芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

縮図

2016年09月30日 | コラム
   
 
 東京都中央卸売市場の豊洲新市場建設担当者たちは、端から豊洲の土壌に強い不安を抱き続けていたに違いない。あの土地は食べ物を扱う市場としては「不適格」だと。
 豊洲新市場は100年続く市場だという。いかに東京ガス時代の土を2メートル削り取り、砕石を敷き詰め、その上に2メートルプラス2.5メートルの盛り土をしても、10年、20年もすれば、きれいな盛り土に、あってはならないベンゼンやトルエン、シアン化合物、六価クロム、ヒ素が地下水とともに浸透し、再び汚してしまうのではないか。
 地下水も、それらに含まれるそういった毒物も、一定のところに留まらないのである。それらは動く。ましてや日本は地震国である。震度3程度でも地下でそれらは動く。震度5で液状化し、噴出する恐れもある。きれいな盛り土をし、土壌汚染対策工事を施したとしても、数十年も経てば地下の危険物は染み出してくるのではないか、という強い不安である。

 しかし絶対命題は「何が何でも豊洲新市場への移転」である。それは築地の土地を売却し、アジア有数のカジノや超高層ホテル、超高層マンションを誘致・開発したい利権集団たちに、そそのかされ、せがまれた都議や、国会議員、権力者たちがいるからだろう。さこへオリンピック誘致の成功と、オリンピックのためのインフラ建設をを、これ幸いと結びつけた利権集団たちに、そそのかされ、せがまれた都議や、国会議員、権力者たちがいるからだろう。
 石原都知事時代に東京ガスの豊洲の土地に目をつけ、東京ガスに売却を要請した担当トッフは、都知事本局長の前川耀男氏(※)であった。彼のもとで、都と東京ガスの間で合意がなされたと発表され、その後、前川氏は東京ガスに執行役員として天下った。利益相反する相手側への天下りである。
(※ 前川氏は2014年春に練馬区長選に出馬し、自公の推薦を受けて当選した。現在2期目である。)
 
 そこへ2011年3月11日の大震災と震度5強の揺れで豊洲の用地は液状化し噴砂した。このとき猛毒が検出されたと思われる。土壌・建設担当者はショックだったに違いない。それは豊洲の用地は食の市場としては不適格であるということだ。しかし「築地市場の豊洲新市場移転」は利権集団たちから命じられた絶対命題である。まず、液状化と毒の噴出を隠さなければならない。
 20日後の31日に、東京都は東京ガスと、東京ガス豊洲開発から豊洲用地を10.5ヘクタール分を蒼惶と購入した。瑕疵担保特約のない異例の土地購入であった。
 さらに同日、東京都は日建設計に建物部分の仕様書を示し、蒼惶設計の契約を結んだ。仕様書には建物下のモニタリング空間も要検討と添えられていたという。
 6月に日建設計から都に提出された最初の設計図には、建物下は空洞になっている。わずか三ヶ月で巨大施設の設計図はできない。つまり日建設計とは1年以上前から仮発注あるいは不正な闇発注をしていたのであろう。
 とにかく日本中の目が東北の震災と津波、原発事故という未曾有の激甚災害に向いているうちに、「蒼惶と」市場としての不適格を隠蔽するように契約を急いだのだろう。
 しかも、後々その決定過程や、不適正な様々な決定がバレた時の、責任の曖昧さを幾重にも緩衝材のように挟み込み、さらに曖昧に分散し、縦割り、横の情報共有なし等の言い訳も想定し、故意の操作もしてきたのだろう。
 私には二年間の土壌検査の結果もデータも改竄、捏造していたとしか思えない。もうそれだけ信頼性はないのである。

 おそらく、この豊洲新市場も、オリンピック予算が当初の7千億が3兆を超えるという話も、まことに大日本帝國的、日本的な社会の縮図で、山本七平や丸山真男らが指摘した通りの、責任の所在がはっきりしない、誰も責任をとらないシステム、無責任の体系そのものなのであろう。

                                                     

豊洲新市場の問題

2016年09月24日 | コラム
                                                            

 築地市場の豊洲移転問題は、ますます「藪の中」である。
 築地市場の青果市場には、以前イベントの仕込みで、何度かお世話になったことがある。たまたま今年の春に築地市場の最後のイベント「ありがとう築地」に関わった。確かに築地市場の老朽化は目につき、移転はやむをえないように思われた。
 ちょうどその頃、私がいつも注目しているブログのひとつ、「建築エコノミストの森山ブログ」に「豊洲の新市場が大変らしい」というシリーズが掲載され始めた。森山高至氏は新国立競技場問題の頃から、面白いと思っていた。その指摘も問題の剔抉も正鵠を射ていた。
 豊洲新市場の問題点として挙げられている数々を、知れば知るほど、これは施設の利用者のことは何も調査もせず、その意見を汲み上げてもいないと思われた。設計仕様書を提示した東京都のミスか、日建設計のミスか。あまりにも杜撰に思われた。

 先ず床荷重が1平方メートルあたり700キロであるという。市場内を走り回るターレの自重は1トン近くあり、これに運転者が乗り1トン近い荷を載せる。それに対して都側、移転推進派は、車輪は分散するので荷重が一点に集中するわけではないから大丈夫だという。しかし水槽は1トンを超えるものが多く、また一箇所に積み上げる荷も1トン近くなるだろう。すると都側は床の梁のある場所を教えるという。なんだそれは。つまり重い荷を置いて可能な場所と不可能な場所があるということか。
 また仲卸店舗の各ブースは壁で仕切られており、幅が1.4メートルに過ぎず(実際はそれより狭い)、大きなマグロをさばく刀のようなマグロ包丁も使えない。店舗面積は築地より広いというが、要するに鰻の寝床のように長くなって通路部分も含まれる面積なのである。
 ターレを載せるエレベータの数が少なく、エレベータ前は大渋滞になりかねない。またターレの通るスロープはカーブが急で、大減速して注意深く曲がらなければならず、大渋滞になりかねない。またここでも曲がる際に満載した積荷が落ちかねず、荷が散乱すれば大渋滞と怒号は必至である。
 トラックバースは10トン車が縦に56台並んで駐車可能という図面だが、市場に出入りする10トントラックのほとんどはウィングボディ(横開き)なのである。設計者は築地市場を見ていないのだろう。ウィングボディならフォークリフトで作業も早くスムースだが、後ろ開きの場合は荷の積み込みは倍以上の時間がかかってしまう。
 またトラックバースのプラットホームは狭く、フォークリフトが動き回るスペースがない。何を考えて設計したのだろうか。豊洲はコールドチェーンを売り物にし、建物全体が冷蔵庫のようなものだが、このトラックバースに面した扉は開いたままでなければ作業効率が悪く、実際は開いたままになるだろうと予想される。これは冷蔵庫の扉を開けっ放し状態にすることと同じで、想定の冷温状態は保てまい。
 さらに明らかになったことは豊洲新市場の壁に入れられている断熱材の厚みはわずか5センチで、これは一般住宅の断熱材の厚みと同じらしい。これでは冷房費用が予想をはるかに超えてかさむだろう。また保冷効果は上がるまい。
 設計図では荷捌場の押さえコンクリートの厚さは、わずか1センチで、開場ほどなくヒビ割れを起こすと思われる。その指摘に対し都は、現場で厚さを15センチに修正して打っているので問題ないと答えたらしい。工事現場の監督がさすがに1センチの厚みに不安を抱いたものらしい。しかし、それで新たな重大な疑義が発生する。
 建物の構造計算は1センチのコンクリートの厚みでなされ、建物の耐震基準をクリアしているらしい。しかし15センチの厚みのコンクリートをあの広いフロアに打った場合の構造計算はなされておらず、構造計算上は耐震基準もクリアできないかも知れないという。
 予算も異常な膨らみ方である。土壌汚染対策工事費は当初の586億円から858億円に、建物の建設費は990億円から2752億円に、坪単価70万円から220万円(最上級ホテルのスゥィートルームと同じような坪単価)に膨らんでいる。豊洲市場のような倉庫状の伽藍堂建築物の坪単価は、だいたい30万から40万円だという。… 

 そんなこんなのところに、あの謎の地下空間の発覚である。
 時系列で並べてみると見えてくることがある。1998年あたりから、東京都は東京ガスに売って欲しいという打診を始めている。2001年1月、環境基準の1500倍のベンゼンが検出されたが、東京都と東京ガスの間に最初の覚書が交わされる。同年7月に東京ガスとの間に土地譲渡に関する合意を得たという。
 2005年、東京都は東京ガスと確認書を交わした。その時の都の代表は都知事本局長の前川耀男氏と市場長である。同年、前川耀男氏は東京ガスの執行役員に天下っている。
 2007年5月に専門家会議が立ち上がる。同年9月環境基準を上回るベンゼンが検出される。専門家会議で都側から建物下の地下利用について意見を求められたが、専門家たちに否定される。最初の盛り土案は都側から出され、それを専門家たちが検討したという。
 2008年、豊洲の市場予定地の土壌から環境基準の860倍のシアン化合物と43000倍のベンゼンを検出した。同年7月、専門家会議は都に盛り土を提言し解散した。
 同年8月、技術会議が立ち上がっている。この技術会議で、都側からまた地下空間とその利用について意見が出されたが、問題にもされなかった。その後の会議は盛り土案をいかに技術的に進めるかに終始したという。
 また東京ガスは100億円で土壌汚染対策工事を実施している。
 
 2011年3月11日、東日本大震災に見舞われた。豊洲の市場予定地は百箇所以上で砂と泥を噴出し、液状化を起こした。その時の噴出した土砂の土壌が汚染されていたかどうかは不明(発表されていない)である。おそらく環境基準をはるかに超える汚染が確認されていたのではないか。
 東京都は東京ガスとの契約を急いだ。都は東京ガスに対し、土壌汚染対策工事に追加で78億円を負担させることとしたが、ほとんど瑕疵担保特約なしの契約に等しかった。土壌汚染対策費のほとんどは都が負担し、3月31日、東京都は東京ガスと東京ガス豊洲開発から、10.5ヘクタールの土地を559億円で購入した。なお未取得用地も今後取得の見込みと発表された。最終的に合計40ヘクタールを1859億円で取得している。
 また同月、都は日建設計と設計契約を結んだ。都から日建設計に示された仕様書には「空洞」はなかったというが、同年6月日建設計が提出した設計図では、建物下は「空洞」になっている。日建設計が都から示される変更仕様書なしに空洞の設計にすることは考えられない。
 先述したように、その後東京都が土壌汚染対策工事費(盛り土の工事費)は、当初計上した586億円から858億円に膨らんでいるが、その盛り土は豊洲新市場用地の三分の一を占める建物の下では行われていなかったのである。盛り土がなされなかったにも関わらず、なぜ工事費は膨らんだのか。また盛り土がされずに浮いた金はどこに回されたのか。
 2011年8月に、その土壌汚染対策工事に関する契約を、都はゼネコンと結んでいる。仕様書は建物部分以外の盛り土である。
 2013年2月、日建設計は建物下空洞の実施設計書を東京都に提出し、同年12月に東京都は建物下が空洞の設計図を完成させている。

 おそらく2011年3月11日の東日本大震災で、東京は震度5強の長い揺れに襲われたが、液状化した地下から相当危険なものが噴出したにちがいない。それをそのまま発表すれば、そもそも豊洲への市場移転はあり得なかったのだろう。
 だから技官やその上司たちは、それを隠してでも、「築地市場の豊洲移転」という絶対命題を忠実に履行し、秘守しなければならなかったのだ。あの危険な物質は、震度5で湧出するのだ。近い将来、それは再び東京を襲うだろう。また盛り土をしても、長い年月で、それらが再び出てくることは十分考えられた。ならば建物下を空洞にし、地下水管理ポンプと浄化装置で処理しようという案を選択したのであろう。 
 しかし技官たちは建物下の空洞を隠さなければならなかった。そもそもその危険物質の湧出は、食べ物を扱う市場としては不適格なのだから。

 2013年12月から2014年11月に、都は技術会議に全ての盛り土の完了を報告し、同月から地下水のモニタリングを開始した。また2014年2月から市場の建屋の建設に着工している。
 2015年7月に舛添知事は築地市場の豊洲新市場への移転を2016年の11月7日にすると発表した。
 誰も責任はとらないだろう。都に限らず、大日本帝國時代から日本は責任を曖昧化模糊とするシステムがあるのだろう。大日本帝國の軍官僚たちが暴走しても、誰にも止められず、また誰も責任をとらない。あれとまったく同じだ。
 アレックス・カーの言う通り、日本は優れた機械だが、ブレーキがない。だから不必要なダムも高速炉もんじゅも、ギロチン堰も、高速道路も新幹線もリニア新幹線も、一度走り出したら誰も止められないし、止めようともしない。その責任は誰が取るでもなく、曖昧のままである。
 都知事の角印は部課長クラスですら持っているという。角印の主は説明を受けた記憶がなく、自分の認識とは違うと言う。角印が捺されていても、本人が捺したものとは限らず、その記憶も曖昧という、誰も責任をとらぬシステムなのだろう。
 私には、「築地市場の豊洲移転」という絶対命題を忠実に履行するため、それを阻害する要因を隠し、秘守しなければならない都の役人(技官)たちの傲慢と苦渋を思う。彼らは自らに箝口令を課しているのかも知れない。彼らは軍官僚と同じなのだろう。

 そもそも豊洲新市場に移転し稼働したとしても、稼働経費が膨大で採算が取れず、ほぼ三年で破綻すると予想する専門家も多いという。


まつりごと

2016年08月24日 | コラム
                                                                 

 また2012年1月に書いた雑文から。「カダフィの死から」という題であったが、再録に当たって
「まつりごと」と改題した。


 「まつりごと」

 リビアのカダフィが、血にまみれて兵士たちに引きずられていくニュース映像を見た。「ああ、これは『血まつり』だな」と思った。
 兵士たちは制服を着用していないので、反カダフィ、反政府に参集した「ボランティア兵士」たちである。制服を着た兵士は、カダフィ派(正規の政府軍)か傭兵たちである。
 かつてチェ・ゲバラは村の青年たちに「制服を着た者たちを憎め。彼等に引き金を引け。彼等を撃て。制服を着た者たちは敵なのだ」とアジ演説をぶった。ゲバラは制服を権力の象徴としたのである。軍人や警官たちである。

 カダフィが引きずられて行く模様を撮っているカメラは、激しく上下して揺れ、その場がいかに混乱し、興奮状態にあったかを伝えている。カダフィはもみくちゃにされながらも、自分の足で歩いていた。何か叫んでいたが、「どういうことだ、これはどういうことだ。こんなことは許されない」と喚いていたらしい。
 その直後カダフィは死んだ。ボランティアの兵士が撃ったのであろう。国民評議会が発表する「銃撃戦」によるものなら、引きずられて歩いていた直後に銃撃戦が起こったことになる。

 だいぶ以前、日本語学者の大野晋が「日本語の年輪」という分かりやすい本を書いた。
 その一項に「まつり」がある。
「日本では、政治をとることを『まつりごと』という。…日本の『まつりごと』は、『まつる』という言葉から起こってきた。『まつる』とは、神に物を差し上げる場合にいう言葉であった。」
 そして大野は「平家物語」の義経の戦闘を例に引いた。

「判官防矢(ふせぎや)を射ける強者ども二十余人が首切りかけて戦神にまつり、喜びのときをつくり、門出よしと宣(のたま)ひける」

 つまり、義経は矢を射た敵の二十余人の首を切り、これを物に架けて軍神に差し上げ、喜びのときの声を上げ、これは幸先がよいことだと宣したのである。これが「血まつり」である。
 神様を喜ばせるための舞踊や音楽や遊びがつき、「お祭り」が行われる。信仰より遊びの要素が大きくなると「お祭り騒ぎ」となる。リビア全土ではカダフィ死後、ずっと「お祭り騒ぎ」が続いているらしい。

 日本では大阪府知事選と大阪市長選が同時選挙となり、早くもパフォーマー候補者とマスゴミ各社による「お祭り騒ぎ」が始まろうとしている。
 ちなみに大野晋の「日本語の年輪」には「ゆゆしい」という一項もある。それによれば、「ゆゆし」はポリネシアで使われるタブーという言葉と同じ意味を表すとある。
 タブーとは「神聖な」という意味と「呪われた」という意味を持つという。どちらも「触れてはならない、不吉だ」ということらしい。
「ゆゆしい」はやがて「はなはだしい」「たいへんだ」という意味となる。日本の現状は、まさに「ゆゆしい」事態といえる。
 
 この「日本語の年輪」では、「ゆゆしい」の次の項は「いまいましい」である。

地球物理学者の随筆

2016年08月23日 | コラム
 パソコン内を整理していて、2012年の1月17日付で書いた雑文を見つけた。とりあえず、プログに移すことにした。

 「地球物理学者の随筆」

 年末に久しぶりに何冊かの新刊の新書本と文庫本を買いこみ、これらを大晦日から正月三が日にかけて読んだ。読書テーマは「通貨」「恐慌」 「TPP(三冊)」「貿易」「農業」、そして「明治」(新撰組の永倉新八が見た明治維新の本質、明治天皇と元勲)、「猫小説」である。
 さらにひとつは寺田寅彦の「天災と国防」である。むろんこれは3.11後に緊急に復刻・文庫化として企画・刊行されたものであろう。
 私は寺田寅彦の随筆や、語り伝えられるその人柄が好きで、自分で書くものに彼をしばしば登場させてきた。彼の随筆の中でも特に素晴らしかったのは 「どんぐり」である。随筆なら「どんぐり」、小説なら中島敦の作品は、私が理想とし憧憬する文体である。 

 以前グレッグ・アーウィンさんの童謡絵本出版の企画中、イラストレーター候補として彼が一冊の本を私に示した。それはピーマンハウスという出版社が出 した寺田寅彦の「どんぐり」で、絵は「しもゆきこ」とあった。その随筆は昔読んだものだったが、私は「しもゆきこ」の絵に心を奪われた。これは版画であろうか。シンプルで太い線で簡略化された絵ながら、描かれた童女の姿態の愛くるしさや、その指先や足のつま先のリアリティに目を奪われた。これは素晴らしい実力派の絵描きである。
「しもゆきこ」はグレッグさんの友達の友達らしく、その友達からの推薦らしかった。グレッグさんはその絵にあまり 気乗りしない様子であったが、私が縷々絶賛するとようやく納得した。

 さて「天災と国防」である。この本は彼の死の三年後に、岩波書店から刊行されたものである。寺田の主な研究分野は地球物理学であった。その地球物 理学者による関東大震災、昭和八年の三陸大津波、九年の函館大火、浅間山噴火など、地震、津波、噴火等に関する随筆である。
「天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発露するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはも う少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないか…」
「…新聞で真っ先に紹介された岸壁破壊の跡を見に行った。途中ところどころ家の柱のゆがんだのや壁の落ちたのが目についた。…石造りの部分が滅茶 滅茶に毀れ落ちていた。これははじめからちょっとした地震で、必ず毀れ落ちるように出来ているのである。 
…この岸壁も、よく見ると、ありふれた 程度の強震でこの通りに毀れなければならないような風の設計にはじめから出来ているように見える。設計者が日本に地震という現象のあることをつい 忘れていたか、それとも設計を註文した資本家が経済上の都合で、強い地震の来るまでは安全という設計で満足したのかもしれない。地震が少し早く来 過ぎたのかもしれない。」
「…関東大震災のすくあとで小田原の被害を見て歩いたとき、とある海岸の小祠で、珍しく倒れないでちゃんとして直立している一対の石灯籠を発見し て、どうも不思議だと思ってよく調べてみたら、台石から火袋を貫いて笠石まで達する鉄の大きな心棒がはいっていた。こうした非常時の用心を何事も ない平時にしておくのは一体利口か馬鹿か、それはどうとも云わば云われるであろうが、用心しておけばその効果が現れる日がいつかは来るという事実 だけは間違いないようである。」
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」

 長い引用ばかりとなったが、ほんとうは全文引用したいくらいである。「強い地震が来るまでは安全」とは、まるで原発の設計者や安全神話を強烈に皮肉ったかのようである。千二百年に一度が、存外(想定外)「早く来過 ぎたのかもしれない」…と。
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたり」とは、まるで今の放射能ヒステリー、原発ヒステリーを言っているかのようである。表題作や「火事 教育」「災難雑考」「流言蜚語」「神話と地球物理学」「津波と人間」など、ぜひ一読をお勧めしたい。「通貨」「恐慌」「TPP」等については次回にしたい。


 ※そういえば「エッセイ散歩 何おかいわんや」でも、寺田寅彦の「天災と国防」を取り上げたことがあった。
                                                                 

進行あるいは蔓延する非常事態

2016年08月06日 | コラム

 大震災や原発事故のような激甚被害をもたらす災害のみが、非常事態なのではない。癌細胞のように静かに進行し、あるいは転移、あるいは空中に浮遊蔓延するような非常事態もある。

 参院選、都知事選で明らかになった本質は、国政・都政にかかわらず、有権者がいま日本の政治や社会に迫っている問題の深刻さを、さほどとは思っていないと言うことだ。一般有権者・市民にとって大事なのは「先ず経済、景気」「税金を無駄に使うな」となる。
 だから野党各党が「安保法制を廃案に」「壊憲反対」「TPP反対」「特定秘密保護法を廃案に」「原発反対」と聞いても、それが何のことか分からない。
 与党もそれをいいことに、対案を出せ、対案もなく反対ばかりと批判すると、有権者の多くがそうだそうだ、反対ばかりするのではなく、対案を示して議論すればいい、となる。中国や北朝鮮やテロの脅威を思えば、安保法制やスパイ防止法や、いざという時の実情にそぐわない憲法改正も止むを得ないし、多少息苦しい世の中になるかも知れないが止むを得ない。それより何とかして欲しいのは「景気と経済」。
 その図が続く限り、リベラルに未来はない、リベラルには魅力がない、リベラルにはリアリティがない。したがって、誰も現自公政権・安倍官邸の暴走を止めることができない。
 いや、なぜ止めなければならないのか、理解できない。世界情勢の緊迫化、不安定化を見ても、政権の選択肢は現政権にしかない。
 新しい選択肢が必要なのだろう。それは、いま日本の政治や社会に迫っている問題の深刻さを、諄々と説く以外ないと思うが…。

 先日紹介した松谷みよ子さんの言葉をもう一度繰り返す。
「いま、なにかが水面下で不気味にふくれあがりつつある。…
一つ、一つの事件、それはごく小さく、とるに足りぬもののように見える。しかし、その小さな出来事が積み重なることによって、私たちの感性はいつしか馴らされ、気がついてみれば戦争への道をふたたび歩いている。そういうことがないとどうしていえようか。「ねえ、あのとき、どうして戦争に反対しなかったの?」子どもたちにそう問われることのないように、私たちは、常にするどく、感性を磨かねばと思う。卵を抱いた母鳥のように。」

 例えば特定秘密保護法、例えば安保法制、誰ももう問題視すらしていないかに見える。例えば当然のように語られ始めた改憲論。
 選挙では自民党議員たちのいささか逸脱した暴言は問題にもならず忘れられていく。稲田防衛相のこれまでの極右的発言も、日本会議メンバーであることも。そして小池都知事が日本会議メンバーであり、日本会議国会議員懇談会副会長であることも、その発言が極右的であったことも、選挙では誰もが問題視すらしなかった。彼女はさっそく極右思想の野田数を知事の特別秘書官にした。野田は憲法を停止し、明治憲法に戻すという運動をしていた男である。憲法停止とは、ほとんどクーデターではないか。彼を選んだ小池新知事も、ほとんど同類と思うべきである。
 民進党も改憲案を出すと言う。本当に改憲が必要なのか。
 そもそも、70年間にわたって日本が平和でいられた現憲法を、変える必要があるのか? 蓮舫も「対案を出せ」という相手の挑発に乗ってどうするのだ? もとより改憲論者だったのか? 対案は「現行憲法を守る」で、何か問題があるのか? やはり民進党は再分党したほうがいい。

 大分県で警察が政党関連の敷地に侵入し監視カメラを取り付けていた。監視社会、パノブティコンはここまで進行していた。自民党は全国の教育現場に密告を推奨した。「子どもたちを戦場に送るな」→偏向しているので密告してください。「原発はよくない」→偏向しているので密告してください。もう社会の癌細胞はここまで進行しているのだ。
 安倍昭恵さんが名誉理事長の幼稚園では、園児たちに「五箇条の御誓文」「教育勅語」を斉唱させ、「軍艦マーチ」を合唱させる。昭恵夫人は大感動! もうここまで進行しているのだ。
 シールズに対抗し、そして18歳からの選挙権を意識して、安倍総理の親戚が組織した高校生たちの一団は、近い将来ヒトラー・ユーゲントのようになる可能性もあるだろう。ご存知のようにヒトラー・ユーゲントは政権反対者狩り、ユダヤ人狩りを果たした。中国の紅衛兵にも似た存在である。

 自民党は右派の日本会議、神道政治連盟などに乗っ取られたようである(※)。右派というより時代錯誤の極右だろう。

(※ 2022年7月8日 安倍晋三元総理が銃撃され死亡するという事件から、もう一つの闇が明るみに曝されることになった。安倍や細田衆院議長をはじめ、政界特に自民党の過半が旧統一教会に乗っ取られていたのである。地方議会議員はもっと乗っ取られているらしい。
「ツッコミック 「ヤマガミ、アベ的なるものを撃て!」も併せてお読みいただきたい。)

 安倍官邸・自民党の応援団、支援団体というよりその走狗は「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものを組織し、特定のテレビメディア、特定のジャーナリストたちを狙い撃ちし、結局その全員を番組から降板させることに成功した。
 恐れをなし萎縮したテレビ局は、代わりに安倍官邸から飼い馴らされた狗のようなジャーナリストを起用することにし、権力の広報機関に徹することにしたらしい。ジャーナリズムの萎縮、言論の自主規制がはじまったのである。権力への批判精神をなくした報道機関は、もはや存在価値はない。この視聴者の会なる言論圧力団体は、権力に、これからの言論統制の成功の方法論を提供した。
 また池上彰氏によれば、第二次安倍政権以降、自民党は全テレビ局の番組を録画し、毎日のようにクレームをつけてくるそうである。このような政権は過去になかったという。テレビ局はうんざりし、もう自民党からクレームを受けないような、当たり障りのない番組しか作らなくなった。さらに安倍に餌付けされた寿司友—ズの番組起用である。報道番組は「報道しなくなった」と言っていい。もう事態はここまで進行しているのだ。

 大学も科学の研究機関も、成長戦略として組み込まれた「産学協同」、さらに軍事産業との「軍学共同」で金を稼げと言われ、経済成長に役立つか否か、成長戦略に組み込めるか否かの視点しかなく、成長戦略にも組み込めぬ文系は不要となる。
 障害者施設虐殺事件も、政治家たちが社会に蔓延させた空気のような意識が、犯人の狂気の思想を培ったのである。自民党の改憲草案も「個人」を消し、「公」に役立て、公に役立つか否か、「効率」的か否かという視点のみで、社会ダーウィニズム思想や優生思想の弱者切り捨ての意識が、日本の社会に底通する差別と排除の観念となって露出したものであろう。自民党の議員たちは、腹の中で犯人に拍手喝采しているのではないか。
 こうして、すでに戦前の翼賛体制が、空中を飛び交う黴の菌の胞子のように、日本の空気として蔓延し始めているように思える。
 そしてそれらの政治的空気が、選挙で問われることもない。誰も日本の事態をそこまで深刻には受け止めていないということなのだ。
 この日本の空中に霧のように浮遊する黴の胞子は、暗い時代錯誤の埃の中から舞い立ち、戦前回帰、さらに明治維新時の復古を目指しているのである。