花のアート写真工房

Ⅰ:透明水彩画集
Ⅱ:旅エッセイ(海外編)

【アートに対する情熱は、青春そのものです!】

フォトエッセイ:老後へのシミュレーション~その1「はじめに」

2009年04月12日 16時25分46秒 | 老後へのシミュレーション
 

 私は、6年前から自分の歩んできた中で起きた出来事を、写真と文章で表現し作品にしている。
 そのきっかけは日本国内でグルメ雑誌が氾濫し、テレビでは人気ランチが照会され、行列のできる店に何となく並ぶという社会現象をみると、一見平和そうな話題に溢れている。しかしその反面、世界の片隅では、餓死する子供や争いがたえない。私は、垣根の外からそーと見ている自分に嫌悪感を抱いたからだ。何かをしなければいけないと。
 ヒトは、数千年の長い歴史の中でゆっくりと歩んできた。本当にゆっくりと。しかし、100年ぐらい前から急速に科学が発達し、人々の生活は便利になった。しかし、便利になったからと言って幸せとは限らない。ちゃぶ台を囲んでの一家の団欒はそんなに遠い出来事だったのでしょうか。懐かしさもあいまってよく見えるのかもしれませんが、私は、「物の豊かさ」と「心の豊かさ」が平行して進化するような世の中を望む。
 今回のフォトエッセイ「老後へのシミュレーション」は、私の両親や叔父などの日々の生活から学んだことを綴った本である。人は、誰でも年をとるにつれて考えるのが億劫になってくるし、、周りの変化に順応できなくなる。そして、やがて死を迎える。そのための準備として、私たちは、老いや死に対して真摯に受け止め、自分らしい人生の終わりを迎えたいものです。

フォトエッセイ:老後へのシミュレーション~その2「いきいきと暮らす」

2009年04月12日 16時25分22秒 | 老後へのシミュレーション
           

           

 小さな町にある小さな駅、その前にある小さなお店。その店はいつ頃からあるのだろうか。私の知る限りかれこれ50年前にすでにそこにあった。
 子供の頃、私は10円の小遣い銭を持って、よくその小さな店に駄菓子を買いに行った。今は先代から引き継いだ息子夫婦が、近所の人たちが気楽に立ち寄れる場所としてゆっくりと営んでいる。
そのおばさんは、駅構内の草取りやタバコの吸殻のかたずけなど、小さな町の顔である駅を大切にしようとがんばっている。
 4,50年前になろうか。私が子供の頃は、外で遊ぶ子供の声がたえまなく聞こえた。当時のその店は活気に満ちていた。今は、しーんと静まり返った町並みである。
 元気なのは、高齢の方で、至る所で見かける。防犯パトロール、通学路での交通整理、ゲートボールの道具を持っていきかう人。そのひとり「おはよう」と児童にあいさつをする人に私は話しを聞いた。その時の彼の目の輝きから、この街に少しでも役に立ちたいとの気持がひしひし伝わってきた。
 人生の折り返し点を過ぎた頃から、第二の人生を地域に根ざした市民活動をする人が増えてきている。 

フォトエッセイ:老後へのシミュレーション~その3「顔を洗う」

2009年04月12日 16時24分58秒 | 老後へのシミュレーション
 

 年寄り夫婦が生活する場所は、自分の家が一番過しやすい。しかし、年をとるにつれて、普通に生活するのがままならなくなる。長年連れ添った相手のことを気使う余裕もなくなる。
 その日のためにと両親は、半年前に予約していた老人施設に入ることができた。その夫婦部屋は、一人部屋の間にドアで間仕切りしてあるつくりになっていた。まだ新しいその施設は海の近くにあり、リゾート感覚をあじわうことができた。
 部屋の中には、高齢者が暮らしやすいように、いろいろな工夫がなされていた。しかし、140cm代の背丈である母にとっては、一般的な位置より低く設置されている洗面台の高さがまだ高い。膝の調子が悪く、筋力の衰えた母にとっては、洗顔時にどうしても顔にあてた両手のすきまからこぼれ落ちる水しずくで、服がべたべたになり気にかかる。踏み台を試みたが、目の視力も衰えている母にとっては扱いにくい。
 本人にとっては、自分のできることは自分でしたい気持ちでいるに違いない。

 

フォトエッセイ:老後へのシミュレーション~その4「洗濯をする」

2009年04月12日 16時24分33秒 | 老後へのシミュレーション
 

 毎日の生活に洗濯と掃除は、欠かせない。それが年をとってくると億劫になってくる。
 日常の役割分担は、洗濯機を動かし洗濯した物を干すのと取り込むのは父の仕事で、たたむのは母の仕事になっていた。
 その父は、鼻をかんだ後の鼻紙をポケットに入れて置く癖があった。その鼻紙をもう一度使用するためである。4,50年前、私も布切れで鼻をかんでいた記憶がある。そのぐらい紙は貴重品であった。父は、その思いが残っているためなのか、それとももったいないとの思いなのかは定かではない。それだけなら問題ないのだが、ズボンのポケットに鼻紙を入れたまま洗濯機でまわすから、洗濯機の毛玉とり器は満杯になり、衣類に鼻紙の破片が付着して困ったことがある。その事を父に言うと「わかった。わかった。」とうなずくが、そのあとも同様であった。ついに毛玉とり器もなくなってしまった。
 年をとってからは、いままで行ってきた行動パターンを変えるのは容易ではない。人との会話に不自由しないように、補聴器の使用を試みたが難しい。周囲の人は、大変である。 
 

フォトエッセイ:老後へのシミュレーション~その5「トイレを使う」

2009年04月12日 16時24分08秒 | 老後へのシミュレーション
 

 家庭のトイレは、場所のとらない洋式トイレが一般的である。座る習慣がなく生活をしてた私にとっては、和式トイレの利用は敬遠しがちである。出先での和式トイレの使用は悲惨である。膝の悪い私は、しゃがみこんだ体を突っ張り棒のように両手で壁を押し付けながら立ち上がらないと出来ないからだ。
 両親の部屋を訪ねるといつも小便くさい。父のはいているズボンからもする。小便のついたまま、はき続けているためである。毎日、ズボンをはきかえるように言っても、生半可の返事で終わる。靴下も履いたまま寝ることもある。
 若い夫婦の家庭で、男性も座って小便をする人が増えてきている。夫は、みずから家庭内の掃除に携わっているためなのか、あるいはなるほどと思ったためなのか、便器の周りの悪臭の原因である立ち小便の弊害を実感している。私も試みたが、確かに効果はある。ベルトをはずしてズボンを下げる行為はめんどうだが、それが習慣になればさほど苦にならない。まだ頭がしっかりしているあなたは、今から始めるべきだ。
 私は、「男も座って小便をする会」を設立したいぐらいだ。そのためにも、ホームウエアーな簡易なズボンではなく、上げ下ろしが簡単なフォーマルなズボンの開発が望まれる。