・大根引き大根で道を教へけり 一茶
これは俳句だろうか? 川柳だろうか? 一茶だから俳句?
そんな馬鹿な説明で納得しますか? 一茶でも「吐く」だろ?
芭蕉の世界は「吐く」から「詠む」まで雑ぜこぜだと教えたろ?
五七五型・定型・不定型・有季・無季・切れ字‥決定的違いか?
文語・口語・対象(自然・人事)・歴史が違う? そんな馬鹿な。
この程度の誤魔化しで済ませると思うとはレベルが低すぎるぞ。
芭蕉の世界は「かろみ・滑稽さ・わび・さび」‥何でもありだ。
朝の挨拶・眠って見る夢・白昼夢・虫・病気・喧嘩‥食事もだ。
もっともらしく繕っても嘘はいけない。嘘を教えてはいけない。
芭蕉の世界を俳句と川柳に便宜的に分けるのは悪い事じゃない。
つまり、俳句も川柳も芭蕉の世界だって知らなきゃいけないよ。
長い平均台の上流は詠み、下流が吐くだと考えたら理解は早い。
・大根引き大根で道を教へけり 一茶
この句に「かろみ・滑稽さ・吐く」を感じれば川柳に違いない
この句に「風物・季節・美・詠み」を感じれば俳句に違いない
そうなるとこれは詠み手でなく読み手の問題・能力・課題だよ
大根で道を指し示すとは怪しからん‥これが川柳の感覚になる
もう大根の採りいれの時期なんじゃ‥これは俳句の感覚になる
川柳の感覚も俳句の感覚も具えているのが人間に共通する事実。
しかし機嫌が悪いときは罵りたい(吐きたくなる)のが人間だ
機嫌が良くてこそ冷静に判断したり他者に鷹揚になれる人間だ
一人の人間の目線でも日により・時間により・状況で変化する。
だから人間味が増すと人を無闇に咎めない・許せるようになる
そして人を高い境涯に導いていきたい・一緒に行こうと考える
つまり、平均台の下流から上流へ段々と上って行けたらいいさ。
己だけ甘いもの食おうとか、蹴落として出世しようとする奴は?
俳句の心・詩心が具わっていない出来損ないということになる。
そんな出来損ないの心・セコイ心から自由になろうじゃないか?
お下品な笑い → 冗談 → ユーモア → 思いやりの世界
囚われている醜い心はもう解放して羽ばたかせてあげませんか?
爪はじきされた悲しい経験に学んだ芭蕉は俳句・川柳を作った。
それで今あなたは平均台の入口近くですか? 出口近くですか?
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