(引用文)
切符をもらったので、久しぶりに上野音楽学校の演奏会を聞きに行った。 あそこの聴衆席にすわって音楽を聞いていると、いつでも学生時代の夢を思い出すと同時にまた夏目先生を想い出すのである。 オーケストラの太鼓を打つ人は、どうも見たところあまり勤めばえのする派手な役割とは思われない。 何事にも光栄の冠を望む若い人にやらせるには、少し気の毒なような役である。 しかし、あれは実際はやはり非常にだいじな役目であるに相違ない。 そう思うと太鼓の人に対するある好感をいだかせられる。 ロシニのスタバト・マーテルを聞きながら、こんなことも考えた。 ほんとうのキリスト教はもうとうの昔に亡(ほろ)びてしまって、ただ幽(かす)かな余響のようなものが、わずかに、こういう音楽の中に生き残っているのではないか。 (大正十二年一月、渋柿)
(大正十二年一月号掲載文を読んで)
寅彦は上野音楽学校の演奏会を過去にもう何べんも聴きにきたという。
この日の演目はロッシーニ作・宗教曲スターバト・マーテルだそうな。
ゴルゴダの丘で十字架に架けられたキリストの傍らで母マリアが嘆く。
この情景に触れた者はマリアと同じ悲しみ苦しみを味わうべきなのか。
キリストが受け・マリアが受けた苦しみを人々は等しく味わうべきか。
心身は傷ついても、それでなお怒り狂うことなく冷静でいる事を願う。
演目スターバト・マーテルは凡そ、そのような内容であろうかと思う。
寅彦は曾祖母の悲しみをマリアに重ね合わせて想像していたのだろう。
寅彦の父・利正が弟の首を刎ねたときの光景を曾祖母はその場で見た。
罪のない孫が死罪を言い渡されて死ぬのを曾祖母の力で止められない。
寅彦は演目が奏でられている間、神も仏もあるものかと思っていたか。
キリスト教はとうの昔に滅んで残響だけが響いているように感じたか。
そうしてオーケストラを眺めるとき、太鼓叩きにさえ意味を感じよう。
演目にさして参加しているように見えない太鼓叩きだが意味はあろう。
もしか、寅彦にも太鼓叩きぐらいの働きは出来ると考えたのだろうか。
確かに大概の文学者は非力かも知れないが、太鼓ぐらいは叩けるのだ。
肉体が滅びる時にはどうか魂に栄光の天国を与えてくださいと祈るか。
太鼓を叩いて叩いてたたいて、悔いなく生きて、天国の門をくぐるか。
そうすると寅彦の体内を憤怒の嵐が激流となり、逆巻き流れていたか。
なるほど、寺田寅彦への関心がこのところ薄らぎかけていたのだが…。
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