辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

フランス人友人

2007-06-26 01:21:59 | Weblog
今の東京の生活にないものはーお昼に友達から電話があって、元気?と聞かれ、元気だと答えるとまず夕方に会う約束をする。元気がないときは、職場まで5時半か6時に迎えに来てくれて、近くのカフェへいく。それから映画、散歩、食事、それでストレスは解消される。分かち合う喜び、悲しみ、出会い、愛、ドラマ。東京敗訴ががしい。みんな仕事だ。

7月、8月とこれから日本の夏を楽しもうと思う。
パリでは仕事も大変だったが、土曜日は自宅で日本風のパーテイを開くか、オペラ近くの日本レストランでディナーで集まる。8月くらいからまた東京でも再開したい。


スリランカの入院後ー海で

2007-06-26 01:12:06 | Weblog
ただひとついえるのは、スリランカの緊急入院で、人生はかわった。退院後、1週間の休養のため、FAO本部の上司へ電話をし、モルデーブいきは中止し、インドネシア、ジャカルタへ直行することはできると交渉しOkがでて、健康問題のため、計画を変更、飛行機変更、ホテル変更で大変だったが、スリランカのFAOオフィスの助けで、インドネシアへ向けて出発することができた。

入院中にであった、インド人看護婦、医師をはじめとする多くのひとたちからまなんだのは、健康がなくては開発途上国での仕事は困難なこと、寛容な態度、おだやかな物腰、はなしぶり、ユーモアの大切さなど、どこからきているのかとおもったが、仏教のおしえから来ていることが理解できた。

自分の健康問題で、苦悩していたとき、瞑想したらどうかと、スリランカでであったひとたちにいわれ、パリへかえってから、仏教の寺院をさがしていたら、バンセンヌの森にある、チベット寺院がみつかり、たずねてみた。早速、瞑想、祈りに参加し、音楽をつかったもので、心はおちついた。今は国際開発との関わり方をかんがえつつできることからはじめた。今までは現地主義だったが、健康問題で現地には今しばらくはいけなくなった。今までのことを報告書、本として刊行し、自費出版になるが、ひとつの区切りとしたい。

この本出版にあたって、パリで最近新しくであった友人たちに、お世話になった。なかでもアパートの水漏れ問題で執筆に集中できない私の窮地をたすけてくれたのは、フィリップ、写真の編集で助けてくれたのは、フィリップと、グラフィックデザイナーのジャン、ピエールと、ピエール、イヴだ。今日、ピエールイヴと話をしたときに、昼間はどこで仕事をしているのかときいたら、石油会社で人事管理の仕事をサラリーマンとしてしながら、夜は、本業の仕事をしてから自宅へ帰るときいた。私は、理想主義者だったと、おもった。現地へいけないなら、開発途上国援助はもうできないというわたしに、新しい友人たちは、励ます。本をかいて、経験をかきながら、あふれてくる感情もかき、内部にあるおもいをつたえるには、ある程度の距離が必要だから、今病気の治療中で、現場へいけないからこそかけるのではないかと、はげまされながら、まだあってもいない読者に向けて、書いている。
パリの親友の美知子さんは、日仏の混血で、彼女は、定期的に電話してくれる。原稿ができたら、お祝いをしようかといってくれる。今は、本を書く時期だからがんばってと励ましの電話があった。現地へ行って病気でかえってきたのだから、治療して、よくなるまで、本を書く時期で、世界から取り残されたような気がしている私だが、一人ではないと気づく。

1994年、9月23日。世界にむかっていいたいことがあるなら、行って来い。才能がなくてつぶれるようなら、2年たってもだめなら福井へかえってくればいい。まだ若い。父にこういわれて、留学し、11年たとうとしている。一区切りだ。

パリの仏教寺院と禅

2007-06-26 00:49:05 | Weblog
パリにいる時に、瞑想をした。強烈に京都を歩いて見たいと思った。

パリのヴァンセンヌの森にある、仏教寺院をおとずれた。パリの東にある、ヴァンセンヌの森の中にある、チベット寺院を散歩の途中でみつけ、スマトラ津波地震災害後、パリへもどって、治療を継続しながら、瞑想の場所を探した。ある日曜日、友人と、湖のほとりを、散歩し、カメラをもってでかけた。
とても暑い日で、夕方5時くらいから、出かけて散歩するのにちょうどよかった。そのとき途中で、湖があり橋が、2つかかっていてそのひとつの橋の近くに、パゴダ(仏教寺院)があり、パリで初めての、仏教寺院だそうだ。20年くらい前にできたもので、2週間前くらい前に電話をして、瞑想ができるか問い合わせてみた。2005年7-12月のプログラムをもらった。7月26日の午前9時ころおとずれて、9時半からの瞑想に参加した。タラ、ベルトという祈りと、瞑想が混合されたものだ。ネパール人僧侶、ラマ、と、インド人僧侶、ラマが、日本の太鼓をたてにしたようなもので、どかーんとうち、ほかのメンバーは、貝でほーという音が加わり、大きなシンバルで音が大きくなる。神秘的な雰囲気になる。フランス人、ペルー人、スペイン人、アフリカ人、中国人とであった。旅行者も多い。


ローマでみたオペラ2ーマダムバタフライ

2007-06-26 00:35:15 | Weblog
プッチーニの音楽と並んで、有名な音楽の一節は忘れがたい。西洋の窓口であった、出島があったのは、長崎。鎖国時代の唯一の外国との交流のあったところだ。

日本をはなれて10年11ヶ月たった。今年の9月23日で11年になる。成田から今はもうないAOLでパリへついたには、きのうのことのような気がする。

イタリアローマでみたひさしぶりの、着物、日本の伝統美、サムライの精神、死を準備し生きる日々、
自己を犠牲にする精神、日本の伝統精神の特徴ともいえるこの2つがよく描かれていた。


何回かパリで日本文化について質問されたが、このオペラは、西洋人の眼からみた日本であり、
イタリア人が(マリア、ピアイオナタ)演じるマダムバタフライであるが、11年ちかくヨーロッパ(パリに基盤をおき、イタリアローマへ1年半すみ、バングラデッシュに1年すんだが)にすみ仕事をしてきた一日本人女性として、日本文化の真髄を再発見した気持ちがして、途中で、感動して涙がながれるのをおさえることができなかった。

侍の姿をした裕福な男性が、かごにのせられて到着する。
マダムバタフライの求婚者。これも日本の古い、伝統のしきたりと近代化の狭間を描いているかと思う。舞台は1904年。明治時代。日本の歴史のうえで、サムライと日本の着物、芸者、さくら、そして切腹、(胸をさして死ぬのだが、)愛と名誉のためにしぬからこそ世界で、ミラノでもパリ(2006年に公演)でもローマでもヴェネチアでも演じられるのだろう。貫き通す愛は困難になりつつさるかもしれない。

これは、西洋からみた日本のイメージを集約したものだろう。子供が、ないてでてくるので、だきしめ、最後のほほ擦りをする。ジェスチャーは、本当に日本人とかわらない。イタリアのマリアが演じた蝶々夫人は今でもまぶたにやきついている。

夫にアメリカ人の妻がいることをしって、ひとりになり、のた打ち回る姿は、突然の別れの告白、あるいは、愛するひとのこころかわりをしったときのショック


をうけた経験をしたことのあるひとなら、理解できる。真実をしるつらい残酷な経験は、世界共通だろう。

イタリアローマのテアトル、デ、オペラは、夏になると、6月から8月は、外での野外オペラになる。カラカラ浴場でのオペラは、オペラファンなら一度入ってみたい場所だろう。去年は、ヴエルデイのオペラだった。

日本ではお芝居と映画化されたのはしっていたが、わたしは、まだ日本でもほかでも日本人女性の演じるオペラを直接みたことはない。一緒にみにいった国連の元同僚(オーストラリア人)からは、マダムバタフライを日本人女性が演じるのを日本でみてみたいといっていた。

ひとつの問いがでてくる。なぜ、蝶々さんは自殺したのだろうか。ピンカートンをころしたいとはおもわなかっただろうか。自分が死ぬ前にピンカートンをころし自分もしぬか、なぜ、伝統的な自殺をえらんだのだろうか。
3年まって夢にみたように、男の子と、3人で幸せな家庭を築けるとおもったのに、芸者が、結婚するのは簡単ではない時代。今でも芸者に関しては、あまりいい意味でかたられることはない。両親をたすけるために身をうり、芸者になった蝶々さん。15歳。その後、魂までうることはできなかっただろうか。

西洋と日本。いくつかのシーンでは1904年2月17日にミラノで最初のオペラ公演があった。そのとき、日本はすでに明治時代にはいり、サムライがかごにのってあらわれるというすがたは現実的にはなかったかとおもうが、日本が鎖国から開放されて、サムライも刀をすてたが、西洋人から見た日本は古いイメージとかさなり、西洋にはない独自性となり、オペラのような、総合芸術、(歌、演劇、ダンス、音楽、衣装、など)の場合は、古いイメージと創造性がかさなって面白いのかもしれない。