芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

不偏不党を嗤う

2016年02月29日 | コラム
 この一文は2006年の七夕の日に書いたものである。当然、書かれている話題は古びている。まだ松井秀喜は現役の大リーガーであった。私は彼が打てないことに苛つき、ずいぶん酷いことを言い、彼のファンたちから顰蹙を買って叱られたものである。しかしそれらはテーマの周辺のことであって、本質は今も重大である。


 さて最近NHKは、さっぱりNYヤンキースの二流スラッガーでミスター・セカンドゴロとして人気も高い松井秀喜の近況を報道してくれない。ゴジラの手首がどうなったかホントに心配だ。淋しいではないか。
 なにせ彼が怪我をしたときは、2日間にわたってトップニュースで報道するほどの大ニュースだったはずではないか。NHKにとって重大なのは、北朝鮮のテポドン2より松井の手首ではなかったのかネ。

 あの時私は、NHKにはジャーナリストはいないのかと嘆じたが、よくよく考えれば端からいないことは明らかだった。NHKにジャーナリズム精神を期待することが誤りであったのだ。NHKは「不偏不党」「起こった事実のみを公正に」淡々と伝えていくのみ。
 つまり御上から記者クラブに配られる報道資料を、記者がリライトし、アナウンサーが読み上げるだけなのだ。だから「経済成長には自由貿易が欠かせないことから…」と、何ら正当性や納得のいく説明もなく、全く疑問も抱かず、ただ読み上げるのみなのである。
 しかしジャーナリストとは、沸々と滾る反逆精神が必要で、常に権力を監視し、疑い、批判する存在でなければならない。

 17世紀初めトーマス・ホッブズは国家を巨大な怪物「リヴァイアサン」に譬えた。この大著は人類最初の近代的国家論であり、自然権としての生存権、平等な個々人の社会契約を語った。ホッブズは個人・人権と国家・国権の「緊張関係」を初めて語った哲学者だった。彼によって近代的国家と国民(市民)の関係、権利等が哲学の視野に捉えられたのだ。彼の後にジョン・ロックが続いた。
 シュテファン・ツヴァイクは「ジョセフ・フーシェ」の中で、フーシェについて「夜こそ、彼の本質」と書いた。フーシェはその濃い影の巨大さ故の象徴に過ぎない。権力・政治・政治家の本質は、夜=闇なのである。
 民主主義は本質的に危うい制度であり、民衆はポピュリストやアジテーター政治家によって、いとも簡単に誘導される。権力は常に情報操作に腐心し、民衆世論の誘導を考えている。また権力は「民は愚かに保て」「知らしむべからず、由らしむべし」と考えている。権力は時とともに腐るのではなく、最初から饐えているものなのであり、その本質は卑劣なのである。そして国家とは狂気を孕んだリヴァイアサンなのである。

 近現代の個人とその人権、国家とその権力の相関は、常に本質的な緊張関係が存在し、また緊張関係が必要なのだ。国家とその権力は、常に監視の眼と批判・批評に曝されなければならず、そのために世界の現代的憲法権利として「The right to know 知る権利」がある。これこそ民主主義国家の言論報道の自由や、情報公開制度を正当化するための個人(市民・国民)の憲法権利なのである。 
 「知る権利」は「accountability 説明責任・説明義務」と対をなす概念である。ちなみに見出し語数38万語と語源を含めた詳細解説を誇る英和辞典「ランダムハウス第2版」によれば「accountability は responsibility と異なり、果たせば報酬を伴う」とある。つまり、本来「accountability」は権力を持つ者、その権力を行使した行為で報酬を得る者、つまり政治家や官僚、経営者らに課せられる説明義務、釈明義務のことなのである。
 個人の権利、市民・国民の権利として、国の政治・行政に関する公的な情報、また権力を行使する者たちとその行使した事柄に関して、人々は知る権利があり、政治家・官僚・財界人等はそれらに応える説明義務がある。人々は彼らに「説明を求めること interpellation 、demand an explanation」ができる。この「知る権利」は権力を行使する者たちに対しての権利であって、決して他人のプライバシーを知る権利ではない。これを曲解し、あるいは知らず、全く品位と自制を欠いている今日この頃のマスコミである。

 ジャーナリストの監視の目と懐疑と批判精神は、本来は権力者に向けられるものなのだ。それが本質的には危うい制度である民主主義や、言論の自由や表現の自由を守ることにつながる。
 何度でも繰り返すが、権力は常に監視と懐疑と批判と批評に曝されなければならない。その監視と懐疑と批判がジャーナリストの仕事と精神である。民主主義下のジャーナリストの要諦は、権力への徹底監視と懐疑と批判精神にある。
 その精神は、古くは桐生悠々の「関東防空大演習を嗤う」の心意気であり、後の「他山の石」の精神である。また山田風太郎が喝破した「正義の政府はあり得るか」と言う権力への徹底懐疑精神や、フランスの哲学者でジャーナリストのレジス・ドブレイの「疑え、見抜け、疑え、見抜け」の精神なのである。
 腰の引けた「不偏不党」にジャーナリズム精神は存在しない。むしろ全ての権力に対し「旗幟鮮明」に徹底懐疑、徹底批判すべきである。疑え、見抜け、疑え、見抜け!

仲代達矢さんが感じる空気

2016年02月28日 | 言葉
                                                 

強権の指導者がいて、今、『国を守る』とか『日本は世界平和のためにアピールしないといけない』と声高に言っている。…大衆は強い指導者に動いていきやすい。ちょっとやばいなという気がする。『国を守るためには』という言葉にアレルギーを感じるんです。そういうことを言い出したら、それはもう戦争なんですよ。

競馬エッセイ 政人とチケット

2016年02月27日 | 競馬エッセイ
                                       

 サラブレッドは気性が激しい。彼等は人間で言えばアスリートである。その激しさが、負けず嫌い、闘志となって、クビでもアタマでもハナ差でも、他馬より前に出ようとするのだろう。勝負根性と言われ、過酷なレース、特に大レースでそれを発揮すると、底力と言われる。
 彼等は「勘」もいい。毎日の稽古の微妙な変化で、レースが近いことを知る。それは彼等に緊張を強いる。頭の良い馬は、その微妙な変化や緊張感から、徐々に競走モード、戦闘モードに入っていくらしく、自ら競走用の身体をつくっていくという。
 またサラブレッドは「癇(かん)」が強い。激しいと言ってよい。恐ろしいほどである。大レースの日ともなれば、何かが、朝から彼等の癇を刺激し続ける。馬は耳がいい。幽かな重低音だが、何かが聞こえるのだろう。
 多くのファンがスタンドを埋め尽くすような大レースともなれば、そのファンが放つ何でもない音や声の総和は、重低音のどよめきとなって馬たちを刺激する。いつもの厩務員や調教師や騎手の微細な緊張が、馬たちを刺激していく。
 パドックから馬場に出ると、彼等はいつもに層倍するスタンドの人数と、潮騒のようなどよめきを浴び、広い競馬場のその空気に包みこまれる。彼等は怯える、緊張する、興奮する。スタンドの群衆の興奮で、彼等のイライラや興奮もその極に達する。
 ナスルーラ系産駒、リボー系産駒やハードリドン産駒、リマンド産駒、ミルジョージ産駒やブライアンズタイム産駒、サンデーサイレンス産駒等はみな気性が激しく、癇が強かった。そう言えばブライアンズタイムにはリボーの血が入っているのだった。またサクラショウリもカツラノハイセイコも、イナリワンも、レガシーワールドやウイニングチケット、ナリタブライアンやディープインパクト、エピファネイアも、みな気性が激しく癇が強かった。
 これらの馬たちの鞍上にあって、彼等をなだめ、落ち着かせ、彼等の意識をレースに集中させ、その能力を引き出し、強い癇や激しい気性を闘志と勝負根性に転化させる騎手たちの技術は、実に凄いものだと感嘆するばかりである。騎手はアスリートなのだ。

 ウイニングチケットを年末のホープフルSというレースから見た。黒っぽく、さほど大きな馬でもない。たまたま有馬記念の場イベントの件で、中山競馬場に居合わせたのである。パドックから苛々、チャカチャカとした、何と癇の強そうな馬だったことだろう。ウイニングチケットの父は凱旋門賞を勝った新種牡馬トニービンである。トニービン産駒はイレ込み癖があるのだと、その時初めて知った。数年後に登場するジャングルポケットも「イレっぼ」だった。
 ウイニングチケットの鞍上は、名手なのに、どうしてもダービーに勝てなかった柴田政人騎手であった。レースでのウイニングチケットは強かった。彼はおそらく「これで、今度こそダービーを」と思ったことだろう。
 そうだ、柴田政人はそれまで18回もダービーに挑んだが、これはいけるといった馬には恵まれていなかったのだ。だから敗れても悔しさを滲ませることもなく、淡々としていた。しかし彼は「ダービーを勝ちたい。勝てたら引退してもいい」と言っていたのだ。
 ちなみに85年のダービーにミホシンザンが出ていたら、その年、柴田政人はダービージョッキーになっていただろう。
 93年のクラシック戦線は、そのウイニングチケットが中心であった。調教タイムも良く、順調が伝えられていた。しかしウイニングチケットの不安材料は、あの癇性、本番での激しいイレ込み癖であった。
 ウイニングチケットと柴田騎手は、先ず弥生賞で関西の有力馬。武豊騎乗のナリタタイシンを破って勝った。関西にはもう一頭、早田牧場一押しのビワハヤヒデがいる。この馬は中山の若葉Sから関東の岡部幸雄が手綱を取っていた。来る皐月賞が初顔合わせとなる。
 皐月賞でウイニングチケットは、ホームストレッチで馬群の中にもがいていた。ビワハヤヒデが先頭に踊り出ると、後方から馬群を切り裂いて大外に持ち出したナリタタイシンが、一気にクビ差出て優勝した。ウイニングチケットは4着に敗れた。この時の敗因はよく分からなかった。やはり道中が難しい馬で、折り合いを欠いていたのかも知れない。これはダービーでも懸念材料だろう。

 ダービーの一週前にダービーフェスティバルが行われた。この時のゲスト騎手は柴田、岡部、武で、あと一人は小島太だったか、蝦名だったか田原だったか記憶にない。ビワハヤヒデ、ウイニングチケット、ナリタタイシンの三頭が有力視されていたのである。柴田に全く気負いはなかった。
 ダービー当日、私は東京競馬場のダービーデーイベントに追いまくられ、パドックを見る暇などなかった。ウイニングチケットが一番人気で、続いてビワハヤヒデ、ナリタタイシン、マイシンザンと続いた。
 マイシンザンは父がミホシンザンで、NHK杯を勝ち、鞍上の田原成貴ともども最も穴くさい存在であった。ちなみにミホシンザンは皐月賞と菊花賞を制したが、柴田政人のお手馬であった。先述したが、故障さえなければミホシンザンはダービーも勝ち,三冠馬になっていたに違いない。
 レースのファンファーレが鳴った。私は日吉ヶ丘に駆け上り、そこから観戦した。4コーナーを回ると内から灰白色のビワハヤヒデが先頭に立とうとしていた。ウイニングチケットは馬群の中にいる。ナリタタイシンはさらに後ろだろう。一群は地響きをあげてあっという間に通り過ぎ、ゴール前は土埃と馬の後ろ姿ばかりでよく分からない。もの凄い歓声、どよめきが上がっていた。…どうやら半馬身差でウイニングチケットが勝ったらしい。…
 私は不思議な感動にとらわれていた。これはカツラノハイセイコが優勝したとき以来の感動だ。柴田政人がダービージョッキーになったのだ。騎手デビューから24年目、ダービーに挑戦して19回目にして、彼はついにダービージョッキーになったのだ。
 よくあの癇性の強い馬が、2400メートルもの道中に折り合いを欠くことなく、引っ掛かったりもせずに走ったものである。
 やがてスタンドの方から「マサト」コールが聞こえてきた。それは長く続いた。
 
 その秋ウイニングチケットは京都新聞杯を貫禄勝ちし、菊花賞に備えたが、本番はビワハヤヒデの3着に破れた。距離が長過ぎたのかも知れなかった。
続くジャパンカップもレガシーワールドの3着に破れ、徐々にその精彩を失っていった。
 94年の秋、怪我でリハビリ中の柴田政人騎手が引退を表明した。ウイニングチケットも翌月の天皇賞惨敗を最後に引退していった。
 その年の暮れの有馬記念の場イベントで、私は「ありがとう柴田政人騎手」という映像を作り、柴田政人騎手と野平祐二調教師をゲストに、トークと映像で構成したステージの制作に当たった。
 ちなみに当時の柴田政人は騎手会長も務め、親友・福永洋一の落馬による大怪我・引退が常に脳裏にあったか、フェアプレーを騎手仲間に訴え続けていた。彼は野平祐二騎手以来36年ぶりに「特別模範騎手賞」を受賞し、また「ユネスコ日本フェアプレー賞実行賞」を受賞していた。
「特別模範騎手賞」受賞騎手は偉大な称号なのだ。藤田伸二騎手の二度の「特別模範騎手賞」受賞は、実に凄い、特筆すべきことなのである。
                               

北明と靖国神社

2016年02月26日 | エッセイ

 久しぶりに梅原北明について書く。
…北明は地下出版の帝王、エログロナンセンスの帝王と異名を持ち、破天荒で面白可笑しくも凄まじい生涯を送った。彼は家父長制に敵意を剥き出しにし、近代天皇制を終生の敵と見定め、エログロ出版を通じて執拗かつ陽気に天皇制と官憲に闘いを挑んだ。北明については既に二年程前に十数編のエッセイで紹介しているので、その生涯についてはここに繰り返さない。
 さて、梅原北明と靖国神社についてである。

 北明の出版物はたちどころに発禁となり、刑務所入りと罰金の繰り返しだった。また彼は、某陸軍大将の名刺を勝手に印刷して知人に使用させ、憲兵と警察に追われた。その際、北明の逃亡と生活に援助の手を差し伸べたのが、大阪の某有名女学校の校長だった。その女学校の校長が北明の出版物の愛読者で、彼の支持者だったのだ。その良家の娘たちを預かる女学校で、こともあろうにエログロ出版の北明は、英語教師となったのである。北明親子は学校の宿直室に間借りし、ひとまず落ち着いた。
 北明は語学の天才だから、英語教師としては問題なかった。しかし、テストの採点で優劣を付けることを下らぬと考えていた北明は、全員に九十点を付けたらしい。これが父兄の不評と不信を招いた。
 身辺に官権の影が近づきつつあることを察した北明は、再び逐電、逃亡生活に入る。途中、静岡あたりで鍼灸師の看板を掲げたらしいが、ほとんど客はなく、ほどなく東京に舞い戻る。

 やがてどのような伝手を頼ったか、北明は靖国神社に仕事を見つける。彼は妻子と離れ、靖国神社前の日当たりの悪い安下宿に一人住み、毎日社務所に通った。靖国神社の社史編纂事業である。天皇のために死んだ軍人軍属を祀る靖国神社に、天皇制を終生の敵とした北明が入り込むとは、いかにも北明らしい仕儀である。もしかすると宮司が北明の出版物の愛読者だったのかも知れない。おそらく、そうだろう。
 ある日、かつてのエログロ出版の同志で画家の峰岸義一とバッタリ出会った。北明は案外、社史編纂事業が気に入っていたらしい。そして峰岸に「そのうち戦死した兵士たちの銘々伝をつくりたい」と言った。峰岸は北明の「兵士の銘々伝」に本気を感じたと言う。それは未だ日本軍が中国で泥沼に入り込む前である。無論、太平洋戦争は未だ先である。とすれば、靖国神社に祀られていた霊魂は、未だ百二十万柱ぐらいだったであろう。
 北明は、御霊爾簿に記載された名前だけの兵士たちの、一人一人の個人史とその生涯の物語を記そうと思ったのだろう。それはバルザックが、ある地方都市に暮らす全ての人々の、一人一人の物語を書こうと思っていたのに似ている。

 例えば、阿部久司…山形県の山で囲まれた盆地、最上村に生まれた。貧しい農家の六人兄弟姉妹の次男坊である。子供の頃から寡黙だったが、これは吃る癖があったためである。尋常小学校を出ると尾花沢の大工に弟子入りするが、兄弟子とソリが合わず飛び出す。陸軍に志願し、山形酒田連隊で二等兵となる。点呼の際にも吃るため毎日上官に殴られ続け、常に顔の形が変わるほど紫色に腫れ上がっていた。久司にとって軍隊生活は実に辛いものであった。
 やがて彼の部隊は朝鮮の新義州に赴く。程なく彼の部隊は奉天に進み、さらに北大営で敵軍と戦火を交える。その戦闘の第一日目のことである。久司の両目は腫れ上がっていたため物が見えずらかった。彼は敵陣を見るために積み上げた土嚢からほんの少し余計に顔を出したものらしい。瞬間、弾丸が彼の左目を貫通し、彼は声もあげずに後ろにひっくり返った。ほぼ即死である。兵士のひょんと死ぬるや、あゝ兵士の死ぬるや哀れ…。
 北明はこのような一人一人の物語を、一人につき四百字詰め原稿用紙にして二、三十枚も書こうと志したのであったろうか。百二十万人分の一人一人の物語の取材を構想していたのであったろうか。

 その後に北明は、閑古鳥の鳴いていた日劇にマーカスショーを呼び、チャップリンの映画「街の灯」を輸入上映した。こうして日劇を再建し大金を手にすると、台湾に高砂族のドキュメンタリー映画を撮りに出かけ、尾羽打ち枯らして帰国した。そして再びドイツのハーゲンベック・サーカスを招聘して一山当て、数ヶ月後には一文無し戻った。再び尾羽打ち枯らし、彼の愛読者で支持者であった山本五十六の引きで、海軍省内に海外工業情報所を設立して海外技術書の無断翻訳と海賊出版を業とした。
 やがて戦争は拡大し、当然の帰結として敗戦を迎えた。峰岸義一と会った北明は「またやれる時がきたな」と言ったが、自分は二度と立ち上がらなかった。その鬼才を惜しんだ言論界や出版界の誘いを、「私は戦争協力者です。やれ自由だ、やれ民主主義だと、何で今さら出て行けましょう」と突っぱねた。そして、北明が疎開先の小田原で敗戦病と言われた腸チフスで死んだ頃、靖国神社の霊魂は二百四十万柱を軽く超えていたのである。北明は、天皇のせいで死んだ兵士一人一人の銘々伝を、ついに書かずに死んだのである。


(この一文は2006年8月6日に書かれたものである。61年前、広島に原爆が投下された日だ。その3日後の8月9日には長崎に原爆が落とされ、15日になって日本は敗戦の現実を迎えた。わずかな間に何と多くの無辜の民が亡くなり、何と多くの軍人、軍属が命を落としていったことか。…誰のため、誰のせいか?)

大悲

2016年02月25日 | エッセイ

 最近、フリーターという言葉を言わんとして、その言葉が出てこなかった。今日の昼、何を食べたかが思い出せないが、三十年も四十年も以前のことは鮮明に覚えている。その思い出の世界を現実に彷徨いはじめることを「徘徊」と言うらしい。

 中学生の頃から、言い知れぬ不安を感じていた。自分はこのまま大人になると、必ず犯罪者か精神病患者になるのではないか。高校生の頃に、ますますそれを確信した。
 このままでは、いずれにしても鉄格子の中なのではないか。大学1年の冬、焦燥感に煽られるように、断食道場に向かった。このことは以前も書いた。あらゆる悩みから解放されたい。落ち着きたい…。
 奈良の生駒山の中腹にある静養院という、医学博士の寺井崇雄が開いた断食道場である。傲慢にも私は悟りを開かんと思っていたのだ。院長の寺井と面接した折り、断食の目的を聞かれ「悟りを開きたい」とほざいた私を、彼は鼻先でせせら笑った。寺井は当時86歳で、眼光鋭い本物の仙人であった。
 聞くところによると寺井は子どもの頃、身体が弱く、医者から二十歳までは生きられまいと言われていたそうである。また極度の神経衰弱に悩まされていたそうである。

 食事は数日かけて粥から重湯となり、そして水以外は一切摂らぬ断食がはじまる。数日もたつと寝ても起きても考えることは食べ物のことばかりで、浅ましいほどに頭から離れない。人間は飢えの極限状況で、浅ましいまでに喰らうことしか思い浮かばぬ。生命の本質は食らうことなのだ。やがて食べ物のことが頭から消える。感覚が研ぎ澄まさ頭の中が妙に明晰になる。
 道場の日課は早朝に起床し般若心経を唱えることで、他にすることは何もない。図書室には仏教書や歴史書、歴史小説しかない。することもないので仏教書を片端から読む。ほとんど理解できないのだが、この時が私が仏教書に最も接した時期なのである。

 道場の近くに修験道の行者たちが打たれる滝があった。冬場なので滝は半ば凍っており、水量は夏の半分しかないという。私は他の二人と共に水行を始めた。同行の一人は中学3年生の少年で、もう一人は中年の男性だった。
 早朝滝に出かける。滝の高さは15、6メートルはあっただろうか。行者の白装束を借り、滝壺を渡り滝の真下の岩によじ登る。瞬間、凍てついた巨大な鉄の塊が、うなじから背中にかけて打ち下ろされる。頭頂部で水を受けると滝壺に叩き落とされそうになる。冷たさに、がたがたと震えがとまらない。
 肩に水を受けながら般若心経を唱える。やがて身体の震えがびたりと止まる。全く冷たさを感じなくなる。そのうちに頭の中から言葉が消える。想念が消える。後から思えば、あれが無になるということなのだろう。
 滝から上がると身体が火照り、全身から湯気が立つ。清々しい。この時の清々しさを忘れることはないだろう。この水行は一月半も続いた。

 二十代半ばの頃、モロッコのカサブランカから長距離バスに乗ってマラケシに向かった。サハラ砂漠の端を延々とバスは走る。砂漠は何処までもベージュ色で、所々に枯れたような矮小な草を見かけるばかりだ。バスは揺れ地平も陽炎に揺れていた。
 数時間も走った頃、陽炎の彼方の前方に木々が見えた。建物らしきものは見えない。バスはそのナツメ椰子やビンロー樹の近くに停まった。運転手が「休憩だ」と客席を向いて怒鳴った。運転手は唯一の外国人旅行者である私に「オアシス!」と怒鳴った。
 ふと気付くとバスは襤褸(らんる)の群衆に取り囲まれていた。この一群の人々は、どこから湧いて出たのか。
 それは乞食、物売り、水売りの襤褸の群れである。彼らは目敏く外国人旅行者の私を見つけて、窓の下に殺到した。彼等はバスの中にも乗り込み、私を目がけて押し寄せてきた。片目が黒い穴だけの男、鼻が溶けた男、彼等の誰もが手も腕も顔も溶けたケロイド状態の肉が、滴るようにぶら下がっていた。
 彼等は砂漠に打ち捨てられたレプラ患者なのだ。押し寄せる襤褸は「金をくれ」「水を買ってくれ」と私に手を伸ばした。「神よ、我に火炎放射器を与えよ。こんな命に何の価値があるのか、こんな命に何の意味があると言うのか。俺が全て焼き尽くしてやる!」…。瞬間、私は凶暴になり、続く瞬間、この世界の全ての人々の顔と情景が飛び、唐突に「大悲(だいひ)」と言う言葉が浮かんだ。私の身体は襤褸のレプラ患者たちに、引っ張られたり触られるままであった。
 やがて他の乗客や運転手が、これらの襤褸の物体を蹴り上げながらドアに向かい、罵声を浴びせて車外に蹴落とした。
 バスは再び砂漠の中を走り始めた。砂漠には置き去りにされた襤褸の群れの、精一杯の営みが続くのだ。
…そう言えば、これも以前書いた。歳を取ると同じことを繰り返すようになるらしい。

 「大悲」は生駒山で読んだ仏教書の中にあったのだ。全てこの世に生を受けたものは、その誕生の時から大いなる悲しみの中にあり、だからこそ大いなる慈しみに抱かれている。全ての生命は根源的な悲しみの中にも懸命に生きんとする。それを愛おしく想う心が慈しみだ。大いなる慈悲、大悲である。

 この若い頃の二つの小さな体験は、その後の私の人生観を変え、思想の方向を決定づけたと思われる。私に思想などというものが、あればの話だが。
 最近、偶々何冊かの仏教書を繙く機会が増えた。親鸞である。禅は自力本願、親鸞は他力本願とされる。さあ阿弥陀様にその身を全ておまかせしなさい、大丈夫、阿弥陀様はお前を救って下さるから、安心なさいと親鸞は言うのである。
 ふと気づいた。禅も親鸞も「捨てなさい」と言っているのだ。違いは禅が「他人様を救済することはできぬ」とし、親鸞は「他人を救済せん」と思い定めているのである。

           これは2006年12月12日に書いた一文である。