daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

不要な言葉などない

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

>ここで芭蕉が何よりもいいたかったのは蛙が鳴いたのではなく飛んだということだったのであり、それはこの「蛙飛こむ水のおと」でいい尽くされている。

芭蕉が「古池や」で言いたかったのは「蛙が飛んだこと」だろうか?
そう結論づける時、芭蕉の人格を貶め・卑小化しはしないだろうか!?
細心の注意を払った明快な論理を以った自説の展開をすべきと思う。

「蛙が飛んだこと」を言いたかったと出来る場合が無い訳では無い。
蓋し、基角の「山吹」を否定する為には「蛙が飛んだ」となります。
実際、鳴く蛙は山吹に落ち着き、飛ぶ蛙は古池に落ち着くでしょう。

だが何よりも重要なことは、
基角だけを目的に芭蕉の「古池や」が詠まれたと考えるべきでない。
芭蕉の句「古池や」は基角を対告衆として詠まれたかも知れないが、
真実は全ての読み人の耳目に適い・耐えられる俳句を目的に詠んだ。

(もっと詳しく述べるなら)芭蕉は「水のおと」がしたと詠んでいる。
どんな水の音かと云うと「蛙が水に飛こんだ」音だと詠んだのです。
どんな場所かというと「古池」だと詠んだのです。

「古池・蛙・飛こむ・水の音」のどれ一つも欠かすことは出来ない。
これらの中のどれ一つが欠けても、この俳句は満足出来ないのです。
上記・切れ字「や」が抜けていますけど、必要不可欠な「や」です。

第二章は切れ字「や」について述べられているようです(念のため)。


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