辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

イタリア人の友人とーソレントとナポリ

2007-06-17 23:57:33 | Weblog
ソレントとナポリーガエタナの家族との出会いー

ガエタナ、初めてのイタリア人の友人だ。イタリアで家族を尋ねる機会がもてた。
フランスは10年ちかくすみ、何人かの友人に招待されたし、家族のようなつきあいになっているひともいる。一方、イタリアは、バングラデッシュへ行く前に3週間ほど、旅行したが、それはイタリアルネサンスを本でよんだが、実際美術館へいって、自分の目でたしかめたかったためだ。その後、イタリアへは数回いったが、いずれも旅行で、ヴェネチア、ローマ、フィレンツェ、カプリ、ナポリ、ソレント、トスカーナ地方へいき、それぞれ10日から2週間はかけて、朝早くからおきて、フィレンツェの、ウフツイ美術館に通い、ローマもあるけるだけあるいて、バチカン美術館も3回くらいいった。

イタリアローマにすんだのは、2003年11月上旬から、2005年5月上旬までの、1年半だった。その間、国連の食糧農業機関で、仕事をしたので、国連のレッスンで、イタリア語もまなんだがミッションで、中断。フランス語にかけてきた情熱に比べるとイタリア語は、会話ができるほどではないし、それもあって、イタリア人との交流、会話は困難だった。仕事場では99%英語の世界でこれも、悩みの種だった。

ある日、福井の母から電話とFAXで、ガエタナというイタリア人女性が鯖江の国際交流会館ではたらいているという話をきいて、日本語をナポリで勉強し、日本語は達者だという。それで、EMAILのアドレスをきいて、妹に連絡した。

2004年の1月2日から4日まで、
2泊3日の小旅行をした。ガエタナとパウロという友人がナポリ駅まで迎えにきてくれた。
ジュウジという妹と両親にであったにはソレントの太陽がふりそそぐ、家のなかだった。

きれいに整えられた家。専業主婦のお母さんは働き者で、料理じょうず。海の幸のリゾットと、テイラミスのつくりかたを教えてもらった。

ガエタナがうまれるまでは、船乗りだったおとうさん。イタリア人男性だからもっとおしゃべりかとおもったが、ガエタナと、お母さんとジュジの3人で話すのをきいていると、いるとかしまし娘という言葉が浮かんできた。とまったのは、ガエタナのおへやで、いつももはジュウジは眠るベッドを借りた。

ナポリをガエタナと2人でいった。ソレントの街は靴とかばんで、有名だ。小さなかばん、大きな旅行かばん、あるいはポシェットなど、かわいいいものから、しっかりと一生使えるものまである。イタリアは靴とバッグでは世界一だといわれる。
ナポリでは、映画で有名なナポリの回廊や、卵城をみた。お城から見る、ナポリと、ナポリを見て死ね。といわれるのは、前になぜだろうかとおもったが、しかし、ナポリの市街をからみると夜景もきれいだし、今回はいけなかったが、カプリモンテという美術館は、数年前にき、フランスのルーブル、スペインのプラドに並んで個人的好みからいえばお気に入りの美術館だ。

ガエタナとみた海とヴェスビオ火山。ヨットの練習なのか、多くのヨットがいっせいに、海奥深く、走っていった。

ガエタナと日本語では話をしながら、家族、日本、イタリア、鯖江のことや、ローマでの仕事やアパートのことを話し、ソレントからナポリまで1時間弱で、時間をわすれたイタリアナポリでのお正月だった。

太陽と、海がすぐちかくにあり、いいですねーというと4月はもっといい天気だし今度はカプリへいきましょう。とおかあさんがいうので、国連の仕事で忙しいから、いつ休みがとれるかわからないというと、ここはイタリアで仕事がおわってもおわらなくてもゆうがた、5時には仕事をおえて、家にかえらないとからだをこわすわ、といわれたのを今思い出すと、本当にそのとおりで、いい加減にすることができにくい。今はパリで静かな生活で、毎日、ミッション中、南アジアでレストランへいって外食をしていたのとくらべると、まったくかわった。

その後、イタリアでも日本語がブームだときいた。パリも同じだ。日本の伝統文化へのあこがれは、続いている。



タイ津波復興プロジェクト

2007-06-17 23:50:41 | Weblog
私が興味があって、写真をとったのは、破壊後、すげてはめちゃくちゃ、家も家族も財産もうしなって、でも復興、再建にむかうとき、人間は、前向きになり、でも過去はわすれることはできない。事故、災害後、ショック後のいきかたに、興味があるわたしは開発途上国で、内乱、戦争、お金をめぐるごまかし、癒着、など、貧しいひとたちに関わる際のヒューマニズム、それだけでは、解決できない。それから、国際開発、援助を、ビジネスにできるかという問いもでてきた。フェアートレードなどは、フランスでは完全の企業の形でしか存在しにくいし、いくらもうけるかの世界だ。わたしは、日本のNGOは独自な方法で、ビジネスと、ヒューマニズムのあいだで、なにか国際貢献の道はあるとおもっている。日本の援助は、国際機関でもお金を出す国として、有名になっているが、もっと知恵をだして、知的貢献に寄与することができるだろう。あるいは、市民レベルでも経済的貢献をするなら、国際MGOに寄付をする、いらなくなった衣類を預ける、アフリカアジアへ送ることをしているNGOに寄付をする。

国連の、プロジェクトは額が大きい。1億単位で、物事は進められる。人件費が多いのだが、
国連にしかできないことは、各国際機関の、独自なプロジェクトと、国際機関同士の協力とNGOの協力関係で、進められるプロジェクトだろうか。

日本のNGO,は今変わるべき時期にきている。これからは、現地にもいけるリーダー、そして国際会議でも堂々と日本のNGOの代表として、外国語をつかって外国のNGOと交渉できる人材育成が必要かとおもう。そうして初めて、国際的な協力ができるだろう。日本人の感覚では世界がうごいていないことをまずしってほしい。日本文化を相対的にみられるひとがこれから大事だろう。







津波地震被災地視察

2007-06-17 23:43:54 | Weblog
39度のコロンボで過労で倒れ、入院するまで、国際公務員としてローマで日本政府と日本の現地NGOとの共同プロジェクトを作成するために、現場へ向かった。現地で被災地を訪れ、被災者と話し、専門家と毎晩討論し、復興プロジェクトの作成と現場視察に打ち込んだ。全身全霊を打ち込んだ仕事だった。
それこそ、24時間体制で働いた。

インドネシアの現場視察も強烈な体験だった。


UNESCOと学業の両立

2007-06-17 22:15:21 | Weblog
UNESCOでの勤務と、学業の両立

1996年8月からは、UNESCOパリ本部で8ヶ月にわたって田中信明行財政担当事務次長(当時)のアシスタントとして、経済アナリストとしてレストラン改革の仕事をあたえられた。畑違いのことでもできますか、と面接できかれ、やってみます、と答えたので、勤務することになった。仕事は、18時に終了。その後いそいでいっても、19時くらいにポールさんのところにつく。夕食をご馳走になり、その後、だいたい12時か夜中の1時くらいになる。タクシーでかえるとき、タクシーの運転手から、仕事は歌手ですか、ダンサーですか、と聞かれた。ポールさんのアパートの前は劇場で、テアトル劇場という名前なのでいつもそこからタクシーにのって7区の自宅へ帰る。夜のパリはいつ見ても美しい。帰り道はルーブル美術館の横をとおるのだが、ピラミッドが輝いてみえた。翌朝は7時におき、すぐカフェだけのんで、UNESCOのオフィスへ走っていく。上司だった元田中事務次長は大変仕事に厳しいひとで、仕事はつま先でするものだ、すわっていてはいけない、といわれびっくりした。後で聞くと、それはUNESCO現松浦事務次長のスタイル、教えだと聞いた。ここで仕事の基本を学んだ。

ここで学んだものは、その後のFAOのイタリアローマ本部での仕事にも、ミッションとしていった、コンゴ民主共和国や、津波災害後にいった津波地震災害後の再建プロジェクトの視察、日本政府へ提出するプロジェクト作成に現地で、スリランカ、インドネシアのジャカルタとバンダアチェで実際の農業、漁業プロジェクト作成に関わったとき、あのUNESCO時代の経験が、役にたった。つま先でする仕事のやりかたは、とにかく動くこと、情報も自分で扉がひらくまで、たたき続けるか、いろいろな方法で試してみる、というあきらめない方法を学んだ。

大変厳しい上司だったが、あるとき、もう卒業だ、といわれた。これからは新しい上司か新しい仕事でやっていける、君は不器用だが、君の熱意と努力と、人格は認める、たくましいから、国際社会でやっていけるよ、というのが最後のコメントだった。補佐官向きだといわれたが、最初は、フランスの会計のことがわからずこまってしまい、菊池学さんという、日本人のアメリカで会計士の資格をとった会計士に、個人的の教えを乞うて、やっと少しずつわかり、ある日、目からうろこが落ちるようにわかった。

4ヶ月くらいで、もう才能がないからだめだ、辞職しよう、とおもいつめた。でも、なんとか、数回目の報告書がOKとなり、ほっとした。総会へかける大事な資料だった。夜中の12時まで、レクチャーをし、タクシーで自宅へかえった。

その後、バングラデッシュの経験や、TOYOTAでの工場通訳、博士号取得へいたるまでの道のり、FAOでの厳しいミッションはこのUNESCOでの田中信明事務次長(当時)の仕事ぶりと、注意と、厳しさがなければとっくに日本へ帰っていただろうと思う。

Paul, パリのポールさん

2007-06-17 21:35:27 | Weblog
ポールさんとのであいと、11年にわたる友情

ポールさんにであったのは、11年前だ。1996年4月の最初の日曜日だった。
こんなに長くつづくとはおもっていなかった。[秀子は私の日本の娘だね]といつも言うポール。ルノワールもすんでいたモンマルトルの丘のふもとに住む一人くらしのフランス人。
元「フィガロ」(フランスで代表的な新聞)をはじめとするさまざまな、フランスの雑誌新聞(左翼系のル モンドは除く)の校正者のプロとして、20年以上働いていた。昼間は、アクアリスト(挿絵画家)として、好きな絵をかき、、夜は8時半くらいから朝2時3時、緊急な校正を必要とする場合、たとえば、ケネデイ元大統領暗殺事件のときは、朝6時くらいまでだったそうだが、毎日同じことはないというのが魅力の世界。マンネリズムをもっとも嫌うポール。フランスの大統領に依頼された仕事でもナポレオンのような、頭ごなしに命令されたらノン、どんなにお金を積んでも、だめだ、という、無政府主義者といえばいいのか、自分が一国一城の主、といえばいいだろうか。

最近2回手術をうけたので、今まで病気をしたことがないというのが自慢だったが、今はもう前のように元気ではないと、言っている。すべてに興味があり特に国際政治学には、新聞でいろいろな事件や出来事を読んではいたが、私が1996年4月から博士課程の第1年目の高等研究デイプロームに取り組んでいたとき、同級生にくらべて大変おくれていたわたしを二人三脚でつけてくれたのは、ポールだった。ほぼ毎日、通い、たいてい午後3時からだが、であってから4ヶ月後の1996年8月からは、UNESCOパリ本部で8ヶ月にわたって田中信明行財政担当事務次長(当時)のアシスタントとして、経済アナリストとしてレストラン改革の仕事をあたえられ、畑違いのことでもできますか、と面接できかれ、やってみます、と答えたので、勤務することになった。仕事は、18時に終了。その後いそいでいっても、19時くらいにポールさんのところにつく。夕食をご馳走になり、その後、だいたい12時か夜中の1時くらいになる。タクシーでかえるとき、タクシーの運転手から、仕事は歌手ですか、ダンサーですか、と聞かれた。ポールさんのアパートの前は劇場で、テアトル劇場という名前なのでいつもそこからタクシーにのって7区の自宅へ帰る。夜のパリはいつ見ても美しい。ルーブル美術館の横をとおるのだが、ピラミッドが輝いてみえた。翌朝は7時におき、すぐカフェだけのんで、オフィスへ向かう。
仕事上の悩みや日本の家族にもいえないこともよく聞いてもらった。家族にもいえないことはるものだ。日本は遠いと感じた。

ポールさんは、作家、劇作家のポール、クローデルや、女優のマリー、ベル、作家のコレット、などの有名な人たちと、であったのは、おとうさんの経営する美容院をつうじてだった。美容院の跡継ぎは断り、お父さんは落胆したらしいが、マリー、ベルは、私のフランス行きへのあこがれとフランス語、フランス映画に対する情熱を象徴するフランス映画、「舞踏会の手帖」(ジュリアン、ヂュヴィヴィエ監督)の主役女優だ。松浦晃一郎UNESO事務総長もマリー、ベルがお好きだと直接聞いたことがある。いつまでも年をとらない、永遠に若い女性というイメージ。日本映画でいえば小津安二郎の原節子に比較できるかもしれない。ポールさんに、マリーベルにあこがれていたと話すと、どうして、そんなふるい戦前の映画をしっているの、ときかれた。たぶん、百回以上はみて、(ヴィデオでだが)一番好きな映画だというと驚いた顔で、まだ、そんなに年をとっていないのに、と。言われた。が。私のフランス語は映画とシャンソンからまなんだものだ。

ポールさんはイタリア美術の愛好家だったお父さんの強い影響をうけて、育ち、毎週日曜日の朝は、ルーブル美術館に通い、お父さんがじかにポールに「あれが、コロ、これは、クルベ、マネ、モネ、あっちにあるのがセザンヌ。」とおしえる父親が空で言うのを聞いて、すごいなーとおもったそうだ。フランコビルというサンラザール駅から1時間くらいのパリ郊外の家にあるすべての小説、美術に関する本を読み、お父さんにある日、一人でいいから、今いきている画家の作品をひとつ買ったら、あとで高くうれるのではというと、画家は個人的には誰もしらないと父親は言ったそうだ。ポールは、自分は父親譲りで、お金もうけには縁がないと自分の父を語る。当時美容院を経営していたポールの父親は、自分の好みにあう客がくるとじっと顔立ちをみて、気にいればウイ、Okであり、どんなにお金を出すといっても顔がきにいらないと、客を追い出したそうで自分の好みに忠実な点は、ポールに似ている。

ポールの父は、フランスの中央にある、シェール県で生まれた。ポールはパリ近郊のフランコビルで生まれた。35歳になるまで、父親の経営する、美容院で手伝い、しかしこの道は自分にあった仕事ではないと感じ、挿絵画家になりたいが、それだけではたべてはいけないので、フランス語の校正をして生活していくと、父につたえた。ポールの母は、42歳で結核でなくなり、母親の病気のため、彼は、母に抱っこしてもらったことは一度くらいだと、語った。養母がいて、養母に面倒をみてもらった。養母とは、実の母が亡くなったあと、旅行に車でつれていったりしたそうだ。ノルマンデイーにいったりして養母との思い出は尽きない。

一人暮らしでも、一人暮らしの老人という暗いイメージはなく、いつも冗談を言うのがすきで、かれは5人子供がいる。奥さんとは、別居しているが結婚したまま、別の女性と暮らしたのは、息子がうまれたからだ。その後、数年して、その女性ともわかれ、今は子供たちが、おとずれたり、奥さんや、2番目の奥さん(正式な結婚ではないが、日本でいう内縁関係)が来たり、電話があったりする。自分で料理、買い物、洗濯、皿洗い、アイロンがけなど、自立している。料理は、得意で、ソルボンヌ大学で博士号取得のための研究、勉強中にポールのところで、夕食の準備を一緒にしたのを、思い出す。日本とイタリアの政治制度の比較のエクスポゼ(研究発表)、の前日で、発表原稿、発音、アクセントなども含めて、ポールの前で読んで練習したのだ。夕食のあとも、さらにお茶をのんで、さらに練習につきあってもらったことは懐かしい思い出だ。

ポールの存在ぬきにわたしの、フランス滞在生活も、博士号取得もありえない。あんなに仕事をしたことはないと、博士号が終わった後に、言われた。ポールはフランス語の校正のプロとして、35歳から、退職するまで、これでたべてきたという気概があるし、プロとしての誇りが高いので、小さなことでぶつかることも何回かあった。たとえば、国連本部での空席ポストがあり、ニューヨークへ応募書類を出すときに、開発経済学というのをフランス語でいうときの冠詞の使い方で大学のCAFEで、意見が対立し、CAFEからポールはでていき、10日くらい仕事葉中断した。今おもうとそのポストはとれなかったし、フランス人のきくときいた数だけの、答えが返ってくる。プライドが高い人たちだと思う。

ポールは私の日本の家族とも親しい。私の家族がパリへきたときには、ポールの家に招待してくれて、一緒に話をしたが、両親、一憲(弟)が、きたときは、通訳するのが、大変だった。ポールはおしゃべりでずっと話をしていても疲れないようだった。今はすこしつかれてきたせいか、2-3時間くらい外出すると、つかれるようだ。でも浮世絵展へいったときにとったトロカデロのCAFEでの写真では元気だし、最近、日本語教師の勉強をしているわたしは、かれが4年くらい日本語を独学しているので、やっと質問に答えられる時間ができた。

自立して、家事もし、病気の治療を続けつつ、日本語を勉強し、おくまでも、好奇心をたもつきおと、ポールさんは、78歳にみえないくらいだ。いろいろなことに興味をもち、あきらめず、冗談をいっていつも、楽しいが、それでも、彼の人生観は、人生はいつも、すばらしいこともあるが、時に残酷で、つらいことも多い、だが生きることの楽しみは、仕事だけではなく、絵画、音楽、国際政治、国際関係論、日本語、家族、健康、今は飲めなくなったワインも、おいしい料理も、いろいろな側面があり、ずっと仕事と、学位取得で、忙しかったわたしに、人生のたのしみかたと楽天的になることを、おしえてくれたのはポールさんだ。