le temps et l'espace

「時間と空間」の意。私に訪れてくれた時間と空間のひとつひとつを大切に、心に正直に徒然と残していきたいなと思います。

経済学的思考のすすめ

2011年04月18日 | BOOK

「経済学的思考のすすめ」 岩田 規久男 著

こう見えても、経済学部卒である。特に経済に興味があったわけではなくて、経済学科の中のひとつのコースに魅かれて選んだのだったが、授業が始まってすぐに選択を間違えた、と思った。経済学の勉強って理屈ばかりで机上の空論で、おまけに計算式やら方程式まで出てきて・・・なんでこれが「文系」に分類されているのか・・・そんな思いだったように思う。
その中で、この人の本は比較的よく読んだ。分かりやすかったのか、テーマに興味があったのか、それすらも思い出せないが。

この本で言いたいことは、「シロウト経済学」の横行に対する警鐘と「市場原理主義」への誤解であろうと思う。「シロウト経済学」とは最近経済学者でもない人が経済についても本を出したり、テレビで最もかのように発言している、「あれ」である。著者はダブル辛坊の話題本を徹底的に批判している。(鼻につく嫌味が出てくる回数が多いのが残念)何を一番批判しているかというと、その思考法。シロウト経済学はすべてを帰納法で考えているというのだ。
例をあげると
「中国人のAさんは自己主張が強い。中国人のBさんも自己主張が強い。だから、中国人は皆自己主張が強い。」
という思考法。自己主張が弱い中国人の例を挙げれば崩れることは自明で、これだけ聞くと、「そんな極端な・・」と思うかもしれないが、世の中そんな風に考えることは恐ろしいほど多いと思う。

●「女性は皆ケーキが好き」
これはどうだろう。ケーキが好きな女性が多いから女性は皆ケーキが好きと帰納的に考えてしまう。私のようにケーキが嫌いな人間は「例外」扱いされてしまうのだ。

これに対して演繹法は、

「AであればBである」という論理形式でAがを仮定、Bが結論である。結論を命題と言う。仮定Aから命題Bを導くために論理的推論が用いられ、仮定(あるいは前提)が正しければ、仮定から結論を導く論理的推論を間違えなければ、命題も必ず正しい。したがって、演繹法では、仮定が正しいかどうかが決め手になる。

とある。個人としてはもうこの辺から苦しくなって脱落したくなるのだが、皆さんならふむふむとうなずいているかもしれない。

続けて、「帰納法は同じことが何回も起こることから、結論を導くので、結論は必ずしも真ではなく、結論が真実と考えられる確実の程度=蓋然性を示すにとどま」とある。

このあと、実際の事象や事例を用いて、時に辛坊本を批判しながら具体的に話してくれているのだが「シロウト」の私が語ると著者に怒られそうなので、ぜひ皆さん各々で読んでみてほしい。

私がこの本から得たことはやはりこの考え方である。なぜなら、人と接し、その人を理解するときにとても有効な思考法だと思うからだ。

帰納的思考とはつまり「決めつけ」であり、「思い込み」なのだと思う。人は知らず知らずの間に、その人物の置かれている環境や振る舞いやちょっとした発言から、その人に「レッテル」を貼ってしまうことが多い。過去に接したことのある人に似たような人がいれば「この人もあのタイプに違いない」と結びつけてしまう。
そうしてさばいてゆくことは簡単でラクだけれど、あまりにももったいない。
「この人はこういう面を持った人かもしれない」と仮定をたてて(=感じて)、本当にそうか、推論してみることが大切だ。むっとしても傷ついても、逆にこの人と合う!と思っても、いったん冷静になって考えて感じてみるのだ。
私がいつも目標としている「自分の物差しだけで計らない」という信念と通づるようにも思う。
そして、今回学んだもっと大切なことは「推論を誤らない」ということ。つまり、計り方を間違えると、その人との人間関係も築きにくくなる。
逆に、築かなくてよい人間関係を築いてしまうかもしれない。

先述の「縁」についても、魅力的な紐の端を持って常に磨いておくことは大切だが、その理由は素敵な縁を結べるようにということと同時に、結ばなくて良い端をつかまないようにということも含んでいるのだ。

人間である限り、生きている限り、これからも失敗はたくさんするだろう。それでも、推論を誤らないためには、不必要な縁を結ばないためには、果たして何が必要なのだろう。
これからの人生のテーマのひとつになりそうだ。なかなかの良書であると思う。