daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

座の文芸の壁(2)

2014年10月18日 | 詩篇
            

「座の文芸」を調べていて次のアドレスを見つけたのでご紹介しておく。
     連歌・連句(れんが・れんく) (和歌・俳諧)

私なりの理解で述べるなら「座の文芸」の源流は既に天岩戸にあった。和を乱したスサノオがいてアマテラスは天岩戸に隠れたが神々は心を一つに和して宴を催し・詠ってアマテラスを呼び出すことに成功した、それで世界は明るさを取戻したという。

上記アドレス『古事記』『日本書紀』記載のイザナギ・イザナミの子がアマテラスやスサノオであってみれば天岩戸の催しはイザナギ・イザナミの伝統を引継いで当然で、座に集い・唱和した記憶は忘れ去られても伝統は「座の文化」として今に引継がれているのでしょう。

神話なんか信じられないとあなたが思うのは構わないが、和の伝統・座の文化を否定する意味はなく、それを「座の文芸」に仕分けすることで文人たちに納得されるのであれば、それに反発する意味もまた無いのではなかろうかと‥これは私の想いです。

ともあれ、和の文化・座の文化の出発点は「心を和して唱和し詠った」ということを確認するとき、座の文芸の意味をあなたも再確認したのではないだろうか。すなわち、座の文芸の目的は私たちが考えているような軽いモノでなくて実に奥が深いことになる。

天岩戸の前に集まった神々は酒を供え・食べ物を供え・唱和した詞を供え・舞いを供え・座に和した悦びの心をイザナギ・イザナミに供えたであろうと私には思われる。その尊い伝統を引き継ぐ座の文芸であれば誰が軽々に批判などをできるだろうか。

座の文芸の伝統として残すべきは残し・新たに興すべきは興し・あるいは復旧・復興を図るべきは当然であれば文芸・文学界は挙って協力を惜しむものでないのはこれまた当然なのです。神々が産み広めた倭の国は文化立国たるべきは当然でないだろうか。

そうすると座の文芸の壁があるなら、それは私たちの意識にあるに違いない。

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