姫路・播磨の条里制・その方向について。 (その1)。
1、条里制と、条坊制とについて。
◎ 「条里制」って・・・・?
『条里制』という言葉は、いつ習ったのだろうか?
・現在、小学6年生では習わないようだ。
『小6社会教科書』に、「口分田」「班田収授」「公地公民」は出てくるが、「条里制」は、ないようだ。
(昨日、本屋さんで見てきた、が・・・)
・では、むかし習ったのは、中学校1年生のとき、だったかな??
その後、それ以来、「条里制」に関する私めの知識は、まったく不変であった。約50年ものあいだ!
それに、大きな勘違いも、していた。
すなわち「条里制の田んぼ」は数えるほどで、
大和か?どこかにあるのだろうと思っていた。
◎ まさか、自分が暮らす町の下に、あろうとは・・・
・姫路市の平地のほぼ全域?が・・・・そうだとは!
・そして、「姫路の城下町」の地下にも、いまも眠っている?(かもしれない)、とは・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Wikipediaより。
「条里制」とは・・・
日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。
ある範囲の土地を約109m間隔で直角に交わる平行線(方格線)により
正方形に区分する・・・
「条坊制」とは・・・
中国・朝鮮半島・日本の王城都市に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、
南北の大路(坊)と、東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた、左右対称で
方形の都市プラン。
◎ 田舎の「条里」、都会の「条坊」 って、ことかな??
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2、播磨の「条里制」
その方向性について・・
いろいろあろうかとも思いますが、だいたい、
①揖保郡の条里制ーー北 3度西の方向ーー「たつの市」・「太子町」の条坊制。
(大阪・四天王寺も、北3度西?に建てられているのは興味深い。)
②飾磨郡の条里制ーー北23度東の方向ーー「姫路」 の条坊制。
③加古郡の条里制ーー北40度東の方向ーー「加古川」の条里制→「ひろかずのブログ」さま、など。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3、やまとは国のまほろばの方位方向性。
・正方位(東西南北)(東西南北)に合わせ始めたのは、いつからか??
・飛鳥の宮Ⅰ期: 舒明天皇の飛鳥岡本宮は、正方位ではないらしい。
・飛鳥の宮Ⅱ期: 皇極天皇の飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)が初めての正方位の宮とか・・(643年?)
<飛鳥の宮>
豊浦宮 592年 推古天皇。
小墾田宮 603年 推古
飛鳥岡本宮630年 舒明天皇。
--------------------------------
・ 飛鳥板蓋宮Ⅱ 643年 皇極天皇。645大化改新、655斉明天皇。
・そのあと、
・難波遷都 645年 孝徳天皇。
後飛鳥岡本宮Ⅲ-A 656年 斉明天皇
・近江遷都 667年 天智天皇。
飛鳥浄御原宮Ⅲ-B 672年 天武・持統天皇。
・それから、
藤原京 692年 持統天皇。
・そして、
平城京 710年 元明天皇。(無い例、ナント、平城京。南都)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4、揖保郡の条里制・条坊制。
揖保郡も、「条坊制」らしい。 (詳しくは知らない。)
その方向性は、ほぼ、正方位(東西南北)を向いている?(『北約3度西』)
・真北に向けたつもりでの、測定誤差?
・天の北極星の移動。(地球の歳差運動による?---3度のズレは=600年前?)
(1750年前 ヒミコ の頃:真北と北極星は約9度?ほどズレていた?)
(1400年前 聖徳太子の頃:真北と北極星は約7度?ほどズレていた?)
・当時の磁石の北に合わせた??(偏角のため磁石は真北を指さない。)
・大きく捕らえた揖保川の流れの方向。
・何の意義もない方向。(偶然)
◎イロイロ考えられます。
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5、姫路の条里は、「条坊制」 ?? <古代の、姫路は大都会?>
◎なぜ「条坊制」と言えるのか?
・古代の田んぼに、「何・・条」、「何・・坊」とか書いてある訳ではない。
・古文書(広峯神社文書、大徳寺文書)などに、「右一条」、
「右三条」、「二条・三傍(坊)」などの記載があるのだ。だから・・・
・方向性は「正方位」(東西南北)ではなく、(「北23度東」)である。
・海岸部を第「1坊」とし、北へ「2坊」・・・広峰山の裾は「15坊」
・今の姫路城のスグ東の「播磨国府」跡?を左右条界線とし(異説あり)、
「右1条・・右2条・・・」「左1条、左2条、・・・」
(まるで、京都の右京区・左京区??)
・同様な?都市に鎌倉市がある---鎌倉市の主軸は、北27度東。
「姫路の条坊制」は、よほど、特殊??
===================================
◎ その地図は、「 風水都市 ひめじ 地図z 」
「 左右条界線 地図z 」 を ご検索下さい。
===================================
参考資料ーー
・「白鷺地区の自然地理」(ネット)
・「飛鳥の宮と藤原京」(林部均)歴史文化ライブラリー249.
・「播磨国の国衙をめぐる諸問題」(東郷松郎)
・「姫路市史」
・「ひがし」姫路市立東小学校・創立百周年記念誌(平成14年1月)。
・ 地図
・ 古地図
・ 絵地図(庭山氏) etc・・・
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次回は、姫路の条里の方向性について・・・・予定?
兵庫県・姫路 ・豆石光 記。
1、条里制と、条坊制とについて。
◎ 「条里制」って・・・・?
『条里制』という言葉は、いつ習ったのだろうか?
・現在、小学6年生では習わないようだ。
『小6社会教科書』に、「口分田」「班田収授」「公地公民」は出てくるが、「条里制」は、ないようだ。
(昨日、本屋さんで見てきた、が・・・)
・では、むかし習ったのは、中学校1年生のとき、だったかな??
その後、それ以来、「条里制」に関する私めの知識は、まったく不変であった。約50年ものあいだ!
それに、大きな勘違いも、していた。
すなわち「条里制の田んぼ」は数えるほどで、
大和か?どこかにあるのだろうと思っていた。
◎ まさか、自分が暮らす町の下に、あろうとは・・・
・姫路市の平地のほぼ全域?が・・・・そうだとは!
・そして、「姫路の城下町」の地下にも、いまも眠っている?(かもしれない)、とは・・・
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Wikipediaより。
「条里制」とは・・・
日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。
ある範囲の土地を約109m間隔で直角に交わる平行線(方格線)により
正方形に区分する・・・
「条坊制」とは・・・
中国・朝鮮半島・日本の王城都市に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、
南北の大路(坊)と、東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた、左右対称で
方形の都市プラン。
◎ 田舎の「条里」、都会の「条坊」 って、ことかな??
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2、播磨の「条里制」
その方向性について・・
いろいろあろうかとも思いますが、だいたい、
①揖保郡の条里制ーー北 3度西の方向ーー「たつの市」・「太子町」の条坊制。
(大阪・四天王寺も、北3度西?に建てられているのは興味深い。)
②飾磨郡の条里制ーー北23度東の方向ーー「姫路」 の条坊制。
③加古郡の条里制ーー北40度東の方向ーー「加古川」の条里制→「ひろかずのブログ」さま、など。
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3、やまとは国のまほろばの方位方向性。
・正方位(東西南北)(東西南北)に合わせ始めたのは、いつからか??
・飛鳥の宮Ⅰ期: 舒明天皇の飛鳥岡本宮は、正方位ではないらしい。
・飛鳥の宮Ⅱ期: 皇極天皇の飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)が初めての正方位の宮とか・・(643年?)
<飛鳥の宮>
豊浦宮 592年 推古天皇。
小墾田宮 603年 推古
飛鳥岡本宮630年 舒明天皇。
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・ 飛鳥板蓋宮Ⅱ 643年 皇極天皇。645大化改新、655斉明天皇。
・そのあと、
・難波遷都 645年 孝徳天皇。
後飛鳥岡本宮Ⅲ-A 656年 斉明天皇
・近江遷都 667年 天智天皇。
飛鳥浄御原宮Ⅲ-B 672年 天武・持統天皇。
・それから、
藤原京 692年 持統天皇。
・そして、
平城京 710年 元明天皇。(無い例、ナント、平城京。南都)
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4、揖保郡の条里制・条坊制。
揖保郡も、「条坊制」らしい。 (詳しくは知らない。)
その方向性は、ほぼ、正方位(東西南北)を向いている?(『北約3度西』)
・真北に向けたつもりでの、測定誤差?
・天の北極星の移動。(地球の歳差運動による?---3度のズレは=600年前?)
(1750年前 ヒミコ の頃:真北と北極星は約9度?ほどズレていた?)
(1400年前 聖徳太子の頃:真北と北極星は約7度?ほどズレていた?)
・当時の磁石の北に合わせた??(偏角のため磁石は真北を指さない。)
・大きく捕らえた揖保川の流れの方向。
・何の意義もない方向。(偶然)
◎イロイロ考えられます。
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5、姫路の条里は、「条坊制」 ?? <古代の、姫路は大都会?>
◎なぜ「条坊制」と言えるのか?
・古代の田んぼに、「何・・条」、「何・・坊」とか書いてある訳ではない。
・古文書(広峯神社文書、大徳寺文書)などに、「右一条」、
「右三条」、「二条・三傍(坊)」などの記載があるのだ。だから・・・
・方向性は「正方位」(東西南北)ではなく、(「北23度東」)である。
・海岸部を第「1坊」とし、北へ「2坊」・・・広峰山の裾は「15坊」
・今の姫路城のスグ東の「播磨国府」跡?を左右条界線とし(異説あり)、
「右1条・・右2条・・・」「左1条、左2条、・・・」
(まるで、京都の右京区・左京区??)
・同様な?都市に鎌倉市がある---鎌倉市の主軸は、北27度東。
「姫路の条坊制」は、よほど、特殊??
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◎ その地図は、「 風水都市 ひめじ 地図z 」
「 左右条界線 地図z 」 を ご検索下さい。
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参考資料ーー
・「白鷺地区の自然地理」(ネット)
・「飛鳥の宮と藤原京」(林部均)歴史文化ライブラリー249.
・「播磨国の国衙をめぐる諸問題」(東郷松郎)
・「姫路市史」
・「ひがし」姫路市立東小学校・創立百周年記念誌(平成14年1月)。
・ 地図
・ 古地図
・ 絵地図(庭山氏) etc・・・
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次回は、姫路の条里の方向性について・・・・予定?
兵庫県・姫路 ・豆石光 記。
二つの星とは、ドゥーベとポラリスではなかろうか?
600年過ぎ(7世紀)ごろなら、そうなると思う。
ただし、証明はできない。
★私の「歳差の円の図」は、いま線だらけです。
二つの星を結んで、それが垂直になるときの方向から、「ある一定方向」を決める方法。を、【スペンスのニ星法】とかいうようですね。
ただ、北斗七星とポラリスやコカブ、それにドゥーベなどを用いると、いくらでも線が引けます。
と、いうことは、いくらでも多数の説がつくれますので、おっしゃるとおり、証明になりませんネ。
北斗七星とポラリスは、信仰の対象でもあり、いにしえの陰陽師の秘法が知りたいところ、です。
どこかに記録は残っていないのでしょうか?