核戦争が恐ろしいから戦争に反対するならば、核兵器で威しつければ戦争に賛成することになる。もっと小さなこと、例えば、お前を殺すぞと言われるだけで賛成することになるかも知れなくて、大概そんなのがこの前の戦争に賛成した。戦争に反対するのは道徳上の要求であり、我々自身の都合からではない。我々はこれから本腰で戦争に反対しなければならない。
吉田健一は英文学者、作家、文芸評論家である。父は吉田茂。母は牧野伸顕の娘・雪子。海外の任地で暮らす両親と離れ、6歳まで祖父の牧野家で暮らした。
学習院初等科に入学したが、すぐ父の勤務地の青島に同行し、その後パリ、ロンドン、天津と転々とした。大学はケンブリッジに進んだがシェークスピアやフランス文学に熱中し、退学。帰国後アテネ・フランセーズでフランス語を身につけた。ポーの翻訳やフランス文学の翻訳、評論などを「文学界」や同人誌に活発に寄稿した。
1945年5月に応召され横須賀の海兵団に入隊したがほどなく終戦となって家に戻った。彼は最晩年の牧野伸顕の家に通い、その回顧録の口述筆記にあたり、それを出版した。その後國學院大學非常勤講師、中央大学教授となった。
吉田茂の最も近くに暮らしながら、彼についてはほとんど語らなかった。母雪子が亡くなってすぐ、新橋芸者のこりんを後妻に入れた父が気に入らなかったらしい。
また九州屈指の悪徳の大実業家・麻生太賀吉に嫁いだ妹の和子とは、かなり仲が悪かったらしい。太賀吉は政治家となり吉田政権を補佐し金主でもあった。麻生太郎は健一の甥にあたる。
健一はその教養、知性、度量、淡々と落ち着き払い、決して激することのない性格から、父の茂より政治家向きだったと言う人もいる。しかし彼は政治の世界には見向きもしなかった。イギリスやフランスでは政治を世襲することは極めて少ない。特にイギリスでは政治の世襲は恥ずべきこととされているらしい。政治の世襲は民度の低い後進国のものと思われているからである。
吉田健一はイギリスやフランス風の機知に富んだ、ときに皮肉の効いた辛辣な言辞もあったのか、親しかった三島由紀夫とは疎遠になったという。
いま吉田健一が存命なら、麻生太郎を何というだろう。