辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

FAO・IFADの同僚

2007-06-26 02:48:47 | Weblog
ローマではFAOの仕事で2年をすごした。パリ10年、ローマ2年。
FAOとIFADの日本人、ネパール人同僚を自宅に招いて、自分で全部料理をし、ワイン、花を選び、とても楽しい忘れられないディナーだった。
写真は、FAOの近くで、歩いて5分のサンタプリスカどおりの自宅だ。

ソレントとナポリ

2007-06-26 02:43:38 | Weblog
ーガエタナの家族との出会いー

ガエタナ、初めてのイタリア人の友人だ。イタリアで家族を尋ねる機会がもてた。
フランスは10年ちかくすみ、何人かの友人に招待されたし、家族のようなつきあいになっているひともいる。一方、イタリアは、バングラデッシュへ行く前に3週間ほど、旅行したが、それはイタリアルネサンスを本でよんだが、実際美術館へいって、自分の目でたしかめたかったためだ。その後、イタリアへは数回いったが、いずれも旅行で、ヴェネチア、ローマ、フィレンツェ、カプリ、ナポリ、ソレント、トスカーナ地方へいき、それぞれ10日から2週間はかけて、朝早くからおきて、フィレンツェの、ウフツイ美術館に通い、ローマもあるけるだけあるいて、バチカン美術館も3回くらいいった。

イタリアローマにすんだのは、2003年11月上旬から、2005年5月上旬までの、1年半だった。その間、国連の食糧農業機関で、仕事をしたので、国連のレッスンで、イタリア語もまなんだがミッションで、中断。フランス語にかけてきた情熱に比べるとイタリア語は、会話ができるほどではないし、それもあって、イタリア人との交流、会話は困難だった。仕事場では99%英語の世界でこれも、悩みの種だった。

ある日、福井の母から電話とFAXで、ガエタナというイタリア人女性が鯖江の国際交流会館ではたらいているという話をきいて、日本語をナポリで勉強し、日本語は達者だという。それで、EMAILのアドレスをきいて、妹に連絡した。

2004年の1月2日から4日まで、
2泊3日の小旅行をした。ガエタナとパウロという友人がナポリ駅まで迎えにきてくれた。
ジュウジという妹と両親にであったにはソレントの太陽がふりそそぐ、家のなかだった。

きれいに整えられた家。専業主婦のお母さんは働き者で、料理じょうず。海の幸のリゾットと、テイラミスのつくりかたを教えてもらった。

ガエタナがうまれるまでは、船乗りだったおとうさん。イタリア人男性だからもっとおしゃべりかとおもったが、ガエタナと、お母さんとジュジの3人で話すのをきいていると、いるとかしまし娘という言葉が浮かんできた。とまったのは、ガエタナのおへやで、いつももはジュウジは眠るベッドを借りた。

ナポリをガエタナと2人でいった。ソレントの街は靴とかばんで、有名だ。小さなかばん、大きな旅行かばん、あるいはポシェットなど、かわいいいものから、しっかりと一生使えるものまである。イタリアは靴とバッグでは世界一だといわれる。
ナポリでは、映画で有名なナポリの回廊や、卵城をみた。お城から見る、ナポリと、ナポリを見て死ね。といわれるのは、前になぜだろうかとおもったが、しかし、ナポリの市街をからみると夜景もきれいだし、今回はいけなかったが、カプリモンテという美術館は、数年前にき、フランスのルーブル、スペインのプラドに並んで個人的好みからいえばお気に入りの美術館だ。

ガエタナとみた海とヴェスビオ火山。ヨットの練習なのか、多くのヨットがいっせいに、海奥深く、走っていった。

ガエタナと日本語では話をしながら、家族、日本、イタリア、鯖江のことや、ローマでの仕事やアパートのことを話し、ソレントからナポリまで1時間弱で、時間をわすれたイタリアナポリでのお正月だった。

太陽と、海がすぐちかくにあり、いいですねーというと4月はもっといい天気だし今度はカプリへいきましょう。とおかあさんがいうので、国連の仕事で忙しいから、いつ休みがとれるかわからないというと、ここはイタリアで仕事がおわってもおわらなくてもゆうがた、5時には仕事をおえて、家にかえらないとからだをこわすわ、といわれたのを今思い出すと、本当にそのとおりで、いい加減にすることができにくい。今はパリで静かな生活で、毎日、ミッション中、南アジアでレストランへいって外食をしていたのとくらべると、まったくかわった。

その後、イタリアでも日本語がブームだときいた。パリも同じだ。日本の伝統文化へのあこがれは、続いている。



現場からのメッセージ-スリランカからパリへ

2007-06-26 01:47:04 | Weblog
したいことをすべてはできない。今はパリで、のどのポリープのスピーチセラピストの治療を継続し、気管支ぜんそくの発作をおさえ、管理する努力をしながら、今までしてきた国際開発の仕事、交際協力とはなにか、ということをかんがえながら、開発途上国にいかずにできる形でかかわっていけるか、その問いをさがすために、今までしてきたことをまとめることにした。若いひとたち、あるいは、シルバーのひとたちにむけた11年情熱をかたむけて取り組んだ開発途上国の発展、特に紛争後の国の再建、教育、農業、漁業、マイクロクレジットの重要性を感じ、OECD、国連、UNESCO,FAO,あるいは、日本のNGOと仕事をしてきたまとめとして、現場からのメッセージとしてほそぼそと書き出した。

フランス人友人

2007-06-26 01:21:59 | Weblog
今の東京の生活にないものはーお昼に友達から電話があって、元気?と聞かれ、元気だと答えるとまず夕方に会う約束をする。元気がないときは、職場まで5時半か6時に迎えに来てくれて、近くのカフェへいく。それから映画、散歩、食事、それでストレスは解消される。分かち合う喜び、悲しみ、出会い、愛、ドラマ。東京敗訴ががしい。みんな仕事だ。

7月、8月とこれから日本の夏を楽しもうと思う。
パリでは仕事も大変だったが、土曜日は自宅で日本風のパーテイを開くか、オペラ近くの日本レストランでディナーで集まる。8月くらいからまた東京でも再開したい。


スリランカの入院後ー海で

2007-06-26 01:12:06 | Weblog
ただひとついえるのは、スリランカの緊急入院で、人生はかわった。退院後、1週間の休養のため、FAO本部の上司へ電話をし、モルデーブいきは中止し、インドネシア、ジャカルタへ直行することはできると交渉しOkがでて、健康問題のため、計画を変更、飛行機変更、ホテル変更で大変だったが、スリランカのFAOオフィスの助けで、インドネシアへ向けて出発することができた。

入院中にであった、インド人看護婦、医師をはじめとする多くのひとたちからまなんだのは、健康がなくては開発途上国での仕事は困難なこと、寛容な態度、おだやかな物腰、はなしぶり、ユーモアの大切さなど、どこからきているのかとおもったが、仏教のおしえから来ていることが理解できた。

自分の健康問題で、苦悩していたとき、瞑想したらどうかと、スリランカでであったひとたちにいわれ、パリへかえってから、仏教の寺院をさがしていたら、バンセンヌの森にある、チベット寺院がみつかり、たずねてみた。早速、瞑想、祈りに参加し、音楽をつかったもので、心はおちついた。今は国際開発との関わり方をかんがえつつできることからはじめた。今までは現地主義だったが、健康問題で現地には今しばらくはいけなくなった。今までのことを報告書、本として刊行し、自費出版になるが、ひとつの区切りとしたい。

この本出版にあたって、パリで最近新しくであった友人たちに、お世話になった。なかでもアパートの水漏れ問題で執筆に集中できない私の窮地をたすけてくれたのは、フィリップ、写真の編集で助けてくれたのは、フィリップと、グラフィックデザイナーのジャン、ピエールと、ピエール、イヴだ。今日、ピエールイヴと話をしたときに、昼間はどこで仕事をしているのかときいたら、石油会社で人事管理の仕事をサラリーマンとしてしながら、夜は、本業の仕事をしてから自宅へ帰るときいた。私は、理想主義者だったと、おもった。現地へいけないなら、開発途上国援助はもうできないというわたしに、新しい友人たちは、励ます。本をかいて、経験をかきながら、あふれてくる感情もかき、内部にあるおもいをつたえるには、ある程度の距離が必要だから、今病気の治療中で、現場へいけないからこそかけるのではないかと、はげまされながら、まだあってもいない読者に向けて、書いている。
パリの親友の美知子さんは、日仏の混血で、彼女は、定期的に電話してくれる。原稿ができたら、お祝いをしようかといってくれる。今は、本を書く時期だからがんばってと励ましの電話があった。現地へ行って病気でかえってきたのだから、治療して、よくなるまで、本を書く時期で、世界から取り残されたような気がしている私だが、一人ではないと気づく。

1994年、9月23日。世界にむかっていいたいことがあるなら、行って来い。才能がなくてつぶれるようなら、2年たってもだめなら福井へかえってくればいい。まだ若い。父にこういわれて、留学し、11年たとうとしている。一区切りだ。