播磨灘のメモ帳。

時空を超えて、播磨灘の周辺を徘徊する
姫路の市川のほとりに住む
豆石煌、豆石光と、市川のカッパのメモ帳です。火山豆・

?文書。『万葉集の三山の歌と 播磨 』  ~播磨国風土記1300年~

2018年04月30日 | 万葉
                  播磨灘の入り日。(秋分の日の頃)
                  (本文の某会報への記載は、2005年・平成17年9月です。)
                  (その後、市町合併のため、市町名称が変わっています)   

万葉の三山の歌と播磨。   

 奈良の藤原京に都が移るよりも約30年前、まだ都が明日香
あった(661年)頃に、中大兄皇子(のちの天智天皇)に
よって詠まれた万葉集の「三山の歌」について論じたい。
***************************


<三山歌>
中大兄(近江宮に天の下 治めたまふ天皇)の
三山の歌 一首
  香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき
     神代より かくにあるらし
     いにしへも しかにあれこそ
    うつせみも 妻を 争ふらしき 
  (万葉・巻1-13)

  (反歌1)
  香具山と 耳梨山と あいし時
     立ちて見に来し 印南国原
    (万葉・巻1-14) 

  (反歌2)
  わたつみの 豊旗雲に 入り日さし
     こよいの月夜 さやけかりこそ
  (万葉・巻1-15)
****************************

 この歌は、大和の三山(天香久山、畝傍山、耳成山)の歌で
あるとするのが定説であり、いつの頃からか《大和三山歌》と
呼ばれたりもしている。


 しかし、この歌が大和で詠まれたとするのは無理があろうか
とも思われる。
 なぜならば、記載はあくまでも「三山歌」であって「大和三山
歌」ではないし、なによりも反歌との整合性に問題があるから
である。その解釈に定説が無い。

 そこでこのたび、この歌は大和で詠まれたものではなく、
中大兄皇子が、斉明天皇をはじめ大海人皇子・額田王らと共
百済救援のために筑紫に向かう途上に播磨灘の船上でお
詠みになられたとする説を述べさせて戴く。

1)長歌 について
 まず長歌の「ををし」の解釈に「雄々しい」と「愛しい」とがあ
り、また「妻あらそい」の歌であるから、この三つの山の性別
云々で、いろいろな解釈が為されてきた。定説が成立しない
のである。
 ところで、「いにしへの三山の争い」は「播磨国風土記」
「伊和大神(出雲神)とアメノヒボコとの争い」の話と呼応し
ないだろうか?
 すなわち、三山とは、出雲・大和・新興の海人の勢力ではな
かったか?

 一方、「うつせみの妻」とは、「百済の政権」のことではなかっ
たか??(もちろん、中大兄皇子の念頭にはヌカダノオオキミ
のことも、あったかも知れぬが・・・・・)。

2)反歌1 について
 反歌1 には何故か「印南国原」が登場する。播磨の「印南」
であろう。この反歌には主語がないのであるが「播磨国風土記」
揖保郡上岡里(龍野市:香山里〔新宮町〕の南)の記載には、

「出雲の阿菩大神が大倭の国の畝傍・香山・耳梨の三山が互い

に闘っているとお聞きになり、これを諌め止めようと上京して来ら

れたとき、ここに着いたとき、もはや闘いが止んだとお聞きになり、

その乗っておられた船をくつがえして鎮座なされた。だから、

神阜(かみおか)と呼ぶ。丘の形は船を伏せたのに似ている。」


とある。

 ところが、上岡里は「印南」ではなく揖保郡である。
現在の龍野市神岡には、乗って来た船の残骸(そのような形をし
た山)はあるが、神の痕跡(出雲の神を祀る社)が無いのである。

 その代わりと言おうか、龍野市神岡の約3km南の龍野市福田の
笹山には、これまた「播磨国風土記」の記載通り、神尾山の出雲の
大神・男神(すなわち男性のシンボルを倒立させた形?)の岩、
すなわち「男明神」があり、その約300m西方には、これまた
奇妙な形をした大岩盤「女明神」がある。

 そして、この「女明神」が指し示す真正面には飾磨郡家島町西島
の「コウナイの石」が有るのである。
 この「男明神・女明神」は、その時期は分からないが、自然の
岩に人の手が加わったモノと解釈するのが最も妥当かと思われる。

 また「播磨国風土記」の上岡里の記載は「出雲の男神の到着」の
話が元の話で、「船の転覆」の話はのちの話の付会であろうと私は
思う。




 なぜならば、いくら神代といえども「出雲発播磨行き」の船便は
無かったであろうし、この時代(神代)に船底の丸い大船は、遣唐
使船(遣隋使船)の登場までは、歴史的にも未だ一般的では無かっ
たと考えられるからである。
 (ただし、当時の多くの播磨人が、丸い形?の遣唐使船の船底の
  ような船底を見ていたとすれば、この論は不成立となる。)

 次に、「印南国原」は何処であったのだろうか。
現在では「印南」は姫路より東の旧印南郡や稲美町など加古川市の
周辺を指すとするのが常識であろう。
 しかし、「播磨国風土記」の説話では、出雲の神の留まった場所は
揖保郡である。現在この揖保郡の、太子町・揖保川町・御津町の三つ
の町を合わせて「揖南三町(いなんさんちょう)」と呼んでいるところ
から考えると、揖保川の下流域をも「いなみ?(揖南)」とするのは
一概に無謀な考え方ではあるまい。
 すなわち、「印南国原」は姫路の東は勿論、姫路の西の揖保郡も
含めて・・・・要するに、『印南国原』は古くには「播磨平野全体」を
指したのではなかろうか、と私は考えたいのである。

3)反歌2 について
 反歌2 には、撰者(大伴家持)がわざわざ「右の一首の歌は、
今かむがふるに反歌に似ず。ただし、旧本にこの歌を以って反歌に
載せたり。
」と注記している。
 しかし、上記のように、この歌を筑紫への旅の途上の播磨灘で詠
まれたモノと解するならば、「わたつみの神」から連想される雄大な
海の景色、千種川や揖保川の谷から吹く風によって生じる平行な
吹流しのような雄大な「豊旗雲」、月の光から連想される月読の神、
どれをとっても、飾磨郡家島町への家島航路から西望の播磨灘の
景色に合致するように、私には思える。

 この海の入日の景色は、大伴家持にも分からなかったことを教えて
くれているに違いない。そして、これら「万葉の歌」と(まもなく姫路
市になる)家島町の西島にある「コウナイの石」とが、よく見ると、
また別の面でも、妙に呼応するように私には思えてならないので
ある。
ーーーーー

 以上のように、大和と播磨との関係が「万葉集」や「播磨国風土
記」を介しての仮説から、もし説明がつくとするならば、たのしい
ことと思われる。

 また今後「播磨国風土記」の額田部連久等々(ぬかたべのむらじ)
と、額田部皇女(推古天皇)や額田王(ぬかたのおおきみ)との関係
や、また、三ッ山大祭や、播磨の各所の神社の六角石灯籠の図柄と
「三山歌」との関係なども調べてみたい。

≪参考図書≫
   ・万葉の歌6 兵庫     :中西進・神野富一:保育社 昭61.
   ・大和三山歌・記紀万葉の世界:和田嘉寿男:桜楓社 昭63.
   ・日本書紀         :山田宗睦 :ニュートンプレス。1992
   ・播磨国風土記を歩く  :寺林峻・中村真一郎 神戸新聞総合
   ・「たのしい授業」     :板倉聖宣 :仮説社

   ◎本稿は八十定巳先生(播磨考古学研究会)に
        御校閲を賜りました。深謝いたします。

                記載年月:平成17年7月。 土井治道。


 ~~~コウナイの石探究班~~

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      ~祝・令和 元年~   令和は、万葉集から。
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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
三山歌の散々 (月よりの使者・ヒキガエル)
2014-01-15 23:46:20
三山歌の三山は何?と言う訳で??

「x、y、z 三山歌」とか、
「x山 y山 z山」など、ご検索あそべ!

トンデモナイことです。
返信する
地球怪回・ちきゅうカイカイ? (月よりの使者・嫦娥の妹)
2014-08-27 11:13:20
地球回転のふしぎ?

地球儀回転?

歳差運動の原因は、姉の嫦娥のため?

それとも、三本足の烏の為???


みっつ、三つ。

返信する
嫦娥山 (カッパ)
2016-12-20 08:26:35
なんと!
『嫦娥山』は、どこにあるか?

兵庫県たつの市御津町 室津だけ?
返信する
室津からも見えるコウナイの石 (市川のカッパ)
2022-02-15 10:43:00
以前には見えなかったのですが、

たつの市御津町室津からも「コウナイの石」が見えるようになりました。風光明媚!

不思議なことです。
返信する
三山歌・たつの (姫路・市川のカッパ)
2023-06-22 20:28:12
「かぐやまの里 たつの市」も検索してみてください。
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