
ひさびさに横浜赤レンガ倉庫にいく。
20代から70代までの前衛書家40人の作品展を観に。
暑い夏、横浜の赤レンガ倉庫に飾られた作品群は、鮮度よし。
適当なスペースを割り与えられ、一人ひとりが主張しているのがいい。
高校生のパフォーマンスにみられるような汗をウリにするようなことではない。
人の温もりや激しさを表出することが、書の得意とするところだと思われがちだが、それはちょっと安易と思わせてくれる作品群である。
いくつかの金属音が聞こえてきそうな作品は、本来の書の姿を見続けてきたなかで、それを超えようとして生まれた作品ということを強く感じる。
文字性の有無はとうの昔の話のようだが、文字や言葉からのヒントが非文字性作品を生んでいる俤のようなものを感じるのは私の感傷なのだろうか。
平面と筆遣いの記憶を拠り所に書を本拠としているようで、やはり拠り所として君臨する古典の、反比例か解釈のしかたか、そこに金属音の響きがあるのだろうか。
用具素材は、アクリル絵具などを使う半面、伝統工芸的な箔を使うなどして縦横に美を探る姿勢も既成値が変わってきている。
金属彫刻家の方の作品が書の作品群の前に置かれ、音も含めてみごとにマッチしていた。共鳴していたのである。
15日まで。
今年のヒットエキジビションかな。
20代から70代までの前衛書家40人の作品展を観に。
暑い夏、横浜の赤レンガ倉庫に飾られた作品群は、鮮度よし。
適当なスペースを割り与えられ、一人ひとりが主張しているのがいい。
高校生のパフォーマンスにみられるような汗をウリにするようなことではない。
人の温もりや激しさを表出することが、書の得意とするところだと思われがちだが、それはちょっと安易と思わせてくれる作品群である。
いくつかの金属音が聞こえてきそうな作品は、本来の書の姿を見続けてきたなかで、それを超えようとして生まれた作品ということを強く感じる。
文字性の有無はとうの昔の話のようだが、文字や言葉からのヒントが非文字性作品を生んでいる俤のようなものを感じるのは私の感傷なのだろうか。
平面と筆遣いの記憶を拠り所に書を本拠としているようで、やはり拠り所として君臨する古典の、反比例か解釈のしかたか、そこに金属音の響きがあるのだろうか。
用具素材は、アクリル絵具などを使う半面、伝統工芸的な箔を使うなどして縦横に美を探る姿勢も既成値が変わってきている。
金属彫刻家の方の作品が書の作品群の前に置かれ、音も含めてみごとにマッチしていた。共鳴していたのである。
15日まで。
今年のヒットエキジビションかな。
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