(矢原 徹一:九州大学大学院理学研究院教授)
英国のボリス・ジョンソン首相が、流行が収束するまでに人口の60%が感染し、27万人が死亡する予測を発表し、「感染が広がるにつれ、実に多くの家族が身内・親友を失う」という演説を行ったことで、英国だけでなく日本にも大きな不安が広がっています。日本でも多くの人が感染して集団免疫ができるまで流行は収束しないという悲観的な予想を語る識者がいます。しかしその理解は間違っています。
また、日本は諸外国に比べて検査数を少なくすることで実際の感染者を少なく見せているという批判がマスコミで広く報道されていますが、この理解も間違っています。
この記事ではこれらの誤解を正したいと思います。いま行われている検査や現場での対策は、正確な科学的理解にもとづくものです。多くの国民がこの点を理解し、感染拡大の阻止に向けて協力することが、国内における新型コロナウイルス制圧というゴールへの王道です。
■ 感染の動態を記述する方程式
まず、疫学のイロハのイである、「SIRモデル」について説明します。「流行が収束するまでに人口の60%が感染」するという予測はこのモデルにもとづくものです。これを理解せずに感染対策について議論することはできません。現状ではこのモデルについての知識が普及していないため、マスコミやSNS上で不確かな予想が飛び交い、国民の不安を拡大しています。報道関係者、科学者、国会議員、官僚を含むすべての関係者に、このモデルについての基礎知識を持っていただくことが重要と考えます。
SIRモデルのSとはSusceptible(感受性者:ワクチンがない場合は非感染者とみなしてよい)、IとはInfectious(感染性者:感染力のある感染者)、そしてRとはRemoved(除去者=病院に隔離された人+抗体を獲得して感染しなくなった人+死亡者)です。
ある日(t)の、それぞれのグループの人数を、S(t), I(t), R(t)と書くことにします。S(t)人の非感染者と I(t)人の感染者が接触して新規感染者が発生します。その際の感染率をbとします。一方で感染者の一部が病院に隔離されます。隔離される割合(除去率)をcとします。この流れを以下の図にまとめました。
(* 配信先のサイトでこの記事をお読みの方はこちらで本記事の図表をご覧いただけます。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59778)
この流れ図にもとづいて、「感染者数I(t)の変化率 I’(t)」は以下の式であらわされます。
I’(t) = bS(t)I(t) - cI(t)
bS(t)I(t)はその日に新たに感染する人の数、つまり「感染者増加率 S’(t)」です。cI(t)はその日に新たに除去された人の数、つまり「除去者増加率 R’(t)」です。
I’(t) = S‘(t) - R’(t)
この式の差し引きがマイナスになれば、感染は収束に向かいます。したがって、感染対策の目標は、S‘(t) < R’(t) という状況(感染者増加率より除去者増加率が大きい状況)をできるだけ早く実現することです。
下の図は、SIRモデルにもとづくシミュレーションの一例です(西浦博・稲葉寿 2006 感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題 統計数理54:461-480より引用)。
非感染者数S(t)は感染拡大とともに減っていきます(図の右下がりの曲線)。一方で、除去者数R(t)は時間とともに増えていきます(図の右上がりの曲線)。感染者数I(t)は、非感染者数S(t)が多い感染拡大初期には増えますが、やがて非感染者数S(t)が減るため、つまりウイルスが感染する相手が減るために、ピークを境に減り始めます。このため感染者数は釣鐘型の曲線を描き、やがて感染の流行は収束します。
上記の図のシミュレーションでは、除去者人口は流行が収束した時点で80%を超えています。「流行が収束するまでに人口の60%が感染」するという英国でのシミュレーションはこれよりも控えめです。
このように、多くの人が感染することで感染が収束する効果を「集団免疫」と呼んでいます。では、新型コロナウイルスによる感染は、集団免疫ができるまで収束しないのでしょうか? 実は、集団免疫ができる前に感染を収束させる方法があります。感染拡大初期に S‘(t) < R’(t)、つまり、bS(t)I(t) < cI(t) という状況を実現できれば、多くの人が感染する前に(上記の図の感染者数のピークが来る前に)感染を制圧することができます。ここでカギを握るのが、感染率bです。これを低く抑え込めば、感染者増加率 bS(t)I(t) が除去者増加率 cI(t) を下回り、感染者は減り始めます。日本での感染対策は、このようにして感染拡大初期に感染を抑え込む戦略をとってきました。そして感染抑止成功の可能性が開かれつつあります。
■ 感染者増加率を減らせる展望は出てきている
下の図は、3月に入ってからの新規感染確認者数の推移です。
3月6日以後は、増減を繰り返していますが、増加している状況にはありません。この結果は、感染者増加率がほぼ一定であることを意味します。感染者増加率が減り始めれば、感染は収束に向かいます。現状はその段階には至っていませんが、感染者増加率を減らせる展望は出てきています。
第1に、感染確認者間の接触の有無のデータから、感染確認者の8割は誰にも感染させていないことがわかっています。このため、感染者ひとりが新たに感染させている2次感染者の平均値は1を下回っていると考えられます。この状況が続けば、感染は収束に向かいます。
第2に、感染者を増やしている大きな要因は、閉鎖的な狭い場所での集団感染であることが確認されています(全国クラスターマップ)。感染者がもっとも多い北海道ではライブバーと展示会、感染者数2位の愛知県では福祉施設とスポーツクラブ、感染者数3位の大阪府ではライブハウスでの集団感染が、感染者数を押し上げています。また、感染者が急増した兵庫県では、医療施設、介護施設、こども園で集団感染が起きています。このような集団感染を防げれば、感染は収束に向かいます。
第3に、手洗いやマスク、パーティなどの自粛、病院への安易な通院を控える、などの市民による予防行動が功を奏して、感染率bはかなり低く抑えられていると考えられます。新型コロナウイルスについての直接的な証拠はありませんが、インフルエンザウイルスの感染者数が激減しています。東京都の定点観測データによれば、2019年ピーク時の感染者に比べ、今年(2020年)の1月ピーク時の感染者は23%にすぎません。例年は12月から1月にかけて感染者数が急増しますが、今年は4割程度減少しました。
以上のような結果から考えて、今実施している対策を徹底し、市民がさらに予防行動に協力すれば、感染は抑え込めると考えられます。
専門家会議が2月24日に「ここ1、2週間が急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際」との見解を示したとき、「ここ1、2週間」の間に新規感染確認者数が減少に転じるだろうという予想があったのではないかと思います。私もそのように予想していました。この予想が実現せず、新規感染確認者数が図のように横ばい状態である主要な理由は、各地での集団感染が続いたことです。兵庫県の例のように、これまで感染確認者数が少なかった県でも集団感染が起きて、感染者が大きく増えてしまいました。今後は、このような集団感染を起こさないことが、流行の収束を実現するうえでの鍵です。
この点で、医療施設での集団感染が続いている事態を重く受け止める必要があります。病院は集団感染のホットスポットなのです。「風邪で発熱しても3日間はできるだけ自宅で安静に」という方針に批判はありますが、病院が感染地点になっている現状を考えれば、これは正しい方針です。ただし、風邪以外の病気が疑われる場合や高齢者・基礎疾患を持つ人が発熱された場合には、すみやかに病院に行ってください。
■ 日本でのPCR検査は不足しているとはいえない
「日本ではPCR検査が十分に行われていない、本当は感染者がもっといるはずだ」という指摘があります。検査は本当に不足しているのでしょうか?
私は、ほぼ必要十分な検査が行われていると判断しています。PCR検査体制を強化して、より短期間に検査結果が出るようにする対策は必要です。とくに兵庫県のように集団感染が多発して感染者が急増しているところでは、PCR検査体制を強化する必要があります。しかし、感染者を隠すために検査をしていないという陰謀論には根拠がありません。韓国などに比べて検査数が少ないのは、本当に発症者が少ないからです。
この点を理解していただくために、SIRモデルを拡張した「SEIRモデル」について説明します。このモデルでは、E(Exposed:感染力を持たない未発症感染者)を考慮に入れています。一方で、Iは感染力を持った発症者数です。
「未発症感染者数E(t)の変化率 E’(t)」と「発症者数I(t)の変化率 I’(t)」は以下の式であらわされます。aは発症率で、潜伏期間中の感染者が発症する割合を意味します。
E’(t) = bS(t)I(t) - aE(t)
I’(t) = aE(t) - cI(t)
SIRモデルと同じく、bS(t)I(t)はある日(t)における新たな感染者の数(1日あたりの感染者増加率)です。このうちaE(t)、つまり発症する人を除いた人たちが未発症感染者の増加率 E’(t) ということになります。1日あたりの発症者純増加率 I’(t)は、新たな発症者数(発症者増加率)aE(t)と、新たな除去者数(除去者増加率)cI(t)の差です(下の図)
検査拡大を主張されている方の中に、未発症感染者数E(t)がどれくらいかを把握すべきだ、あるいは発症者数I(t)に対する未発症感染者数E(t)の比率を知るために検査が必要だ、と考えられている方がいらっしゃいます。
しかし、感染拡大を抑止するうえでは
I’(t) = aE(t) - cI(t) < 0
の状態を実現すること(=発症者数I(t)の変化率を0以下にすること)が肝心であり、この対策としては新たな発症者数(発症者増加率)aE(t)を正確にモニタリングすれば十分です。そして、日本での検査は発症者数をおおむね正確に把握できています。医師が鑑別診断を保健所に求めて拒否された事例が一部にありましたが、そのような不適切な対応への改善がはかられていますので、把握できていない発症者の数は少数のはずです。
武漢での感染拡大が深刻化した1月~2月上旬には、検査の対象者を中国湖北省・浙江省からの帰国者やその濃厚接触者で感染が疑われる者に検査対象を限定していました。しかし2月13日に尾身茂・地域医療機能推進機構理事長が日本記者クラブで行った講演において、「肺炎サーベイランスへ移行する必要がある。具体的には、渡航歴・接触歴を定義から外し、肺炎発症例を早期に診断・隔離・治療する」という提案がなされ、その後、検査方針がこの提案どおりに変更されました。
新方針への移行初期には「帰国者・接触者相談センター」での対応の足並みがそろわず、必要な検査が行われないケースが発生しました。これに対しては、医師会が動いて、改善が図られました。現在は、PCR検査機関に医師が直接検査を依頼できるようになり、民間の検査機関による検査も導入され、発症者数を正確に把握するうえでは十分な検査体制ができています。
ただし、病院ではなく帰国者・接触者相談センターに相談して検査を断られ、憤慨されている方がかなりいらっしゃるようです。新型コロナウイルス感染を疑い、PCR検査を希望される方は、病院で診察を受けてください。
一方で、PCR検査によって未発症感染者数E(t)を推定することはきわめて困難です。PCR検査の結果は、未発症感染者数E(t)を推定するための証拠として、それほど信頼できる水準ではないからです。PCR検査は、死んだ(不活性化された)RNAでも検出しますので、陽性だからといってEだとは判断できません(偽陽性の可能性がある)。一方で、のどからウイルスを確実にサンプルできるわけではなく、サンプルされたとしてもPCRでRNAが増えないことがあるので、陰性だからといって未発症感染者でないとは判断できません(偽陰性の可能性がある)。
さらに困ったことに、どの程度の割合で偽陰性、偽陽性の結果が出るかがわかっていません。基礎研究を行って、偽陰性、偽陽性の割合を決めない限り、PCR検査の結果による未発症感染者数の推定値の誤差が評価できません。偽陰性、偽陽性の割合を決める基礎研究は必要ですが、感染拡大への対策上は緊急性がありません。基礎研究は、対策とは切り離して実施すべきだと思います。
もちろん、未発症感染者数E(t)がどの程度いるのかを見積もる努力は必要です。この見積もりができる資料は、武漢からチャーター便で帰国した乗客のデータです。乗客全員についての検査の結果、未発症感染者は4名、発症感染者は9名でした(Nishiura et al. 2020)。未発症感染者の割合は30.8%です。
検査はあくまでも手段であり、感染拡大の抑止、発症者の治療が目的です。これらの目的を達成するうえで、PCR検査は新型コロナウイルスへの感染の疑いがある患者への確定診断には有用です。症状のうえで疑いがある患者から陽性の結果が得られた場合、感染していると判断して治療に入ることになります。ただし、陰性の結果が得られても、症状の疑いがある場合には感染していないという判断をすることは難しく、経過観察が必要です。
3月6日からPCR検査に保険が適用されるようになり、保健所を介さずに、医師が直接検査を依頼できるようになりました。このため、検査が必要と医師が判断した患者に対して検査が行われないという状況は制度上は生じないはずです。ただし、現場では制度の運用が適切に行われていない事例が少数ですがあるようです。制度をしっかり運用することが重要です。また、医師の判断ミスがゼロではありません。あらゆるリスクについて言えることですが、リスクをゼロにすることはできません。一方で、ミスが起きると大きく報道され、あたかもミスがそこら中で起きているかのような誤解が広がります。このような人間の認知傾向は、「利用可能性ヒューリスティック」と呼ばれています。利用可能性ヒューリスティックが招く社会不安を避けるためには、社会全体が医師を信頼し、医師の判断ミスはめったに起きないという理解を広げることが重要です。
■ 内科医はどのように診察するのか
医師の判断について理解を深めるために、もし私が内科医の場合、新型コロナウイルスに感染したことを心配される患者さんをどのように診察するかについて説明します。私は医師ではありませんが、生物学者としてハリソン著『内科学』という国際標準の教科書を参照しながら書いていますので、ポイントは外していないはずです。
まずインフルエンザを疑います。その可能性のほうがずっと大きいので、インフルエンザが疑われる症状があればインフルエンザの抗体検査をします。インフルエンザでない場合には、症状の原因が細菌性かウイルス性かの判断が必要です。そのために血液検査をします。白血球値が増えていれば、ウイルスではなく細菌感染による何らかの疾患が疑われます。咽頭炎、肺炎などいろいろな可能性があるので、症状を見ながら判断し、必要に応じて細菌検査やX線検査・CT検査をします(CT検査は新型コロナウイルスによる肺炎の診断に有効であり、確定診断のためにはPCR検査とともに実施が必要です)。また、X線検査・CT検査で肺炎の症状が見られた場合、その原因鑑別のためにPCR検査を依頼します。
これらの疑いがすべてシロの場合には、ウイルス感染による風邪と思われます。もし新型コロナウイルス感染に特徴的な倦怠感などがあれば、発熱3日以内でもPCR検査にまわします。倦怠感などの特徴的症状がない場合、3日間は様子をみましょう、という診断をします。なぜなら、人間の免疫系が抗体をつくってウイルスを抑え込む過程で、近代医学ができることはほとんどないからです。4日目になっても熱が下がらない場合には、抗体で抑え込めていない状態なので、 新型コロナウイルスのPCR検査を依頼すると同時に、症状の変化をよく診断して、他の可能性についても検討します。
このように、風邪的な症状の患者を医師が診断する場合、他のさまざまな原因を考えて検査法を選びます。風邪的な症状の原因はたくさんあり、新型コロナウイルス感染である可能性は、感染者との接触履歴がなければ、かなり低いと考えられます。まず他の可能性を考えて検査をするのが妥当です。ただし、医師も人間ですから、微妙なケースについての判断の違いは生じます。もし、4日目になっても熱が下がらないのに検査をしてくれず、その理由が納得いかないという場合には、都道府県か厚労省のコールセンターに電話で相談するのが良いでしょう。また、他の医師の診療を受けるのもひとつの考えですが、病院は感染のリスクが高い場所なので、感染予防対策に十分注意してください。
■ モデルを現実に近づける
上記のSEIRモデルは、あまりにも現実を単純化しすぎていると考えられる方もいらっしゃるでしょう。その通りです。SEIRモデルのようなベーシックな数理モデルの役割は、時間変化をともなう複雑なプロセスの要点を把握することです。
現実のプロセスをよりよく理解するには、モデルの仮定を少しずつ現実に近づけて、より予測力の高い改良モデルを開発する必要があります。たとえば、上記のSEIRモデルでは、潜伏期間中の感染者には感染力がないと仮定しています。実際には、感染後に感染力を獲得するまでの待ち時間と、医学的な症状があらわれるまでの潜伏期間とは、しばしば一致しません。つまり、潜伏期間の後期には、症状がないのに感染力がある人もいます。また、潜伏期間には大きなばらつきがあり、このばらつきも感染の動態を複雑なものにします。さらに、1人の感染者が生み出す2次感染者の数にも大きなばらつきがあります。新型コロナウイルスの場合には、特定の場所での集団感染が起きているので、たくさんの2次感染者を生み出す感染者(スーパースプレッダー)がいる可能性が高いです。
実際の感染対策においては、これらの複雑な要因がからみあった感染動態を、疫学の研究者がより高度なモデルを用い、データを常時モニタリングしながら、判断をしています。とくに、日本では感染ネットワーク(誰が誰を感染させたかの関係)を把握する調査を徹底して行っています。PCR検査を拡大して信頼性が低いデータを増やすより、感染ルートをしっかり把握して対策をとるほうが有効という判断です。私はこの判断は正しいと考えます。
この判断についてさらに知りたい方は、「西浦博・稲葉寿 2006 感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題 統計数理54:461-480」をご参照ください。SIRモデル・SEIRモデルのより詳細な解説に加え、日本の感染対策において活用されている感染ネットワークからどのような情報が得られるかについても解説されています。この論文の第一著者である西浦博北大教授は、中国や日本での新型コロナウイルス感染について日々報告されるデータを精力的に解析し、感染対策に有益・有効な分析結果を公表されています。新型コロナウイルス感染拡大を防ぐためのわが国の対策は、西浦さんのような専門家による正確な判断に依拠しています。
政府や行政の対応への批判の中で、「検査不足」がしばしば主張されていますが、日本における検査方針はイデオロギーや政治的判断ではなく、科学者の専門的な判断に依拠して実施されています。その判断について議論するうえでは、上記の論文などの基礎文献をある程度読んで、基礎知識を学んだうえで行うほうが良いと思います。
■ 適応学習の重要性
新型コロナウイルスに関しては、まだわからないことがたくさんあり、専門家の判断が常に正しいわけではありません。しかし、新しいデータによって判断を改善するサイクルは確実にまわっています。社会的問題解決の現場では、限られたデータや判断材料の中で、対策についての意思決定(決断)を行う必要に迫られます。
このような場合の意思決定の王道は、順応管理(adaptive management)あるいは適応学習(adaptive learning)です。これは、対策を実験としてとらえ、適切な実験計画の下で対策を実施することで、有意義な情報を増やし、より良い対策へと改善をはかるプロセスのことです。「九州大学 持続可能な社会を拓く決断科学センター」のメンバーで執筆中の論文では、このプロセスを発案(Idea generation)、設計(Design)、実験としての実行(Experimental execution)、評価(Assessment)の4段階に整理し、IDEAサイクルと名付けています。
PDCAサイクルに似ていますが、実行計画を仮説検証型の実験計画としてデザインし、実行を通じてできるだけ有意義な証拠が得られるようにすること、そして得られた結果を分析・評価して、新たな仮説を発案することを重視しています。
新型コロナウイルス感染拡大という困難な事態に対して、日本の対策チームは上記の西浦・稲葉論文に書かれているような高度な専門的知識を活用し、主要な感染拡大がクラスターによって起きているという仮説を、感染ネットワーク分析法などで検証しながら、新たな知識を増やし、感染拡大の抑止という目標達成に向けて着実な成果をあげています。
私は、対策にあたる専門家集団への信頼が、社会不安をやわらげ、感染拡大の抑止を早期に成功させるうえで、とても重要だと考えます。科学者は常識や定説を批判し、新奇性や独創性のある発見をすることが仕事なので、しばしば常識や定説、専門家集団における合意に対して批判的です。しかし、社会的問題解決に対する対策を考えるうえでは、新奇性や独創性よりも専門家の間での常識や合意が重要です。今回の新型コロナウイルス感染拡大への対策を議論するうえでは、まず疫学研究の専門家の判断をリスペクトし、専門家の判断の根拠について正確な知識を持ったうえで、建設的な批判をすることが重要だと思います。報道関係者にも同様な姿勢を持っていただきたいと思います。
まだわからないことがたくさんありますから、分野外からの建設的な批判は有用だと思います。外部者が批判を行う場合、どのような仮説が対策(実験的実行)において採用されているかを理解し、その予測は何か、実際に得られているデータは予測を支持しているか、予測からずれた点があるとすればどのような代替仮説とどのような実験計画が考えられるか、などについて検討するのが良いと思います。このような批判的検討は、IDEAサイクルをまわすうえで役立ちます。
しかし、いたずらに検査を拡大せよという主張は、建設的ではありません。どのような検査をどのように拡大することで、目標達成に向けてより有用な知識や効果が得られるか、という具体的な検討が必要です。
検査拡大についていえば、高齢者については発熱後すぐに検査を奨励する、という方針を採用することは考えて良いのではないかと思います。現状では、非高齢者に対する「風邪の症状や37.5度以上の熱が4日以上続く」場合という受診の目安に対して、「高齢者や糖尿病、心不全、呼吸疾患などの基礎疾患のある方や透析、免疫抑制剤や抗がん剤等を服用されている方は上記症状が2日以上続く場合」という目安が設定されています。4日という目安は、「かぜなどの熱は、丸々3日以内に解熱するのがふつうなので4日以上熱が続くときには肺炎を疑う」という医師の間で共有されている経験則「発熱の4日ルール」にもとづいており、免疫系が抗体を作ってウイルスを抑え込む期間にほぼ相当するので、科学的根拠があります。しかし、私が調べた限り、「2日以上」に科学的根拠はありません。少なくとも、集団感染のリスクが顕在化している福祉施設の高齢者には、発熱後すぐに検査するルールを適用するほうが良いと思います。
このような具体的な提案を行うためには、ある程度の医学的な知識が必要になります。新型コロナウイルス感染の拡大は、国民の間で健康管理についての基礎知識を広げる好機だと思います。どのような症状のときに医師の診察を受けるべきか、どのような症状のときにどのような検査や治療が有効か、などについて国民全体の知識水準が向上すれば、より健康な生活を送ることに役立つし、医療費も削減できるでしょう。知識を学び、冷静な判断力を身に着けることは、不安をやわらげるうえでも有効です。このような考えにもとづいて、「新型コロナウイルス感染予防の科学 入門編」というスライド教材を公表していますのでご活用ください。
新型コロナウイルス感染の拡大は、日本が初めて直面する国難であり、また世界が初めて直面するグローバルな危機です。この危機を乗りこえるうえでは、何よりも正確な知識と冷静な判断が必要だと考えます。この記事がその一助となることを願います。
矢原 徹一