le temps et l'espace

「時間と空間」の意。私に訪れてくれた時間と空間のひとつひとつを大切に、心に正直に徒然と残していきたいなと思います。

法然と親鸞

2011年10月25日 | BOOK

●法然と親鸞 山折 哲雄 著

この本は今年の3月に初版されたものだが、山折さんは御年80歳。年齢で人を判断してはいけないが、「80歳にしてこちらの探究心をくすぐる思考展開と情熱的な筆致の源は、どこからくるのだろう」というのが正直なところだった。

テーマは「師」と「弟」である。親鸞は若くして法然から「選択本願念仏集」の書写を許された優秀な弟子だった。親鸞も、法然を深く「師」と仰ぎ、「法然にだまされて地獄に落ちるというなら、喜んで落ちよう」とまで言っている。しかし、親鸞はほかの弟子とは別の独自の道を歩んだ異端児であった。ゆえに選ばれた弟子たち数名がその場にいることを許されたという法然の臨終にもいなかったし、法然の教えを継ぐ弟子だとおおっぴらに語ることもなかった。

法然の死後、弟子たちの多くは法然の教えを継承しつつ、多くの「派」を作った。念仏を「一度」唱えれば救われる「一念義」、いや常日頃から唱えることが重要だとする「多念義」。当然、派閥の争いも起きたようだが、彼らに共通しているのは根幹は法然の教えそのものであり、法然に護られているという安寧である。様々なかたちの変化や考え方が起きようとも、すべては「法然というサークル」の中での話である。むしろ、その大きなサークルに護られているからこそ、弟子たちは好き勝手に自論を述べられるということであろう。それを、著者は「教えの分割相続」と呼んでいる。

それに対して「単独相続」を試みたのが親鸞である。親鸞は法然のそばで、また書写した「選択本願念仏集」から、その教えの「本質」をつかみ取ろうと必死になった。そして、もがき続けたその先に現れたものは1.尊敬する師の教えに対する疑問」と2.自分なりにもっと深く、もっと広く展開・発展させたい」という欲望であった。

1.については、「悪人」の取り扱いについてである。「選択本願念仏集」を書くにあたって法然が愛読した書に「感無量寿経」があるが、そこには念仏を唱えれば誰でも救われるとしながら「五逆の罪」を犯したものは除く、という例外規定がある。そして法然はこの例外規定について何ら触れていない。それに疑問をもったのは親鸞であり、のちの「歎異抄」につながってゆく。そこではお馴染み「いわんや悪人をや」とあり、親鸞は悪人こそ救われるとしている。いわば法然思想からの「離反」である。

2.の欲望は「教行信証」の執筆につながる。法然の教えを基礎としながら、彼独自の思想論をここで展開するのだ。法然思想を否定するものには決してしたくない、しかし自分の中で沸き起こる思想を書かずにはいられないというジレンマが書のタイトルに現れている。法然は「我は念仏を選択する」という意志表明で「選択集」を書いた。それに対して親鸞は「教え」「行い」・・まるで目次の羅列のようで、明確な意思を表していない。いや、師と仰ぐ法然が心にいる限り、表せなかったのだ。

親鸞は、法然を深く師と仰ぎ、その本質を見極め、あるいは疑問を持ち、躊躇し悩みながらも、それをベースに新しい発想を、親鸞が生きた時代にそぐうような、その中で生きる多くの人々を救えるに足るような独自の思想を展開していった。それこそが、師の思想を責任をもって継承することだと考えたのだろう。「師を知り、深め、師を超えること」が、一方で師への恩返しと考えたのかもしれない。だからかどうか、親鸞自身も、関東で得た多くの弟子を捨て、単身京都に帰ってしまう。「師による弟子捨て」である。これは「いつまでも私の周りにいないで、どんどん新しい思想を展開させなさい」というメッセージだったのかもしれない。

本のテーマは「師弟」だが、親子の関係と似ているなと思う。子は親の元に生まれ、親を手本に育ってゆく。だが、あるとき反抗期を迎え、親を否定し、色々な社会的な影響を受けながら、次第に親から離れ巣立ってゆく。そして、いつの間にか己というものが形成され、それに気づいたとき、子は親を超えいる。でも、そこにあるのは超えたという優越感ではなくて形成に一役も二役も買ってくれた親への感謝ではないだろうか。親のほうも、身も心も大きくなった子を見て、そして少し小さくなった自分に気づき、子の成長を目を細めて温かい気持ちで眺めることだろう。

法然と親鸞の年の差は40歳。あるいは法然も、いつか自分を超えてゆくと知りつつ、悩みもがいている若き親鸞を、目を細めて見守っていたのかもしれない。


国家の命運

2011年10月16日 | BOOK

●国家の命運 薮中 三十二 著

いつだったか薮中さんがとあるテレビ番組にゲスト出演されていて、その時の話が興味深かったので、いつかは読んでみようと思っていた一冊。200ページ足らずの軽い新書で重いタイトルのわりには、さらさらっと読めた。

話は国家レベルの話ではあるが、内容は「交渉」に尽きる。そして、その交渉スタンス、技術は人とのコミュニケーションにも十分役立つものではないかと感じた。第四章の「外交交渉の要諦」がとくに参考になる。

「・敵を知り、己を知る

・互いを理解し、信頼関係を

・オフェンスとロジックが大事

・交渉争点の絞り込みと節目づくり

・最終局面では、勇気をもって決断、決裂も恐れるな

・51対49の原則」

が、四章の見出しである。人付き合いでも恋愛関係でも、これらを実践できれば、お互いが納得し次のステップへ進めるのではないかと思う。

人と向き合うとき、まずは自分という軸をしっかり持っていなければ始まらない。でも、それは得てして独りよがりになりやすい。だから、自分を持ちつつ敵を鏡にして己を深く知る。その上で、相手を理解し自分も理解してもらうよう努める。

とは言え、単にオフェンスばかりで「ああして欲しい、こうして欲しい」だけでは相手だって「やだっ」で終わってしまう。なぜ「あなたに」そうして欲しいのか、そうしてもらえればどんなことが解決され、相手に何がもたらされるのか、私はどうなるのかをロジックを持って伝えることが大切だ。

が、相手も仏ではないから、いくつもの事柄を同時に言うとやっぱり「わがままなヤツ」になってしまう。だから、優先順位をつけてゆく。下位のものは「捨てる」くらいの気持ちで、どうしても通したいものだけ選別していくのだ。そうやって、大切に温めてきたものだからこそ、伝える時機を間違えても逃してもいけない。普段は見向きもしないくだらないジョークに少しでも反応した時、なぜだか鼻歌まじりで過ごしているとき、そここそが相手の「時機」、そして今日ならすぐに折れない力がありそうなとき、それは自分の「時機」。両者が出会うときはそうそうないだろうが、なるべくそれに近い状態の時に、切り出す。それで失敗して、相手との関係が良くならなかったとしても、まあ、それはそれで仕方がない。仕事関係の人間なら、仕事と思って割り切る、恋愛や夫婦関係であれば・・・次を探す?!(笑)

それでも、勇気をもってこちらの主張をするのだから、少しはすっきりした。だから、51を目指す。でも、相手を不愉快にさせて勝ち取る51では意味がない。お互いフィフティーフィフティーの感覚を持ってその場を終えたい。ただ、「勇気を出して相手と対峙し、何とか決裂せずに次へと繋ぐことができた」という自分の安堵に+1。

ネゴは、「相手に伝えたいことを伝わるように伝えようとする技術」、アサーティブにも少し似たところがある。でも、ネゴの本意は何かを勝ち取るまたは守るために必要なこと。アサーティブは・・・最終目標は自分の主張を通すことではないと思っているのだけれど・・・最近少しわからなくなってきている。アサーティブの反対ってないのかな。つまり、「相手から伝わるように伝えられたときの対応方法」みたいなもの。伝わるように伝わるようにと頑張るのはとても素敵なことだけれど、伝わるように伝えられているのだなということに気づきそれに返すスキルも知っておかないと、結局は「形を変えた自己主張」で終わるような気もする。

少し話が逸れてしまった。

 


noblesse obligeのむちゃぶり解釈

2011年10月01日 | 日記

ご存じ、フランス語のことわざである。直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」の意味。一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。

私には財産やなんやらは何もないけれど、この言葉の意味を自分に照らしてみるとどうか、という試考を近頃よくする。この言葉、時々私の中に現れて、少しの間「居る」気まぐれな言葉なのだ。だから、ここらで少し真剣に深く掘り下げてやろうじゃあないかと腕をまくってみたい。

なぜだか、人よりずいぶん早くに自己の確立に目覚めて久しい。現状の自分に愕然とした日のことを今でも覚えている。それは全身を襲う恐怖とともに初めての徹底的な自己否定だった。そして、1日も早くここから抜け出し、こうありたいと思う自分になるのだという信念を抱き続けてきた。幸い、人と自分を改革できる機会に恵まれ、そんな自分に近しきものが今の自分かもしれないとぼんやり思い至ることが増えた。

これで「今の自分を守り、もしくは維持すれば覚えた恐怖は癒され、安寧な日が送れる」と思ってみる。そこにいらっしゃるのがこの言葉。私に何を投げかけたいと言うのか。

そこで、太字をこう置き換えてみる。「成熟した自己の内面・自らの振る舞い、言動、行動などの外面の保持には責任が伴う」。そして、「責任」の意味を考えてみる。軽々しい発言はしないとか、人の心に土足で入らないとか、相手の立場を理解した行動をとるとか、そういったことは、もちろん含まれると思う。でも、noblesse obligeが問うてくる責任とはそんな当たり前のルールではなくて「おまえはおまえを今後どう保持してゆくのだ」ということのような気がする。う~んと唸って浮かんだのは「今の自分の否定」であった。逆説的ではあるけれど、自分のあるべき(ありたい)姿を曲がりなりにも手に入れた今、それを保持するにはいったんそんな自分と距離を置き、否定してみることで新しい境地に立て、さらに切り拓いてゆくことで今手の中にあるものが、もっともっとこなれてゆくように思う。

手に入れる⇒守る⇒保持⇒停滞⇒破滅 の図式がふいに頭に浮かんでぞっとした。守りに入った人間は、そこに何かが侵入してくることを恐れてさらにガードが固くなり、周りを否定することで自分を守ろうともする。

手に入れる⇒守る⇒手放す⇒破壊してみる⇒再構築 という図式はどうだろう。粘土細工のように、何度つぶして作り直しても粘土そのものはなくならない。

これまでずんずんと進んでこれたのは、年代的にも様々なことが起こる時期であり多くを吸収する時期でもあった。人にも機会にも多く出会える「追い風」が吹いていた。これからは、そのどちらも減ってゆく。そんな中で自己を否定し、自分の力のみで切り拓いてゆくのは向い風の中を進むようなものかもしれない。それでも、進みゆくのがきっと「責任」ということだろう。

 


イスラム 癒しの知恵

2011年09月20日 | BOOK

●イスラムー癒しの知恵 内藤正典 著

「イスラムの怒り」に続き、第二弾です。この著者の良い点は、読み手の「イスラム教ってつまるところ何?私たちは単純にどう解釈すれば良いの?」という素朴な疑問を十分に汲み取って書いてくれているところです。「イスラムはこういうことだ。異教を理解しなさい」という一方的な感じはなくて、Q&Aを読み進めているような感覚です。日本人には信じられない価値観にも、なぜそういう価値観が生まれるのかを、すぐさま仔細に記述してあり、イスラムを道理として理解するには十分な解説です。

「癒しの知恵」とあります。この本が表現する「癒し」は二種に分類できると思いました。

ひとつは、生きていて行く道に悩んだとき、自分の欲との葛藤をもったとき、何か失敗してしまったときにムスリム(イスラム教信者)には絶対的な道しるべがあるということです。それはコーラン。コーランを読んだことはありませんが、この本から察するに、日常の生活について相当具体的かつ詳細に色々なことが定められているようです。でも、それは校則や社則のような「禁ルール」ばかりではありません。人間は弱い生き物だ、というコンセプトのもとで「ルールを破ってしまったときの償いのルール」も書いてくれているのです。ルールを破ったときの罰を定めているのではないところが面白いところであり、癒しにも繋がるように思います。日本人の感覚であれば、ルールを破れば罰が待っているだけです。反省したところで、更生するのも次に生かすのも自分次第。「努力と根性」の世界です。それが、ムスリムたちには罪の重さとその償いの方法を決めてくれている神が、いつもついているのです。なんと心強いことでしょうか。

もうひとつは、ムスリムの基本的精神は「ラハット」。訳するなら、「人を心地よくさせる精神」というふうになるようです。こちらはムスリムが施すほうの癒しですね。正直、ムスリムの精神にこういった感覚があるとは思っていませんでした。人を助け、人を心地よくさせることはムスリムにとっては至極当たり前のことで、逆にそういう扱いを受けてもとくにお礼は言わないそうです。日本だと嫌われてしまいそうですが、そもそもそういった感情を抱くことすらムスリムにとっては間違っているのかもしれませんね。

日本は今、希薄になった人間関係の再構築をやみくもに急いでいるように思います。そこに3月の大震災。人とのつながり、家族の大切さを再認識したとか、その流れで結婚する人が増えたとか・・・。それ自体は良いことですが、それをわざわざメディアが垂れ流しているところはどうかなと思います。感動的な話を放映し、コメンテーターが涙し、心理学者か社会学者がもっともらしく、ちょっとかしこそうに、その背景や深層を語り、「さて、次は週末の天気です!」という流れ。話題性が薄れれば、忘れ去られてしまいそうなその取り扱われ方。違和感があります。やみくもに急ぐものだから、何かそのとっかかりとなる事象が起こればすぐに飛びついて、必要以上に賞賛して、悪戯に使い捨てられてゆく・・・そんな気がします。そんなその場しのぎな価値観の押し付けではなくて、ラハットのように、壮大かつ絶対的なものに護られた万人に共通な「アイテム」があれば、小国日本など一気にまとまってしまうと思うのですが・・・。ムスリムが羨ましい限りです。


ズッキーニの彩りスープ

2011年09月17日 | 食べ物

ズッキーニは生で食べるより火を入れたほうが美味しいなと結論付けたら、ふとスープ仕立てにしたものが食べたくなって作りました。

具材はズッキーニと人参、しいたけ。他に玉ねぎ、大根、ワカメなどが入ってもいいかもしれませんが、個人的には具材は3品までかなと思います。どれがメインかボケることと、具だくさんだと、何となく口に運んでしまい、一つひとつを味わっていない気がするのです。何だかもったいない・・・。

味付けですが、出汁にしょうゆでも、コンソメでも、鶏がらでもOKです。温めても冷やしても。玉ねぎや大根を入れるのであれば温かいほうがいいかなと感じますが、これも個人の好み。

相変わらずの「あっさり」メニューですが・・・いいんだ、自分が食べたいものを色々感じながら作って、美味しく食べるのだから。人様に提供できるような、男ウケするような、華やかなパーティーメニューのようなものは・・・頼まれない限り作りません。(「作れません」ではない、と敢えて言わせてください)

最近、やっと読み終わった「物語 食の文化」という本に、欧米は古来より長く、素材に対する愛情はなかった。それは国同士の戦いが激しく庶民はいつも不安定な食糧事情におかれ、気候に恵まれず、そもそもあまり美味しいものがなかった。単に空腹を満たす道具だった。だから、見た目の美しさに価値を置かなかった。不味いものをいかに美味しく食べるかに関心があった。ゆえに調味料やさまざまなソースを生み出す技術が発達したとありました。日本はその逆であることは語るまでもないですね。

たしかに、我が家にはドレッシングや○○ソースといった類はありません。・・・あ、唯一「ノンオイル青じそドレッシング」があります。マヨネーズ・ケチャップ油・とんかつソース・・・ない。オリーブオイルくらいはありますが、サラダ油はありません。あとは塩、こしょう、しょうゆ、酢、味噌。鶏がらとコンソメスープは1年に1度買うくらいかな。いいんだ、これで。困ったことはありませんから。

そうなんです、洋風料理ってそれだけでは成立しないんですよね。何かと味をつけて出来たあとにも何か「味のあるもの」を添えないと、美味しくないし見た目も悪い。でも、それだけでカロリーアップ。素材の味も消されて、旬の野菜も台無しです。本にも書いてありました。「かくてアメリカは糖尿病、高血圧、心臓病、、肥満が国民的問題となっている」と。長生きしたいとは思いませんが、病気しながら生きてゆくこともしたくありません。もっとイヤなのは、二重あごと段々腹。人に軽蔑されようと「素材を活かした和食」の日常で行こう。