辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

私の転換期

2007-06-18 23:16:05 | Weblog

国連のミッションで入院―スリランカにて

仕事をするなら、国際機関で開発途上国の再建にかかわることがしたいとおもってきた。自分の信念を貫いてきた、と信じていたこの11年。
しかし今はどん底だ。精神的には、夢を実現したかとおもったが、スリランカ、コロンボで、国連食糧農業機関、FAOでの津波災害後のミッションの途中で入院。2005年3月22日から26日まで、長い6日間だった。その後、現地で休養を余儀なくされた。1ヶ月間スリランカに滞在した。

国連の仕事は、華やかな仕事をおもってきたが、語学(英語)と体力と現地での適応力。これが大事な3つの条件だとローマの日本大使館の一等書記官から電話でいわれた。

専門性と語学力。私がもっていたと信じていた国連へのパスポートは、フランスのパリ大学でとった博士号だった。国際関係論をフランスで1994年から学び、研究し、博士課程では、政治学博士というタイトルになる。

フランス語力があれば、そして、専門知識があれば、とおもってきたが、そう簡単にフランスではみつからない。事故にあい手術して松葉杖をついて半年。

旅先で出会った多くの人たち。
ジュネーブのコンゴ女性。スイスでであった、モロッコの家族と友人。
旅でいやされ、旅でであった人たちにはげまされ、その後、またフランスにもどった。博士号から1年半たって、FAOから電話があり、イタリアローマへ出発したのが2003年11月上旬だった。

その後アフリカのコンゴへいった。内乱にまきこまれ、緊急避難をキンシャサ空港から国連軍の護衛が20人くらいついて、UNDPの国連の安全を管理する事務所までいくまでの30分ほどの時間が、半日にもおもえた。

その後第2回目のミッションでは、スリランカ、インドネシアへいった。震源地である、スマトラ沖の近くのバンダアチェまでいき、ジャカルタから飛行機で3時間。

スリランカでは緊急入院となった。気管支喘息の発作がつよくでて呼吸困難、せきがとまらず、病院へいったら、即刻入院だといわれた。検査、SARSかと疑われた。
SARSではなかったが、6日間集中治療室へはいり治療をうけた。インド系のアポロ病院というところだ。インド人医師のグプタ先生は、せきが1ヶ月もとまらないのは異常ですよ。といわれていそがしかったので、自分の健康はあまり考えている時間もなく準備、暑さでまいってしまった。

入院中は、24時間、インドからきた17-18歳から20代までの看護婦がベッドの備え付けのボタンをおすときてくれる。

したいことをすべてはできない。今はパリで、のどのポリープのスピーチセラピストの治療を継続し、気管支ぜんそくの発作をおさえ、管理する努力をしながら、今までしてきた国際開発の仕事、交際協力とはなにか、ということをかんがえながら、開発途上国にいかずにできる形でかかわっていけるか、その問いをさがすために、今かでしてきたことをまとめることにした。若いひとたち、あるいは、シルバーのひとたちにむけた11年情熱をかたむけて取り組んだ開発途上国の発展、特に紛争後の国の再建、教育、農業、漁業、マイクロクレジットの重要性を感じ、国連、UNESCO,FAO,あるいは、日本のNGOと仕事をしてきたまとめとして、現場からのメッセージとしてほそぼそと書き出した。

ただひとついえるのは、スリランカの緊急入院で、人生はかわった。退院後、1週間の休養のため、FAO本部の上司へ電話をし、モルデーブいきは中止し、インドネシア、ジャカルタへ直行することはできると交渉しOkがでて、健康問題のため、計画を変更、飛行機変更、ホテル変更で大変だったが、スリランカのFAOオフィスの助けで、インドネシアへ向けて出発することができた。

入院中にであった、インド人看護婦、医師をはじめとする多くのひとたちからまなんだのは、健康がなくては開発途上国での仕事は困難なこと、寛容な態度、おだやかな物腰、はなしぶり、ユーモアの大切さなど、どこからきているのかとおもったが、仏教のおしえから来ていることが理解できた。

自分の健康問題で、苦悩していたとき、瞑想したらどうかと、スリランカでであったひとたちにいわれ、パリへかえってから、仏教の寺院をさがしていたら、バンセンヌの森にある、チベット寺院がみつかり、たずねてみた。早速、瞑想、祈りに参加し、音楽をつかったもので、心はおちついた。今は国際開発との関わり方をかんがえつつできることからはじめた。今までは現地主義だったが、健康問題で現地には今しばらくはいけなくなった。今までのことを報告書、本として刊行し、自費出版になるが、ひとつの区切りとしたい。

この本出版にあたって、パリで最近新しくであった友人たちに、お世話になった。なかでもアパートの水漏れ問題で執筆に集中できない私の窮地をたすけてくれたのは、フィリップ、写真の編集で助けてくれたのは、フィリップと、グラフィックデザイナーのジャン、ピエールと、ピエール、イヴだ。今日、ピエールイヴと話をしたときに、昼間はどこで仕事をしているのかときいたら、石油会社で人事管理の仕事をサラリーマンとしてしながら、夜は、本業の仕事をしてから自宅へ帰るときいた。私は、理想主義者だったと、おもった。現地へいけないなら、開発途上国援助はもうできないというわたしに、新しい友人たちは、励ます。本をかいて、経験をかきながら、あふれてくる感情もかき、内部にあるおもいをつたえるには、ある程度の距離が必要だから、今病気の治療中で、現場へいけないからこそかけるのではないかと、はげまされながら、まだあってもいない読者に向けて、書いている。
パリの親友の美知子さんは、日仏の混血で、彼女は、定期的に電話してくれる。原稿ができたら、お祝いをしようかといってくれる。今は、本を書く時期だからがんばってと励ましの電話があった。現地へ行って病気でかえってきたのだから、治療して、よくなるまで、本を書く時期で、世界から取り残されたような気がしている私だが、一人ではないと気づく。

1994年、9月23日。世界にむかっていいたいことがあるなら、行って来い。才能がなくてつぶれるようなら、2年たってもだめなら福井へかえってくればいい。まだ若い。父にこういわれて、留学し、11年たとうとしている。一区切りだ。

できることから始めようー国際開発

2007-06-18 23:07:27 | Weblog
最初の人生の転換点はバングラデッシュでの強烈な経験だった。UNESCOで8ヶ月間、行財政担当の事務次長のアシスタント、コンサルタントを務めた後、半年の予定でバングラへ教育の専門家として研究者としていったのが、1997年4月26日。それから、1年滞在することになった。バングラでの暑く、でも6州のうち4州をたずねて500人くらいのもっとも貧しいひとをたすけるためになにができるかを考え答えをみつけるために出発したのだ。

国際開発にどうかかわるか?これは大きな大事な問いである。国際開発には経済的貢献と人的貢献、そして知的貢献があると思う。今まで私が主にかかわって情熱をかけてきたのは,人的貢献がすくないといわれてきた日本の国際協力の分野で、現地にまずいって、そこで、視察し現地の人と話をしできれば長く住む、ということが一番大事だと信じてきた。現地主義ともいえるかもしれない。でも、人間には想像力がある。現地にいかなければ国際協力ができないとしたら多くのひとは、自分たちは税金をはらっている、経済的貢献をしている、NGOも、国際機関の拠出金も、自分たちの税金でまかなっているではないか、というだろう。

バングラデッシュで、病院の前で、マラリアの薬がかえなくしでゆくひと、絵の具をはじめてみる子供たちが絵の具をとりあいしているすがた、空港におりたったときに、わーと集まってくる物乞い。こちらが動物園のおりにはいっているのではとおもえるくらいに、多くのひとが、じーとこちらをみている。変な感じだった。

強烈なショックをうけたのは、ビロル村というインド国境の北部のむらへいったときに母親たちの会話で、あなたのところは、子供が何人いるの?うちは半分しんだけれど、という会話をきいて驚いた。最初の開発途上国での視察、わたしにとってはすべてがはじめての経験だった。

ビロル村でした健康診断もJICAもまだ踏み込んでいない場所だった。あそこでみたもの、ねずみかもぐらをたべていきるひとたち。その場所で現地調査をしたいとおもい、UNESCOに日本人ももっと現地へいくべきだ、という半年のプロジェクトを、NGOノバングラセッシュからかえる飛行機のなかで、一緒にいった福井のメンバーからはげまされて、日本語でかいたものを、シンガポールからパリへもどって、一気にフランス語で書き上げ提出し、11ヶ月後に、UNESCOでのレストラン民営化の経済アナリストとして仕事をしているときに、パリのオフィスに当時の野口フェローシップ部長から電話があり、日本のUNESCO国内委員会が承諾した、プロジェクトが日本で通りましたよ、という返事だった。

それは、野菜が不足しているためと卵も肉もないので、そのために、地下にもぐる動物をたべているときき、それを、スケッチでかいてもらった。

わたしはこのとき、将来の夢として国際公務員となって現地の栄養不足、教育不足、仕事がないこと、などの問題を解決するためにはたらきたいとおもった。
現地での実際のプロジェクトを推進するために博士号取得が大事かとおもい、それで8年半かかったが政治学の博士号をとり、その後国際公務員としていったのが、コンゴ民主共和国だった。

バングラデッシュでみた光景はショックが大きく、ヒューマニズムから開発途上国にかかわるようになった。でもヒューマニズムだけではかたれない。解決できない限界をかんじた。それで社会の仕組みを変える仕事に参画したいという願いから国際政治をさらに研究し、日本がもっと外国で尊敬される国になるような方向での仕事をしたいとおもい、国際機関への就職を希望して、UNESCO,FAOと仕事をしてきた。

バンダアチェでは、写真撮影が主な目的ではなかったことをお断りしておこう。あくまでも国連のミッションでいき、個人デジカメでとった写真を何人かのひとにみせたら、まだみたことがない、写真だというので、今回公にすることにした。わたしはプロのジャーナリストでもカメラマンでもないのだが、開発途上国援助とプロジェクト作成に現地で深く関わった経験から、途上国援助に関わる日本人として、しかも日本の政府から、スマトラ沖津波地震災害復興援助の資金調達の仕事での貴重な体験から生々しい現場をみて、3ヶ月たってパリからの報告としたい


今後は、経験をいかして本にまとめ、写真展で多くの人に現実を理解してもらいたいし、パリを中心に、日本とフランス、ヨーロッパからさまざまな視野で、文化、経済、政治、言葉、平和、NGO、移民などの分野に現場報告者として、取り組んで生きたいと思う。

生活は日本のほうが便利だと思うが、パリには日本にないものがある。それをこれから紹介していければ幸いである。

これを書いたのは、2005年8月だった。その後、FAOのタイの津波災害復興プロジェクトマネージャーとしての勤務を終えて、日本へ帰国することとなった。
東京へ戻り、北区に住みぜんそくの治療を続けている。無力感もあるがいつか健康になり途上国へまたいける日が来ることを祈り再び立ち上がることをやっと決心した。再起に2年近くもかかったが、そのきっかけは最近であったある友人の言葉だった。”同じ人間だから、(途上国の人々のために)何かできることをしたい”。
私は、やっと消えかかった希望の火をもう一度燃やしてみたい、現場へいかなくてもできること、それは現場へ行った者として現場報告をすること、伝えることをしたいと思った。


コンゴ民主共和国ー紛争後の開発

2007-06-18 00:19:28 | Weblog
緊急避難は、FAO本部で、国連の安全トレーニングをうけていったが、実際には、大変だった。予期せぬことがあり、人質、隔離、誘拐、事故、病気、テロロストにであったときどうするか、たべものにあたったとき、あるいは、病院がちかくになく、事故やけがにあったときどうするか、さまざまな場面を想定しているが、実際に、緊急避難はとっさには判断できない。空港も民衆はおそってくるから、コンゴのアシスタントと一緒であればおそわれないから、北のほうへ逃げたほうがいい、コンゴブラザビルのほうへにげたらどうか、湖があるから、船でいける、などなど、情報が錯綜した。モエマは、空港から逃げようといいだす。でも、わたしは、長くアフリカにすむアジア人の友人からの電話をうけた。ホテルと、空港は安全だ。迎えがくるまでじっとして待つように、忍耐、水はあるかの問いに、水はあるが、たべるものはない、というと、今日中に、助けがくるだろうから大丈夫だ。絶対に空港からでてはいけない、銃殺される。まつしかない。何回もの電話をうけて、夜9時すぎ、暗くなってから、わたしとコートジボワールの医師と一緒に緊急避難を行うという国連のキンシャサの決定がでて、医師をさがし、荷物をちかくへまとめ、ベルギー人のコンサルタントもいて、一緒に避難の準備。コートジボワールの医師は、前にもありました、と語る。車がきた、さーとでていき、民間の車で、農作物を運ぶような小さなトラックだ。女性は私一人。前の席にのるようにいわれた。荷物はシートの下にかくし、両脇に、国連軍兵士が銃をもって、安全確保。私の横に、ぴたーと2人がすわり、あさって、パリいきのエアーフランスにはのれるか、ときくと、明日のこともわからに、ここは内乱だ。今から30分後にあなたが生きているという保障はない、今から車で空港から街までつっきるが、ストップしない、でも銃撃されれば、銃撃しないといけない、今は夜だから、チャンスはある、といわれ、からだが硬直し、走馬灯のようにいろいろなことがよみがえった。ああ、開発途上国での希望をしたがここで死ぬのかもしれない、とおもった。ベルギー人は白人なので、後ろの座席のしたにスーツケースをおき、国連軍兵士の指示でいくつかのスーツケースのしたに隠れる形にして、コートジボワール人医師とモエマはコンゴ人で、黒人なので、国連軍兵士10人くらいのなかに、からだを兵士のように外にむき出しにした形で出発した。
このようにして行われた緊急避難は、30分くらいだった。途中で、隣の兵士からこわいか、ときかれ、もちろんだとこたえたが、何回は銃を外にむかたが、発砲せずに国連の事務所へ到着した。そこからまたホテルへわかれて、直行。メームリングホテルについたのは夜中だった。なかなか眠れない。日本大使館から電話がある。報告する。父へ電話してもらうよう頼む。

スーツケースを預けて行ったイタリア人同僚、マッシモの自宅がおそわれたときき、スーツケースはあきらめたほうがいいといわれた。でも、帰りの空港券、現金、資料、本がはいっていて、資料と本はもう二度とここはくることはないから、とコンゴ人現地コンサルタント2人にたのみこみ、普通の車でいってもらった。一緒にいくというと絶対だめだ、あぶないといわれた。ホテルで待機しているあいだに、スーツケースをもってあえってきた。感激した。今でも電話がなると、びくっとする。あのころがよみがえる。でもローマにかえり、緊急避難の際のショックでしばらく、仕事が前のようにできなかった。報告書をかくのに時間がかかったが、かきおえたのが、2004年の9月だった。


コンゴ民主共和国ー戦争と開発

2007-06-18 00:12:40 | Weblog
4週間弱の出張だったが、ルワンダへも足をふみいれた。エチオピア、ドイツをとおりローマへかえってきた。
いったいあの戦争はなんだったのだろう。あるいは、今でも問題のつづくアフリカでなにができるのだろうか、という基本的な問いにかえっていく。小さなことがアフリカ開発に関わっていくのだろうが長い時間がかかるし、津波地震災害後で、
ムジマイからキンシャサの空港につき、空港は閉鎖。国連職員をねらっているという情報もながれた。コートボワールの医者とベルギーも国際コンサルタントとわたしの国内出張に同行してくれたコンゴ人アシスタント。モエマというコンゴ人アシスタントは、わたしの国内ミッション3つのうち2回同行し、調査、会合、日本の資金でのFAOのプロジェクトの受益者へのインタヴューなどで、コンゴのフランス語はまた違うため、理解できないところがありずいぶん助けてもらった。
コンゴ民主共和国では、研修ということもあり、長く国際機関に勤務したいわたしの希望もあり、引き受けた。
キンシャサ空港閉鎖で、飛行機が、お昼ごろついたとき、待合室でまつようにいわれ、大使館殻30分おきに電話がある。FAOの本部もコンゴキンシャサFAO事務所へ電話をしたとあとでしった。はじめての国連(短期職員)のスタッフとして、青いパスポートを持ち、外交官として出発したが、強烈な体験になった。国連の名前がかかれてある、車だと、すぐにみつかり、銃撃されるから、民間の車で迎えが来るまでの長い時間。

モエマのほうがおろおろしていて、家族に電話をしていた。わたしは、携帯の電話のバッテリーがきれて、空港で電源をさがして、やっとつながった。