芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

吉田健一の言葉

2016年07月31日 | 言葉
                                                              

 核戦争が恐ろしいから戦争に反対するならば、核兵器で威しつければ戦争に賛成することになる。もっと小さなこと、例えば、お前を殺すぞと言われるだけで賛成することになるかも知れなくて、大概そんなのがこの前の戦争に賛成した。戦争に反対するのは道徳上の要求であり、我々自身の都合からではない。我々はこれから本腰で戦争に反対しなければならない。


 吉田健一は英文学者、作家、文芸評論家である。父は吉田茂。母は牧野伸顕の娘・雪子。海外の任地で暮らす両親と離れ、6歳まで祖父の牧野家で暮らした。
 学習院初等科に入学したが、すぐ父の勤務地の青島に同行し、その後パリ、ロンドン、天津と転々とした。大学はケンブリッジに進んだがシェークスピアやフランス文学に熱中し、退学。帰国後アテネ・フランセーズでフランス語を身につけた。ポーの翻訳やフランス文学の翻訳、評論などを「文学界」や同人誌に活発に寄稿した。
 1945年5月に応召され横須賀の海兵団に入隊したがほどなく終戦となって家に戻った。彼は最晩年の牧野伸顕の家に通い、その回顧録の口述筆記にあたり、それを出版した。その後國學院大學非常勤講師、中央大学教授となった。
 吉田茂の最も近くに暮らしながら、彼についてはほとんど語らなかった。母雪子が亡くなってすぐ、新橋芸者のこりんを後妻に入れた父が気に入らなかったらしい。
 また九州屈指の悪徳の大実業家・麻生太賀吉に嫁いだ妹の和子とは、かなり仲が悪かったらしい。太賀吉は政治家となり吉田政権を補佐し金主でもあった。麻生太郎は健一の甥にあたる。
 健一はその教養、知性、度量、淡々と落ち着き払い、決して激することのない性格から、父の茂より政治家向きだったと言う人もいる。しかし彼は政治の世界には見向きもしなかった。イギリスやフランスでは政治を世襲することは極めて少ない。特にイギリスでは政治の世襲は恥ずべきこととされているらしい。政治の世襲は民度の低い後進国のものと思われているからである。
 吉田健一はイギリスやフランス風の機知に富んだ、ときに皮肉の効いた辛辣な言辞もあったのか、親しかった三島由紀夫とは疎遠になったという。
 いま吉田健一が存命なら、麻生太郎を何というだろう。


                                                             

光陰、馬のごとし 田原成貴

2016年07月30日 | 競馬エッセイ
                                                                                                                  

 総選挙後やっと始まった臨時国会、鳩山総理の初めての所信表明演説を、案の定、民放各局のニュース番組はほんのわずかばかり触れただけであった。彼らがその時間のほとんどを割いたのは、酒井法子の初公判なのである。どの局にも、某カルト教団、某巨大宗教法人青年行動隊や、某国の日本人愚民化工作に従事する連中が入り込んでいるらしい。 近年、市場原理・競争原理の名の下に市場原理主義者を会長に迎え、TV界に於ける市場競争原理の尺度「視聴率」を気にし、民放番組の模倣に著しく傾斜しているNHKは、有事の際は大本営発表のみをタレ流すことを義務づけられた国策報道機関としての矜持と良心はあるらしく(中立公平の旗の下に自らの批判精神を封じ、ジャーナリストの矜持は些かも持たぬに)、「腐っても」NHKで、鳩山所信表明に時間を割き、ついで酒井法子初公判に触れた。流石である。大声で誉めてあげたい。 私は酒井法子とは口を利いたことはないが、サンミュージックの創立者で、酒井事件の責任をとって会長職を退いた相沢秀禎氏なら、その社長時代にお世話になって何度かお会いしたことがある。闊達で温厚な方という好印象が強く残っている。

 さて、私も覚醒剤事件で逮捕された人物について語ってみたい。 今月の中頃、京都で田原成貴が覚醒剤所持と使用で逮捕された。
 田原成貴は天才と呼ばれた元JRAの騎手である。今回の田原の逮捕はあまりニュースにはならなかったようだが、私には酒井法子より、「田原、再び覚醒剤で逮捕」のほうが、思うところ多い。
 彼のその華やかな騎手時代、私は仕事で何度か彼と話を交わす機会があった。彼はいつもすこし背を丸めていた。周囲から生意気だと聞いていたが、シャイで、穏やかで、なかなかユーモアもあり、笑顔の美しい好青年だった。ナルシストかと思われた。
  以前も書いたが、田原は天才が騎手になった男だったのである。騎手の天才・福永洋一が事故でターフを去った後、その後を襲うように勝ちまくったのは河内洋騎手であった。しかし彼は天才とは呼ばれなかった。河内は後に名手と呼ばれた。やがて河内を凌いで天才と呼ばれる若者が登場した。その若者が天才福永の後を襲うかに思われた。それが田原成貴である。彼はその甘いマスクから競馬界の玉三郎と呼ばれた。しかし彼は福永のようには勝ちまくることはなかった。田原成貴が天才と呼ばれた期間は短かったのである。
 その狷介な性格から、彼を生意気と思う調教師や馬主も多く、嫌われて、いつもニコニコとした福永のようには愛されなかったからである。またその後、「名人」と慕われた武邦彦の息子・武豊がデビューしたからである。武豊は福永洋一のように温厚、素直な性格で、また若さに似ず冷静で知的で、芯があり、どこか老成した感があった。武豊はたちまち圧倒的な騎乗数と有力馬の騎乗依頼に恵まれ、その期待通り勝ちまくって、「天才」と呼ばれるようになった。だから田原成貴が天才騎手と呼ばれた期間はごく短かったのだ。しかし騎手の天才・福永洋一や武豊と違って、田原は天才が騎手になった男だったのである。

 田原は実に大胆な、舌を巻くような騎乗ぶりを見せた人だった。その狷介孤高の精神は彼に災いし、トラブルメーカーと言われた。よく調教師や馬主、厩務員らと対立したからである。鞭で若い騎手や厩務員を殴った、記者を殴打したというトラブルも起こした。騎手は一般ファンに嫌われても商売に支障はないが、調教師や馬主という依頼主から嫌われれば商売にならない。
 その報道される調教師や馬主との主なトラブルは、見解の相違と越権にあった。彼は調教師の指示する騎乗方法を無視した。「乗るのは僕だから」である。
 また馬主が騎乗方法やレースの作戦に口を挟むことに対しては、「素人は引っ込んでろ」という態度を示した。言葉にしたこともあったのであろう。あくまで乗るのは自分である。馬の調子や気持ちが分かるのも自分である。
「なあ、おい、そやろ」と田原は馬に語り続け、会話し、調教師や馬主を無視し、生意気と言われ、対立したのである。彼は決して自分を曲げなかった。そして馬から降ろされた。以下のやりとりは私の勝手な想像である。

「調教師(せんせい)、この馬疲れています。レースは回避した方がいいですよ」
「そんなことはないやろ。体調も万全なはずだ」
「いや、疲れてますよ。僕には分かります」
「俺も調教師やで、馬のことなら分かる」
「いや、先生はこいつの気持ちがよう分かってません。こいつは精神的に疲れているんです」
「…」
「こいつの言うことに耳を傾けてください。嫌や、言うとるやないですか。もう嫌や、疲れた、言うとるやないですか」
「…」

「先生、この馬、左の後肢がおかしい」
「そんなふうには見えへんが…」
「乗った僕がおかしいと感じたんです。休ませましょう」
「それはお前が決めることではない! 馬主(オーナー)も次のレースは絶対使って欲しいと言うとるんや」
「オーナーなんて素人やないですか。休ませましょう」
「それはワシが決める」
「休ませましょう」
「じゃかしい!」

 木訥であまり言葉を知らない他の騎手に比し、田原はどちらかといえば饒舌であった。語彙も豊富で、まるで詩人のような美意識、ユニークな言葉の「感覚」を持っていた。絶対我々には分からない、騎手にしか分からない、騎乗時の微妙な一瞬の感覚を、明確に、的確に伝える言葉の鋭さと、切れ味を持っていた。彼が馬と共に突っ込むべき光の中、音のない真空の広がり、自分たちの前にぽっかりと開いた異空間、異次元、神の領域、そして勝負師の凄みのある冷徹さと、美と、めくるめく陶酔…。彼の言葉は詩の言語であった。
 彼は自分の言葉に感応する相手に対してだけ、その独特な言葉を発した。それが鶴木遵のインタビューに、実によく顕れている。聞き手の鶴木が予想紙の記者やスポーツ紙の記者、テレビのインタビュアーではなく、言葉に対して鋭い感覚を持った「詩人」のような書き手だったからである。

 田原はレース中、ターフにしたたかに叩きつけられた。一つの腎臓が破裂し、摘出された。復帰後の田原の騎乗数は半減した。それでも大レースでは、あっと驚くような凄みのある騎乗を見せ、上位に食い込み、大穴をあけ、優勝してみせた。劇画の原作を書き、小説もエッセイも書き、歌手としてレコーディングもした。
 あるときJRAの職員の一人が私に小声で吐き出すように囁いた。
「田原は駄目だよ。あいつの周りには悪い奴らがいる。あんな奴らと付き合ってちゃ駄目だ!」
 やがて、田原と好ましくない人物たちとの交際が囁かれるようになった。
 彼はまだ現役を退く年齢ではなかったが、騎手を引退した。腎臓がひとつしか残っていないことが、肉体的にも精神的にも負担であったのだろう。
 調教師になって三年、彼は東京に出張してきたおり、覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。当然、調教師免許を剥奪され、競馬界から永久に追放されたのである。

 それから数年、彼は再び覚醒剤に手を出し、今秋逮捕されたのである。更正したかに伝えられていた田原は、再び転落し、地上にしたたかに叩きつけられたのだ。 「幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である」と言ったのはヴォルテールであった。数々の大レースを勝った田原の栄光は一瞬に過ぎなかったのだ。幸福を栄光に、苦痛を転落という言葉に置き換えるなら、田原にはヴォルテールの箴言がふさわしい。
 彼は何か苦痛から逃れるために薬に手を出したのだろうか。覚醒剤が呼び起こす幻覚の中に、栄光時代に見た「馬と共に突っ込むべき光の中」「ゴールまでの静謐な真空」「馬と自分の前にぽっかりと開いた異空間、めくるめく異次元」、「神の領域」を見たのだろうか。そして、転落もまた彼にとっては、甘美と陶酔の中の一瞬の出来事なのではなかったか。
 額や目の上にかかったさらさらした髪を、顔を振って払い、すこし背を丸め、両の手を無造作にズボンのポケットに突っ込み、甘いマスクに恥らうような笑みを浮かべながら、受け答えする田原の姿が思い出される。私は今でも田原成貴の天才を、いささかも疑っていない。


             (この一文は2009年10月29日に書かれたものです。)

事件の背景

2016年07月29日 | コラム

 相模原の障害者施設を襲った犯人は、おそらく全く悔悟も反省もしていないだろう。実におぞましい事件だ。重複障害者を対象とした確信的なテロである。
 どうしても、ナチスのファシズム独裁政権下で主要思想となった社会ダーウィニズム、優生学とその優生思想や、その下で実施された障害者安楽死政策を想起してしまう。それはさらに際限もない妄想となって、ユダヤ人の虐殺につながっていく。
 考えたくもないが、このおぞましい犯罪に拍手を送っている輩も
多いことだろう。根底にあるのは差別思想である。その差別意識はヘイトスピーチにもつながる。劣等人間、劣等人種は要らぬ、出て行け、死ねとなる。彼らは人間ではない、モノである。人権なんてない、となる。
 考えたくもないが、このおぞましい犯罪に心の中で同調している政治家たちもいるだろう。
 自民党の憲法改正草案の中に見え隠れする「個」の否定、「公」の強調。公のために役に立て、血を流せ。公の役に立たぬものは要らぬ。国民の生活が大事だなんておかしい、大事なのは国だ、国家なのだ。みなさん国家を守りましょう。国の役に立たぬものは要らぬ。国の役に立つ人たちに選挙権を与えましょう。主権在民なんておかしい、本来日本のお国柄として主権は天皇のものである。基本的人権、民主主義、個人主義なんて西洋から入ってきたもの。漢心(からこごろ)を捨て、大和心の復活だ。
 これは悪夢だろう。今回の事件が、現代の日本に起きたことが気持ち悪い。彼は「安倍晋三先生にお伝えください」と手紙を結んだ。

 おそらく彼は最初から障害者差別や排除の考えを持っていたとは思わない。軽薄で無思慮な自己顕示欲と多少の差別主義的性癖は持っていたであろう。
 施設で働くうちに、その労働のしんどさから、対象に対しどんどん軽蔑、侮蔑、嫌悪と憎悪を募らせて、…この人たちは周りを不幸にする、生きる価値もない…やがてヒトラー、ナチスの障害者安楽死処分を知ったのだろう。

「役に立つ、役立たぬ」で判断すること。それは文化の多元化ではなく一元化も招く。「学問も成長戦略に組み込む。研究者も産学共同・軍学共同で金を稼げ。金も稼げぬ、成長戦略にも組み込めぬ文系は不要だ」…「公の役に立て、役立たぬものは不要」「90歳過ぎてまだ生きるつもりか」「重複障害者は人間ではない。あんなモノに多くの役立つ人材と厖大な予算をかけるのはいかがなものか」…事件の背景にはこうした社会・政治風潮や為政者たちが蔓延させる空気があると思えてならない。

光陰、馬のごとし 横山典弘

2016年07月28日 | 競馬エッセイ
                                                            

 競馬ほど追憶を呼び覚ます娯楽はない。そもそも競馬は記憶のゲームなのだ。
今年のダービー、優勝馬はロジユニヴァース、勝利騎手は横山典弘だった。また私は感慨に耽った。
 1986年、我が社名アプローズを馬名に見出した。フミノアプローズという関西馬である。新馬戦を勝ち、二戦目の万両賞は敗れたが、その後雪割草特別、重賞きさらぎ賞に優勝した。4戦3勝でクラシック第一弾の皐月賞の有力馬として名乗りを上げ、トライアルのスプリングステークスを目指し、勇躍東上して来るのである。父はイングリッシュプリンスというアイルランド・ダービーを勝った一流馬である。その父はペティンゴで、母の父はネバーセイダイであることから、血統的に長距離を得意とする馬であろう。
 三月の末、社員たちは「フミノアプローズを応援に行きましょう」と言い出し、私たちは連れだってスプリングSを観戦に中山競馬場に出かけた。その日の何レースか覚えがないが、横山典弘が騎乗したレースがあった。この月の三月一日に、横山典弘は騎手デビューしたばかりである。彼はまだ初勝利を挙げていなかった。
 彼の父は職人的な名手として人気のあった横山富雄である(※1)。父の名が高い分、典弘は注目されていたと言っていい。したがって、彼の騎乗馬は実力より少しばかり多くの人気を集めていたのだろう。その時のレースも典弘は人気馬に騎乗していた。彼の乗った馬はゲートが開くと同時に敢然とハナにたち、暴走気味の大逃げをうった。スタンドがどよめいた。案の定、横山が乗った馬はバテて、四コーナーを回った坂下であっという間に馬群に飲み込まれていった。彼らは離された最下位で入線した。
 私たちは下馬所近くの柵に取りついていた。戻ってきた馬と典弘に、群衆の中から大声が掛かった。それは本当に大きな声であった。
「横山ァ、お前はペース配分を知らんやつだなァ。でも面白かったから誉めてやる!」どっと笑いが起こった。「少しはオヤジを見習えよォ! オヤジを…」
 典弘はその後もなかなか勝てず、彼が初勝利を挙げたのは一月後であった。このデビューの年、典弘はたった8勝しかできなかった。

(※1)横山富雄は障害競走の騎手として中山大障害を五度優勝している。その長手綱が長距離競走に向くという理由で、メジロの冠名で知られる大馬主の北野豊吉に騎乗依頼され、メジロタイヨウやメジロムサシで天皇賞を勝った。障害競走の騎手が平場の大レースを勝つことは珍しい。今日フリー騎手は珍しくもないが、彼は当時渡辺正人(まさんど)騎手に次ぐ二人目のフリー騎手となり、その先鞭をつけた。ニットウチドリで桜花賞やビクトリアCに優勝し、ファイブホープでオークスに優勝した。またツキサムホマレでワシントンDCインターナショナルにも挑戦した。
 彼が騎手生活の晩年に騎乗したメジロファントムは、強いはずなのに惜敗続きで、へんな人気を誇った。この鹿毛の馬は引退後に東京競馬場で誘導馬になったが、そのときの大レースの出走馬より人気があったほどである。なぜなら、ファントムはまるで現役馬のように美しい鶴っ首を示して、闘志を漲らせていたからである。その姿にスタンドから「ファントム!」の声が掛かり、拍手が起こった。

 デビュー三年目あたりから横山典弘は頭角をあらわしてきた。メジロの馬をはじめ、有力馬にも騎乗するようになった。ダービーフェスティバルや有馬記念フェスティバルなどのイベントに、ゲスト騎手として出演するようにもなった。彼は楽屋でふざけて騒ぎ回り、ステージの進行説明をする私の話もろくに聞かず、多弁で、生意気で、やんちゃで、陽気で、落ち着きがなく、全くの悪戯っ子だった。皐月賞当日に行われる「騎手とファンとの集い・運動会」イベントでも、悪戯っ子ぶりを発揮していた。インタビューを受けてもふざけた発言を繰り返していた。…
 そんな典弘がすっかり大人になって、若い騎手たちから「ノリさん」と慕われ、「ノリさんこそ天才です」と憧憬されるようになったのだ。父に似て長距離が得意で、メジロライアンでの天皇賞は果たせなかったが、サクラローレルで天皇賞と有馬記念を勝った。芦毛のセイウンスカイで人気のスペシャルウィークを敗って皐月賞に勝ち、菊花賞では博打的な大逃げをうって優勝した。イングランディーレ(※2)に騎乗した天皇賞でもハナから飛ばし、二十馬身も離した大逃げの博打をうって優勝した。まるで「ペース配分を知らん」かのような、暴走気味の逃亡劇である。しかし長距離レースこそ騎手の技量がものを言うのだ。

(※2)イングランディーレは、おそらくプリティキャストと共に史上もっとも低い評価しか与えられていない天皇賞馬ではないか。彼は典型的なステイヤーであった。中央から地方競馬を転戦していたが、天皇賞は横山典弘の大胆な捨て身戦法がまんまと功を奏し、何と「優勝してしまった」感がある。全く勝負師・典弘の騎乗技術による。
 ちなみに私はプリティキャストもイングランディーレも嫌いではない。なにしろプリティキャストは、あの吉田一太郎・権三郎らの「頑固」な「信念」という「浪漫」が生みだした「奇跡」だからである。またイングランディーレのようなドサ回り的役者が、並み居るスターたちを霞ませてしまう、そんな痛快事は滅多にないからである。

 横山典弘は95年、05年、06年は年間百勝を超え、関東のリーディングジョッキーに輝いた。そして昨年の秋、通算勝利度数は千八百勝を超えた。典弘はいつしか関東を代表する名騎手になっていたのだ。
 しかしダービーに勝てなかった。2着が最高で、どうしてもダービーに勝てなかったのである。今年、典弘は騎手生活二十三年になるという。あれから二十三年、すでに四十一歳である。そしてダービー十五回目の挑戦で、ついに優勝した。そのインタビューは喜びを爆発させることもなく、たんたんと落ち着き払って語っていた。あの典弘が、ロジユニヴァースに感謝の言葉を述べ、まるで父・横山富雄のように、渋い落ち着きを醸していた。あの典弘が「ダービーも未勝利(戦)も、一勝ですから…」と言ったのだ。無論、ダービー制覇が嬉しくないわけはなく、ただ静かに喜びを噛みしめているのである。
 今JRAの騎手学校に、典弘の息子がいるそうである。順調にいけば、来年の三月初旬にデビューするだろう。親子で同じレースに乗ることもあるだろう。その子に向かって誰かが、「横山ジュニアァ、お前はペース配分を知らんやつだなァ。少しはオヤジを見習えオヤジを! でも面白かったから誉めてやる!」と言う声も掛かるかも知れない。さすがに「爺さんを見習え、爺さんを!」というファンはいないかも知れないが。
ともかく、ロジユニヴァースと典弘に賛辞を送りたい。不良馬場のイン三番手にジッと我慢し、直線突き抜けたロジユニヴァースの忍耐力と、本物の強さを見た。典弘は実にうまく乗った。典弘のインタビューによれば、ロジユニヴァースの体調はあまり良くなかったそうである。この馬は左前脚が外向しているという。同様の脚が外向した馬にトウショウボーイがいたが、今後ロジユニヴァースは脚部不安に悩まされるかも知れない。一方、一番人気のアンライバルドは、位置取りがあまりにも後方過ぎたようである。最後方グループで泥を被り続け、おそらく馬はやる気をなくし、直線で追われても重い馬場に脚をとられて自慢の末脚も発揮できなかったのだ。明らかに名手・岩田騎手の騎乗ミスである。また離れた二番手で「逃げ」、2着に粘ったリーチザクラウンの武豊を絶賛したい。流石に巧みな騎乗である。

 さてフミノアプローズと、デビューから彼の背にあった丸山勝秀騎手のことである。丸山騎手は、関西の中堅騎手としてオサイチジョージ等で大レースにも優勝して活躍していたが、後年、どうしたことか騎手仲間の部屋に盗みに入って逮捕され、競馬界から永久追放された。フミノアプローズは、私たちが応援に行ったそのスプリングSで、一番人気に推されながら3着に敗れた。皐月賞ではすっかり人気を落とし、ダイナコスモスの11着に惨敗した。体調を崩し秋まで休養に入ったが、復帰戦の神戸新聞杯も冴えずに敗れた。その後脚部不安で一年を棒に振り、古馬となって復帰した三戦目に競走を中止した。故障を発生したのである。彼はついに喝采を浴びることなく、ターフの舞台から去っていった。

          (この一文は2009年6月2日に書かれたものです。)

            

吉田茂の憲法と防衛

2016年07月27日 | 言葉
                                                        


 吉田茂は天皇の選良(エリート)意識が強く、傲慢で、あまり好きではない。彼の署名は「臣 茂」であった。日本人の王として天皇があり、その下に臣民は平等と言うのだが、実は臣と民は位階が違う。臣は天皇の信任を受けた選ばれた人(選良)であり、選良が作り決めたことに、民は従順に従えばよい、とするのである。
 しかし吉田は外交官として海外生活が長く、他の日本教(狂)信者とは異なり、彼らとは一線を画した西欧的な合理主義者でもあった。吉田はGHQから憲法草案を示されたとき、強く抵抗し異を唱えたが、その後は護憲を通した。
 憲法9条は幣原喜重郎首相の提案であり、幣原やその内閣の吉田、芦田らの外務省出身の閣僚は、ともに若き外交官時代に、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領の理想が元になったパリ不戦条約、ヴェルサイユ条約、国際連盟などを目にしてきたからである。
 以下はその吉田の言葉である。


 国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。