晴耕シ 雨読書ク

農業と文章、大事にしたいです。この2つで友達できるのがうれしい。

機械好き 5月3日

2024-05-04 21:33:49 | 日記

私の周りの農業者には機械好きな人が結構多い。

もう亡くなられたけれど、超大型の重機を運転される方もいて、その息子さんも超、機械好き。

「僕は、農業好きだけど、機械でするから、好き」と断言するくらいだ。

彼が偉いのは、自分の農業機械だけでなく。集落共同の機械も面倒見てくれること。油をさしたり、簡単な修理をすることはもちろん、人が使っている例えば、コンバインの音がおかしいよとか、そんなことまで面倒を見てるれるし、ひとりで作業している人が困っているのを見ると進んで手伝いに行ったりもしてくれる。自分のコンバインをもっていって2台で収穫作業をするような。

話は違うが、本日私も畦塗機を使った。共同作業用に集落で購入したものだ。以前にも使ったことはあったし、作業も結構難し。しかし、私にとっての一番の難点はトラクターに畦塗機というアタッチメントを接続すること、取り付けること。

何度しても覚えきれない。なんでだ。

今日もたまたま、同じ作業をするというN君に教わって機械の接続をした。





そして少しわかった。一番の違いは機械が好きなこと。機会を大事にすること。共同で作業するような形だったけれど、「最後の機械洗いはうちでするよ」と言う。使う前から機械洗いを考えているし、大事にしている。途中でピンが折れて、故障した時もちゃんと修理の準備もしている。私にはお手上げのことだ。

やっぱり一言でいうと「機械が好き」。機械に愛着と愛情がある。

お陰で、今日も私の作業もはかどったし、少しは接続方法も分かったつもり。

でもまだまだ愛情は足りないなあ。

※写真は畦塗機を使った畦ができた後。


新たにスタート

2024-05-02 16:49:24 | 日記

5/2

久しぶりに投稿します。

しばらく、パソコン、スマホが使えない状況になっていました。

理由はドコモから、ケーブルテレビに通信手段を変えようとしたことです。

Goo IDを利用せずにdアカウントからログインしていたのですが、このアカウントが使えなくなったことが原因です。

やばい、ブログが使えなくなる。新しいIDで違うページを使うことになるのかな。

普段の私だったら、パニックになるところでしたが、なんと救世主が現れました。

ドコモからの引継ぎをしてくれた若い社員さんが、普通で考えられないくらい、丁寧に根気強く解決策を探ってくれました。

途中ではドコモさんとのやり取りも発生。「あなたのアカウントは復旧できません」との回答。これは無理かなとも思ったぐらい。でも、少し時間はかかったけれど、最善の方法で完了です。

これは、今後のブログ頑張らんといかんな。彼女に申し訳ない。

そう、若い社員さんはきれいで、しかもかわいい、物腰も丁寧な素晴らしい女性でした。

よくぞ、年寄りに丁寧に、根気強く、しかも優しく対応していただきました。感謝、感謝です。


2024/04/16

2024-04-16 21:39:01 | 日記
設定を変更したら、ちょっとおかしいのでテストです。ごめんなさい。

2/20 失敗はほんとに成功の基か。

2024-02-20 19:52:31 | 日記

ほんと農業は難しい。ブロッコリー栽培、今年で3回目だけど、難しい。

失敗の克服はほんと少しづつしか進まない。こっちができたと思うと、あちらはまだまだのケースが少なくない。

これまでに解決できていないのが、種まきから定植までの発芽と育苗。

あーん、なんでできんとや?と何度思ったか。

小さい種を撒くのに深さがどうか、水の掛け方は?、ハウス内の温度は、真夏の時、降雪の寒いとき、とっても難しい。

そして最後まで私を悩ませたのは発芽までの水のやり方だった。完全に勘違いをしていた。

播種後たっぷり水を掛けたら、その後発芽までは基本的に水は掛けない。もちろん土が完全に乾くのはいけないから、その時は水をやるぐらい、がいいそうだ。

夏の場合は発芽まで2~3日だから水は不要。冬の場合は芽が出にくいので発芽までの7~10日ぐらいの間に1、2回が目安みたいだ。

これに大事なのが箱の保温と遮光。特に冬の場合は外気温が低いので、ハウス内の箱の上にラブシートをかけて保温する。

夏の場合は夜でも気温が高すぎるので、小屋の中に段積みして寒冷紗で真っ黒にしてやるのがいいみたい。JA指導員のこのアドバイスを実行したら、…できた。きれいに芽が揃った。

でも、これまでの勤め人としての仕事より、なんとなく次はうまくいくんじゃないかという気がするのも農業の特徴だ。自分が行動しているからか、ほかの人には迷惑をかけないからか。もともと生まれて時から、近くにあり、父も苦労していたことを知っているからか。

これも才能の一つ、私のアドバンテイジと考えていい気がしている。




森繁久彌さんと私。

2024-02-19 16:10:59 | 日記

今日Yさんのところに遊びに行ったので、以前に聞いていた話だけど。ひさびさにYさん物語です。

ここでいう「私」は、Yさんのことです。

 

私は東京で就職浪人をーをしていた時に、テレビ朝日で働いたことがある。

身分は正社員ではなかったが、何十人もいる応募者の中からただ一人採用された。試験は中学を卒業しておけばわかる問題と作文、面接だった。中学校まではとっても優秀だった私の成績はここで実力を発揮できた。また、作文は得意中の得意だった。面接もこれまた、十八番のはったりが功を奏した。「地元sテレビでデザイナーの助手みたいなことをしていました」と大げさにしゃべったんじゃなかったかな。

sテレビの正社員の採用試験もそうだった。あの時も100人以上の受験者の合格枠は一人だけ、採用職種は一般事務だった。受かると思って受験した大学は全て落ちて、どうしようと思っていた矢先に、同テレビ局の社員募集を新聞で見つけた。ダメもとで受けた筆記試験で、20人の二次試験の枠に残った。その時も作文と面接が助けてくれたので、テレビ朝日も何とかなると思っていたら、ほんとにそうなった。なんて運が強いんだろうと、思った。

 

さて、テレビ朝日での仕事は大道具・小道具の係だった。場面場面で必要なテレビのセットを作るのだが、これが面白かったし、自分には合っていた。もともと絵は好きだし、書道も得意。工作もうまかったと思うので、まさに水を得たなんとかで、楽しくて仕方なかった。地元の方言をべらべらしゃべりながら、と言っても、どもり癖がある喋りだったが、たぶん大きな声で話していたと思う。もちろん冗談は大好きだったし、若くて元気もあった。

 

ある時担当した番組は、森繁久彌さんのものだった。仕事をしていた私に森繁さんが寄ってきて、「君は面白いねえ。話し方もいい。そのままでいいから、私のところに来ないかね」。弟子入りを勧められたのだったと思う。私のしゃべる内容、言葉が面白かったのか。どもるのが素朴に聞こえたのか、よくわからないが、気に入られた様だった。あの森繁久彌さんにだよ。

でも、私は決断できなかった。なんでか。

その後地元に帰ってデザイナーになり、奥さんも3人目になったが、その時のことを今の奥さんに話すと、曰く「仕事だけだったら、ひょっとしたらうまくいったかもしれないね。でも、東京のテレビ局ではきれいな女優さんとか関係の方がいっぱいいらっしゃる。きっとあなたはそちらのほうで身を崩したんじゃないでしょうか」

さすがは最愛の妻。よくわかっていらっしゃる。そのとおり。まちがいないです。