長谷川櫂氏> 一物仕立てと取り合わせにそれぞれの変形を加えると俳句には次 の四つの型があることになる。斜線/は切れの位置を示している。 ①一物仕立て(句中の切れなし) 【例】/行春を近江の人とおしみける/ ②一物仕立ての変型(句中の切れあり) 【例】/石山の石より白し/秋の風/ ③取り合わせ(句中の切れあり) 【例】/やまざとはまんざい遅し/梅花/ ④取り合わせの変型(句中の切れあり) 【例】/さまざまの事おもひ出す/桜かな/
①③④の例句については、櫂氏の説の通りでしょう。
②の例句「石山の石より白し秋の風」は、取り合わせの変型です。
櫂氏は論理的な証明を出来ず「一物仕立て」と勘違いしているのです。
そういう事なら、②一物仕立ての変型の存在そのものが疑問になる。
すなわち、現状では三つの型しか見つかっていない事になります。
(イ)一物仕立て
(ロ)取り合わせ(切れ字がはっきりしている)
(ハ)取り合わせの変型(切れ字が明確でない)
* 古池や蛙飛こむ水のおと
>これは③取り合わせなのか②一物仕立ての変型なのか。
この「古池や」の句について、私は「取り合わせ」と説明済みです。
古池に没頭して遊んでいると赤腹(いもり)が姿を現したりしますよ。
水面に浮く枯れ葉が突然動いたりすると、背中に緊張がはしります。
古池には未知の生命が宿っているという思いが強いのかも知れない。
* 太陽や蛙飛こむ水のおと
上五を「太陽や」に変形してみたら如何でしょうか。
春の明るい太陽の下で水遊びしている蛙たちは、一幅の絵にみえる。
見上げる空に、慈光を湛えて微笑む太陽…一物仕立てに見えますね。
読み手は「古池」に遊び「中七下五」の状況に想像を廻らして遊ぶ。
只、句の場面は凡てが密接に感じられるために一物仕立てに見える。
それゆえ、多くの人には「取り合わせ」に思えないかも知れません。
俳句「切れ字」の宇宙に入った読み人たちは、思う存分に遊びます。
その宇宙は詠み手が創造した空間ですから、詠み手は当然遊びます。
その宇宙は、読み手は読み手でまったく自由に遊べる空間なのです。
この俳句の切れ字に創られた宇宙こそが「取り合わせ」の特徴です。
いっぽう「一物仕立て」の句は詠み手が隅々まで仕上げた世界です。
即ち「一物仕立て」の句に読み手が工夫する余地はないと云えます。
* 田一枚植(うえ)て立(たち)去る柳かな
>この句…①一物仕立てなのか④取り合わせの変型なのか。
この句は「取り合わせ」になっています。
「上五中七」の節と「下五」の節の間に宇宙空間が設けられている。
読み手は「田一枚植て立去る」の場面で想像力を豊かに廻らします。
そして「柳」で想像し、二つの節の宇宙に遊ぶ仕掛けになっている。
結局、自由に想像して遊べる宇宙が「取り合わせ」の句の特徴です。