サロン・風変わりな人材開発の宴 

人の育成について、色々な視点から書いていきます。これは、体験記であると同時に、次の人材開発施策に対するトライアルです。

人材開発担当者は、「学びの連鎖」が確立できると成長します。

2016年11月30日 22時54分41秒 | 人材開発部門
 人材開発担当者は実に様々なことを勉強しなければなりません。「嫌な話し。そんなことはわかっている」のでしょうが。人材開発担当者は、「学びの連鎖」、つまり、ひとつのことを学ぶと、そこ飛び火して次のことを学ぶというスタイルが確立できると成長します。何も学者になるわけではないから、深く知る必要はないのだけれど。できれば、ひとつのことを学ぶと、そこから放射線状に広がっていくともっと良いのです。その広がり方に正解・不正解はないです。関心や問題意識があれば、放射線の数も増える。おぞましいのは、にわか仕込み、それこそ学生時代の徹夜・丸暗記で何か覚えればよいのでしょうという態度。なんとなく、本を読んでわかった気になる態度。これは、外部の講師やコンサルタントのような専門家との対話ですぐわかります。むろん、むこうはこちらがお客様と思っているから、けっして人材開発担当者を軽視したような発言はしません。しかし、心の中では「この人、不勉強。浅はか」と思っています。同時に「この人と話して、当日、まともな研修になるのだろうか」と思ったりもします。
 講師が話しているとき、受講者が寝ていたとします。「うちの社員はこれだからだめなんです」と、研修担当者が言ったとしたら、それは人材開発担当者の恥ずべき姿勢です。受講者が聞きたいと思っているポイントを掴んでいないまま、講師に中途半端な依頼をするからそうなるという面をわかっていない。むろん、相手はプロですから、そこをなんとかしますが。なんとかしてくれるので、あたかも「うまくいった」と人材開発担当者は思ってしまう。厳しいですが、それは勘ちがいです。

「定年まであと何年」という計算は止めたほうがよいかもしれません

2016年11月29日 20時10分15秒 | キャリア開発
 ビジネス環境が厳しくなる中、「怒りたい場面」「諦めたくなる場面」が多くなっておりますね。例えば、部員を指導したつもりでも、相手にとって、それが指導とは思えず嫌がらせと感じれば、パワハラが成立します。そうすると、指導する側も面倒になって、部員の育成をしなくなる。「親にも怒られたことがない」のがニュースになるのは極端な例かと思ったら、案外どこにでもある話らしいですね。指導も気をつけて行わないと。
 指導の際は、「怒らずに辛抱強く取り組むしかない」と思ってきた私ですが、どうもこれもうまくいかないと思うようになってきました。基本は、「人を見て法を説け」は、そのとおりなのですが、「人を見る」ということの難しさ。仕事ができる人は、とくに要注意だと思います。なぜならば、もうお分かりのように、自分が仕事ができるものだから、どこかで自分と比較する。そして、どうしても仕事というフィルターでしか人をみない。いや、見られないのかもしれません。また、部員を見る場合、確かに自分の言うことを忠実に聞いて、それを達成できる部員は、頼もしいものです。そう言うフィルターで人事考課をするのはまだ「仕方がない」の部類に入りますが、こういう上司は、「仕事だけで人をみるリスク」を考えておかないといけません。順調に仕事ができて来た人は、ここに鈍感な人がいる。そして、自分を助けてくれる有能な部員がいると、ますますその鈍感さに拍車がかかる場合があります。 
 「相手の立場になって考える」というのは、仕事をする上で基本ですが、仕事が出来る人が、ここを軽視していると、ある立場になって躓く。しかし、「相手の立場になって考えない」で、(こんな言い方をするのは大変失礼なのですが) 仕事を言い加減に行う人。これは困った存在と思われてしまいます。「自分は、そうじゃない」と思っているかもしれませんが、本当にそうだろうかと自戒するようにしています。
これ以上のことは申しますまい。「定年まであと何年」という計算は止めたほうがよいかもしれません。多分、その数字が減少するたびに、働く意欲が減退して「実は、困った人に」に近づいていくでしょうから。それでも、高度成長の時代なら裕福な年金生活が待っていましたが、これからは違います。「あと何年で定年」の気持ちを払拭して、世の中に、顧客に、会社に、仲間に貢献できるか。この気持が大事なのはいうまてもありません。それがわが身を守る術かと思います。

諺「人のフリ見て、我がフリ直せ」が死語になるとき、人材開発担当者のポイント

2016年11月28日 20時42分40秒 | 人材開発部門
ふとした動作から、その人となりがわかりますよね。これは人材開発にも活かさねばならないと思っています。例えば、会社ですれ違う時の軽い会釈、歩いている姿、パソコンを見ているときの視線。どれもが人材開発の対象だと思っています。それを見ているか見逃すか。そこが、人材開発担当者の姿勢が問われるところです。
 「なんでそんなことが必要なのか?」と思われるかもしれませんが、研修に臨んでいるときの受講者の姿は普段の姿ではないですよね。所詮、講義を聞いている姿でしかない。その姿から何がわかるのだろうかって思います。もちろん、講義に関心がある・無いくらいはわかります。そういうことではなく、人を見るということです。私は「普段の姿を見ずして、人材開発を語るべからず」と思っています。
 「人材開発部門で仕事をしていたら、なかなか社員の普段の姿に接することなどできないのではないか。」とお思いになるかもしれませんが、それは関心の有無で変わってきます。社員の姿、言いかえれば現象から、この社員は何を強化したらよいのかわかってきます。

 「人のフリ見て、我がフリ直せ」という諺がございます。私が最近恐れているのは、社員の多くが同じ言動をしていると、この諺が死語になるということ。皆「これでいいや」が、「これではまずいんだ」も気がつかない。実は、ここが人材開発担当者の悩まなければならないポイントだと思っています。

人材開発部門は、「能力開発」という言葉をいつまで掲げられるか。

2016年11月27日 13時36分55秒 | 人材開発部門
人材開発部門、教育部門、名称はなんであれ、一般に人事部門の中にこの名称を掲げる部門は少なくありません。この部門に社員の能力を引き上げることができるかといえば、かなり難しい課題と思います。私は、社員にむかって次の言葉を投げかけています。
 「皆さんは、高校・大学入試と二日か三日、勉強しただけで進学できたわけではないですよね。研修も同じです。二日三日やって合格ということはないですよね。ゆえに、研修を通じて皆さんが学ぶべき方向を見いだしていただきたい」と。これは、「研修を受けたって、、、」という社員の顔を見たときに使う私の常套句です。逃げるつもりはないのですが、能力開発の責任は自己責任と申し上げています。むろん、育成は、管理職の責任でもあるのですが。
 昨日、人に本を勧めるのは好きではないと申しあげました。その舌の根も乾かぬうちにとなりますが、最近読んだ本で、「やはりそうか」という記事がございました。そこから思うことは、我々は人をみるとき、どうしても人柄や才能・素質で判断してしまう傾向がございます。しかも、大方それは外れていない。しかし、その背後に、その人がどんな努力をしているかということには、あまり目が向いていない。ここが盲点です。
 もし、本人が「自分は仕事ができない」と思っているとしら、本人は「自分には能力がないから」と思う。私は、「そうではない。自分の努力が足りないから」ということに気が付かないのかなと思います。この言葉は、本人にしてみれば、心外に思う場合もあるので、気をつけて言わねばならないのですが。
 多くの仕事では、大抵は「もう少し努力したら?」或は「努力のやり方が違うのでは?」と思うケースがほとんどです。その中で、誤解されているのは「企画力」です。企画の仕事は個人の頭脳プレーと思われがちですが、所詮一人の人間だけで行うには限界がある。なぜ、それに気が付かないのか。多分、他人と一緒に考えるのが面倒なのか、なんらかの理由があるのですね。確かに「企画はむずかしい仕事」ですが、すべてそうではない。企画がズルズルと遅れているのは、本人は「むずかしい仕事だから」と思っているようですが、私からみたとき多くの場合、努力や意志の不足か、企画するためのアフローチが間違っているケースがほとんどです。後者の場合の解決は、社内外の人との会話や本などで、だいたいやり方はつかめる。要するに、能力開発というほどのものには思えません。
「努力や意志の不足」というと、また「意識改革」という私の苦手な言葉が出てきます。これについては、「意識改革に期待するのはね」と社員に言っています。「意識改革」については、また別途報告させていただきます。

「課題図書」の目的は。。。。

2016年11月26日 18時11分31秒 | 人材開発部門
研修の教材に課題図書を提示する場合がございますね。課題図書には、どんな意味で出しているのだろうかと思うことがございます。そもそも、誰が選んでいるのでしょうか。どんな目的で選んでいるのでしょうか。
 「誰が」という部分では、講師か事務局かと思います。テキストを研修で棒読みするのは時間の無駄なので、事前に読んで課題について考えてきてもらう。或は、講師が研修だけでは言い足りない部分を補うという、いわゆる補助教材という部分。更には、読書の習慣をつけてもらいたいという部分。いろいろなねらいがあるのでしょうが、個人的には課題図書というものは、もらってうれしいものではないですね。「仕事が増えた」というのが大方の受講者の気持ちではないでしょうか。
 私が、「これはどうかな」と思っているのは、講師や事務局の趣味で課題図書を選ぶこと。気持はわからなくないのですが、屋上屋を重ねるものにならないのでしょうか。多分、講師の人も、事務局も「それはない」と言うだろうと推測いたします。しかし、受講者サイドにしてみると、似たようなものに映らないか。
 私は、基本的に人に本を勧める事は致しません。研修でも挙げることはまずありません。理由は、受講者と自分の問題意識、関心、役割が同一ではないためであり、共鳴するとは言えないでからです。教えなければならないことは、きっちりと研修の中で指導すべきだと思います。要領のよい、受講者は課題図書を流し読みしてきますので。
 ただし、それでも課題図書を出す場合がございます。それは、「この会社、或は部門にとって盲点となる観点について書かれてあり、役員会でも議論されたことがないし、当然、部の会議においても議論されたことがないテーマ」がある場合は、課題図書として提示することはございます。これは探すのが難しいです。よ~く考えて出さないと。「知っているよ」になりますので。また、いいなあと思っても、特定のビジネスを意識し過ぎたものは、全社の人材開発門としては出しにくいですね。批判しているみたいで。

 課題図書の議論と離れますが、私は、「大きな書店に行って、今の自分に一番ヒットする本を探してきなさい」という指示のほうが、よほどその受講者の個性や資質に叶うのではないかと思います。但し、これは苦行のようで、足を棒にして探すのは大変であり、そこまでしてやりたくないというのが本音のようです。これは、自分の心との対話になっていいのですけど、読書嫌いの方に喜ばれませんね。これが習慣になるとよいのですが。

「上から〇〇〇」

2016年11月25日 19時20分03秒 | 人材開発部門
この題名でかくと、元AKB48にいらっしゃった歌手の歌を想像されるかもしれませんが、このブログではそのことについて書くミッションはないので、ご容赦願います。
 少しこじつけですが、「上からめせん=目線」「上から研修屋」「上からこうし=講師」、そして「上から受講者」等、いろいろとごじつけています。ネガティブだなあと思うかもしれませんが、実はこういう人たちの態度が、研修という場を台なしにしてしまうことがございます。「上から目線」と「上から研修屋」は、私が経験したことです。そういう意味では、私一個人に限った話しかもしれないのですが、私が受講者のとき、「会社のお金を使って、君たちに研修を受けさせてやっている」と研修事務局の方から言われました。確かにそうです。勤務時間中なのですから、それは間違いありません。ただし、そのものの言い方の背後にある気持ちに少しカチンと来ました。「教えてやっている」という姿勢。「偉そうに言うあなたは何ができるのか」と。同時に、自分も謙虚さが足りない。「上から受講者」であることに気が付きました。
 今のままではいけないから研修を受る。或は、今よりももっとよくなってほしいから研修を受ける。研修は、そう言う場だと思うのですが、「受けさせてやっている」という言葉に、「我々を見下しているな」と思いました。現在は、どの会社でもそういう人は少なくなっていますが、以前は高飛車な態度を取られる方もおられました。年功序列の組織風土が残る会社では、職位や年齢が上の人に対して「物申す」という行為は勇気がいるものです。決して、口封じをしているわけではないのですが、こういう組織風土で行う研修は、同じ内容でも価値が半減するように思います。研修は、講師・受講者・事務局の三役がそろって役割を発揮することで舞台が成立するわけです。
 そこに気がつかない長老もおります。この場合、下手な質問もできない。質問が簡単すぎれば「大先生」に対して失礼だし、第一こちらの不勉強が露呈します。逆に難しいと、現場から離れたち「大先生」にとっては、もっともらしい回答をします。質問者は腑に落ちぬ顔をしつつも、「これ以上は言っても」ということで、追加の質問をしません。「年功序列が残る組織風土」の会社の研修は、受講者の発言が安全であるということを確約しないかぎり、一方的なものになってしまうでしょう。ここは、研修屋さんの工夫が必要なところです。

「翻訳する力」

2016年11月24日 18時52分40秒 | 人材開発部門
「翻訳する力」と言っても、ここでいう「翻訳する力」というのは、語学の翻訳のことをいうのではありません。研修で得た知識・考え方を、職場に戻って自分なりに工夫して成果を挙げることを言います。これまで三回のお話では、幾分「研修屋さん」こと、研修事務局を揶揄したような言い方をしましたが、今回は、受け手を対象にしています。最近気になるのは、この翻訳する力です。これは世代論ではありません。個人差はありますが、どの世代でもあ見られます。
 全社で行う研修では、中立性を保つために特定の部門の利益を狙うことはしません。特に階層系の研修ではそうです。そうすると、研修講師の言葉が、概念的、抽象的、時には綺麗事の言葉が並び、受講者にしてみれば「それは分かっているよ」とか、「またその話か」とか言われたり、或は抽象的すぎるために「何を言っているのかわからない」とか思われてしまうのです。研修で得た知識を自分なりに咀嚼して実践できる人は多くはないと思います。だから、研修内容が「右から左」に流れてしまうのでしょう。それを言い訳にして、「研修なんか受けたって役に立たない」という人も現れる。困ったものです。
 「翻訳する力」がないというのは簡単ですが、それでは他責です。本当は、対象となっている受講者の翻訳能力を見抜かなければならない。しかし、ここで問題となるのは、研修屋さん=研修事務局の座る位置です。だいたい、教室の後方にいます。また現在やっている研修内容については、もう講師にお任せで、自分は次の研修の準備をする。その気持ちはわかるのですが、やはり講師と受講者の反応に関心を持ってもらいたいですね。そうしないと、旧態然とした研修が何年も続くのです。しかし、研修屋さんは教室の後から受講者の背中ばかり見ているものですから、受講者の反応がわからない。まぁ、せいぜい分かるのは、昼食後のコックリさんか、多少なりともメモをしている姿。そのうち、研修屋さん自身がメールをみて席を立ち、教室から出ていく。教室不在の時間が長いと、研修屋さんはもう浦島太郎の感覚になります。研修で何をやっているのかわからない。
 だいたいの研修屋さんのスタイルとは、こういう姿が多いと思います。但し、眠る状況を招くのは講師サイドに問題はあります。むろん、お金を頂いている社外の講師の方は、いろいろと指導するハウツーがございますので、受講者がコックリする回数は少ないのですが。。。
 社内の講師の場合は難しいですね。仕事はできても、研修講師としては今一つという人は、少なからずおります。それは、研修と仕事は別と考えているからか。指導するのも仕事のうちと考えてもらわないと。そこへ持っていくのは研修屋さんのお仕事かと思っているのですが。しかし、「翻訳する力」。これがある人は、実は能力というよりも、問題意識の高い人なのではないかと思っております。これについては、また別の機会でお話したいと思います。

「よく現場の人と話せ」と言われますが、

2016年11月23日 15時03分15秒 | 人材開発部門
よく研修屋さんが、新しい研修を企画する必要に迫られたとき、上司から「よく、現場の人のニーズを聞いてきなさい」と言われますね。これって危うい言葉です。その言葉をニーズととらえていいのか。そもそも、研修ベースに乗らない要望もございます。「今の仕事をなんとかしてほしい」のが現場のニーズですから。もっというと、「研修で仕事が止まるなら無い方がよい」位に考えて、研修屋さんの企画力のレベルではカバーできないテーマが来たりします。大体の場合、ここでお仕舞。ここで、例えば研修屋さんが自分で考えるのは難しいと判断して、馴染みの外部講師やコンサルタントに相談する術があるのですが、これがまた現場が望んでいるのとミスマッチ起こすことになる。本来、その外部講師が持っている知識・見識・経験が活かされない場合もあります。外部講師も外部講師で、研修屋さんがいう研修ニーズがどうもはっきりしないとなると、「とりあえず、こんな内容でやってみるか」となります。当日、いったん走り出した研修は、もう止めることはできません。受講者は眠る、講師はいつものお決まりの話をする。結局、研修屋さんは、「なんでこんな研修やっているの?」言われる負のスパイラルにハマるわけです。むろん、研修の成果としては、研修感想文というツールがございます。そこでは、受講者もサラリーマン・サラリーウーマンですから、「非常に参考になった」「職場に戻って試したいと思う」くらいのことは書きます。そして、この感想文を見て研修屋さんは安堵し、「またやろうか」となる。現実は、研修屋さんと現場の気持ちは開くばかり。まず、このミスマッチと乖離があることを十分に認識すべきですね。実は、それは何となく認識してはいるのですが、実際のところ、何をどうればよいのかが不明で、講師と調整して微修正して進めているのではないかと思います。

なんで、研修屋さんて呼ばれるの?

2016年11月22日 20時28分45秒 | 人材開発部門
世の中に、「技術者」という単語と「技術屋」という単語があ

ります。しかし、「研修屋」という単語はあっても、「研修者」という単語はあり

ません。但し、研修受講者を略して「研修者」と言っているケースはあるかもしれ

ませんが。「技術者」と「技術屋」の二つを比べてみると、後者はやや見下した感

がしませんか? 「研修屋」には、これに代わる敬意を表した表現はあるのでしょ

うか。人材開発担当者・・かな。

「研修屋」という言葉の底に流れているものは、実際の現場でご苦労されている方

にとって、どこか現実離れして役に立たない研修内容を、芝居がかって講義してい

る先生や、何もわからない事務局。その双方か、何れかを指して言っているのかと

思います。ここを乗り切って、現場の方を唸らせる、あるいは遠すぎず身近なとこ

ろに布石を打てる。こういうことができれば、「研修屋さん」を卒業できるのでは

ないかと思っています。思ってはいるものの、そこで戸惑う「研修屋さん」たちは

多いですね。

これから先の「研修屋さん」は?

人材開発部は、研修屋さん?

2016年11月21日 21時06分14秒 | 人材開発部門
「あなたの仕事は?」って聞かれて、「人財開発です」って答えると、「あ~研修をやっているんですね」と言われます。

「それだけじゃないんたけれどなぁ」と思いつつ、初対面の人には、「はい、まあ、そういう仕事をさせて頂いております」と

回答する私に、「ウ~ん、違うでしょう」と心の中でつぶやくものの、気持ちを切り替えて、さぁ打ちあわせ。

話していると、「やっぱり違うなあ」と再確認。そんなことの繰り返し。

「しょうがない。ここは化けるか」と思い、「実は、、、」と話しの方向を変えます。なんともシンドイ空気。。。

でもね、仕方がないのですね。何気なく、取りとめもなく、そんなことをつづっていきたいと思っています。