南米大陸の西部を縁どるアンデス山脈には、“極上の繊維”を持つ
ラクダ科の草食獣・ビクーニャが生息している。カシミヤより細く
柔らかい毛を持つことから、古の時代から絶えず人間に毛皮を狙われ
続けてきたビクーニャ。
この動物の絶滅の淵から救ったのはWWFなどのNGOや各国政府が
手を携え、強力に保護を進めた成果にほかならない。
1960年代にペルーで始まった、保護活動の軌跡を追う。
十数年で大激減
ビクーニャはペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリにまたがる
アンデス山脈の高山地帯に広く分布している動物で、1500年代には数百万頭が
生息していたといわれる。その体を覆う細く滑らかな毛は高級繊維として
好まれ、古代インカ帝国の時代から長く、しかし種の存続は脅かさない範囲で
利用され続けてきた。ところが近代に入ると、銃器の普及や欧米の需要の
高まりから、生息地の国々では乱獲が横行。
1950年代には40万頭いた個体数は、1960年代前半には5,000~1万頭と、
20年足らずの間に95%以上が減少した。
生息国の中ではペルーがいち早く法の規制に着手したものの、高値がつく
毛皮の魅力は大きく、効果は上がらなかった。
折りしも1964年、WWFの活動を推進するために世界各国を回っていた
WWFアメリカの理事フィリップ・K・クロウはペルーの地に降り立った。
そしてテリー大統領に対し、ビクーニャ保護区設立の必要性を訴えたのである。
自然保護に理解の深かった当時のペルー政府の動きは素早く、
ペルー動物学会会長のF・ベナビデスや、かつて中東でアラビアオリックスの
保全に力を発揮したイアン・グリムウッド少佐を中心に計画は進んだ。
1966年、地上絵で有名なナスカから東へ約60キロの地域に、
パンパ・ガレラス国立ビクーニャ保護区が誕生。
翌年にはWWFの命を受けたアメリカ・ユタ州立大学のフランクリン教授ら
が赴き、ビクーニャの個体数と、謎に包まれていた生態について詳しい
調査が行なわれた。調査により、1967年にはわずか814頭しか確認されなかった
どう保護区内のビクーニャは、1970年に1,079頭にまで増えたことが判明。
保護区設立の効果が確認された。
国境の限界
ペルーで手厚い保護が進む一方で、他の生息地、特にボリビアでは、
毛皮の加工や取引には法規制がなかったことから、ビクーニャの減少に
拍車がかかっていた。また、他国で密漁された固体が持ち込まれれば、
その加工品はボリビアから正式に輸出できることになる。
ビクーニャを救うには、全ての生息国における保護の強化、並びに消費国の
規制が不可欠だった。
WWFインターナショナルの理事に就任していたF・ベナビデスは、
1968年にボリビアを訪問。バリエントス大統領に対策を働きかける一方で、
WWFはアメリカ、イギリス、イタリア、フランスなど、ビクーニャ製品の
需要の高い国々に法の整備を訴え始めた。これを受ける形で、1970年には
アメリカとイギリスが相次いでビクーニャの毛皮の輸入禁止を発表するなど、
ビクーニャ保護の機運は国際社会でも高まっていった。こうして、ついに
ボリビア政府も重い腰を上げた。1971年、首都ラパスから約160キロ北西、
ペルーと国境を接する地域にウーリャ・ウーリャ国立保護区を設置。
ボリビア初の国立野生生物保護区の誕生であった。
WWFはその後、生息地でのビクーニャの調査や保護区の管理運営など
支援を継続してきた。こうして1970年には生息国全体で1万頭程度と
見られていた個体数は、1980年には7万~7万7,000頭にまで回復。
2008年には34万7,273頭にまで増え、絶滅の危機はひとまず回避する
ことができた。
ビクーニャの飼育繁殖は難しく、現在でも群れを囲い込んで毛を刈り、
その後再び野生に返すという方法がとられている。密漁や違法取引も
駆逐されたとはいえず、まだ課題は残されたままだ。しかし、短期間で
国際社会が手を携え、ひとつの種を救ったことの意義は大きい。
あらゆる面でグローバル化が進む現代社会で、野生生物の保護にも
国際的な協力はますます重要になる一方だ。
ビクーニャ保護活動は、今後の自然保護活動のあるべき姿を示す一つの
道しるべだといえるだろう。