南アジア開発への情熱ーバングラデッシュ
バングラデッシュからかえってきたのが、1998年5月。
最初の6ヶ月の、研究フェローとしての調査研究中に、クルナというところで、38度か39度の熱が続き、その後も1ヶ月半くらいはアシスタントとともに、バングラデッシュの6つのうち4つの州はホームステイと、現地のNGO(グラミンバンク、ASHA(希望))の現地オフィスで寝泊りをしながらの調査だったので、健康をかなり害した。結核になったのではいわれて、現地ではいい医師がいないし、いい病院もないので、パリへもどったほうがいいといわれた。それでUNESCO本部へ電話で事情をつたえ、その後、いったんパリへ1997年10月末にもどった。中間報告もおくれたが、提出した。最終報告は、1998年になったが、パリでの病院での治療後、UNESCO本部へ提出した。このときは、アフリカでの、日本のNGOから依頼をうけていった、南アフリカと、モザンビークでみたNGO,現地でのアフリカ女性や、モザンビークで内戦30年後に再建にかかわる白人、黒人とであって、(元大臣、あるいは、NGOのスタッフなど、NGOのヘルプをうけて自立をめざす黒人女性たち)南アジアとは違うおおらかさに心惹かれた。
マイクロクレジットについての、比較報告にちかいものになった。
写真は、1996年UNESCOパリ本部から教育の専門家としてグラミーンバンク研究で研究へいったとき、サリーを着て友人の結婚式に招待されたときの写真。