このサイトでは『便法』という言葉を採用することにします。
便法は、辞書に寄れば『当面の間に合わせの法』という意味です。
もっともっと法論で認知・使用されるべきであろう言葉に思えます。
法はあらゆる人のあらゆる場面・社会・時間・時代に関わってくる。
それほど無数の分野・方面で関わり合っているのが法なのですが、
只、なんでも過分に有るように見えると混乱する私たち人間らしい。
実際、法は人々が後ずさりしたくなるように難しく見えてきたらしい。
それに追打ちをかけて素人に法は判らないと言ってきた法曹関係。
ちょっとした質問をしても、煙に巻く答が返ってきたのも事実でした。
こうして法への庶民の口出しは封ぜられ、門戸も開かれなかった。
法学者による法の独占が長年続いたのが日本の実態に違いない。
インターネットでみた数年前の法学界はまったく荒んでいたのです。
法を語るに見せて現実は、彼らは詭弁を吐いて得々していました。
よそ者に内部事情を見られては一大事とばかりに、躍起にみえた。
詭弁の遣い手の立ち位置は邪悪の側ですし、それは当然ですね。
詭弁の遣い手が法律を編み出したと解れば、闇は晴れるのです。
その法律で国民と社会を支配するのを、『法の支配』と言うらしい。
人間を支配する思想を『覇権思想』というとは、すでに述べました。
覇権思想は人権・人間の尊厳を真っ向から否定するものでしょう。
法の支配の思想は正義でなく邪悪側。もはや法曹界に言葉は無い。
これでは今までの日本は民主主義でなかったことは明らかです。
さて、
こう述べてきて日本の法律をどうすべきだろうか?
魑魅魍魎が狂い弄んだ法律として廃棄する考えかたもあるけど、
ここは市民のセンスを生かして、「便法」として一括りしておきたい。
今日を生き延びるためには殺人を認める日本国民の一人なれば、
今日を生きる悪知恵としての法律・詭弁を「便法」に仕分けしたい。
已むを得ぬ憂き世なれば、水清くして魚棲まずをも受入れるべしか。
自由を手に入れても餌をあてがわれるペットに憬れる日本人かも。
ノラ猫・野良犬の死に様を見せられて、一人立ちに恐れを抱くのか。
ペット志向に染まり切った人たちを哀れに思う心を失いたくない。
平和憲法をプレゼントしてもらいながら、宝の持ち腐れ状態でした。
日本と同じように自由をプレゼントしてもらったのは南ア共和国。
身から出た錆、自業自得に違いなくても、行き倒れはいけません。
そういうことですから日本は、根本から換えなければならない。
「便法」の対語には言わずと知れた清き水が入るのでしょうなあ。