daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

雨ニモマケズ(4)

2014年09月18日 | 宮沢賢治-鑑賞

同姓同名かハンドルネームかハタマタ本人か私には分らないが
「入沢康夫」名の記述(茶文字)を見つけたので載せておく
・「詩は感想や印象を述べたり、演説をしたりするためにあるのではない」というのが、以前からの私の実感。

面白く想ってここに紹介するのだが、このフレーズ、
言わんとする所は「これは詩ではない」との自己主張だな
確かに自己主張のとおりだが、それなら詩とはなんだろう?
詩を語る場としていなければ、これ以上の詮索は無用だな。


    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇ 



件の入沢康夫氏は詩を語り合いたい訳でなくても構わない
詩人・宮沢賢治は私たちに詩を語りかけては待ちつづけた
詩人とはそういうモノであり、コピーライターとは異なる
コピーライターは売れてナンボの商品作りの職人だと思う
職人仕事に似たモノに教育があり、ニーズに合わせて作る

詩人は然にあらず、心のなかに湧いた対象への想いを綴る
己が子を元気づけようとして語りかける母の言葉は詩だろ?
危険な行為をする己が子を悲しみ漏らす声は詩になるだろ?
もちろんそれは己が子でなくて生徒でも友でも構わないが
詩人の心の発露に触れて、人間は素敵だと想う人は幸いだ

詩をつくるとき詩人は語りかけるように詠うのではないか?
判じ文を作って嬉しがっても通じなければ意味がないだろ?
想いを語りかけるなら相手に通じなければ意味がないだろ?
そりゃあ、一人で合点する分には誰に通じなくてもいいさ?
判じ文はクイズの遊び、だからってそれが悪いことはない

個人的にとか遊びで楽しむのは入沢康夫氏の勝手でしょう?
要は適切な資料を見つけることも科学者の才能なんだよね?
賢治が遺した膨大な量の詩・童話・情報の仕訳も大事だね?
氏は私がしなかった適切な資料を出して仕訳した有能な人
その資料なしに、私は賢治への冒涜を冒涜と言えなかった

氏が探しだした資料は「ヒドリ」を覆さない資料になった
つまり「ヒデリ」説の根拠のなさを証明したと言えそうだ
入沢康夫氏が挙げた資料を読めば誰でも真実が分かる筈だ
その資料を根拠に「ヒデリ説」にこだわるのはムリがある
私にはそう受取れる重要な資料‥これを科学的検証という

そして科学的検証の結果も矢張り「ヒデリ」が妥当なのか?
いやいや賢治がメモったように「ヒドリ」で十分となるか?
それをイーハトーブといい、ファンクラブといい、ナンデ?
どうしてあなたがたは自分で検証しようとしないのですか?
検証は入沢康夫氏に全て委ねてますなら、それは駄目だろ?

入沢氏が出した資料は厳然として残っているからね?
検証する気になればいつでも誰でも自由に検証できる筈だ
入沢氏が作った資料を入沢氏が再検証するのは当然であり
その資料を受けて賢治ファンクラブが検証するのも当然だ
入沢氏は持てる能力をフル稼働して検証するのはいいし、

それで氏に間違いがあっても非難する意味はない
科学は間違いを正しながら進歩していくモノなんだもの
入沢氏の功績は「素材の発見」にあると私は考えている。

すこしの日にちを置いて
件の素材をココで検証していきたいと思います。

明日19日は子規忌‥なにか句を詠めたら好いのだが。


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