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幕末新撰組(池波正太郎)

2014-01-26 12:04:30 | 読書
Kindleを購入して、またまた読書をできるようになりました。

文庫本では目が疲れてしまうので・・(>_<)

今はお昼休みの20分~30分を読書時間に充て、充実した読書ライフになっています。

 今回第一弾として、幕末新撰組(池波正太郎)の読後感を!

新撰組二番隊長 永倉新八の新撰組に青春をかけたお話。

あまり有名ではない永倉新八ですが、江戸っ子のさっぱりとしたこだわりのない性格は

その命を助けるに十分な性格だったみたいです。

 もちろんその剣術も優れ、亡くなるまでその衰えを感じさせない腕前は

新政府になり、徳川慶喜や松平容保など許されることになり、新撰組に名を連ねた永倉新八も許されたのですが・・

「許すとは何事か~~」と怒りをあらわにしたようです。勝って官軍とはよく言ったものですね。

青春を国のために命をかけたのは、外的から国を守らんと思えばこそ・・同じ志の若者が切りあい、殺し合いをしたのです。

とにかく許された後、剣術により身を立てたようです。

松前藩の江戸詰だったため、領国の事はよく知らなかった新八だったのですけど、後には北海道大学で剣術を教えたりされたみたいです。

 激烈な新撰組の隊規律の中で、仲間の助けで難を逃れることもあったようですが、その人柄によるところが大きかったようです。

新撰組の中で同志が一丸となって突き進む。命のやり取りの中で恋をし、子供ももうけています。

 多くの優れた人材が京都の中で殺し合いをしなくてはならなかったのか?

新撰組と勤皇派がなぜ戦ったのか?

新撰組と勤皇派の考えの違いは?など疑問がいっぱいあります。

京都の治安を目的に召集された新撰組が天皇家に仇するわけもなく、勤皇派もまた天皇を押し立てて日本の再生を目的にしたはず。

そのやり方の違いだけで、多くの若者が散っていったということです。

 愚かだと思うのですけど、時代の流れの中、避けきれない激動だったと思うほかないのでしょう。

その激動を生き抜いた永倉新八は蝦夷の地に電気が来た時「あのころ・・あの血なまぐさい時代のことを

考えると、よもや、日本が、ここまでこぎつけようとは思わなかった・・・もう毛唐人どもと一緒になって何でもやれる。

ここまで来たのも、みんな日本人が、いやその国民がえらいからさ。むかしのように政治家が国民を踏み台にして、やに下っちゃアいけねえ。

そんなことをしたら元も子もなくなるからなあ」と。

腰に近いあたりを叩き、維新戦争のときうけた傷痕を「わしア、これでも御国のために命をかけて、はたらいて来た。

この傷痕は、わしの誇りだぜ」と、亡くなるとき「悔はない」と一言を残し永眠されたようです。

 自分の思うまま、すべてを剣術にかけ、駆け抜けた青春ですね。

私は・・悔いばかりの青春かな(^_^;)





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