俳句は詠むで、川柳は吐くの説明が分りやすいと想った。もっと云えば、
俳句は(+)ベクトルだが川柳は(-)ベクトルだ。普通、(+)はポジティブ思
考で、(-)はネガティブ思考だが詩人の心は自在であり窮屈に囚われない。
長い長い平均台、渡りきれば面白そうな世界が笑顔でまってるんだな
若い芭蕉はそんな世界で愉快に遊んでいる己の姿を夢に見たんだなあ
楽勝に想われた平均台、こんなのカンチコチンと言ったかどうか‥
人気のケーキ屋や広場の入口に長蛇の列が出来てるの見掛けるでしょ?
そんなもんだよ、誰でも面白そうなところで遊びたい楽しみたいよね?
長い長い行列もナンのその、数時間でも並ぶくらいヘッチャラでしょ?
それは芭蕉もおんなじだった、平均台には誰でも上がれる訳じゃない
選ばれた人‥芭蕉。有能な芭蕉はスルスルスルと先っちょまで行った
身軽にホイ、広間に座る積りが平均台の先っちょにジャニーズがいた
ジャニーズを蹴とばして行ける? そんなこと恐れ多くて出来ないさ
石原Jr・小泉jr・岸信介jr・吉田茂jr・鳩山jr‥そんな感じ分るよね
芭蕉もjrのパシリしたりモギリやったり‥そして早々に見切ったのさ
単に見切ったのじゃない‥平均台の周囲には羨ましそうな目・目・目
その人らを見て「みんな遊びたがってるんだな」と感じた優秀な芭蕉
そうだ、みんなに遊び方を教えてあげよう‥と考えたから芭蕉は偉い
だが彼らは河鹿なんて高級なものは知らないから、古池の蛙にしたさ
芭蕉は河鹿を知ってたけどね‥どや、オレ河鹿知ってるぞ、偉いだろ?
そんな馬鹿は今の日本に多くて「オレ金持ち」って言う馬鹿いるだろ?
金持ちなら庶民のなかに入りたがるなよ、やっぱ貧乏根性なんだよね
芭蕉は庶民レベルに下りてきて「蛙合」となり、古池に発展したんだ
それが理解できたら「上位者が下位者に合わす」芭蕉俳句と言えるよ
すなわち、俳句の師匠は弟子のレベルに下りる才覚がなきゃいけない
平均台の先は和歌の入口だ、その先の広間は本格的な和歌の世界だよ
すなわち、すなわち、平均台の入口からは詠む世界観が広がっている
それなら平均台のすぐ周囲は? そりゃあ羨ましがる世界観でしょう?
広間のなかを観たい観たいと首伸ばし・背を伸ばしして覗き見る世界
タメ息吐いたり、ののしりあったり、喧嘩したり、それでどれが好い?
ののしる連中は駄目だよ、喧嘩する連中もダメだろ? タメ息が好い
タメ息吐いて「いっしょにやりたい・やりたい」の人々に的を絞った
いきなり詠むなんて無理でしょ? タメ息「吐く」レベルで好いのよ
すなわち、芭蕉の世界は「吐くレベル」から「詠むレベル」まで含む
吐くも詠むもゴッチャ雑ぜの芭蕉の弟子たちと理解したらどうかしら
俳諧人口が増えてこそ吐くとか詠むとか仕分けすることも可能だよね
ここまでは分かったと思うけど、仕分け方が未だよね。
どんな仕分けが好いのだろうか? 私も考えてみます。
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