ笑わない

  ヘス  「…トムゼン先生のご主人は学校の先生でしたね?」
  トムゼン夫人「ええ、小学校の」
  ヘス  「うらやましいですね…毎日たくさんの子供たちに囲まれて…」
  トムゼン夫人「子供たちって素晴らしい可能性ですものねえ。でも、教師
      って大変ですのよ。うちの主人なんかも、時々どうしようもない
      イタズラっ子に腹を立てて、独り言を言ってることがありますわ。
      『あのクソガキ!』って。(笑い出す三人)そのあと主人も、一
      人で苦笑してますわ」
   笑う三人

  ヘス夫人「…あら、この薔薇もうしおれてきたわ」
  トムゼン夫人「ほんと、でも素敵な香りですわ。ご存知?薔薇は花びらの
      散るまぎわが最も香り高いんですって。…私、赤い薔薇が好きで、
      共産党が嫌いですのよ。話しに何のつながりもありませんけど」
   笑い出す三人

  子供たちの声「パパァ!早く来てえ」
  ヘス  「はあい! いま行きますよう(笑う)」
   子供たちの笑い声、はしゃいでいる様子
  ヘス  「あの子たちが一番喜ぶのは、私が一緒に水浴びをしてくれる時
      なんです。それとファミリーコンサートですよ。私と上の子がヴ
      ァィオリン、その次ぎのがピアノ、いちばんチビが歌うんです。
      家内はいつも手をたたくだけ」
  ヘス夫人「だってえ、私、こう見えてもド音痴ですもの」
   笑い出す三人

  ヘス  「そうだ、今晩開きましょうか。先生もぜひご一緒に」
  ヘス夫人「賛成!やりましょ、やりましょ」
  トムゼン夫人「素晴らしいこと。喜んでご招待をお受けしますわ」
  ヘス  「トムゼン先生、今夜は家内にも歌わせますから、これを一番の
      お楽しみに」
  ヘス夫人「マァ、意地が悪いんだから」
   笑う三人

  ヘス  「じゃあトムゼン先生、ごゆっくり。私は子供たちと泳いできま
      すよ」

    立ち上がり外に向かうヘス
   ドアをノックする音。ヘス夫人が行こうとするが、ヘスが制して出て行
   く。

  ヘス  「やあ、フリッツ君、今日は」
  フリッツ「今日は。お休みのところ申し訳ありません。国家保安本部より
      テレックスが入りました。ヒムラーSS全国指導者が会議を招集
      するとの内容です」
  ヘス  「いつかね?」
  フリッツ「明後日、本部にて、朝九時より…」
  ヘス  「(用紙を受け取り)今から出ないと間に合わんね。(ヘス夫人に)
      用意してくれ。ご苦労、フリッツ君。
      申し訳ない、トムゼン先生、ご覧の通りですよ」
   タメ息をついて落胆するヘス夫人。
   トムゼン夫人はそんなヘス夫人を気の毒そうに見やる。

  ヘス夫人「仕方ありませんわね…もう慣れっこです」
  フリッツ「今日は、奥さん」
  ヘス夫人「今日は、フリッツさん」
  フリッツ「自分を恨まないで下さいよ。何となく、そんな雰囲気だから…」
  ヘス  「仕事さ、カール…三〇分ぐらいしたら、車を回してくれたまえ」
  フリッツ「わかりました。では後ほど。失礼します」

   帰るフリッツ。奥の部屋に消えるヘス。
   残されたヘス夫人、トムゼン夫人。
   いつの間にか音楽は途絶えている。

  トムゼン夫人「残念だけど、お仕事ですものねえ。…ねえ、奥さん」
  ヘス夫人「…仕事、仕事、仕事、仕事。いったいベルリンでみなさん何の
      ご相談、毎日、毎日何のお仕事?…私が何も知らないとでも思っ
      ているの」
  トムゼン夫人「奥さん」

   奥からヘスの声
  ヘスの声「おい、早く用意してくれ」
  ヘス夫人「知ってるのよ私。このお部屋にだって、風がウワサも煙も運ん
      でくるのよ…」
  トムゼン夫人「奥さん…こういう時代なのよ」
  ヘス夫人「ああ、こんな時代早く終わればいい」
   奥の部屋から出てくるヘス
  ヘス  「何が終わればいいって」
  ヘス夫人「何もかも!」
   顔を両手でおおい隠して奥の部屋にとび込んで行く夫人

  ヘス  「おい…何だあいつ。(トムゼン夫人に)どうしたのかな?」
  トムゼン夫人「花粉病ですって。季節が移ろいでも治りにくいのよねえ」
  ヘス  「花粉病?」
  トムゼン夫人「涙があふれて、あふれて、止まらなくなるんです。ぬぐっ
      ても、ぬぐっても、あふれてくるんです」
  ヘス  「悲しくもないのに、涙が出るんですか、それ」
  トムゼン夫人「そう…悲しい時ですわ、やっぱり。さあ、私おいとましま
      すわ。ヘスさん」

   出口に向かうトムゼン夫人。ドアの所まで見送るヘス。

  トムゼン夫人「ファミリーコンサートはまたの機会に、ぜひ誘って下さい
      な。さようならヘスさん」
  ヘス  「さようならトムゼン先生。ご主人によろしく。ごきげんよう…
      花粉病か…」

                        (暗転)











戯曲 ルドルフ あるいは…父たち、男たちの夜と霧(3)

2016年01月17日 | 戯曲
                                                          



   アウシュヴィッツ収容所
   所長室
   ヒムラー、グリュックス、他多数の政府高官、ヘス。
   ヒムラー等の収容所視察である。計画表や書類、図面、建設物の模型など
   を手にして入ってくる。それらを舞台中央のテーブル上に置く。
   中の一人、政府高官3が吐き気をもよおしている様子。
   後ろから背さすってやる政府高官2。
 
  政府高官3「オエー…」
  政府高官1「大丈夫かね?」
   うなづく政府高官3
  ヒムラー「男のくせに、ツワリかね?」
  政府高官3「ちょっと、ウプ…」
  ヒムラー「うちの家内もそうだったが、異常に夏ミカンが食べたいだろ、
      あ?」
  政府高官3「失礼いたしました。もう大丈夫です」
  政府高官2「いやあ、しかし、やっぱり気持ちの悪いものだね、ヘス所長
      (口にハンカチをあてている)」
  政府高官1「私のような気の弱いものには、とても務まりそうもない。君
      はよく任務を果たしているよ、ヘス所長」
  ヘス  「…」(押し黙っている)
  ヒムラー「(彼らをにらみながら)夕焼け胸焼け日が暮れて、か!…ヘス、
      気弱さが人間を不随にする。(政府高官に)諸君らは死体の山に
      ばかり気を取られて、施設を充分見ていなかったのではなかろう
      な?…
       私の見たところ、アウシュヴィッツの拡張には別に困難な問題
      などなにもない」
  ヘス  「しかし、閣下もただ今ご覧になられましたように、収容人数の
      過剰、水不足と、保健衛生上いつ伝染病が蔓延しても不思議でな
      い状況なのです。ですから…」
  ヒムラー「それでこれ以上の拡張は無理というのかね?」

  政府高官1「うむ、水不足もさりながら、排水施設も全くもって不充分で
      すな」
  グリュックス「作業に従事している囚人も、ほとんど死体とかわらんな、
      ヘス君。あれでは作業も捗るまい」
  ヘス  「健康体をさがすのが困難なぐらいなのです」
  政府高官2「私も今日の視察で改めて感じましたが、建設資材の不足はア
      ウシュヴィッツばかりでなく、上シレジアでも起こっているので
      す。弱りましたなあ」
  政府高官1「すでに着工済みの部分はともかく、これ以上の新たな計画に
      着手するのはいかがなものでしょう」
  政府高官2「新たな計画は一時ストップしたほうがよいのではないですか」
  政府高官3「私も無理と判断します。ヒムラー閣下」
  ヒムラー「ツワリは治ったかね?」
  政府高官3「は…第一、人手不足のようです」
   せせら笑うヒムラー
  ヒムラー「そんなもの、いづれも技術上の問題ばかりだ。いづれも反対の
      理由にはならんさ。私の見るところ、全く技術上の問題ばかりだ。
      ヘス、もっと能率を上げさせるんだ。拡張は全力で押し進めるの
      だ!」
  政府高官1「しかし閣下」
  ヒムラー「諸君! 不退転の鉄の意志を持たねばならん。
      諸君はヒットラー総統を信頼しておるかね?…そんなことでは
      総統も諸君らを信頼すまい」
   押し黙る政府高官ら

  ヒムラー「ヘス、全力で進めるのだ。応急処置も止むをえんし、伝染病が
      出たら、すみやかに囲み、容赦なく叩きつぶし焼き尽くせ! 私
      が命令した保安警察作戦もどんどん続けるのだ。
      私にはアウシュヴィッツに難題があるとは思えんがね? 
      ヘス君。君は何を、どうやって取りかかればよいのか、ようく考
      えてみるのだな」
  ヘス  「はい」

  ヒムラー「ヘス、君がさっき車の中で部下が無能だと言ったのには呆れた
      ね。部下を取り替えて下さいだと! どんな無能な隊長だって、
      君は使いこなさなきゃならんのさ。片足には片足の、片目には片
      目の使い方があるのだよ。戦場では使える隊長、兵隊は、たとえ
      そいつがどんな人間であろうとも、全員投入せねばならん」
  グリュックス「ヘス君、何でもかんでも部下の仕事までやってしまうのが、
      君の最大の欠点だよ。所長というものは、所長室にデンと構えて、
      命令と電話で収容所全体を動かし、手中におさめなければならん
      よ。収容所内もたまに回ればそれで充分」
  ヘス  「しかし、情無いことに私の部下たちはミスも多く」
  ヒムラー「ミスした奴は容赦するな」
  グリュックス「そう、上に立つ者の心得は、決して許すな他人のミス、笑
      ってごまかせ自分のミス。これだよヘス君」
  ヒムラー「私はミスをしない主義だ。そう決めとるもん」
  グリュックス「は、閣下は完全主義者ですから」
  ヒムラー「うん。なあ、ヘス。人を完全に使いきるには二つのタイプがあ
      るんだよ。ひとつは彼らに心から尊敬されること、ひとつは彼ら
      を心から卑屈にさせること。わかるか」
  ヘス  「はい」
  ヒムラー「ウム。ともあれヘス、看視部隊の強化も、節約も、要は技術的
      問題だ。工夫したまえ、工夫を! 所与の条件を再検討して工夫
      せよ!」
  ヘス  「はい」
  ヒムラー「それになんだなヘス。この脱走者数はどういうことかな。あ? 
      アウシュヴィッツの脱走者数はとんでもなく高いぞ! これまで
      のどこの強制収容所にもないほど高い! どんな手段、そう君が
      使えるどんな手段を講じてでも防ぐのだ。見せしめも必要だろう。
      効果が上がるのなら何をやってもいい、特に酷いというわけでも
      ないさ。君ならなんとかやっていけるだろう。
      そうだったなグリュックス統監」
  グリュックス「(ややあわてて)は、ヘス君なら乗り切るだろうと期待し
      ています」
  ヘス  「はい」

  ヒムラー「…なあヘス、人は上に立てば立つほど孤独を知るのさ。孤独に
      は胸をキュッと締めつけるような甘さがある。しかし気をつけろ、
      孤独は精神の穴ぼこだからな。
      そうだな諸君(政府高官らに向かって)、知っているだろ」
  政府高官1「はっ、しかし何ですな、その、孤独が穴ぼこだとは知りませ
      んでした」
  ヒムラー「なにちょっとした経験で知るのさ。だからヘス、孤独に足をと
      られてつまづくな」
  ヘス  「はい」
  政府高官2「いや閣下のお話は、いつ伺っても勉強になります」
  政府高官3「(独白のように)知らなかった…孤独が穴ぼこだったなんて」
  グリュックス「(政府高官3に)私も知りませんでしたよ」
  ヒムラー「我々は、たとえそれがどんな仕事でも、個人的な精神上のつま
      づきで、逃げ出したりできんのさ。我々は組織で戦っているんだ
      からな」
  政府高官1「戦いは勝たねばならん」
  政府高官2「勝てば正義は我々にある」
  ヒムラー「そう、負ければ我々は悪となる。勝たねばならん。
      我々が勝利した暁には、あの連合国の奴らを片っぱしから裁判に
      かけてやる。
      古来より、勝者は敗者を、強者は弱者を、自由に裁けることにな
      っておる。勝利せねばなるまい。
      遠大な計画だ、偉大なる戦いだ。手段を選ばず目的を遂げねばな、
      ヘス」
  ヘス  「はい」
  ヒムラー「まあ、要するに、そう酷いというほどでもない…恐るべき敵と
      戦うには、我々にためらいなどあってはならん。

      (トーンを上げて)我々に迷いがあってはならん。
      ユダヤ人はドイツの敵だ。世界の敵だ。迷ってはならん。
      イギリスの陰にユダヤあり、フランスの陰にユダヤあり、アメリ
      カの陰にユダヤありだ! 
      なにしろ資本主義と呼ばれ、不断に運動し、興隆する経済を見出
      したのはユダヤ人だ! このメカニズムの天才的、そう悪魔的な
      までに天才的な創造者がユダヤ人だ。全ての巨大資本の陰にユダ
      ヤあり!
      現代科学も、もっぱらユダヤ人によって創造され、支配されて
      きたのだ。この世でもっとも残虐なる兵器も、恐るべき毒薬も、
      全てユダヤ人の創造だ。彼らがつくってきたのだ。世界中に散ら
      ばって…なんと恐るべき超国家だ。
      諸君! やがて世界は知るときもあろう。
      我々は完全に正しかったのだということを!」

   ヘス、グリュックス、政府高官らは、いつの間にか観客に向かって正対
   し、整然と並んでいる。舞台はうす暗くなる。彼らの前を右に左にゆっ
   くりと歩みはじめるヒムラー。

  ヒムラー「かって、さまよえるユダヤ人は、ダヴィデの星を胸に秘め、商
      人としてやって来た」 
  グリュックス「ユダヤ人による世界支配を取り決めた『シオンの賢人議定
      書』を胸に秘め」
  政府高官1「彼らは世界中、あちらこちらに入りこみ、やがて完全に定住
      した」
  政府高官2「だが彼らは、決してその土地に同化することはない」
  政府高官3「金銭問題すべてについて有能で、良心のとがめを持たぬユダ
      ヤ人は、金融業と商業を、あますところなく独占した」
  ヘス  「その厚かましさ、その容赦なさは、以前よりその土地に住む者
      らの妬み、反抗、激怒をひき起こし、何度となく追放された」
  ヒムラー「しかしユダヤ人たちは、以前にも増してずる賢く、富裕になっ
      て戻って来た」
  グリュックス「ユダヤ人は人類の慈善家に変装し、不幸な人々に富を分配
      し始めた。その献身的態度にもかかわらず、彼らはますます富裕
      になっていった」
  政府高官1「ユダヤ人は実に巧みな分配方法を心得ていたからだ。その善
      行は畑の肥料に似ていた。肥料は耕地に対する愛から施されるも
      のでなく、その先の、自分の利益に対する予想から与えられるも
      のだから」
  政府高官2「ともかく彼らは、比較的短期間に、慈善家で人類の友となっ
      たのだ」
  政府高官3「彼らは株式という間接手段で国民生産の循環過程に入り込み、
      これを金で自由に操った」
  ヘス  「ユダヤ人は、国民労働力の所有者となり、あるいは監督者とな
      ったのだ」
  ヒムラー「フリーメイスンをも手に入れて、ユダヤ人の目的を遂げるため
      の道具とした。支配者層も、政治的、経済的ブルジョワ階級も、
      それと全く気づきもせず、ユダヤ人の術中に陥ちこんだ」
  グリュックス「ユダヤ人は新聞という武器を手に入れた。新聞を通じ徐々
      に、公共生活全体にまといつき、籠絡し、指導し、操り始めた。
      《世論》は強力な武器だった」
  政府高官1「ユダヤ人は議会主義を支配した。民主主義は、ほとんど彼ら
      の要求に一致した。なにしろ、愚鈍、無能、臆病、金の為なら何
      でもする者共で構成されている議会だから、多数決を操ることは、
      さほど難しいことでない」
  政府高官2「国民生活が疲弊する。公共事業投資を行う。利するのは、ほ
      とんどユダヤ人だけだった」
  政府高官3「国民を救済するあの手この手のどんな政策も、最終的に利す
      るのはユダヤ人だけだった。この民族の体内に巣喰う寄生虫、恐
      るべき吸血虫」
  ヘス  「ダヴィデの星、彼らの星、彼らの理想を胸にした」
  ヒムラー「天才的な悪魔ども! 恐れるな、勇気を持て! 我々は戦うの
      だ。国民的誇りを喚起せよ! 過激な愛国主義に対する不安は、
      民族の無気力のあらわれ。現代の大事業、この地上の最も偉大な
      変革は、熱狂的な、むしろヒステリックでさえある情熱、その推
      進力でのみ可能なのだ。ためらうな!
      我々は、自らの利益のためのみで行動する彼の卑劣漢でなく、
      我々が愛する土地、愛する祖国、愛する文化、愛する者たちのた
      めに、一身を投げうつ、気高い犠牲精神によって行動するのだ!
      ためらうな、勇気を持て、胸を張って事に当たれ! 我々は、我
      がナチズムは、大多数の国民の支持を受けておるのだ!…(顔を
      そむけ独白、つぶやくように)大衆というものは、自信たっぷり
      に言えばついてくる…」

   観客の方に顔を向け、ゆっくりと語るヒムラー

  ヒムラー「ユダヤ人は世界中に散らばる超国家、世界から孤立した超国家
      だ。…何故彼らは孤立したのか…そう、彼らが世界を差別したか
      ら! 見よ、あの排他性を」

   観客に語りかけるように

  ヒムラー「だがユダヤ人は…そうユダヤ人は、余りにも腹立たしい存在の
      別名、一つの象徴にすぎぬかもしれぬのだ。…我々が憎むものは、
      かのユダヤ的なるもの全て…」

   胸を張り、まるで観客に向かって言うように叫ぶヒムラー

  ヒムラー「そうだ諸君! やがて世界は知るときもあろう。我々は完全に
      正しかったのだということを!」
   全員一斉に、あの有名なナチ式敬礼をする。
   舞台闇となり、轟音あたりを揺るがす。










戯曲 ルドルフ あるいは…父たち、男たちの夜と霧(2)

2016年01月16日 | 戯曲



   ルドルフ・ヘスの官舎
   深夜。
   テーブルについているヘスと夫人。美しい音楽が流れている。

  ヘス夫人「おめでとう、ルドルフ」
  ヘス  「ああ、ありがとう」
  ヘス夫人「乾杯。あなたの昇進を祝って、それから」
  ヘス  「それから」
  ヘス夫人「あなたの健康を祈って」
  二人で 「乾杯!」
  ヘス  「ありがとう…子供たちも起こそうか」
  ヘス夫人「およしなさいな、三人ともさっきまで騒いでいたのよ。
      やっと寝ついたんだから。…『もう遅いから早く寝なさい』って
      言っても『パパが帰るまで起きてるんだ』って、
      この頃聞きわけがないの…」
   立ち上がって舞台ソデ(台所)の方に行く夫人。
   何やら料理を運んで来る。

  ヘス夫人「明日の朝、私から、素晴らしいニュースよ、パパが所長になら
      れるのよ、ポーランドのアウシュヴィッツにご栄転よって、大発
      表しますわ」
  ヘス  「大げさだな。そんな大した事じゃないよ」
  ヘス夫人「我が家では大ニュース、大事件よ」

   再び台所の方へ向かう夫人。級に振り返って
  ヘス夫人「そうだ、ラジオのニュースアナウンサーの口ぶりで発表しよう
      っと」
   笑う二人

  ヘス  「(台所の夫人に語りかける)俺たちがいっしょになった頃の、
      あの健康的な農業開拓団時代から、ずいぶんかけ離れた地点に来
      てしまったね。…あの頃は良かった。
      土に帰れ、農業こそドイツ民族の生命の源泉だ…ほんとうにそう
      感じたものだ…あの頃は良かった」

   出て来る夫人。
  ヘス夫人「農業も素晴らしい労働でしたわ。でも、今のお仕事だって素晴
      らしい労働でしょう」
  ヘス  「うん」
  ヘス夫人「汗を流して働くことは素晴らしい。私たち一人一人の幸福のた
      めの労働、ドイツ国家のための労働…あなた、いつもおっしゃっ
      ているじゃない。《労働は自由への道》」
  ヘス  「うん。俺の一番好きな言葉だ」
  ヘス夫人「素晴らしい言葉よ、《労働は自由への道》って」
   うなづくヘス

  ヘス  「アウシュヴッツに行ったら…そうアウシュヴッツに行ったら、
      子供たちに家庭教師をつけよう。優しい女の先生がいい。
      みんな優しい子だからね。
      それと、上のが欲しがっていた犬も飼わせてやろう。あの子は
      俺に似て大の動物好きだから。下の二人にはピアノがいいね」
  ヘス夫人「みんな大喜びよ、きっと」
  ヘス  「これから給料も上がるからね。そのくらいの余裕は出来るよ」
  ヘス夫人「ありがとう、ルドルフ」
  ヘス  「なに俺が今子供たちにしてやれることってそれくらいさ」
  ヘス夫人「ありがと、それでもみんな喜ぶわよ」
  ヘス  「…これからますます仕事、仕事、仕事で、お前たちには淋しい
      思いをさせるかもしれないが…大変なんだ、これからが。今度、
      部下になる者たちには、俺より古参の者が多い。おまけに評判の
      無能、札つきの怠け者が多いときてる…」
  ヘス夫人「大変でしょうけど、がんばって下さいな。子供たちのために、
      私のために、ドイツのために」
  ヘス  「うん…これからますます仕事、仕事、仕事。朝も今より早くな
      る。夜の帰りも遅くなる」
  ヘス夫人「今より、ずっと…」
  ヘス  「部下の隊長や隊員に最大限の成績を発揮させるためには、
      俺自身が率先、範を示さなければならないからね」
  ヘス夫人「そうね。(ヘスの手を握り)私もがんばらなくちゃ」
  ヘス  「ああ、頼むよ。やるよ俺は…例えば、これまでの収容所で伝統
      になっていた一切の悪しきしきたり、一切の愚かな慣習を破らね
      ば。例えば、保安本部や統監府との文書はともかく、所内での官
      僚的で煩雑な事務手続きの思いきった簡素化を。例えば、SS隊
      員が目を覚ます時俺は出かけ、彼等が務めに出かける時俺はすで
      に仕事中、そして夜彼らが休息の床に就く時俺は仕事を終える。
      …覚悟してくれ」
     うなづくヘス夫人
  ヘス  「困難な問題が山積しているんだ。少ない予算、あまりにも短い
      仕事達成までの期限、次々に押し寄せるであろう仕事、しかもま
      まならぬ部下、はたからの干渉、陰での悪口、足の引っ張り合い、
      嫉妬、裏切り…これに打ち勝つには人一倍働く以外ない」
  ヘス夫人「たいへん…男の方の仕事って」
  ヘス  「今のザクセンハウゼンのローリッツ所長は、俺のことをただ要
      領のいいだけのゴマスリ男だと言い回っていたんだ」
  ヘス夫人「まあ、私もあの人嫌いよ。なんとなくだけど。奥さんもすごく
      意地が悪いの」
  ヘス  「悲しい男さ。ああいう手合いが実に多いのだ。しかし、見てい
      る人はちゃんと見ているよ。今日もヒムラーSS全国指導者と、
      グリュックス強制収容所統監が直々に《ヘス君、君しかいないの
      だよ、我々が期待しうる最良の適任者は!》って、俺の肩を叩い
      て励ましてくれたんだ」
  ヘス夫人「まあ」
  ヘス  「…それにしても…気の重い…困難な仕事だ(頭をそっと押さえ
      る)」
  ヘス夫人「あなた…」
  ヘス  「わかってる、うん、大丈夫。(気を取り直すように立ち上がっ
      て)俺の取り柄は、人への誠実、国家への忠実、仕事への熱意、
      勤勉、努力、創意、工夫!子供たちにも常々そう教えている」
  ヘス夫人「ええ、ルドルフ、そういうあなたの美点は私が一番知っていて
      よ!」
     ヘスの胸にもたれかかる夫人
  ヘス夫人「でも、身体だけは気を付けてね。《ヘス君、君しかいないのだ
      よ、我々が期待しうる最良の大黒柱は!》」
   笑いながら抱き合う二人
   美しい音楽が流れている。

  ヘス  「俺はね…戦争が終わったら、きっぱりと軍人をやめ、また農場
      の夢にもどろうと思うんだ」
  ヘス夫人「軍人を…やめるの」
  ヘス  「ああ。また開拓農民として一から出直そうと思うんだ」
  ヘス夫人「それで」
  ヘス  「それで、額に汗して働き、農場を持ち、子供たちの故郷をつく
      り、子供たちを立派に教育する」
  ヘス夫人「ええ、ええ、きっと。ほんとね。約束しましょう」
  ヘス  「約束する」

   深くうなづくヘス

  ヘス夫人「農場かあ、いいなあ」
  ヘス  「辛いよ。またおまえも重労働だよ」
  ヘス夫人「平気、平気。慣れてるわ…でも…」
  ヘス  「でも、…なに?」
  ヘス夫人「不安だわ、私」
  ヘス  「不安?」
  ヘス夫人「…戦争、どうなるのかしら…このまま勝てるかしら」
  ヘス  「ああ、勝さ…信じなさい…ただ信じるように、君たちは」
  ヘス夫人「ええ、勝てるわね、きっと…」
  ヘス  「もちろんさ。ただ信じて…今の生活を精一杯生きよう」

   今度はヘス夫人が深くうなづく

  ヘス夫人「ただ信じて」
  ヘス  「精一杯、額に汗して働き…」
  ヘス夫人「子供たちに素晴らしい故郷を残し」
  ヘス  「子供たちを」
  ヘス夫人「素直で優しい」
  ヘス  「そして強く、たくましい、立派な人間に育てる」
   微笑み合う二人
  ヘス  「踊ろうか?」
  ヘス夫人「えー、めづらしーい」
  ヘス  「いやか?」
   首を振る夫人
  ヘス  「では奥様、お手を…」

   踊りはじめる二人

             (暗転)




   アウシュヴィッツ収容所
   所長室
   ヘスの副官カール・フリッツを、報告書を見ながら叱っているヘス。
   苛立っている。壁に《労働は自由への道》のスローガンが掲げてある。
   《卍》(ハーケンクロイツ)の旗も。

  ヘス  「カール・フリッツ君、私は残念だ。この書類を見ても君の報告
      を聞いても、一週間も前に私が下した命令は全く遂行されていな
      い。五日前に君から提出された計画書は全くのデタラメな作文に
      すぎない! この報告書、このデータは君たちの怠慢を証明する
      以外のなにものでもない!」
  フリッツ「お言葉ですが所長、無理ですよ、無理なことが判明したのです」
  ヘス  「無理? 何が無理かね、フリッツ君」
  フリッツ「はっ、所長のご命令を遂行するには余りにも予算が足りません。
      あんなものではご命令の建設も、技術改良もかないません。また、
      工期的にも無茶ですよ。時間が足りません」
  ヘス  「時が必要というのかね」
  フリッツ「はい、一年は必要なのに三ヶ月でやれとおっしゃっているので
      すよ」
  ヘス  「常識的には無理だな」
  フリッツ「はい」
  ヘス  「しかし今は非常時だ。常識など通用しない」
  フリッツ「しかし」
  ヘス  「フリッツ君、君は毎朝何時から勤務につくかね?」
  フリッツ「はっ、規定通り八時半からです」
  ヘス  「私は六時半には勤務に就いているよ」
  フリッツ「六時半!」
  ヘス  「フリッツ君、非常時なのだ。私は上から、いついつまでに収容
      所そのものの建設と改修を、いついつまでに排水工事を、いつい
      つまでに収容所周辺の第一地帯の住民立ち退きを、いついつまで
      に地雷原の埋設をと、全て期限付きで命令を受けているのだ。
      (窓の外に目をやり)
      見たまえ、それでなくとも、こちらの受け入れ態勢に何ら猶予も
      与えず、ああして家畜列車で毎日三千人、四千人とユダヤ人やロ
      シアの捕虜が運ばれてくる。
      フリッツ君、上からの命令には何一つ論議も、解釈も、反論も言
      い訳も許されないのだ!…はなから無理だ、出来ないと諦めるの
      ではなく、どうしたら可能かを考えてみようではないか」
  フリッツ「…と言いましても」
  ヘス  「…よろしいフリッツ君。
      我々の官舎から収容所まで通勤に三〇分かかるな」
  フリッツ「はい三〇分ぐらいですね」
  ヘス  「収容所の敷地はまだまだ余地があるし、第二期、第三期と拡張
      命令も出されている。…
      こうしよう! 我々全所員の官舎を収容所敷地内に移す」
  フリッツ「我々の官舎を、ですか?」
  ヘス  「D地区が適当だろう。明日までにその計画書を提出せよ。
      明後日には実施にとりかかる」
  フリッツ「我々が、我々の家族が、ユダヤ人やジプシーや犯罪者と一緒に
      暮らすんですか? 同じ囲いの中で!」
  ヘス  「それで三〇分早く勤務に就けるし、従来より三〇分遅くまで勤
      務が可能だ。脱走や暴動が起きた際の対処も迅速に行えるだろう。
      命令だ。早速とりかかれ」
  フリッツ「所長、我々は囚えている身であって、囚われの身ではありませ
      ん。年中同じ囲いの中で暮らすなんて、囚われの身とかわらない
      ではないですか」
  ヘス  「フリッツ君。時間はつくるものだ。予算も私が再検討して後で
      指示する」
  フリッツ「所長…」
  ヘス  「命令だ! これは命令なのだ!」
  フリッツ「わかりました。すぐ取りかかります」

   出て行こうとするフリッツ

  ヘス  「フリッツ君。所長室のドアは開け放しにしておいてくれたまえ。                        
      私と君ら中堅幹部、それと若い隊員らの間の意思の疎通が欠けて
      いるとは思わんかね。命令伝達が徹底していないと思わんかね。

      いいか、所内掲示板に貼り紙を出してくれ。君たちの意見、提案、
      具申は直接私のところに持って来てかまわんと。提案制度を実施
      するのだ。よいアイデアはどんどん取り入れる用意があると告示
      するのだ。それも早速とりかかってくれたまえ」

  フリッツ「わかりました。手配いたします」

  ヘス  「あ、それと、今日から私の昼食を所長室に運ぶ必要はない。
      私用の特別メニューも取り止めだ。私も所員といっしょに隊員食
      堂で食べる。若い所員が、今何を考え、何を悩み、何に不満を抱
      いているのか、みんなと共に付き合う中で聞いていきたい」

  フリッツ「はい、手配いたします」
  ヘス  「あ、それと建設主任のトム・ヘイゲンを呼んでくれ」

  フリッツ「はっ!…(独白しながら出て行く)…しかし無茶苦茶な話しだ、
      全く! 同じ囲いの中で暮らすようになるとは」
       
     一人苛立っているヘス

  ヘス  「(独白)囚われの身ではない。(スローガンの前に立ち)ドイツ
      の永遠の解放のために、我々は責任を果たさねばならないのだ。
      …自由のために!」

     建設主任のトム・ヘイゲンが入口のところに立っている。
     気付くヘス。
  ヘス  「なにをしている。さっさと入って来たまらどうだ。ヘイゲン君」
  ヘイゲン「はっ! 入ります」
  ヘス  「ヘイゲン君、一体いつになったらできるんだ! 有刺鉄線は?
      どうした? まだ一〇メートルも手に入れることができんのか? 
      他の資材は? まだ収容所統監府は指一本動かそうとしないのか
      ?」
  ヘイゲン「は、全てその通りです」
  ヘス  「全てその通りだと!」
  ヘイゲン「はっ」
  ヘス  「建設主任、君は一体何をしてきたのかね。工兵隊倉庫には有刺
      鉄線が山と積まれて眠っているというのに」
  ヘイゲン「は、工兵隊には何度も当たってみましたが…」
  ヘス  「どうした」
  ヘイゲン「管轄ちがいですし、複雑な申請手続きもあり、またあれは戦線
      に使用とのことで…」
  ヘス  「それで」
  ヘイゲン「は、そのダメでした」
  ヘス  「馬鹿め…よし、ヘイゲン君、今夜工兵隊倉庫に有刺鉄線を盗み
      に行くのだ。倉庫内に他に有用な資材があれば、それも盗って来
      い。特別隊を至急編成せよ!」
  ヘイゲン「あの、盗みに…盗みに行けとおっしゃるんですか?」
  ヘス  「そうだ」
  ヘイゲン「あの工兵隊倉庫に」
  ヘス  「そうだ、工兵隊倉庫にあるのだろう?」
  ヘイゲン「は、でも、あの…自分は盗みはいけないことだと思います」
  ヘス  「何と、素晴らしい役立たずの道徳だろう! ヘイゲン君、今週
      中に収容所周辺に有刺鉄線網を張めぐらさなければならんのは、
      君もとくから承知のはずだ! 有刺鉄線を張らずに、どこに高圧
      電流を流すのかね。君の頭にでも流すのか! いい刺激になるだ
      ろうな! 
      いいか、こうなったら非常手段だ。早くしろ! それとこの工程
      表のデタラメさかげんは何だ! 練り直せ! 明日の昼までに再提
      出せよ!」

   机上に書類を投げ出す

  ヘイゲン「はっ!(そそくさと書類を抱え、、独白しながら出ていく)…
      泥棒は、やっぱりいけないことだと思うんだけど…嘘つきのはじ
      まりだ」

   苛立ちながら懐中時計を取り出し時間を見るヘス

  ヘス  「馬鹿め! 全くどいつもこいつもノロマの間抜けぞろい。特に
      管理部隊長はワラが服を着て歩いているようなもんだ。…
      なんで私が、奴に代わって部隊と抑留者の全生活資材に関する交
      渉をしなければならんのだ。奴の仕事だ! 間抜けめ、パンも、
      肉も、ジャガイモも、鍋にいたるまで! そんなものを手に入れ
      る交渉もできんのか! 阿呆め!」

   立ち上がり、出て行こうとするヘス

  ヘス  「ベッドの台や、藁ブトンの調達に至るまで…何もかも私がやら
      ねばならんのか!」

   部屋の外に向かって

  ヘス  「管理部隊長! 管理部隊長! 交渉に出かけるぞ!」

   出て行くヘス

  ヘスの声「…ヘイゲン、こんな所で何をしている。盗みの手はずを整えて
      いるのではなかったのかね」
  ヘイゲンの声「(聞きとれないが)…」
  ヘスの声「いいか、足りない資材は野営地だろうが町の工場だろうが、片
      っぱしから盗みに行け! 手に入れろ! さっさとしろ!…
      管理部隊長!…出かけるぞ!(遠のくヘスの声)」