poliahuの旅日記

これまでに世界42ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

モロッコ篇 その3

2021年11月03日 | アフリカ
旅の最終章では、以下の⓬~⓮と➊をまわりました。②~⑪は旅の中盤までに訪れた場所です。
また、後の下線部の数字にも対応しています。



12 マラケシュ (2013年8月2日)

マラケシュ滞在最終日、ゆっくりと宿を出てベン・ユーセフ・マドラサへ向かう。途中までは問題なく進んだが、事前の予想どおり小路に入ったところで分からなくなってしまう。するとここでも、何処からともなく"自称ガイド”が現れて道案内をしてくれた。到着したところで10DH(約120円)渡すと、もっと期待していたのか、モメたものの結局去って行った。
こちらがベン・ユーセフ・マドラサ【16世紀半ばにサアード朝が建てた神学校で、20世紀半ばまで使用されていた。最盛期は900人の学生が学んだという】。

2階にある学生たちの寄宿舎、小部屋が130もあるというから凄い。ひとつが6畳ほどの広さという。

何気ない廊下のアーチが美しい。

吹き抜けの木彫が細やか・・・

吹き抜けから見下ろすと、こんな感じ。

上階からのアングルもイイなぁ

中庭を横から見下ろす。


お隣りにあるベン・ユーセフ・モスクの外観。ムスリム以外は入れない。緑の瓦屋根が印象的


これもベン・ユーセフ・マドラサのお隣り、マラケシュ博物館【19世紀後半に宮殿として建てられ、20世紀半ばのモロッコ独立後はしばらく女学校として使用されていた】。
白いパティオ、床のモザイク模様が目立つ。


40℃の洗礼を受けた前日より多少慣れたとはいえ、やはり暑い 帰り道、ジャマ・エル・フナ広場のカフェで炭酸飲料を飲みながら30分ほど休憩、正午過ぎに宿へ戻った。

1時間ほど部屋で休み、再び外出。前々日に閉まっていたスーパーに再挑戦しなければ ガイドブック情報によると、アルコールが買えるという。
マラケシュの宿にはアルコールを置いていないことは確認済み、しかし前夜パティオで赤ワインを傾けている客がいた。宿の人曰く、外で買って持ち込むのはO.Kだそうなので、やはり近所に買える所があるはず。2日前にフラレたスーパーに目をつけ、13時過ぎの暑いさなかを向かう。部屋で待機するというDちゃんとは別行動。
ドゥカラ門を出て500mほど。この前も止まっていた下りのエスカレーターを階段のごとく駆け下りると、スーパーは営業していた。あの時はエスカレーターの停止を以て閉店と判断したけど、下りてみれば開いていたんだろうなぁ・・・あぁ、早合点
それはともかくとして、アルコール探求である。青果から順に売り場を見ていくが、アルコールは見当たらない。メクネスのスーパーもこんなだったな・・・落胆しつつ、せめてノンアルコールビールとつまみでも買って行こうとレジに並ぶ。と、私の前のレゲエっぽい風体の外国人が正真正銘のビールを買っている。ん
ふと前方を見ると、半分シャッターの下りた「CAVE」があるではないか 

あわてて逆戻りし、ノンアルコールビールを棚に戻してCAVEへ。係員にパスポートを渡し、無事入ることができた。
そこにはモロッコ産だけでなく、輸入ワインまでズラリと並んでいた。あぁ、夢のよう
ガイドブックで見かけて気になっていた銘柄のワインKSARとAMAZIRをゲット。さらにモロッコ産ビールも2本【右のSTORK、左のFlagともにメジャーらしい】。
パスポートを返してもらい、ホクホクで宿へ戻る。やっぱりリベンジしてよかった



16時半からハマムを予約していた。迷う可能性も考えて早めに宿を出たものの、前日に見当をつけていた場所の付近に難なく見つかり、15時50分にたどり着いてしまった。
すると、16時から始めることが可能と言ってもらえて、どんどん事が進んでいった。後から思えば貸切状態、終わればそのぶん早く帰宅できるスタッフたちと我々の利害が一致したのだろう。
このハマムは、1泊4万円ほどする高級リヤドが運営している。3夜も泊まることはできないので、ちょっぴりお邪魔して雰囲気だけでも味わうことに
通りに面した宿のエントランス。

プールでくつろぐ宿泊客の脇を通り過ぎる。

さりげなく置かれている調度品。このゲーム何だっけ、バックギャモン 

通路に配されたオブジェはさりげなく、でも美しい。



メニューは・・・何℃なのか知るのも恐ろしい、高温のスチーム風呂に15分閉じ込められ、正直苦しかった が、その後のスクラブ(垢すり)は快適。もちろん毎日シャワーを浴びていたが、これまで散々かいてきた汗の詰まった皮脂が吹き飛んでサッパリ 丸裸になって女性スタッフに擦られるのがイヤでなければ、オススメである。
最後のボディーマッサージは、いつの間にか眠ってしまっていた。いつも思うのだが、起きていてほぐされるのを感じていたいのに、心地よいと眠りに落ち、気づくと施術が終わっている。永遠のパラドックス 色々ある中で私たちが選んだコースは1時間半で625DH(約7,500円)。決して安くはないが、値段に十分見合った内容で大満足

ハマムですっかり体調が良くなったDちゃんと、ジャマ・エル・フナ広場へ向かった。18時過ぎ・・・前日より1時間遅い時間帯なので、夜に向けてにぎわいを増している。
広場の南東に面したカフェのバルコニーから広場を見下ろすことにした。観光用と思われる馬車が横切っていく。

ここのところ朝食以外は口にしなかったDちゃんがピザを食べたいという。あぁ 体調回復してホントによかった
ワインでつまみたいところだが、いつものパターンでメニューにアルコールは無い ずいぶん慣らされてきた自分、リンゴの炭酸ジュース(下の画像、緑色のビン)でピザを頬張る。ラムのミンチ、マッシュルーム、オリーブが載って美味だった

広場を眺めながら、ラマダーンが明けるのを1時間半ほど待った。かなりの長居だが、我々同様に観光客と思われる周囲の外国人たちも立ち上がる気配はない。このカフェは客の目的をよく理解しているらしく、追い出されないのはありがたかった
いよいよ日が傾いていく。

少しずつ数が増えて、調理の煙を上げる屋台。照明の裸電球のオレンジ色がひとつ、またひとつ点いていく。
ラマダーンの終了を告げる日没の放送を待ちわびる人々の高揚感が、広場のざわめきとして伝わってくる。

前日は体調がすぐれず早々に宿へ引き揚げざるを得ず、もしかしたら今日もダメかもしれないと諦めかけていた。
が、一発大逆転。夜のフナ広場を堪能することができてよかった。間違いなくこの旅のハイライトのひとつだった

19時34分、日が没した。夜中にかけてますます盛り上がらんとする喧騒の余韻に浸りつつ、私たちは広場を後にした。
下の画像は、帰りぎわ目にしたクトゥビア。マラケシュ滞在中、何度もこの横を通り過ぎたが、昼間とはまた違う雰囲気もいい。


12・13 マラケシュ ⇒エッサウィラ (2013年8月3日)

9時にマラケシュを発ち、約200㎞西のエッサウィラへ向かう。途中、モロッコ南西部のみというアルガンの木の群生地帯を通った。
ヤギは木に登ってアルガンの実を食べるらしい。

そう都合よく木の上のヤギに出くわすはずもなく、ここはヤギを登らせているフォトスポットなのである
今回調べたところ、丁寧な作り方をしているアルガンオイルは、ヤギが吐き出した種の中心から芯を取り出して手作業で絞るらしい。100㎏の実からオイルは1ℓしか採れない希少なものなんだそうだ。


所要2時間半、エッサウィラの旧市街にある宿へ到着。
これがまたセンスの良いリヤドだった。こちらが光あふれるエントランス。

ロビーはコーナーごとに異なるインテリアになっている。


ウェルカムドリンクとスイーツ。ポットカバーにご注目あれ。イスラームを意識したユニークなモチーフ

垣間見えたキッチン。ここでさっきのケーキを焼いたのだろうか。

廊下はこんな感じ。腰壁と床のタイルが好みだわ~

そして、お部屋は黒でシックにまとめられていた。

洗面所も超スタイリッシュ


半日観光の初めは博物館へ。
様々な時代のコインが展示されていたが、ローマ帝国のものもあった。さすが、紀元前9世紀から港町として栄えてきただけある。

海辺の町だからなのか、貝も展示されていた。疎くて、種類が全然分からないけども

男女の民族衣装もたくさん展示されていた。備忘録にメモがなく、詳しい説明ができなくてごめんなさい
けっこう派手な色合いである。

さっきのよりも厚そうな生地。

スタンドカラーが効いている。左脇の短刀も目立つなぁ。

これは綿製だろうか。女性の衣装に比べると、ナチュラルな風合い。

木製の楽器が並ぶ。


遅めの昼食を求めて、街をそぞろ歩く。路地のそこかしこに土産物屋があった。
なお、この町の建物は基本的に壁が白、窓枠が青だという。

ふらっと入った食堂で、メインを待ちながらオリーブとパンを食す。これまで出会ってきたのはいわゆるフランスパンのタイプだったが、一風異なる。平たくて薄い。
このたび調べたところ、マハラシュというパンらしく、モロッコ人にとってはこちらが一般的ということも判明。

海辺に来たので、魚のタジンに初挑戦。といっても、野菜で魚が隠れちゃってるけど


お腹を満たした後、港の方面へ向かう。岩礁の向こうに海が見えてきた・・・この旅で初めて目にする大西洋。

カモメにエサをやる女性がいた。

舟の向こうに見えるのが南のスカラ【16世紀初めにポルトガルがつくった砦をベースに、アラウィー朝が18世紀後半に改造】。

スカラに上がって眺めたエッサウィラの町。海の間際まで町を築いていることが見てとれる。そして、白い壁と青い舟のコントラストが美しい。

スカラの壁穴から旧市街を望む。このアングルは絶好のスポットらしいので、上の画像と大差ない気もするが載せておく

ズラリと並ぶ大砲の先には現役の港がある。

港の手前には造船所もある。チーク材とユーカリ材からトロール船を造るという。

スカラを下りて、港の方面から振り返る。画像の右端、緑の屋根を持つのが海の門。

三角形の妻壁には装飾的なアラビア文字。その上に90°出っ張っているモチーフは貝だろうか。下のアーチの上には三日月が3つ並ぶ。

海の門をくぐると、魚市場が広がる。男性が処理しているのは海老のようだ。右にポツンと見ゆるは蟹。


ムーレイ・エル・ハッサン広場から北上し、もうひとつのスカラへ。
右手には絵を広げて売る人がいた【18世紀半ば以降、この町には文人や芸術家が集まっているという。毎年6月には町をあげて音楽祭を開くらしい】。

荒波に向かって突き出す大砲。

土産物屋の軒先を冷やかしながら歩く・・・と、目が点になる。デザインのように擬態してるけど、本物のネコだぁ

この店にもやたらと猫がいる。港町だから

色とデザインが好みのど真ん中、モロッコ型のグラス【上から3分の1の高さに出っ張りがあるのが特徴】。店頭に数個並んでいて迷ったが、2つ購入した(画像はこの記事を書くにあたって撮影したもの)。

鉄製ではなく、木の扉は珍しい気がする。美しいタイル、そしてやはりファティマの手。

現在の町は18世紀後半にフランス人の設計により整備されたという【そのときモガドールと呼ばれていたこの地は、アラビア語で「良くデザインされた場所」を意味するエッサウィラに改名】。そう思って見るからだろうか、どこか異国風にも感じる。


ひととおりまわって17時。夕食にはまだ早いので、一旦宿へ戻ることにした。
18時半過ぎに再び外出。昼間に目をつけていたお店が19時オープンでまだ開いていなかったため、少しだけ時間をつぶすことに。大西洋に沈む夕陽が見られるというので、北のスカラへ再度向かう。両側に土産物屋が続き、まるで仲見世のようなストリート。

同じ場所を城壁の上から見下ろす。画像左の城壁の左手はすぐ海である。

北のスカラからは南のスカラまで見渡すことができた。ここにも猫たち

太陽は低い位置まで来ているが、もうしばらくは沈みそうにない色をしている。

先ほどより明らかに人けが少なくなり、静か。

時間をつぶしているうち、先ほど買ったグラスがもう1つ欲しくなって再びお店に足を運んだが、閉まっていた。周囲のお店は開いているのに・・・ま、商売っ気なさそうだったしなぁ、さもありなん。これが一期一会というやつ・・・旅先で何度も経験しているのに、性懲りもなくまたやってしまった 
ちなみに、いま私の手元にはこのグラスが1つしかない。帰国後に使用していて、1つ割ってしまったのだ。お気に入りの食器ほどすぐ割れるの法則

さて、夕食はムーレイ・エル・ハッサン広場の一角にあるBarに入店。ここはワインを出してくれる
やはり魚介でしょ、ってことでスモークサーモン。

パイグラタン。手前のサラダがメインのごとく写ってるし、しかも食べかけの画像しかなくて・・・ごめんなさい

ロゼと白の中間のような美しい色合いのこちらのワインは、果皮が藤色やピンクの灰色葡萄(グルナッシュ・グリやサンソーなどの品種)からつくられるvin gris。これがメチャメチャ美味しかった この記事を書くにあたり調べたら、エッサウィラ近郊もワインの産地なんだとか。その事実はつゆ知らず、ただただ海辺の風情に魅かれてこの町を訪れることにしたのだが、こんな副産物までついてくるとは・・・まさに僥倖


13・14・1 エッサウィラ ⇒アル・ジャディーダ ⇒カサブランカ (2013年8月4日) 

思ったよりも早く支度が終わり、ピックアップまで少し時間があったので、最後の街歩きに出かけた。
南のスカラ、朝の光景。

旧市街の方向を振り返るとこんな感じ。ムーレイ・エル・ハッサン広場に人影はまばら。動き出しがのんびりしている町なのだろうか。


この日は最終宿泊地のカサブランカへ向かうことになっていた。
9時に出発して、エッサウィラから約250㎞北東の地アル・ジャディーダに13時ころ到着【1502年~1769年までポルトガルが支配したこの町は世界遺産に登録されている。インド航路に携わるポルトガル人の居住地として建設され、当時はマサガンと呼ばれた。ポルトガル撤退後に「新しきもの」を意味するアル・ジャディーダに改称】。
旧市街への門をくぐる。

300mほど歩き、砦へのぼる。

大西洋に向かって構える大砲。

手前の海は見たところ浅そう。

西を見渡す。

先ほど遠くから眺めた砦の西の角を目指して歩く。観光客らしいムスリム家族の後を追いかける形になった。
ひそやかに白い星が描かれている正面の建物はシナゴーグ【19世紀後半~1950年代まで、旧市街にユダヤ人が多く暮らしていたという】。

振り返るとこんな感じ。左手が海側で、右側が旧市街の方角である。

砦の外を見晴らすと、自分がいま高い場所にいることを実感する。

ポルトガル時代の面影を残すという旧市街の街並みは、黄色い壁が目立つ。同じ港町でも、白壁に青のアクセントが際立っていたエッサウィラとはずいぶん雰囲気が異なっていて面白い。

ポルトガルの貯水槽【雨の少ないこの地での籠城を想定して、16世紀前半に穀物庫を改装。天窓から雨水が流れ込む構造になっている】。ゴシック様式の円柱で仕切られた地下の空間は、地上から射し込む光が幻想的。

インフォメーションセンターもないので何となく歩きまわったのだが、これは・・・ガイドブックに書いてあったポルトガル時代の教会だろうか? 新しそうな外観だけど、一歩入ると中は古いってパターンかもしれないなぁ。開いていれば即インしたかったが、残念 この日は日曜だったので、礼拝中だったのかも。


100㎞東北東のカサブランカへは16時半頃到着。ホテルへチェックインする前に、寄りたい場所をドライバーさんにリクエスト。だって、市街地から離れてるんだもん
ハッサン2世モスクである【海の上にモスクを建てたいとのハッサン2世の要望により、大西洋のそばに建設された。国内外から原材料を厳選し、現代の技術の粋を集めて20世紀末に完成したモスク。高さ200mを誇るミナレットは世界1位】。内部の見学は1日4回のグループツアーでのみ可能なのだが、この日のツアーは終了していた。
意外に海辺の風は強い。激しい波音を聞きながら、エメラルドグリーンと白のコントラストが美しいミナレットをうっとり見上げたのだった。


17時にホテルへ到着。近くのスーパーへ行ってインスタントハリラ、魚のコンソメにサフランのコンソメ、ミントティーのティーバッグなどを購入。お土産と自分用の両方である。
さらに、旧市街入口にある時計台や港にも行ったのだが、いかんせん画像がない。薄暗かったから撮影をあきらめたのだと思われる。
モロッコ最後のディナーはDちゃんと相談のすえ、ホテルのバイキングにした。2人そろって旅の途中で食欲不振に陥ったが、回復して最後は心おきなく食事を楽しめる状況になってよかった こちらが会場の様子。

お料理の画像が残っていないので、こちらを。キンキンに冷えたモロッコはBenslimane産の白ワインをいただいた
↑ ワインの産地はしっかりメモしてあった・・・何やってんだか(調べたところ、このメダイヨンはモロッコ最古といわれる作り手の銘柄らしい。カサブランカとラバトの中間、両都市から50㎞ほど離れたBenslimaneは、フランスのローヌとかボルドーに条件が近く、海風に吹かれて立派なブドウが生育する優良産地なんだそうだ)。


1 カサブランカ (⇒ドバイ)(2013年8月5日)

13時半に離陸のため、10時に迎えが来ることになっていた。
支度を整え、ホテルにDちゃんと荷物を残して9時前に外出。この旅で書いてきたハガキたちを投函する必要があった。
ホテルの近くに見つけていた本局は、時間のせいか閉まっていた。地図を見直して、中央市場近くの郵便局へ向かう。幸い開いていて、無事に目的を果たせた。空港でも投函できるかもしれないが、まさかの郵便局がない経験を過去にしているので、用心に越したことはない

★ 終わりに ★

この記事を書くにあたり色々検索していたところ、現在モロッコにお住まいの日本人の方が書かれたブログを偶然目にした。それによると、マラケシュで自分がワインとビールを入手したスーパー(チェーン)は、この旅の数年後にアルコールの販売から撤退したそうだ。いまやマラケシュの旧市街に泊まりながらアルコールを確保するには徒歩では難しく、バスに乗ってより郊外の別のスーパーへ行かねばならないらしい 
私が旅した時点では、探す情熱さえあれば たとえラマダーン中であっても、なんとかアルコールを入手できたなという印象だった。が、この数年でさらに難易度が上がっているのかもしれない。これからモロッコを目指そうとするアルコール党の方のご健闘を祈ってやみません。

ちなみに、ワインづくりは古代ローマ時代まで遡るモロッコだが、イスラームの影響もあって 連綿と続いてきたわけではないようだ。20世紀初頭のフランス植民地時代に持ち込まれた技術すら一時は廃れた。ムスリムにアルコールを売ることは法律で禁じられているこの国で、輸出や観光客を念頭に外国からワインづくりのノウハウを取り入れたのは1990年代、ハッサン2世の時らしい。おかげでこんなに美味しいワインを味わうことができた。日本にいながらサイトで入手することもできる。ありがとう 海辺にそびえる大きなモスクを思い浮かべながら、心の中で叫ぶのだった
 おしまい 



































































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モロッコ篇 その2

2021年10月03日 | アフリカ
下の地図中の①~④は第1弾で訪れた場所です。旅の中盤では➎~⓬をまわりました。ただし、カスバ街道は➒のトドラ渓谷に集約しています。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


5・6・7・8 フェズ ⇒イフレン ⇒ミデルト ⇒メルズーガ (2013年7月29日)

2泊したフェズを発つ朝。パティオに面した小部屋でコンチネンタルな朝食をとる。



この日はサハラ砂漠のメルズーガ目指して、400㎞ほど南下することになっていた。
9時にホテルを出発、フェズの南南西数十kmのイフレンで休憩。
標高1,650mのこの地は冬に雪が降る場所で、夏でも涼しい【フランスの植民地だった時代に避暑地として開発され、現在も富豪の別荘があるという。冬にはスキーリゾートとしてもにぎわうらしい】。確かに、これまでまわってきたモロッコの各地とは一風趣が異なる。

家並みはヨーロッパ風 屋根の上にご注目あれ。

多くの家の煙突にコウノトリが営巣しているのだった。

軽井沢をこじんまりとした感じの町には、それなりに観光客がいた。私たちと同様にこれから砂漠へ向かう人たちもいるのだろう。
ちょうど目に留まった郵便局に入り、この旅で書くつもりのハガキぶん、切手をごっそり入手

山脈(モワイヤン・アトラス)を越えながら2時間ほど進み、ミデルトに到着。イフレンより約100㎞南の地点である。
宿泊業も営んでいるホテルのレストランで昼食。例によってドリンクメニューを見ながら、ダメもとで “Do you have wine?”
まさかのYes!だった。とはいえ ここまで振られ続けてきた身、目の前に出てくるまではにわかに信じがたい。妙な緊張感が漂うこと数分・・・
堂々とGuerrouaneの赤が登場。ああ・・・なんと神々しい ヴォルビリス遺跡で拝んだディオニュソスが降臨したのだ
エチケットの裏にメクネス近郊の地図が描かれていた。入国以来3日ぶりのアルコール、しかもそれが待望のメクネス産ワイン Dちゃんが引くほどテンション爆上がりな自分だった

ちなみに、お料理はサラダとスパゲッティーボロネーゼだった。どちらもシュレッドしたチーズがかかっているため、パッと見同じような印象だなぁ



メルズーガまでの4時間半、トイレ休憩で所々停まりながら進んで行った。以下は立ち寄った場所の景観。地名を記録しておらず、詳細不明でごめんなさい


途中、化石を掘り出して研磨する工房にも立ち寄った。これも備忘録に地名を記していないのだが、この記事を書くにあたり調べたところ エルフード(メルズーガの北方数十㎞の町)だと思われる。その昔 この場所が海だったとは想像しがたいが、目の前にはその証が数々横たわっていた。
中でもロケット状の細長い化石が目を引いた。直角貝だろうか ←今回リサーチした知識

これはアンモナイトだよね・・・

三葉虫でいいんだろうか? いかんせん、この方面の知識がほぼない自分

砂漠のバラ。砂の中のミネラルが結晶化してできるという。


17時55分、メルズーガの宿に到着。観光客の便宜をはかって砂漠のすぐ横に建てた感じで、目の前にシェビ砂丘が見える。

ホテル前にはラクダstationがあり、初めてラクダの鳴き声を耳にした。羊の "メェ~” に近いといえば近いかも・・・(画像の撮影は翌朝)


ディナーまで部屋で休む。
18度設定でクーラーが入っているにもかかわらず、座っているだけで汗がダラダラ流れる。シャワーを浴びても、その直後から汗が噴き出す。これが砂漠の暑さか・・・正真正銘の初体験 ともあれ、汗拭きデオドラントシートが大活躍なのだった。
パティオにあるプールでは少年たちが戯れている。いいなぁ~ こういう環境下では水浴びが一番涼しいに決まっている。
水着は一応スーツケースの中に入っている。が、衆人環視のプールに入る勇気はない

熱風の中、プールを囲むパティオにて夕食。21時からベルベル人の音楽ショーが始まったが、明朝の4時起きが引っかかる。
ひととおり食べ終えると、そそくさと席を立った(夕食の画像がなくて、ごめんなさい)。


8・9・10 メルズーガ ⇒トドラ渓谷 ⇒(カスバ街道経由)⇒ワルザザート (2013年7月30日)

ラクダに乗って砂丘に向かい、日の出を見るために午前4時に起きて支度。しかし、寝ぼけていて普段以上に時間がかかった。
部屋を出てすぐに、パスポートの入ったケースを置いてきたことに気づいたが、待ち合わせ時刻の4時半を少し過ぎている。かなり気になるが、引き返す時間もない
辺りは真っ暗である。闇にうっすら浮かぶベルベル人のガイドさん。

私たちが乗るラクダ2頭をヒモでつなぎ、徒歩のガイドさんが先頭で引っ張る。ラクダの背中に取り付けられた金属の取っ手がかなりしっかりしていて、居心地が良い(3枚上の画像で、お尻を乗せる布の前方にT字形の取っ手が写っている)。かつてスリランカで象に乗った時よりも楽勝 こーいう時は背筋を伸ばしたほうがいいんだっけ、乗馬みたいに・・・って、やったことないけど

メルズーガ村の灯を背にしながら、ラクダはサクサクと砂を踏みしめて進む。
「どれくらいの時間乗るんだろう?」 「1時間?」 「そんなに? 30分くらいじゃない?」 ラクダの上で会話を交わすDちゃんと私。
結局30分ほどでラクダを降り、ガイドさんに連れられて砂漠を登る。薄暗いから恐怖感はないが、けっこうな急斜面 サラサラとした砂に足が埋まるけど、登山と同じ要領で、のぼりは前方に体重をかけると若干歩きやすくなる。ハイカットのスニーカーに3分の1ほど砂が入ったけど
剣先のように鋭い尾根(?)に腰を下ろし、日の出を待った。しだいに明るくなっていく空。



遠くに見ゆるはメルズーガ村(ピンボケでごめんなさい)。

日の出前、えもいわれぬ色に染まる砂漠。

30分ほどで日が昇った。快晴とはいかなかったが、雲の合間から日の出を拝むことができた。
それにしても、自分がサハラ砂漠の北西端にいるという実感がわいてこない。いつも思うのだが、美しい情景を目の当たりにするとリアリティーが薄くなるものなのか・・・

座っていたラクダのうち1頭が立ち上がり、今にも去りそうな気配を見せると、横にいたガイドさんは猛スピードで急斜面を駆け下りていった。

砂丘の上、Dちゃんと2人の時間がしばし流れる。

明るくなっての下りは、足元が見えるだけにスリルがあった。勢いにまかせて先に下りた自分・・・振り返って見たDちゃん。


砂漠を去る前にやりたいことがあった。趣味で始めて3年半、これまでの旅では思いもつかなかったのだが、ふとサハラ砂漠でフラダンスを踊りたいと欲望が湧いた
快諾してくれたDちゃんは動画を撮影してくれるという。モロッコ入りして数日、Dちゃんがシャワーを浴びている間にこっそり練習していた。
とにかく一度きりにしようと心に決め、集中して臨んだ。マキシワンピの裾を踏むトラブルはあったが、とにかく踊りきった。動画を見たら、いつも先生に注意されている所がダメダメで反省しきりなんだけど・・・初めて砂の上で踊って、気持ちよかったぁ 砂に刻んだ私の足跡

メルズーガまでの帰り道、下りではラクダの前足と後ろ足の高低差でその背中が前のめりになり、若干ヒヤヒヤ
Dちゃんは酔い止めを飲み、取っ手を力いっぱい握りしめていたところ、前腕が筋肉痛になったらしい。動物の背中に揺られるのもラクじゃない

9時にホテルを出発、300㎞ほど西のワルザザートへ向かう。経由するカスバ街道沿いには、その名のとおり要塞(カスバ)が点在する。
道中で見かけたカスバ、白い塔がひときわ目立つ。

こちらは丸い要塞の形がはっきりと分かる。


正午過ぎ、トドラ渓谷へ【カスバ街道で一二を争う景勝地という】。
両側から岩壁が迫ってくる。トドラ川(画像の右下)はかなり浅いが、雨季になれば増水するのだろうか。

ここで昼食をとった。典型的な前菜、モロカンサラダ【角切りにしたトマト・玉ねぎ・ピーマン、黒オリーブのドレッシング和え】。

ケフタ(=ミートボール)のタジン、目玉焼き添え。第1弾で既報のとおりメクネスでも食べたが、かなり自分好みの料理


車窓から見かけた建物。日干しレンガに模様が浅~く刻まれている・・・これまで自分が旅してきた国々では見かけたことがない類。思わずパシャリ

15時過ぎ、バラの栽培で有名なエル・ケラア・ムグナに寄ったが、ローズウォーターや石鹼などを扱うお店に入ったのみ。5月初旬に収穫を終えてバラ祭りを開催するらしいので、シーズン外ということか・・・時期が合えば花を愛でることができたのだろうなぁ。一面ピンク色の花園を夢想し、ちょっぴり残念な気持ちになった

17時過ぎ、ワルザザートの宿に到着。これがかなりモダンで洒落たDar(リヤドよりも小規模な邸宅風の宿)だった。
こちらはエントランスを振り返ったところ。絨緞はこんな風に使うのね・・・

入ってすぐ目の前はパティオ。

プールが見えるテラスで夕食。

備忘録によるとタジンも食したようだが、画像がない。代わりに(?)前菜の画像を載せる。2人分とはいえ、てんこ盛り。旅先でこんなに野菜をたっぷり口にできるとは、本当にありがたい(照明で画像の右が白っぽくなっていて、ごめんなさい)。

スタイリッシュな宿ゆえか、ワインも普通にオンリスト 血眼になって探したメクネス、フェズでの日々が遠い昔のことのように思える。
この銘柄プレジデントは、この後も他の場所で見かけた。ポピュラーなんだろうか・・・


10・11・12 ワルザザート ⇒アイト・ベン・ハッドゥ ⇒マラケシュ (2013年7月31日)

ワルザザートの朝、部屋からの眺め。

この日は150㎞くらい北西のマラケシュへ移動で、その途中に世界遺産のアイト・ベン・ハッドゥへ立ち寄ることになっていた。
1時間ほどでアイト・ベン・ハッドゥへ。

対岸の村で車を降り、歩いていく。前方の丘に要塞らしきモノが見えてきた【正確に言うとここは要塞=カスバではなく、要塞化した村=クサルなんだそうだ。素人目には違いがイマイチ分からないが、これまで車窓で目にしてきたカスバよりも こじんまりまとまっている感はある】。

雨季には川になるのだろうが、訪れた時期には完全に干上がっていた。

入口を振り返って見ると、こんな感じ。

塔には浮彫装飾がほどこされている。アーチの下、十字に渡されている木材は崩落防止用だろうか。

織機と食器が無造作に置かれている。観光客のためにかつての暮らしぶりを保存しているようだ【今もこのクサルで暮らすのは数家族ほどで、かつての住民はほとんどが電気・水道が通る対岸の新しい村へ引っ越したという】。

ちょっと可愛い看板

クサルの中の高い場所へと上っていく。けっこう距離があり、また真上から照りつける日射しが思いのほかキツかった

下の画像でピンクの♥からの眺めが、下の3枚。3枚目に写る家々は件の対岸の新しい村である。
ちなみに、♥の右の建物は見張り台&穀物倉庫。敵の襲来に備えてとんでもない高所に食糧を貯える・・・すごい知恵





マラケシュへは、この国を北東に貫く山脈を越えなければならない。オート・アトラス越え、景色のいい場所で昼食だった。

振り返ると、この日は最も体調がすぐれなかった。実は4日目からお腹を下していたものの胃はいたって健康、食欲はあった。ところが、この日は時間が経過してもなかなか空腹感を得られない。昼食はスープを飲むのがやっとだった

マラケシュまでの途上、アルガン・オイルのお店に寄った。自分たちが訪れる少し前あたりから、日本でも話題になっていたアルガン。
初めて見るアルガンの実は思ったより小さめ。

まさにオイルを絞り出しているところ。

肌に塗るスプレー、リップクリーム、食用のオイルを購入したのだが、画像を撮ってなくてごめんなさい

15時半、マラケシュに到着。この旅で最長の3泊過ごすDarは旧市街の中である。
私だけでなくDちゃんもお腹を壊してしまい、2人してテンションが急降下 出歩かず、涼しくなるまで部屋で休むことにした。
結局、夕食はレストランに行かず、宿から片道15分くらいのスーパーへ行って部屋食にする計画を立て、18時半過ぎに宿を出発した。しかし道を間違えて時間をロスし、たどり着いたら閉店しているようだった。なんとお粗末な それにしても、ガイドブック情報の22時よりもかなり早い閉店である。ラマダーン中だから?
幸いなことに、歩いていたら多少元気になってきた自分 途上のお店で飲料を買い、宿へ向かう。
旧市街とその外を隔てるドゥカラ門まで戻ってきたところで、この日のラマダーン終了を告げる放送が入った。すると、門のそばの市場で働くモロッコ人たちは1.5ℓのペットボトルを一気飲みしている。また、カウントダウンしながら用意したであろうスープを口にしていた。ちょうどタイミングよく通りすがり、ローカルな人々のリアルな光景を目にすることができた。ラッキー

夕食(と呼べないかもしれないが)は機内で出されたスナック2袋と、先ほど調達した500㎖のスプライト。汗をかいたから塩、お腹が緩いから砂糖、と結構いいかげんな対処である。栄養面では問題アリだが、消化器官を休めることはできるかも。
このマラケシュの宿のほど近くにはモスクがあって、夜中?夜明け?に眠りを覚まされた。ラマダーン入りを告げる放送 その昔イスタンブールはブルーモスクのそばに泊まった時も大音量に驚いたな・・・懐かしく思い出しながら、再び眠りに落ちていた。
ちなみに翌日と翌々日には放送も何のその、しっかり眠ってしまった。いやはや、慣れとは恐ろしいものである
下の画像が件のモスク。手前が市場、右奥が宿のある方角である。


12 マラケシュ (2013年8月1日)

私たちの部屋は最上階の3階だった。部屋を出ると、パティオを見下ろす格好になる。ちなみに3階にはテラスがあり、画像左のスペースで宿泊客は自由に過ごせるようになっていた。

朝食はパティオにて。木製の扉が雰囲気を醸し出している。



9時半、ホテルを出発。このDarの扉にも“ファティマの手”が付いていた。

宿を出て通りへ合流するまでの路地では、猫がのんびり寝そべっている。

この町のシンボル、クトゥビア【高さ77mのミナレットは12世紀末、ヤクーブ・エル・マンスールが建てた。均整のとれたそのスタイルから、スペインはセビリアにあるヒラルダの塔とともにムーア様式の傑作と称される】。

最初に伝統工芸館へ向かった。様々な職人さんたちが集まっており、販売される手工芸品は値札付き(値引き交渉なしのスタイル)のため相場を知ることができる、とのガイドブック情報に魅かれた。スークで買い物する前にチェックしないとね
見るだけのつもりが、exoticなデザインとvividな色にヤラレてサンダルを買ってしまった(撮影は宿へ戻った後、パティオのプールサイドにて)


次にサアード朝の墳墓群を目指した。この日も含めマラケシュでまる2日フリーだったが、翌日には開いていないことが判明したので。
下の画像、馬車ではなく右のデジタル表示にご注目あれ。前夜、Dちゃんの検索で気温が41度になるらしいことを知ってはいたが、実際に歩いてみて汗の吹き出し方と喉の渇きが尋常ではないことに驚く 500㎖のペットボトルを2時間でかなり消費してしまった・・・宿へ戻る前に尽きることは確実。


朱色の壁に緑の砂岩が印象的なアグノウ門【スルタンが宮殿へ行く際に使用した門】。

こちらがサアード朝【1549~1659年、ここマラケシュを都にモロッコを支配した王朝】の廟。

12本の円柱で構成される空間の中央に、サアード朝の全盛期を築いたアフメド・アル・マンスールの墓がある。天井から床までの全てが精緻な装飾で彩られている。

見上げるとこんな感じ。石だけでなく木も使用している。360度手抜かりのない細工は見事というほかない。

ベージュの壁とブルー系のタイルの取り合わせが麗しい


次はバヒア宮殿へ。たった数百mの距離なのに、40度超えの中を歩くのは想像以上につらい
その途中で見かけた光景。馬が引く荷台にはトマトが山積み。あぁ、1つかじりたい・・・口中に広がる酸味を含んだエキスを思わず想像してしまった。最後の晩餐はトマトと思うくらい大好物なもので


閑話休題、バヒア宮殿である。タイルと木を組み合わせた不思議な家具。

木製の扉と床のタイルのコントラストが面白い。

白くて涼しげなパティオ。

天井の装飾に目を奪われる。


予定ではこの後スークで買い物するつもりだったが、腹痛と暑さですっかりまいってしまったDちゃんは一旦宿へ戻りたいという。
旧市街の中心ジャマ・エル・フナ広場へ向かい、カフェで冷たいものを飲んで宿へ引き揚げることにする。リヤド・ズィトン・エル・ケディム通りの外れにあるカフェでコーラを注文。冷たい液体が身体にしみわたっていく・・・ふだんアルコール以外の飲み物は冷やさない主義の自分だが、この気温では内側から冷やすのが心地良い。そして、大丈夫と思っていた自分も予想以上に体力を消耗していたらしい。しばらくは立ち上がる気力もなく、20分も休憩してしまった 
下の画像は昼間のフナ広場。まだほとんどお店が出ていない。 

マラケシュのDarはフナ広場から徒歩10分強。決して近くはないが、道が分かりやすくてありがたかった。フェズと比べるとマラケシュの難易度は全体的に低いが、たやすいに越したことはない。
2時間半ほど休んで、16時過ぎに再びホテルを出発。フナ広場の北に広がるスークで買い物タイム ぜひ買いたいと思っていたモノたちをgetすることができた(この記事を書くにあたり撮影)。タジン型小物入れは幅14cm、高さ8.5cm(現在、オブジェとしてTV台の上に飾っている)。

ミントティーグラス(高さ8.5cm)。モロッコ型の他にもトルコ型やフランス型が売られていることを事前に知り、洋梨のような丸いフォルムに魅かれてトルコ型を買った。
さて、画像を見て金色の模様の他に点々と残る緑色にお気づきだろうか。実は、買った時はグラスの下半分は着色されており、緑・ピンク・紫・赤・青の5個セットだった。が、セロファン状に色を吹き付けてあったらしく、帰国して洗ったら取れてしまった カラフルさが気に入って購入したのだから、残念このうえない 買う前にじっくり品物を確認しながら見抜けなかった自分の節穴加減に呆れつつ、ビールをちびちび飲むのに使っている。ちなみに、出国時にカサブランカの空港の土産店で同様のグラス5個セットを見かけた。形や模様を変えて何種類かあり、きちんとした箱入りで品質も問題なさそうだった。スークでの買い物は心配という方にオススメである。

なお、スークにてアザーン時計(礼拝の時間を告げるモスクからの放送=アザーンがメロディーになっている目覚まし時計)を見つけることはできなかった

17時過ぎ、買い物が一段落。この広場に屋台が集まって大道芸が盛り上がる時間帯までにはまだまだあるので、フナ広場に面したカフェに入りミントティーをすする。しかし普段そういう習慣がないからか、長居がどうも性に合わない。かなり回復してきた自分に対して、いまだ体調がすぐれないDちゃんのことも気にかかり、広場を去ることにした。
ただしその前に・・・レストランで夕食はムリにしても、何か調達しなければ昨夜と同じ状況になってしまう。さすがにそれは避けたい
広場の一角で、早めに支度して商売を始めているおじちゃんがいた。イワシとトマトをスパイシーに味付けしたような具をはさんだサンドを10DH(約120円)で入手、夕食を確保

18時20分、ホテルに帰着。交互にシャワーを浴びる。
実はフナ広場へ出かける前から、部屋のクーラーの調子がおかしかった。やはり全然冷えない 
幸い日が沈んで風が吹き涼しくなってきたので、テラスに出て食事をとることにする。こちらが夜のテラスの様子。遠くでひときわ目立つのはクトゥビア。

イワシのサンドは予想通り美味だった これに、日本から持って来たワインを合わせる(ラマダーン中のムスリムの国でアルコールが全然手に入らない最悪の事態を想定し、フランス産の赤を1本だけスーツケースにしのばせておいた)。十分満足


部屋に戻ってみると、風がさわやかな屋外より断然暑い
しばらくいじってみたがクーラーを諦めて、窓を開けて風通しよく眠ろうと試みる。が、あまりの暑さに午前1時半に目覚めてしまった。Dちゃんも眠れていないという。
この状況だと朝まで眠れない、そもそも2人とも本調子ではないから、睡眠をとらなければこの先が危ぶまれる。
しかし、今さら宿の人に訴えるのはどうなのか。夜中に事を荒立てたくはない・・・いやいや、そんな遠慮をしてる場合なのか
色々な思いが交錯するなか、ひとまず扉の外に出てパティオを見下ろしながら涼んでいた。

すると、宿の人が私に気づいて3階まで上がってきた。昼間2度ほど呼んでクーラーを調整してもらったので、ピンときたのだろう。
クーラーが効かず暑い旨を告げると、しばらくコントローラーを操作していたが断念し、窓を開けたまま眠ることを提案された。満室だから部屋を交換できないという。
既に窓を開けて寝ていたが耐えられずに起きたと伝えると、3階へ上がる階段を閉鎖して扉も開けてはどうかと言われる。
しかし、テラスでは1組の客が談笑しているところだし、3階は私たちの客室だけとはいえ そもそも窓を開けるのすら不本意なのに・・・仮に閉鎖したところで防犯上 扉を開放することはできないと拒否した。そうしたら、宿の人は大きめの扇風機を持って来てくれた。結果的にはこれがなかったら眠れなかったと思うので、ありがたかった。こうして、慮外の一夜が明けたのだった。

★ 中締め ★

このタームでDちゃんと私はそろって体調を崩してしまったが、モロッコの名誉(?)のために書いておきたい。
旅の途中で私たち2人が口にした何かが傷んでいたためにお腹を下したのではない。
3日目(お腹を壊す前日)の昼食を食べすぎたのである。第1弾でお伝えしたとおり、フェズ巡りの最中にガイドさんに案内されたレストランのお料理が美味しくて、前菜をかなり食べてしまった【モロッコでは前菜は注文するのではなくメインに附随して提供されるもので、上級なレストランになるほど大量に盛られたそれを好みの分だけ取り分けるスタイル】。口に運びながらいつも以上に進んでいる自覚はあったが、どうにも抑えることができなかった。今振り返ってみると、ちょうどモロッコに慣れてきたタイミングで警戒心がうすれ、またカラッと乾燥した気候のなか異様に食欲が高まったのだと思う。たぶんこれが10歳いやせめて5歳若ければ何の問題もなかっただろう。認めたくはないが、トシのせいで適応力が落ちてきたのだ 海外をふらつくようになって十数年、機内での眠りが浅くなったとか自身の変化に気づきつつあったが、この出来事は目をそむけたかった事実を突きつけてくれた。一期一会の環境下で怯みたくはないが、今までのような勢い任せは残念ながら通用しない・・・齢を重ねるのが不可避である以上、自覚のうえ工夫しながらでも快適かつ安全に旅を続けたい、これからも

旅の第3弾ではもう少しマラケシュの続きと、大西洋に面した港町エッサウィラとアル・ジャディーダに寄ります。お楽しみに




























































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モロッコ篇 その1

2021年09月03日 | アフリカ
中学・高校時代の友人Dちゃんと十数年ぶりに旅に出ようと話がまとまった。行き先は当初決まっておらず、お互いに興味ある国をいくつか挙げたなかでモロッコに決定 
11日間の旅を3つに分け、第1弾をその1としてお送りします。下の地図の➊~➎はその1で訪れた場所です(ただし、近接するヴォルビリスとムーレイ・イドリスはまとめて➍としています)。また、後の下線部の数字にも対応しています。


1・2・3 (ドバイ)⇒カサブランカ ⇒ラバト ⇒メクネス (2013年7月26日)

ドバイで乗り継いだ飛行機は、予定通り12時過ぎにカサブランカに着陸。ドライバーと難なく落ち合い、その夜の宿泊地メクネスを目指す。200㎞以上東、かなりの大移動である。途中でラバトに寄ろうか?とドライバーに聞かれ、寄らなくていいと伝えたはずなのに車は停まった。単純な会話だ、poorな英語とはいえ通じなかったはずはない・・・せっかく近くを通るから休憩がてら立ち寄ろう、オススメだよということなのかなぁ 一筆書きにまわる旅程ゆえ、このタイミングを逃したら訪れる機会はないし、ま、いっか
車を降りると容赦なく照りつける日射しに、この旅の間にガッツリ灼けるだろうなと予感する。
駐車して、ウダイヤのカスバに向かって歩いた小路がキレイだった。鮮やかな水色が陽光にきらめく。あぁ、シャウエンみたい・・・旅程を決める過程で泣く泣く割愛した水色の街【ラバトから北東200㎞以上の場所にある】。もっとも、あちらは壁面全体が水色だった気がするけど、ちょっとだけ気分味わえた。ラッキー (なお、私とDちゃんの姿が写っている画像しかなかったので、塗りつぶして載せます)


こちらがウダイヤのカスバ【12世紀、ムワッヒド朝が建てた城壁を利用し、17世紀にアラウィー朝が築いた城塞。カスバ=砦】。立ち寄りなので庭園や博物館には入らず、外壁を見るにとどめる。


お次はハッサンの塔へ【高さ44m、未完のミナレット(モスク付属の尖塔)。12世紀末にムワッヒド朝のヤークブ・アル・マンスールが建設に着手したものの、死去により工事が途絶。当時世界一の高さを目指し、倍の高さになる予定だったという】。

同じ敷地内にある、ムハンマド5世の霊廟。

1956年にフランスから独立を勝ち取った人物ということで、丁重に葬られている。古式ゆかしい制服に身を包んだ衛兵が入口と廟内の四隅を守る。


敷地の出口にも騎乗する衛兵がいた。伝統的な壁だろうか、無数の穴が目を引いた。降雨による崩壊を防ぐための穴なのだろうか??


17時前、メクネスに到着。車を降りた後、道を覚えようと意識しながら曲がりくねった旧市街の小路を歩く。たどり着いたのはこじんまりとしたリヤド(邸宅をリノベーションした宿泊施設)だった。小さいパティオ(中庭)はまとまっていて、初リヤド体験の自分にはとても新鮮に映った。

無造作に飾られたタペストリーも板扉も古そう・・・何代にもわたりここでリヤドを営んできたのだろうか。

泊まったお部屋はこんな感じ。広がった荷物の見苦しさ、ご容赦ください。


出国以来1日半ぶりのシャワーを浴び、19時ころ外出。迷わずにエディム広場へ出ることができた。よかった、リヤドまでの道はわりと分かりやすい、ホッ
調子が悪く夕食はいらないというDちゃんに付き合ってもらい、広場に並ぶ食堂のひとつに入った。テキトーに選んだ店なのだが、メニューを見ていると明記された金額にポテトフライ代だのサービス料だのを上乗せすると説明されて、交渉スタート。この国の旅も一筋縄ではいかなさそうだと予感させる。ま、事前に言ってくれるだけ親切だよね。
備忘録によるとシュワルマサンドを食べたらしいが、あるのはミントティーの画像のみ。モロッコ式ミントティー初体験、葉で埋め尽くされる液体はまあまあ圧巻

なお、テラス席のテーブル下にやって来た猫に軽~い気持ちでポテトフライを1本投げたら、そこらじゅうの野良猫が来るわ、くるわ。厚かましいのは私の椅子の上にも乗ってきて大騒ぎ。金輪際、ノラ猫にエサをやるのはやめようと決意する

広場では少年たちがサッカーにいそしんでいる。視界の右端には夕映えのマンスール門。思えば、この旅でいくつもの門を見かけたけど、一番好みだった。ベージュにグリーンの配色、ヘンな修復の手が入ってなくてひなびた感じがいい塩梅だった【メクネスの最盛期は17世紀、アラウィー朝のムーレイ・イスマイルの時代。ルイ14世をリスペクトした彼は「モロッコのヴェルサイユ」建設を目指して古い建物をあれこれ壊し、新しく建て替えていった。彼が手がけた最後の建造物がこの門で、死後の18世紀前半、その息子によって完成】。

19時34分、モスクから大音量の放送。日没が告げられると、みんな一斉に姿を消していく。広場にも人がまばらになった。各家で食卓を囲むんだろうな。
ちなみに、放送が入った瞬間にタバコの火を点けた人をDちゃんは目撃したらしい。こーいうのも、ラマダーン中の旅行だからこそ目にする光景なんだろうなぁ。この旅の日程は私の仕事の都合にDちゃんが合わせてくれて決まり、ラマダーンの時期を選んだわけでは全くないんだけど、なんだか面白くなりそう【ラマダーンとはイスラム暦の第9月であり、イスラム教徒はこの月に日の出から日没まで断食しなければならない。日没~日の出までは飲食できる。ちなみに、2013年のラマダーンは7月9日~8月7日】
日没といっても残光があるので、しばらくはまだ明るい。人気のひいた旧市街をそぞろ歩いて宿へ戻った。


3・4・5 メクネス ⇒ヴォルビリス ⇒ムーレイ・イドリス ⇒メクネス ⇒フェズ (2013年7月27日)

モロッコ2日目、3ヶ所観光しながらフェズへ移動する日。8時に宿を出て、駐車場までの道すがら路地を歩く。


まずはメクネスの北方30㎞にあるヴォルビリス遺跡へ【モロッコに残る最大規模の古代ローマ遺跡。先史時代から集落が存在したが、B.C.40年にはローマの属領となった。帝国の西端として栄え、40ha超の領域に最盛期は2万人が暮らしたという】。
これまで旅を重ねてくるうちに、いつしかモザイクが好きになっていた私。ガイドブックによると、北アフリカのモチーフにはディオニュソスが多いらしい。ワイン党としては楽しみ

遺跡の入口で "ガイド” と称する人に声をかけられたが、断わって自力でまわろうとする。が、順路やポイントを示す標識はなく、人の流れについて行こうにも人影はなし・・・広大な敷地を前にして5分後には迷うハメに もたついていると、"警備員” と名乗る男性が案内役をかって出てくれた。これ、ガイドじゃないけど後でお金を請求されるんだろーな・・・予想しながら、迷って時間を無駄にするよりも着実に進むことを選択。
最初はヴィーナスの家へ。モザイクの意匠は神話。ヴィーナス(左)がニンフ(中央)と水浴びしているところを狩人のアクタエオン(左上、ヴィーナスの頭上)に見られてしまう場面。

イルカと思われるモザイクもあった。

当時の大通り、デクマヌス・マクシムス。通りの奥に、カラカラ帝を記念した凱旋門がわずかに見える。

柱頭は失われているが、牛の頭部と思われる装飾がわずかに残る。

ディオニュソスと四季の家のモザイク。一番下の段(最も手前)の真ん中、黄色い衣装がディオニュソス。たなびく赤いストールが印象的である。わが待望のワインの神
その左右は四季を擬人化した顔。

大通りに面して残るアーチ。アーチ上部の人頭彫刻は明らかに新しい。このあたりが世界遺産だなぁ・・・しっかり修復の手が入っている。

ここは浴場、こういうふうに入るんだよと警備員のωさんが実演してくれた。背もたれ、いいなぁ~

騎士の家のモザイクもかなり大きい。眠っているアリアドネ(右)をディオニュソス(左)が見つける場面。

こちらがカラカラ帝を記念した凱旋門【212年、ローマ皇帝カラカラはアントニヌス勅令を発し、全属州の自由民にローマ市民権を与え、また属州民に課していた税を廃止。この門は3世紀後半、カラカラ帝への感謝を込めて建てられた】。かつてのヴォルビリスの西の入口でもあった。

地面に張りつくように生える植物。降雨の少ない場所で生き延びるための形態か。花は小さいが、色は鮮やか。

バシリカ(集会所、のち礼拝堂)はこの遺跡の中で最も大きな遺構だった。

中央奥、階段の上に数本の柱がそびえる場所はキャピトル(ジュピターを祀る神殿)。

オリーブ製油所。

オルフェウスの家にて。円中央に竪琴を弾くオルフェウス、音色に魅かれて集まってきた動物たちが周囲に配されている。この遺跡の中で最も精緻だったモザイク

その隣のモザイクは作風が一変。海の生き物たちが黒一色で大胆に描かれている。

ひととおり見学を終えたところで、警備員のωさんにチップを渡した。観光地あるあるの声かけに始まったのでかなり警戒したものの、ギラついた商売っ気は皆無のωさん。柱頭に彫られているのと同じ葉を探して見せてくれたり、日時計を実演してくれたり、学者肌の人だった。丁寧に1時間案内してもらった対価はいくらか・・・少なすぎては失礼だし、多すぎれば「悪しき前例」となり後の訪問客に迷惑をかけてしまう。Dちゃんと熟考したすえに金額を決めた。想定内だったのか、四の五の言わずωさんは爽やかに去って行った。

次は南東へ3.5㎞、ムーレイ・イドリスへ【イスラム教の開祖ムハンマドの娘ファティマと第4代カリフであるアリーの末裔、ムーレイ・イドリス(イドリス1世ともいう)が葬られている。アッバース朝内の争いに敗れてモロッコへ亡命した彼はベルベル人の助けを借りながら、8世紀末にモロッコ初のイスラム王朝(イドリス朝)を設立。今なおムーレイ(聖者)としてあがめられ、その霊廟に巡礼者が絶えない聖者の町】。2つの丘にまたがって広がる町は、細くて急な坂道が特徴。
広場の柱につながれたロバ・・・住民が乗って来て、買い物のあいだ待たせているのだろうか。

ガイドブックに地図は載っていないし、観光案内所が存在するのかも不明。が、町の中心にあるムーレイ・イドリス廟へは何となくたどり着いた。
この奥が霊廟だが、イスラム教徒でない私たちがこれ以上近づくのは恐れ多い雰囲気・・・

さて次はどうするかDちゃんと相談していたら、町を見下ろすビュー・ポイントはこっちだよ、と自称ガイドが声をかけてくる。これもお金が発生するんだろうなぁ・・・思いつつも、手がかりゼロなのでついて行く。
道中で見かけた民家の扉にご注目あれ。金色の「ファティマの手」【魔除けのお守り。先述したムハンマドの娘ファティマが貧しい人・病人等を救済したという伝説にちなんで、彼女の手をかたどった物を持てば救われると信じられている。ユダヤ教圏では、同様のものをミリアムの手と呼ぶ】

自力では到底発見できないような道を進んで行く。途中の眺め・・・ずいぶん上ってきた。

ビュー・ポイントから見下ろすと、丘の形が一目瞭然。ひときわ目立つ緑色の屋根・・・件のムーレイ・イドリス廟である。

路地のそこかしこで猫を見かけた。

元いた場所へ戻って来て、チップの時間である。ヴォルビリスと対照的に、ここでは金額でモメた。100DH(約1,200円)を要求されたので、とんでもないと首を振った。
ビュー・ポイントまで表示もなく何の変哲もない道だったので、自力でたどり着くことはできなかっただろう。案内してもらったことには感謝している。しかし、高すぎるものは断固として払えない。最終的に、40DH(約480円)で引き取ってもらった。20DHで十分と主張するDちゃんを自分がなだめたのだが、今となって思えば20が適正だった気がする。吹っかけられた額の半分以下に値切って安心している場合じゃなかった、反省

前日泊まったメクネスに戻って、観光。しかし、デジカメの充電が切れてしまう 前夜に充電しなかったのが失敗だった・・・こうなっては、大好きなモザイクを撮れただけでも幸運だったと思い込むしかない。
備忘録によると、クミス門、ムーレイ・イスマイル廟、アグダルの貯水池を訪れた【画像がないまま言及するのは恐縮ながら、ムーレイ・イスマイル廟をオススメしたい。この後いくつかの都市を訪れたが、非イスラム教徒が入れる聖廟はほとんどない中、ここは例外である。メクネスを訪れるなら、ぜひ寄ってほしいと願う】。
その後、昼食。ドライバーさん曰く、ラマダーン中に営業しているレストランは限られているそうで、案内されたムーレイ・イスマイル廟近くの食堂は我々のような外国人観光客でにぎわっていた。メクネスはワインの産地なので淡い期待を抱いていたが、メニューにはない。気を取り直して、チキンのタジン クスクス添えを注文。結果的に、これがモロッコ最初で最後のクスクスとなった。画像がなくて残念至極

ランチの後、さらにメクネスを観光するかとドライバーさんに聞かれた。まだ足を踏み入れていない場所も残っていて、自分としてはもう少し観光したい気分だった。
が、Dちゃんは前日来の体調不良でもう十分と言う。長い旅の初めに無理は禁物だし、どうせデジカメで撮れないし・・・メクネスを切り上げるとドライバーに伝えた。
一路フェズへと思ったが、ドライバーからスーパーへ行くかと提案される。予想以上にスケジュールが前倒しなんだろうか フェズへ着くのは夕刻、土地勘のない場所でスーパーを探し当てられる保証もない。何はなくとも毎日水は買わねばならない、とスーパーへ向かった。
水を入手した後、ついでにワインを探したが、アルコールの類は見当たらない。モロッコ有数のワイン産地と期待していただけに、ガッカリ感はハンパなかった

メクネスから西へ60㎞進み、フェズに到着。まずマリーン朝の墓地に寄った【フェズを都として13世紀半ばから約200年、モロッコを支配したマリーン朝。スルタンたちの墓は失われ壁を残すのみだが、小高い丘の上にあるため旧市街を見下ろす絶景スポット】。充電切れが口惜しい
15時過ぎ、宿へチェック・イン。リヤドより小規模なダールである。事前に見たガイドブックでひとめぼれ、熱望して予約してもらった。
素敵な内装にテンション ここに2泊できるなんて幸せ
こちらは廊下、さりげなく配置された家具がイイ(以下2枚の撮影は翌々朝)。

ダブルベッドを2人で使用 洗面台は2つあり、珍しくバスタブも付いている。

夕食は付いていないのだが、宿が中心街から外れていることと、Dちゃんの体調が思わしくないことから、宿でディナーをとることにした。
20時半スタートと言われたので時間にパティオへ降りたが、誰もいない。5分くらい経って、スタッフが3人やってきて準備開始。
結局、席に着いたのは21時ジャスト。その時間に予約を入れていた欧米人に合わせて支度したんじゃないだろうか・・・
下の画像は上階から見下ろしたパティオ。

パティオ脇の小部屋が食事処となっている。私たちが通されたのはこんな場所。ほの暗く照らし出される水色の壁が何ともいえないムードを醸し出す。

メニューに載っていないのを知りながら「ヘタな鉄砲」戦法でワインはあるかと尋ねたところ、「出していない。普段はあるが、今はラマダーン中だから」と若旦那に一蹴され、シッポを巻くのみ 手前はハリラ【具だくさんのスープ。ラマダーン中、日没後の最初の食事の定番メニューでもある】。

ラムとプラムのタジンも食す。ワインボトルのない食卓にはミネラルウォーターがどっかり鎮座、ワイングラスに水を注ぐとは・・・アルコール党にとってこの上なく味気ない

部屋に戻って思わずワインのことをぼやくと、スマホで情報検索したDちゃんが高級ホテルでもないと難しいんじゃないと言う。曰く、禁酒を旨とするイスラム教の国だし、そのうえラマダーン中だからと。う~ん。正論だけどなぁ・・・
Dちゃんはアルコールを受け付けない体質である。この旅でアルコールに関しては孤軍奮闘になることを予想していたし、自分のそれへの執着が度を越していることを十分認識しつつも、一抹のわびしさ漂う夜であった。グスン

5 フェズ (2013年7月28日)

がっつりフェズを観光する日。「モロッコ最大の迷宮」と評される旧市街を自力でまわるのは難しいと考え、ガイドを雇った。メッチャ早口でおしゃべりな人で、泳がないと死んでしまうマグロのごとく絶え間なく話し続ける。
この日最初に訪れたのは西の旧市街フェズ・エル・ジュディドにある王宮。一般公開されていないので、正門を見るのみ。青いタイルに金色の扉、コントラストが鮮やかである。

その後、ユダヤ人街を経由して駐車場へ。そこから旧市街南東の丘へ向かう。眼下に広がるフェズのパノラマ【旧市街はフェズ・エル・バリと、先述したフェズ・エル・ジュディドの2つに大別される。前日に廟を訪れたムーレイ・イドリスの子(イドリス2世)が9世紀初めに築いた都がフェズ・エル・バリ。13世紀後半、マリーン朝によりその西方に築かれたのがフェズ・エル・ジュディド。これらとは別に新市街も存在するが、いずれにせよ旧市街は1000年以上にわたり繁栄してきた 日本でいう京都のような場所・・・創成の時期も近い】。

フェズ・エル・バリをズームアップ。画像中央、緑色の三角屋根3つにひときわ高いベージュの塔がカラウィン・モスク【9世紀創建。当初は礼拝所だったが、のち学問所となり世界最古の大学のひとつとして繁栄。今日も大学として機能している】。前日にムーレイ・イドリスでも感じたが、遠目に緑色の屋根が印象的である。

その後、手工芸品をつくる工房へ連れて行かれた。職人さんたちが黙々と作業にうちこんでいる。


事前情報でフェズの陶器はブルーが特徴と知り、青色好きの自分はここでタジン鍋を買おうと思っていた。渡りに船 
説明を聞くと、火にかけられるものとそうでない仕様があり、火がO.Kかつ希望する中ぶりの大きさだと3択だった。こちらが購入したモノ(撮影は帰国後、自宅キッチンにて)。
ちなみに、緩衝材で厳重にグルグル巻きにしてくれたのでスーツケースには入らず、旅の前半にして手荷物となった・・・もちろん割れなくてよかったんだけども

旧市街に戻って来て、いよいよ街歩き。フェズ・エル・バリの西の入口、ブー・ジュルード門から入る。

雰囲気バツグンの街並みに魅せられ、ひたすら撮影しまくる私が最後で、前を行くガイドさんとDちゃんを追いかけるスタイルがいつのまにか定着した。
以下はいずれもアッタリーン・マドラサまでの道中に見かけた風景。

細やかな彩色が残っている。

さりげないタイル使い。

路地を馬で行く人に遭遇。

通り沿いの扉から垣間見えた玄関。

地元の人々とも行き交う。

青果店の軒先。玉ねぎのバスケットの下、極小の子猫が可愛いすぎる

ロバが待機中。

アッタリーン・マドラサに到着【14世紀前半、マリーン朝が建てた神学校】。こじんまりとした空間はひっそりとしている。


繊細な木彫と石彫の組み合わせに幾何学模様のタイル・・・全体が緻密に構成されている。

マドラサからやや南下してサファリーン広場へ。ここには伝統的な製法でつくられた銅製品を扱うお店が並ぶ。
各国からやって来た観光客でにぎわっているのは、買い物というよりカラウィン・モスクやタンネリなど観光ポイントが近いからだろう。

タンネリ目指して、広場から東へ進んで行く。日よけだろうか、網目状に編まれたアーケードが面白い。

一転してこちらは古そうなスーク。ふと現れるアーチが美しい。

川らしきものを渡った。あとで調べてフェズ川と知る。

ここでも道を行くロバを発見。

ガイドさん曰く、山のように積み上がっている茶色いのはラマダーン中に食する典型的な食べ物だという。日中に摂れないカロリーを手軽に補う・・・合理的だなぁ。

途中、案内された絨緞屋さんの店内。モロッコのインテリアを現代的にするとこんな感じなんだろうか・・・妄想。
勿論じゅうたんなど買えない。てか、買ったところでウチに敷くスペースはない

タンネリ(皮なめし&染色の加工場)に到着。その入り口で、ミントと思われる植物の茎を数本渡された。ん 正直とまどったが、どうやらニオイ消しらしい。
確かに、これまで嗅いだことのないような臭気だったけど・・・自分としてはそこまででもなかった。でも、合わない人はキツイんだろうか・・・
作業場を上から覗かせてもらった。画像左上の白いプールで皮の組織を壊しやわらかくして脂肪・毛などを取り除く「なめし」作業をおこない、手前の茶色いプールで革を染めるという。

染液は微妙に色が異なる。染め分けてるんだろうなぁ。


バブーシュを衝動買い。色とりどりでデザイン豊富な製品をながめていたら、つい ビーズ刺繍の黒をチョイス。画像はこの記事を書くにあたり撮影した。

もと来た道を戻り、カラウィン・モスクへ。朝、高台から町を見下ろした時に最も目立っていた場所である。残念ながら非イスラム教徒は入場できないので、入口から内観をパシャリ 相当数の人々が出入りして、活気にあふれていた。

下の画像は、ザウィア・ムーレイ・イドリス廟へ向かう途上で撮影。キオスクみたいな店舗。

お土産用だろうか、陶器やタイルがぎっしり。

備忘録によるとザウィア・ムーレイ・イドリス廟に寄ったようだが、画像はない。こちらもイスラム教徒以外は入れない【ザウィア=修道院。このフェズを都として築いたイドリス2世の墓があり、旧市街で最も神聖な場所とされる】。

あれこれ見学したので、昼食は遅めの13時20分だった。ガイドさんに案内されたレストランは、結果的にこの旅の中で最も美味しかったと思う。
数々の前菜・・・旅先で不足しがちな野菜もふんだんに提供される。コメ派としては、手前左の皿(トルコでいうピラウのような米料理)にテンション上昇

いくつかから選べたメインは、ケフタ(=肉団子)のタジン。スパイスの味付けが絶妙で、私の好みだった

フルーツも付いていた。白いのはメロンのようなウリ科の果物。


15時、ホテルに送り届けてもらってガイドさんと別れた。シャワーを浴び、夕食まで休憩タイム。
前日はホテルで済ませたが翌朝フェズを発つこともあり、外で夕食をとることにし、ガイドブックに載っていたブー・ジュルード門近くのお店へ行くことに決めた。
が、旧市街のほぼ外れにある宿からそれなりの距離を案内なしで歩けるのかが最大の問題だった。地図を見ると、南下して大通り(タラア・ケビーラ通りあるいはタラア・セギーラ通り)に出てひたすら西へ向かえば門にたどり着く。ざっくり言うとそうなのだが、大通りに出るまでが相当複雑な模様だった
日没前の18時、ホテルを出発。「アリアドネの糸作戦」で角を曲がるたびにスマホで撮影していったが、特徴のない場所も多く、見返してもきっと役に立たないだろうなとやがて思い始めた。案の定、大通りへ出る前に迷ってしまったところへ “ガイド” を称するオジサンが登場。最短ルートだったかは不明だが、20分くらいで門のそばまで案内してくれた。高値を吹っかけられるも10DH(約120円)を譲らずDちゃんに交渉してもらったところ、不満だったのかオジサンは最後にDちゃんの首を叩いて去った。後味の悪い幕切れだったが、こちらとてムーレイ・イドリスの過ちを繰り返すわけにもいかない。Dちゃんに感謝

18時半、お目当てのカフェへたどり着いた。野菜のタジンとブロシェット(串焼き)mixを食べたようだが、画像がなくてごめんなさい 
食後、帰り道を検討した。前提として、来たルートを再現するのは困難であると二人の意見は一致していた。
私は①カフェでプチタクシーを呼んでもらい、宿近くの高級ホテルまで行く、あるいは②旧市街の外側を通る道路(フェズ北通り)を歩いて、宿近くの高級ホテルまで行く、を提案。その所以は、一度も自力で歩けていない旧市街を避けることと、高級ホテルから宿までの小路は複数回歩いており自信があることだった(前日にメクネスから到着した時とこの日の朝迎えに来てもらった時、駐車場所と宿の間を歩いた)。
いっぽう、Dちゃんは地図を広げて目印を指しながら、旧市街の大通りから脇道に入って宿を目指そうと主張。
結局、正攻法で旧市街を進むことに決まった。この国最大といわれる迷宮をちゃんと歩けるのか不安だったが、かといってDちゃんを論破して自分の意見を押し通す自信もなかった。

19時30分、日没を知らせる放送が入ってまもなくカフェを出た。宵に浮かびあがるブー・ジュルード門。

市街も昼間とは異なる雰囲気が漂う。

大通りは奥へ進むほど店じまいが進んでいた。断食明けで食卓を囲むタイミングゆえか、明らかに人が減っている。目印にする予定だった肉屋もレストランも閉まっていて、見分けがつかなくなっていた(日本の店舗と違って、看板などはない)。しかも、道は予想外に下っていく。地図では高低差までは分からない。もう脇道に折れなければならないのでは、行き過ぎなのでは・・・不安が誤った判断を誘った。
後から考えると、予定よりかなり早い場所で左折してしまったようだ。そしてどんどん袋小路に入り込み、観光客が踏み込まない、ローカルな人間しかいないようなエリアへ突入。折から薄暗くなっている。
迷ったと自覚し意を決して、ある小路にたむろしていたモロッコ人に宿近くの高級ホテルの場所をたずねると、近くにいた12歳前後と思われる少年ψを案内役にするからついて行けと言われる。これもガイド料が必要だよなぁと思いながら背中を追うと、便乗して他にも少年が数人ついてくる。中でも自分の後方に来た目つきの悪い黄色いTシャツの少年がイヤな感じだな・・・と思い、手回り品に警戒しつつ、「We can't pay anything.」と2回告げると早々に離脱していった。ホッ
さて、少年ψ自体は見たところ悪い子ではなさそうだったが、ψより年長の後追い少年が肩を組んで何やらヒソヒソやっている。交渉してやるから分け前をよこせとでも言っている風だ。進んでいくうち、さらに取り巻きが2人増えた。これはよくない雰囲気だなと思い、年長の少年に「We can't pay anything.」とキッパリ伝える。すると、"お金くれないんだってよ” とでも吐き捨てたのか、少年たちは一人もいなくなった。う~ん・・・最初の少年ψ1人になら払うつもりだったんだけどなぁ

気を取り直してDちゃんと2人、また迷宮と闘う。もはや完全に道を見失っているのは明白、辺りはどんどん暗くなるばかり・・・
やはり、ここは案内してもらうしかないと思い、街角に座っていた青年(15~16歳くらい?)に高級ホテルの場所をたずねてみた。幸い、今度は余計な取り巻きはいない。ついて行くと、急な上り坂をけっこう進んだ後、城壁の外に出た。街灯もなく薄暗い。こんな所に彼の仲間数人が現れたなら追い剥がれるな・・・一瞬よぎったものの、杞憂に終わった。ふぅ
青年は少し向こうのホテルを指さして呑気に説明している。やや遅れて息を切らしながら坂を上ってきたDちゃんが、どこまで連れて行かれるの?と言う。
たしかに、おおよその場所を把握しなければ。城外に出たということは、青年が指すホテルの右にライトアップされているのは前日に訪れたマリーン朝の墓ではないだろうか・・・
見当をつけながら、件の高級ホテルはどこかと青年を促す。こっちだよと導かれるまま進むと、目の前に広がった光景には見覚えがあった。昨日通った道路だ そう確信した瞬間、私たちは助かったと悟った。もうこれで、確実に宿にたどり着ける 
あとは青年にいくら払うかだ。ともあれ窮地を救ってもらったわけだから、多めにあげようかなと一瞬浮かんだが、待てよと思い直す。物価を考えて20DH(約240円)を渡すと、青年はもっともらえると期待していたのだろう、去り際は未練たっぷりのようだった。
青年と別れた後、フェズ北通り沿いに高級ホテルの前まで行き、おなじみの小路をたどって20時30分ころ宿に到着した。
カフェを出て1時間足らずのことであるが、体感ではとても長く感じた。北京以来十数年 海外を旅してきた中で、最も冷や汗をかいた出来事だった。無事に宿へ戻れたのは、ただただ運が良かったというほかない。あるいは、誰かに守られていたのかもしれない。このとき父は存命だったので、母方の祖父だろうか・・・

★ 中締め ★

旅の第2弾ではサハラ砂漠の北西端あたりに足を踏み入れ、また世界遺産のアイト・ベン・ハッドゥやマラケシュを訪れます。
それから・・・機内でワインを飲んで以降、ほぼ強制的にアルコールを断たれて3日の私 この先、切望するモロッコ産ワインに巡り合えるのでしょうか
お楽しみに
























































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エチオピア篇 その3

2021年05月07日 | アフリカ
旅の終章です。下の地図中の②~④は旅の前半・中盤でまわった都市で、第3弾では➎と➊を訪れました。
また、後の下線部の数字とも対応しています。


4・5 ゴンダール ⇒ラリベラ (2012年8月1日)

明け方3時頃、何となく全身痒い気がして一度目が覚めた。一旦寝入ろうものなら、ちょっとやそっとでは起きない自分なのだが。
朝起きてチェックしたところ刺されてはいないようだったが、ノミかダニを疑った・・・
この記事を書くにあたり他の方のブログをいくつか読んでいたら、同じホテルに泊まったと思われる人も同様のことを記していた。気のせいじゃなかったのね 
このホテルのレストランは味が良く待たせずに出てきて、食べ始めると味はどうかと給仕さんがスマートに聞きに来てくれた。素晴らしいなと思っていただけに、ちょっぴり残念

9時前に離陸する飛行機に乗るため、ピックアップは早かった。ガイドのH君はおらず、昨日のドライバーさんと2人だけだった。が、彼も英語をしゃべる人だったので楽しい道中だった。例によって結婚してるか等聞かれたので答えつつ、もちろん質問返ししてやった(笑) 38歳で独身だそうです。家やら仕事やらとにかく大変で、それどころじゃないと言っていた。ベトナムはダナンのガイドさんもそんなこと言ってたなぁ・・・ふと思い出した。
搭乗口で日記を書きつつ空を見上げると、快晴 前々日のアクスム、前日のゴンダールともに一度も降られなかった。きっと予定通り飛行機は飛ぶだろう。・・・ということは、メケレに飛ぶ日だけたまたま運が悪かったのだろうか。いや、そう決めつけるのは短絡的すぎるのでは・・・暇に任せ、取りとめもない思考を巡らせるのだった

30分で到着したラリベラは、想像していたよりもずいぶん緑豊かな高原地帯だった。車窓から見る限り。

ガイドのGさんに連れられて、まずはホテルにチェックイン。さっそく観光かと思いきや、14時に迎えに来るという。2日間滞在するので時間を持て余しているのかと思ったが、観光客の多い時間帯を避けてくれたのだと後から知ることになった。

お部屋のベッドカバーには、ラリベラ式の十字架が刺繍されていた。思わずパシャリ

ホテルのレストランでランチをとった。エチオピア料理だけでなくベジタリアンなメニューも選べたので、即チョイス。
一見するとカレーに見えるが辛いわけではなく、野菜の旨味が前面に出た素朴な味わい。油っぽいのや辛いのが続くのは得意ではないので、とてもありがたかった


【ラリベラはかつてロハと呼ばれていた。12世紀、イスラム教徒の勢力拡大に伴ってエチオピアからエルサレムへ巡礼に出かけるのが難しくなった。衰えたアクスム王朝に代わって勃興したザグウェ王朝のラリベラ王はアクスムからロハに遷都し、第二のエルサレムを目指して12の教会群を築きあげ、この地は王にちなんで呼ばれるようになった。教会はすべて巨大な一枚岩を掘り抜いて造られており、エチオピア初の世界文化遺産として1978年に登録されている】

教会群はヨルダン川【本家エルサレムにちなんで命名されたもの】をはさんで第1グループと第2グループに大別される。この日は第1グループをまわった。
まずは聖救世主教会から。屋根を支える柱と柱の間から窓がのぞく。上の方の窓の形はアクスム様式。この新しい首都がアクスム王朝の文化を引き継いでいる証し。

例によって内部は薄暗い。窓からささやかに射し込む光が空間を神秘的に照らし出す。

この教会の隣にはmuseumがあって、羊皮紙に描かれた絵やイコンがたくさんあった。撮影禁止で、画像がなくて残念 なお、ガイドのGさんによると、3~4年後を目指して新しい博物館をつくる計画があるらしい。アクスムと同じ・・・エチオピアはこれから観光を推していこうとしてるんだろうなぁ~

2番目に訪れたのは聖十字架教会。前方の壁のような部分に掘り込まれている、とても小さな空間。お隣りの聖マリア教会の付属聖堂のような位置づけなのか?
中央にそびえる金属の柱は、保護のためにかけられている屋根を支えるもの。味気ないけど、守るためには仕方ない。

内部の天井を仰ぐと、ひそやかに十字架が彫られている。このさりげなさ

祈りを捧げる司祭さん。黄色い幕の向こうは至聖所で、一般人は立ち入れない。

聖十字架教会から眺める聖マリア教会。


次は聖マリア教会。下の写真で、中央の大きな建物(なお、右端の壁のような所が先ほどの聖十字架教会)。
壁に穿たれた窓にご注目あれ。3列のうち真ん中がイエス・キリスト、左右はイエスと同時に磔にされた盗賊を表すという。「救世主なら、自分自身と我々を救ってみせろよ」とイエスを罵った罪人ゲスタスは窓が少なく、ゲスタスをたしなめた罪人デュスマスは1つ多く窓を持つ。ん?? 通例では向かって左をデュスマスとするんじゃなかったっけ 逆のような気もするけど、ま、細かいことはいいか

件の窓の他にも、外壁を飾る十字架の形はバリエーションが豊富 一見 卍や×に見えるものも。



入口にはアクスム式のアーチが2つ。

入口上の彫刻を拡大すると・・・聖ゲオルギウスだった。

十字架が刻まれた柱の下には太鼓ケベロ。こんな光景が見られる教会は世界中でエチオピアだけ


内部の天井と壁には独特な色彩の壁画。抽象的な模様が圧倒的に目立つなか、わずかながらイエスにまつわる物語も描かれていた 
ほぼ天井と言ってもいいような高い場所の狭ーい空間にひっそりと息づく人物画。首を曲げ目を凝らしつつ、至福に浸ってしまった
【自分をエチオピアに連れ出した東方キリスト教美術の本曰く、非カルケドン派のエチオピア正教はキリストの人間性を軽視しその表現を嫌う。しかしこの教会にある壁画の題材は初期キリスト教時代に地中海地域で好まれたものであることから、この国のキリスト教に大きな影響を与えたもう一つの要素=シリアからやって来た9聖人がもたらした写本が引き継がれ人物画も描かれたと推察されている】
赤い十字架の下に描かれた、聖母のエリザベト訪問(小さくてごめんなさい・・・ズームしてもこんなサイズ。デジカメを新調して旅立つべきだったと後悔しても、後の祭り

聖家族のエジプト逃避。白いロバ(馬かも?)にまたがる聖母子を天使が導いている。

左端はサマリヤの女あるいはベタニアのマリア、そのすぐ右にイエス。残念ながら、中央部は剥ぎ取られてしまっている。

白い布が巻かれた柱には、人類の発祥と終末を象徴する壁画が描かれているという。どんな絵なのか、想像もつかない


次に聖ミカエル教会・聖ゴルゴダ教会へ向かう。点在する教会は複雑な隧道で結ばれていて、ガイドさんの導きがなければ到底たどり着けない

聖ゴルゴダ教会の窓は天使の羽のようなロマンチックなモチーフ。

こちらは聖ミカエル教会外壁の十字架。先ほどの聖マリア教会の意匠とも異なる。


聖ゴルゴダ教会は女人禁制のため、ガイドのGさんが代わりに撮ってくれた写真の自分を塗りつぶした。手前が聖ゴルゴダ教会、私のいる奥が聖ミカエル教会で、二つの教会は内部でつながっている。右の彫像は聖ゲオルギウス。

左側の彫像に近寄るとこんな感じ。

他にも3m級の彫像が見られる。先ほどの彫像といい、独特な風貌。そういえば、ここ以外のラリベラの教会では人物彫刻を見かけなかった。

こちらは聖ミカエル教会。幕の向こうに置かれている絵は、12世紀よりもかなり時代が下ったものと思われる。
個人的には、天井から下がる鳩に心魅かれた。ヨハネから洗礼を受けたイエスの頭上、と想像するのは考えすぎか。


聖ミカエル教会の出口。実はここで撮った写真が数枚残っている。ガイドのGさんはかなり写真にこだわる人で、背景に人が入ると何度でも撮り直す。もっと後ろへ下がれとか、指示も細かい。特にお願いしたわけではないのだが、自分の写った写真がラリベラではやたらと多く、(行程の厳しさゆえ撮ろうにもカメラを取り出せなかった)アブナ・イエマタ教会前後とは対照的となった。


この日最後は聖ゲオルギウス教会へ。第1・第2どちらのグループからも200m程離れているため、これまでの隧道とは異なる道中だった。
その途中で見かけた光景。典型的なエチオピア式の小屋の中で土産物として売る絵を描く司祭さん、その周りで聖書を音読する司祭志望の少年たちの声がこだまする。
国内有数の巡礼地であり観光地であるラリベラの、交錯する聖と俗を垣間見た気がした。


上から眺める聖ゲオルギウス教会。地中からのぞく正十字(一辺12m)が強烈な印象を与え、ラリベラで最も有名といっても過言ではないだろう。
【教会群の工事中に聖ゲオルギウスがラリベラ王の夢に現れ、自分の教会はどこか尋ねた。最も美しい教会を捧げるとラリベラ王は約束し、完成したという伝説がある】

近づいていくと、こんな感じ。角度によっては地中から突き出して見える。そして、アクスム式の窓がくっきり。


上から覗くとこんな感じ。淵の端に寄るのが恐ろしい高さ

逆に、下から淵を見上げたのがこちら。

内部に飾られていた聖ゲオルギウスの絵。そのまま撮ったらあまりにも暗かったため、フラッシュを使用した。


17時過ぎ、ホテルに帰着。
ラリベラの町を遠望。平地の少ない高原に、寄せ合うように家々が立ち並ぶ。アディスアベバから始まって、これまで巡ってきた5都市の中で最も標高が高い。
壮麗な教会群は地中に隠れているので、一見したところでは静かな山あいの町に思える・・・そのギャップがこの地の魅力なのだろう


ホテルに戻ってから、見晴らしのよいテラスでガイドのGさんと1時間ほど話し込んだ。
彼は38歳で、8歳を筆頭に3人の子供を持つ妻帯者。この村で生まれ、現在はこのホテルから徒歩圏内に住んでいるそうだ。アクスムのガイドさんやゴンダールのドライバーさんとは違うパターンだね。4人養うって・・・相当しっかりビジネスやって稼いでるんだろうなぁ。話しぶりは自信に溢れていて、でもそれが嫌味を感じさせない人柄。
こちらのことも当然聞かれ、私も弟も独身と言ったら、日本人は結婚したがらないのかって驚いてたなぁ。う~ん・・・確かに晩婚化が進む日本ではあるけど、私の場合は失敗したクチ。未婚と同じく扱われるのはおこがましいよなぁ

夕食はホテルにて、インジェラとワット(汁なしシチューの総称。この時は牛肉・玉ねぎ・トマトの炒め煮)。赤ワインはゴンダールでも飲んだGOUDER ポピュラーな銘柄なんだろうか。


5 ラリベラ (2012年8月2日)

この日は朝8時スタート。早くて正直とまどったが、観光客を避けるためのようだった。実際、第2グループの教会群で誰一人としてtouristsに出くわすことなく、貸切状態だった(笑)
雰囲気抜群の道を進み、教会へ向かう。


最初に聖アバ・リバノス教会へ。
どこからが屋根なのか不可分なほど、岩に一体化した印象。右がガイドのGさん。


次は聖エマニュエル教会。保護のため、第1グループと同様 屋根に覆われている。

内部に置かれていた絵。そう古くはなさそうだが、聖母子と三位一体それぞれ独特のタッチが目を引いた。



聖マルコリオス教会付近にて。

残念ながら、聖マルコリオス教会の外観は撮ってなかった 
しかし、個人的には第2グループで最も気に入った。薄暗いのが難だが、古い絵をたくさん見ることができたのだ。
かなり傷んではいるものの、壁に残るフレスコ画。フラッシュを使うのがためらわれ・・・目を凝らしてご覧ください。
【東方キリスト教美術の本には、壁画を持つラリベラの教会は2つと書かれていた。前日にいたく感激した聖マリア教会と、この教会のことだろう。他の教会の絵は掛けられたり置かれたりしていた。非カルケドン派ゆえ、人物画を直接描くのは避ける傾向にあったと推測する】


こちらは壁画ではない。850年ほど前に布に描かれたものという。

その一部に近づいてみた。ローマ兵に侮辱されるイエス。


最後に、聖ガブリエル教会・聖ラファエル教会(両者は内部でつながっている)へ向かう。
その道中にあったベツレヘム聖堂。かつては聖具庫だったという。


見えてきた教会への入口。

中に入って、振り返ったらこんな感じ。

この箱はかつて至聖所の中にあった聖櫃(タボットあるいはアークともいう)で、十戒が記された石板のレプリカを収めていた。新しい聖櫃がつくられるに及んで役目を終え、「表」へ出てきたというわけ。下のペットボトルには聖水が入っていて、信者は司祭さんに清めてもらえるらしい。信仰を持たない自分は何かしてもらえるはずもなく、通り過ぎるのみ

聖ラファエル教会・聖ガブリエル教会の表口。現在は手前に架けられた橋を渡って入ることができるが、橋のなかったかつてはたどり着くのが大変だったらしい。
ん?? 鐘の下がる向こうの扉に何か描かれている・・・

近づいてみると、聖母子と天使。素朴でいいなぁ~ 消えかかってるのもまた風情がある。カンペキに自分好み

なお、この表口の脇には「天国への道」なるものがある。下の写真、中央にある細くて急なのがそれ。ここを上ることができれば天国へ行けると信じられていたとか。
幅は50cmくらい、両側は崖・・・平均台得意な人でなきゃムリかも。天国へ入るのは大変なのね、やはし


結果的に前日の第1グループよりももっと複雑で細く暗い道を歩きまわった(「地獄の道」と言うそうだ)。が、なにせ空いていたのでスムーズに進み、ホテルに戻ったらまだ9時15分だった。
午後は郊外の教会に行く予定だったが、さすがに時間を持て余してホテルのテラスをブラついた。
餌を置いてあるのか、テラスでは鳥たちが囀っていた(ちなみに、丘の向こうの建物は有名なカフェらしい)。

私の様子を見かねたのか、ホテルマンと思われる人が目の前の丘まで歩いて行けるよ、と教えてくれた。
下の写真、平らに見える所までがホテルの敷地。私は敷地と外を隔てる門を抜けて少し下り、写真では切れている右上の丘にのぼっていった。庭(?)で作業をしていたホテルの従業員達から不思議な目で見られたものの、止められることはなかった。片道20分足らず、楽勝だった


その丘で3人の少年に出会った。木を植える手伝いをしているようだったが、休憩中とかで私に興味を持って近づいてきた。
最年長15歳の少年は綺麗な英語を話す。英語を練習したいと言い、質問に答えるから何でも聞いて、と積極的に話しかけてくる。日本の首都も、フランス・イギリス・イタリアのそれも即答した。歴史が好きなんだそうだ。思わず将来の夢をたずねたら、ツアーガイドになりたいんだって。
そうだろう、アブナ・イエマタのガイドと同じように才気を感じさせる。彼が諸々と闘って夢を実現することを心から願う
ちなみに、14歳の少年は優しい笑みをたたえて話を聞く子。10歳の子は瞳の奥に暗い光を宿しており、もはや外国人を見て無邪気に「ハロー」と笑わない。現実の厳しさを知っているんだろうな・・・

昼食は前日同様、ホテルのレストランにてベジタリアンから選んだ。米と野菜、大好物がここにある幸せ 旅立つ前は小麦と肉が続くのを覚悟していただけに、嬉しい誤算。エチオピアの食事は美味しいと大声で叫びたい もちろん自分が旅した範囲での話ではあるが。


15時半、ラリベラ郊外のナクタラブ教会に到着。岩の割れ目から覗くのがそれ。
規模は断然違うが、インドはアジャンタ石窟寺院をふと思い出した。

近づくと、こんな感じ。岩の隙間から十字架が存在をしっかりアピールしている。

中に入ると、前庭のような空間があった。

座る所に敷かれていた織物。同じような柄のタペストリーがゴンダールのホテルにも飾られてたなぁ・・・ポピュラーなんだろうか。

教会の中にあった、布に描かれた絵は750年くらい前のものという。
左下にご注目あれ。赤い馬にまたがるのはナクタラブ王【ラリベラ王の甥で、13世紀半ばにこの教会を建てた】。聖ジョージと似た構図だが、あちらは白い馬がシンボルだという。他の教会ではこれまで見なかった珍しい意匠、さすが縁の教会。


司祭さんが宝物を披露してくれた(人相が明瞭なので、塗りつぶして掲載する)。王冠をかぶり、手に持つクロスは向かって左がラリベラ式、右がゴンダール式。

司祭さんの背後にある棚に飾られていたイコン2つ。
中央上部に聖母子は定番のようだが、比べてみると全く同じというわけでもない。聖ジョージ、東方の三博士、十字架上のイエスなど共通するモチーフはあるものの。


こちらの十字架は人間の顔ほどの大きさがあり、人物線刻が施されていた。左右の出っ張った部分に小さく天使。中央は一見聖母子に見えるが、髪が長くないのでマリア様ではないような・・・とすると、父なる神と幼子イエスであって、上の飛び出した部分の聖霊と合わせて三位一体を表現しているのか
なお、非カルケドン派の信条にそぐわない人物線刻を施したクロスは比較的新しい作例という。

司祭さんは聖書も見せてくれた。
こちらはナクタラブ王か? 赤い馬だし、退治しているのが竜じゃないし・・・

大天使ミカエル。色合いからして、さっきのよりこちらの絵が古そう・・・

この教会は上からしたたり落ちてくる水を聖水としている。
頭上の岩を見上げて撮った画像、落下する水の雰囲気を感じていただけたなら幸いである

教会の出口にたたずむ履物整理係の少年。この教会に限らず、ラリベラの他の教会でもshoes keeperは散見された。


付属のmuseumでは宝物をガラスケースに展示してあった。
ん?? このイコン、さっきのより古いと感じるのは気のせいだろうか・・・

豆粒のような十二弟子。左端には、ゴンダールでも見かけたエチオピアの聖人アブナ・タクラマノット。
先ほどのような3面のイコンでは中央に据えられていた十二弟子よりも、この国で敬愛される三賢人や地元の聖人をフィーチャーしている。その自由な発想に惚れ惚れ

こちらの十字架は組み紐のデザインが目立つ。

ガラパゴス的で最も気になった展示品がこちら。中央に聖母子がうっすら浮かび上がる。これまで見てきたエチオピアのイコンとは全然タッチが違い、西洋のそれに近い気がする。何かの経緯があって他の国からもたらされたのだろうか・・・取りとめもなく妄想が広がっていくのだった


17時半、ホテルの近くまで戻って土産物屋をハシゴし、十字架モチーフのペンダントトップと、手持ちのクロスを探した。
1軒目はてんで高くて早々に出た。出ようとすると下げるぞと言われたけど、戻らなかった。
3軒目で気に入ったペンダントトップ(銅)は75ブル(¥1,335)。100ブル札を出したら、おつりが20ブルしかないと。じゃあいいよ、とO.Kしたら、買おうか迷ってやめた聖ゲオルギウス教会の絵葉書を付けてくれた。ハガキ1枚の相場が10ブルなので、サービスだぁ~ このお店で買ってよかった

この日もホテルのテラスでガイドのGさんと30分雑談した。
ラリベラはどうだったかと訊かれても、思いの丈を表現できない英語力の乏しさが恨めしい それでもともかく、ここで何がしか口にしなければ永久に彼には伝わらない・・・わずかなボキャブラリーを駆使しつつ、とても感動した、来てよかったと心から思っていると告げた。
彼は人間が好きだという。曰く、色々な人がいるけれども、国籍や民族や宗教や人種を超えて人間は平等なんだ、と。そして、様々な人に会えるからガイドをしているんだと熱く語ってくれた。日本人も含めて、これまでに様々な国の人を案内したそうだ。初日に出会うなり英語が得意ではないと伝えた私のために、終始スピードを手加減して喋ってくれたので、聞き取りやすくて本当にありがたかった。いい歳の大人が小学生レベルのセンテンスしか返せないにもかかわらず、決して馬鹿にせずじっくりと話を聞いてくれる優しさの根源は人間愛なんだな・・・。日本でも注目度の高まっているエチオピア、今後さらに観光客は増えていくだろう。Gさんのお仕事が益々繁盛することを願ってやまない

5・1 ラリベラ ⇒アディスアベバ (2012年8月3日)

この旅もいよいよ終わりが近づいてきた。ラリベラを発ち、帰国便の出るアディスアベバヘ向かう。
ラリベラからの便は離陸が1時間も早いという、これまでに経験したことのない状況。各地でガイドさんたちが頻繁にリコンフォームしていたことから、エチ〇ピア航空は変更が多いのだと思われる。
さて・・・アディスでの時間が増えた~と手放しでは喜べなかった自分。この変更が迎えのドライバー&ガイドに伝わっているのか甚だ不安だった
12時15分に着陸。離陸が早いのだから当然早く着く・・・初日に学んだので、空港の扉口まで行ってみたが、やはり来ていない。タクシー拾ってホテルへ行こうかと1週間前と同じことが頭をよぎるも、小さなホテルだからやめておこうと打ち消しつつ待つこと30分、ようやくお迎えが到着。ま、こんなことだろうと予想していたから怒りも焦りもない。
ガイドのFさん曰く、航空会社に3度電話して到着時刻を確認したところ、最初は13時、2度目は13時半、3度目に到着済みとの回答だったらしい。どーなってるんだろうと思うのは航空会社に対してであって、振りまわされたガイドさんとドライバーさんが気の毒。日本でこんなことがあったら怒る人続出だろーな。エチオピア人って辛抱強いなぁ

エチオピア最後の夜は外で楽しむことになっていたので、ランチはホテルでとった。初日の記憶からすると、ここのレストランはイケるのだ。
が、同宿と思われる人々は個性強め。ピラフが気に入らないらしくパンを出せと要求する欧米人、氷のように美しく無口なスラブ系と思われる長身の青年。黒人で英語を話す国籍不明の3人組は柄が悪いなと感じていたら、エレベーターが一緒になったタイミングで部屋番号を聞かれた もちろん無視、敢えて違う階でエレベーターを降りて階段で移動、事なきを得た。ホッ 

14時半、アディスアベバ大学内にある民俗学博物館へ(撮影不可だったので、画像は無し)。
素晴らしいイコンに壁画がたくさんあってテンション もっとじっくり見たかったけど、ガイドのFさんが若干イラついてる風だったので程々に切りあげた 郵便局に行きたいと言ってあったから、閉まる前にと気を揉んでいたのだろう。
なんと、郵便局へはカメラの持ち込みが禁止で、預けさせられた。あちこち旅してきたが、こんなの初めて
軍事的な意味があるのだろうか・・・所変わればルール変わるなぁ。返してもらって即SDカードを確認したところ無事、結果オーライではあった。
書き溜めたハガキたちは窓口の係員に渡した。アフリカの郵便事情はよく知らないが、ポストじゃないし首都からの投函だし、これで届かなかったら仕方ないと割り切るしかないな

夕食には時間が早すぎるため、17時前に一旦ホテルへ戻った。
その間に、車窓から目をつけていたスーパーへ行く。ホテルから徒歩1分の近さ。
食料品だけでなく家具も置くコンセプト不明の品ぞろえだったが、精肉に青果に冷凍食品と目で楽しめた。お目当てのアルコールもちゃんとあり、ワインも種類豊富に並んでいた。スーツケースに750mlが1本しか入らない空き状況だったので、あれこれ買えなかったのが残念 (ボトルを撮ってなくて、ごめんなさいm(_ _)m)

ガイドのFさん曰く、民族舞踊ショー&エチオピア料理を売りにする所がいくつかある中、一番いいお店に案内してもらった。確かに、色々な国からの観光客でいっぱいだった(見たところ中国人の団体はいたが、日本人は自分だけ)。かぶりつきの良い座席を用意してもらって、至れり尽くせり。あ・・・ブエノスアイレスのタンゲリアもこんな状況だったか。
ショーは前半が歌と演奏、後半がダンスだった。
バックバンドの笛の人が私に気づいて、“さくら さくら 野山も里も 見渡す限り・・・”と吹いてくれた。私1人にしか分からないだろうサービス、なんて贅沢ぅ
エチオピアの歌は明るい中にも一種哀切な響きを持っていて、耳に心地よく馴染んだ。

様々な民族衣装を着た男女が入れ代わり立ち代わり登場して、多種多様なダンスを披露してくれた。多民族国家ならでは。
中にはヒップホップと見紛うものもあり、激しいフロア技はエチオピアにルーツを持つんじゃないかと思うくらい。
ブレているのだらけで、まともな写真がほとんどない・・・ごめんなさい 一番マシなのがこれ。

最後は客席の中から選ばれた男女各1名が舞台に上がり、結婚式のダンスが始まった。新郎は中国人、新婦は欧米人、ダンサーはエチオピア人・・・「It’s a small world.」を地で行く。

2時間のあいだ、ガイドのFさんとポツポツ話した。彼の口癖は“O.K?”、センテンスの後に確認するように付ける。英語の先生をしていたというから、その名残なのかな。ビュッフェを取りに行くよう私に促しつつ、“I'm full,O.K?”だもんなぁ。私を一度ホテルへ送り返した後、帰宅して夕食をとったゆえだが、切り取って聞くと笑えるフレーズだよね いつものように聞かれなかったから私も尋ねなかったけど、左手に指輪してたなぁ。Fさんの分も料金を支払ってるはずだけど、ビュッフェよりも愛妻との食事をとったんだろうな(笑)
炭酸飲料だけ飲むFさんを横目に、ビールをすすりながらインジェラを食す自分であった。


1 アディスアベバ (⇒ドバイへ出国) (2012年8月4日)

明け方4時、階下のフロントが何やらうるさくて一度起こされた。1週間前に泊まった時はそんなことなかったので、運が悪かったのだろう。
安くても素晴らしい経験をしたことは多々あるが、このホテルの場合「値は値」と言うべきか・・・

16時過ぎの飛行機なので、半日時間があった。11時、Fさんが迎えに来てくれてエントット山へ(海抜3,000m)。アディスアベバが一望できるポイントである。雨だったら見られないと前夜Fさんが言っていたが、幸い降られなかった。
その後、山頂付近の聖マリア教会&付属museumへ。展望台よりもこちらからの眺めのほうが気に入ったので、載せる。

教会の中には入れなかったが、国旗カラー(緑・黄・赤)に塗られている外観に目を引かれた。屋根の上の十字架の形も面白い。

帰路、薪を運ぶロバに遭遇。実はこの山、オーストラリアから移植したユーカリが生い茂り、建築材や燃料として切り出されている。車で30分、それなりの距離だが女性や子供もここからマーケットまで運び、運搬代を稼ぐという。


エチオピア最後の食事はやはりインジェラ。土瓶のような器にワット(具)が入っている。
長方形のインジェラにワットをのせて巻いて食べるんだとFさんが教えてくれた。そっかぁ~ これまで、皿からはみ出すほど大きい円形のインジェラをちぎりながら食べてきたんだけど、そうじゃなかったのかー 思い返してみると、Fさん以外のガイドさんの前でインジェラ食べる機会なかったなぁ。我流でやり過ごしてきて、旅の最後に真実を知るとは中々面白い


最後は買い物タイム。
さくっとお土産のコーヒー豆を買った後、本屋へ。これまで訪れてきた教会の外観や壁画などの写真を載せたキリスト教美術の本を探していた。
が、その類の本は皆無だった 実はゴンダールのホテル敷地内の売店で見かけたのだが、90ドルという値段に迷いが生じてパスしていた。二匹目のドジョウを狙ったものの、撃沈 
う~ん、やっぱり一期一会だな。絶対欲しいならその場で入手しないと、永遠に機会を失うことがある・・・旅先では常々感じさせられる。
ちなみに、洋書として日本で巡り合うことをうっすら期待して帰国したものの、未だに手に入れることができず

さてさて、蛇足の極みだが書かずにはいられない。
ドバイまで飛んで乗り継ぎ、日本へ向かう私にエ〇レーツ航空の奇跡が ドバイまでの便、なぜだかビジネスクラスに変更となった。人生初の非エコノミー
離陸を待つ間にシャンパン(Bolli〇ger)。まさか帰国前に泡にありつけるとは 

温かいナッツをかじりつつ白ワイン(オルビエート) チキン胸肉にあわせて赤ワイン(トスカーナ)(グラスは写っていないが) 
お皿は陶器、ここが空の上とは信じがたい

フルーツにエスプレッソで締め。コーヒーカップももちろん陶器。
人生最初にして最後であろうシチュエーションを存分に享受したのだった

★ 終わりに ★

この記事を書くために備忘録を読み返してみて、ちょこまかとしたトラブルにいくつか見舞われていたことを思い出した。それまでは、メケレへの飛行機が遅れてマリアム・コルコル教会へ行けなかったくらいしかトラブルとして記憶していなかった。大金を奪われたとか命の危険を感じたとかのレベルでなければ、まぁいいやと思う自分はつくづくオメデタイ人間である。だからまた気ままに旅へ出られるのだろう

最後に、連れて帰ったクロスを紹介したい。ゴンダールの空港内のショップで入手した。ラリベラ(町・空港とも)よりも、多少なりとも安くて品ぞろえが豊富だったとは個人的な感想。
高さ30cm、材質は不明。ゴンダール式の十字架である。
ゴンダール式にこだわったわけではないが、人物線刻のあるクロスを欲したところ、彫る面積の大きいこの形へ必然的にたどり着いた。

表側の線刻がこちら。中央上部に聖母子。

裏側の線刻。中央上部に大天使ミカエル、左右にケルビム【ゴンダールのデブレ・ベルハン・セラシエ教会の天井を埋め尽くしていた、エチオピア式の首だけの天使】。

この記事を書いていて、エチオピア正教の美術が好きでたまらない自分にあらためて気づかされた。所々で表現がくどすぎる気もしている 
が、これをきっかけにエチオピア正教ひいてはエチオピアという国に興味を持ってくださる方が一人でもいらっしゃるとしたら、この上ない喜びである。

 おしまい 











































































































































 
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エチオピア篇 その2

2021年04月11日 | アフリカ
旅の第2弾です。
なお、下の地図中の①~②は旅の序盤で訪れた場所、➌~➍は中盤で訪れた場所です。また、後の下線部の数字にも対応しています。


3 アクスム (2012年7月30日)

まずは、その1から引き続くホテルの顛末から・・・
泊まった翌朝、夕食代と朝食代を請求された、案の定 その場では支払っておいて、ガイドのJさんに事情を説明してすぐに返金してもらった。次の日の朝には請求されなかったところをみると、案内されたホテルにはJさんの知り合いがいるのだろう。深く追及はしなかったけど。
予定通りのホテルに泊まっていたら、停電に遭うことはなかったかもしれない。面白い経験ができたから、ま、いいか

朝9時のピックアップだった。メケレから来たのかと尋ねたところ、ガイドJさんもドライバーIさんもアクスム在住と判明。
ということは、前夜遅かった今朝よりも、8時40分に間に合うようメケレに向かった前々日の方が大変だったのね・・・
地元の人なので、アクスムの説明にはかなり詳しい。エチオピアの口承伝説をまとめた『ケブラ・ナガスト』によると、3,000年前にアクスム王国は建国されたという【現在、王国の存在が実証できるのは紀元前1世紀まで下るが、ローマ帝国やビザンツ帝国と並んで栄えた王国の首都であったアクスムには史跡がたくさんある】。
オベリスクは国王の権力の象徴としてつくられ、盛時は大中小300を超えて林立していたという。
下の画像は市の中心にあるオベリスク公園。現在立っている中で最も高いのは23m。手前のは崩れ落ちており、高さ33m・重さ500tという。高層建築を模して、オベリスクには窓が彫られている。下の2つ目の画像を90度右に回転してごらんになると、窓に見えてきます



市の郊外へ向かい、エザナ王【4世紀、フルメンティウスによる布教を受け入れ、キリスト教を国教とした】の石碑へ。
なんてことのない道路の脇にひょいと立つ小屋の中に石碑が並んでいた。
4世紀、ヌビア(現スーダン)とイエメンまで領域を広げたエザナ王が戦勝を神に感謝してギリシャ語、ゲーズ語、サバナン語【3000年前から使われたが、現在は消滅】でつくらせたという。なお、この石碑を持ち出す者は予期せぬ死に遭うと碑文に記されており、過去にこの碑を移動しようとして不幸に見舞われた実例があるらしい。だから唐突な場所に出現するのね、納得至極



次はカレブ王【6世紀、アクスム王国の全盛期を築いたとされる】の地下墳墓を訪問。
かつては墳墓の上に神殿があったとされるが現在はなく、保存用の屋根が広がるばかり。

隙間なく組まれた石組み、6世紀の建造。

棺が納められている地下の空間には、十字架の浅い浮彫りがあった。


市内へ戻る道中、シバの女王の浴槽に寄った。想像力の乏しさゆえ、巨大なため池に見えてしまう自分
しかし、ここはエチオピア正教徒にとって重要なティムカットの祝祭では荘厳な儀式の舞台となる【ティムカットの祝祭= 神現祭、主の洗礼祭。イエス・キリストがヨハネによって洗礼をほどこされ、救世主として人々の前に現れたことを祝う】。


正午過ぎ、市内のレストランで昼食。選んだ野菜のペペロンチーノは美味しかった。
折りしもロンドン五輪のテレビ中継をしていて、日本人選手の予選情報もチラホラ耳に入った。


1時間後に迎えに来ると言っていたドライバーIさんとガイドJさんは、自宅に戻りランチして30分強で戻ってきた。プロだなぁ、拍手
午後は市の郊外を東へ進み、シバの女王の宮殿へ。
【シバとはソロモン王(B.C10世紀、イスラエル王国に在位)を訪ねた南方の王国の女王で、旧約聖書に登場する。どこにあった国と明記されていないため諸説あって、イエメン説が有力である。が、既出の『ケブラ・ナガスト』によれば、シバ=エチオピア人のマケダであり、シバがソロモンとの間に授かった男子メネリク1世によってエチオピアの歴史が始まるという】
のどかな田園風景の中に現れる宮殿跡。

各部屋が整然と区画されている。

美しい石積み。

石垣のそばにそびえる木。直立する細サボテン状の枝ぶりが珍しくて撮った【後で調べたら、ユーフォルビア・インゲンスというトウダイグサ科の多肉植物らしい】。

こちらはイヌフグリに似ているけど、違う植物なんだろーな・・・


ガイドのJさんのススメで、マーケットに行ってみた。スパイス問屋ではコショウのほか、シナモンなども売っていた。そして長粒米の左には、弓なりのショートパスタが平然と並んでいる。エチオピアでパスタ料理はポピュラーなんだなぁ・・・恐るべし、食の定着 たとえ宗主国は憎くても、美味しい食べ物は受容され生き残っていくのね。

プラスチック製品を掲げる市場の一角で長縄に興じる女児たちを眺めつつ、ショール屋を冷やかす。
二重ガーゼになっていることを初めて知った。女性だけが着用する旨、ガイドのJさんが教えてくれた。


そうこうしていると、東洋人が珍しいのだろう、通り過ぎる自分に子どもたちが"Hello!”と声をかけ、時には手のひらを開いて見せてくれる(ジャンケンの「パー」のようなこの仕草、たぶん親愛の表現だろう)。観光地アクスムでは物売りの子供達にもいっぱい出会ったけど、思うに3歳くらいまでは無邪気、汚れを知らない瞳。彼らに“ハロー”と返しつつ、心が温まっていく 他国でスレた物売りを幾度も経験している身からすると、一度断わったらしつこくしない物売りはありがたかった。

こちらもマーケット付近。場所によって舗装されていたり、そうでなかったり。

明日の国内線のリコンフォームを待つ間、ガイドのJさんと雑談。お決まりの「子どもはいるか」「結婚しているか」と聞かれたので、もちろん質問返ししてやった
すると、年齢不詳だったJさんは同い年と判明。てっきり結婚しているものと思ったら、独身だった。曰く、昔はともかくとして現在のエチオピアでは平均結婚年齢が女性20~30歳、男性30~40歳なんだそうだ。「あなたは平均的。私は平均からはずれてるね」な~んてジョークを飛ばし笑いを取れるほど、2日半経つうちにずいぶん親しくなれた気がする。

最後は、シオンの聖マリア教会へ。アクスムを聖都たらしめている最も重要な場所だ。
【先ほどのシバの女王の話には続きがある。女王の子メネリク1世は成長して父のソロモンに会いにエルサレムへ行く。そして、神殿にあった聖櫃(モーセがシナイ山で神から授かった十戒を記した石板を収める箱。エチオピアではタボットという。英語ではアーク)をエチオピアへ持ち帰ったという。その聖櫃を収めるのがアクスムのこの教会とされる】
当初の教会は後世失われており、現存するのは17世紀にファシリダス王が建てたもの(下の画像で城壁のように見える建物)。かつてはここに聖櫃が安置されていたが、現在は下の画像で手前の小聖堂に祀られている。限られた聖職者によって厳重に管理されており、聖櫃が人目に触れるのは年に1度のティムカットの祝祭のみ。厳粛な空気が漂っていておいそれと近寄れなかったため、遠景でご容赦ください。

こちらは、新しいシオンの聖マリア教会【女性も礼拝できるようにと、先の教会の隣に皇帝ハイレ・セラシエが1960年代に建立】。

内部は円形で、広々としている。正面が祭壇。

こちらの聖書、数百年前に植物や卵をインクにして羊皮紙に書かれたという。とても色鮮やかでビックリ

ケベロという太鼓【エチオピア正教の礼拝で使用する。他にも鈴(シストルム)や杖(スティック)を使い、音を奏でながら踊るそのスタイルはカトリックの礼拝とは大きく異なる。
旅立つ前に読んだ本の著者はそのルーツを旧約聖書「サムエル記」のダヴィデの記述にさかのぼっていた。曰く、本来ユダヤ教の要であるはずの十戒(を収める聖櫃)を擁することを誇りに思うがゆえに、エチオピア正教はキリスト教でありながらユダヤ教の要素を残しているのだと】。

祭壇の周辺に飾られていた様々な絵のひとつ。真ん中よりやや右の天蓋の下で掲げられている長方形が聖櫃である。先述したティムカットの祝祭では、このような聖職者の行列がシオンの聖マリア教会を出てシバの女王の浴槽まで運ばれ、天幕で一夜を過ごした後に教会へ帰還する。


教会に隣接する国立博物館にも行った。十字架に施された線状のキリスト教モチーフ彫刻にテンション上がりまくり 理屈抜きに可愛い もちろん撮影は禁止、せめて収蔵品をまとめた図版でもと思ったが、これもナシ ガイドJさんが言うには、スペースが狭すぎて収蔵品の多くをしまっている状態なので、2年後を目指して新館を建築中らしい。
貼ってあった言語の発音表が目に留まった。エチオピアは70以上の多言語国家なのだが、アムハラ語【セム語族だが、土着のクシ語の影響が強い。エチオピア中南部で用いられ、最大の母語人口(900万人以上)を持つ。公用語のひとつ】とティグリニャ語【セム語族。アクスムを含むエチオピア北部で用いられる】は母音が共通で、1つの子音に7つの音があるそうだ。ガイドJさんが発音するのを聞くうち、"マミムメモ”、“サシスセソ”と聞こえた。気のせいだろうと思いつつ念のためアンコールしたら、Jさんから発せられる音はやはり同じように聞こえた。イマイチ耳に自信がないので喧伝できないけど、これが偶然の一致だとしたらすごいなぁ

ホテルへ戻る前に、たっての希望で土産物屋に寄ってもらった。木製のイコンはアディスアベバよりもアクスムで入手せよ、とガイドブックに書いてあったので。
レスラーみたいな体格の店主曰く、15cmくらいのが35ドル、小さいのが20ドルとな。ブルじゃなくてドル 切望していたものではあったが、物価に比すればどうにも高い。前々日泊まったゲラルタのロッジ(夕朝食付)と小さいイコンが同額なんて 
5ドル値下げ交渉を試みたが、外見同様手強い店主にあえなく撃沈 買っときゃよかったと後悔したくない、って顔に出てたんだろーなぁ私
はるばる連れ帰った小さいイコンがこれ。縦8cm×横5.5cm、厚さ2cm。

両側とも開くようになっていて、左に蓋を開くと三位一体(三賢人)とゲーズ語が描かれている。

右に開くと、聖母子と聖ゲオルギウス【竜を退治し生贄となる娘を救ったとされ、白馬にまたがる姿で表されることが多い。ジョージアを中心に東方キリスト教では人気のある画題らしく、エチオピアでもよく見かけた】。


夕食はホテルにて。10cm前後の小さな串焼き盛りをチョイス。付け合わせの緑の野菜が嬉しい


3・4 アクスム ⇒ゴンダール (2012年7月31日)

この日はゴンダールに発つため、空港までドライバーのIさんとガイドのJさんに送ってもらった。この旅では各地のガイドさん・ドライバーさんにお世話になったけど、3日間過ごした彼らとの時間が最も長かった。ホテルの一件さえなければなぁ~ もっと名残惜しい別れになっていた気がする

ラリベラを経由した飛行機は機内待機の時間がかなりあり、ゴンダールに着いたのは12時半だった。
ガイドのH君とドライバーさんとは空港ですんなり合流できて、まずホテルにチェックインした。昼食はホテルでとるかと聞かれたが、どうせ夕食はホテルになるので他がいいと希望したところ、町の中心部にある別のホテルのレストランへ案内された。下の写真はそこから見下ろした街の様子。アディスアベバとラリベラに次ぐ第3の都市とガイドのH君から説明を受けたが、車窓から見た感じでは下町っぽさが漂う。馬車がわりと現役で街中を闊歩しているし、アジアでもよく見かけるオート小型車がたくさん行き交う。例えるなら、奈良のような雰囲気というべきか。

昼食はカルボナーラをチョイス。クリーム系のパスタも実に美味しかった

さらに、食後には運命の出会いが待っていた。何気なく覗いたホテルの売店に、アブナ・イエマタ教会の絵ハガキがあったのだ 
教会近郊、宿泊したゲラルタにもアクスムにも売っていなかったから、すっかりあきらめていたのに。なぜこんな離れた町に置いてあるんだろう 同じティグレ州のはずではあるけど・・・興奮した頭でゴチャゴチャ考えつつ、友人への投函用に何枚か買い込むのだった

昼食後、この都市を古都たらしめているゴンダール城へ【世界遺産登録名は「ファジル・ゲビ、ゴンダールの遺跡群」。17世紀前半、ファシリダス王がゴルゴラからこの地への遷都を決行し、19世紀後半までの200年余り首都として栄えた。遷都の理由はイスラーム勢力の侵攻、カトリック勢力の強大化、マラリアの蔓延防止など諸説ある。ゴンダール王朝の王たちは先代の宮殿を使用せず、各々が新たに建てたため、6つの城といくつかの城門が残っている。建築様式はポルトガル、イスラム、バロックが混交】。
まずは最も壮麗なファシリダス王の城。1941年、イギリス軍の爆撃により破壊されたものが多いなか、この城は被害を免れ原形をとどめているという。
最上階は王の寝室、3階相当部のバルコニーは王が演説するために設けられたらしい。

内部はこんな感じ。床が板張りなのが印象的だった。

壁の浅彫り・・・このあたりがイスラムの影響といわれる所以だろうか。


ファシリダス王の城とイヤス王の城の間にあるプール、深さ5m。

こちらがイヤス王の城。それにしても・・・行き交う黒人を見てアフリカとかろうじて認識するものの、建物だけだったらどこの国か判断つかない気がする。
この遺跡群の存在を初めて知った欧米人はこれらを「不思議の城」と呼んだ。他のアフリカ諸国には見られない類の建築物が独特の雰囲気を醸し出している。エチオピア正教も然り・・・標高平均2,300m超の高原という地形により周囲の国々と隔絶され、独自の歴史を歩んできたエチオピアの孤高性を象徴しているようだ。

内部に残るアーチ状の天井は、戦後に修復されたもの(オリジナルは件の爆撃で失われた)。


城門の左にあるのは、ヨハンネスⅠ世(ファシリダス王の子)が建てた図書館。エチオピアの建国神話『ケブラ・ナガスト』はここで発見された。

たぶん20代と思われるガイドのH君は、とても綺麗な英語を話す。スピードもアクスムのガイドJさんより2倍くらい速い。旅立つ前に読んだ本のおかげで、拾った単語の意味をつなぎ合わせ理解にこぎつけた。お城の説明の合間に、ビヨ〇セはアディスアベバ出身とか、かのムーン・ウォークの動きはゴンダールのダンスが起源、など印象深いエピソードも教えてくれた。
そして歩くのも速く、点在するお城を縦横無尽にサクサクまわった。

次に、ファシリダス王のプールへ向かった(お城から数百mの距離)。かつてはゴンダールの入口にあたり、町に入る者は全員ここでエチオピア正教の洗礼を受けなければならなかったという。プールを囲む石垣には大木の根が何層にも絡んでいた。前を行くはガイドのH君。

アクスムと同様に、ゴンダールでもティムカット祭を盛大に祝うらしい。祭りの前日、ゴンダール中の教会に祀られている聖櫃(タボット、アーク)がこのプール脇に集められる【既に述べたとおり、エルサレムから持ち込まれた聖櫃はアクスムにある聖シオンのマリア教会に安置されているが、エチオピア正教の教会はすべからくそのレプリカを至聖所に祀っている。他の宗派には見られないこの風習はエチオピア正教がいかに聖櫃を重視しているかの証左であり、独自色を強く感じさせる】。聖櫃のそばで人々は夜を徹して祈りを捧げ、翌朝 司祭が祈りながら十字架をプールに浸して水を清めた後、浮かべた小舟を子どもたちが奪いあう儀式が行われ、最後には大人もプールに入る。儀式の後に水は抜かれてしまうので、水のないプールを前に想像をたくましくする自分であった

途中の草むらで見かけた紫色の花。


ゴンダール観光の最後は、デブレ・ベルハン・セラシエ教会【17世紀、イヤス王が建立。19世紀の南スーダンとの争いでゴンダール中の聖堂が壊滅的な打撃を受けたなか、唯一被害を免れた】。下の写真は教会の入口。

教会の外観はこんな感じ。

遠目に石造りねと思ったら、下から屋根を仰いでビックリ 植物で葺かれた屋根を、細かな木材が支えているのだ。


内部は灯りに乏しく、後から見返したら薄暗すぎて判別できない画像だらけ その中でもマシなものをご覧あれ。
正面には至聖所につながる2つの入口。が、カーテンで遮られて聖職者以外は入れない。壁には三位一体と、その下に十字架にかけられたイエスが描かれている。

なんといっても、この教会で有名なのは天井を埋め尽くすエチオピア式の天使【身体がなく顔の横に翼だけ持つ天使は、聖ヨハネを象徴する。イエスに洗礼を授けたヨハネに恋したサロメは、養父ヘロデ王にヨハネの首を所望した。聖ヨハネは首を切られた後も50日間にわたり首だけ飛んで行って布教したという伝説がある】。
なお、描かれた80体すべて顔だちが異なるらしい。

空白を嫌うかのように見渡すかぎり広がる壁画は創建当初の色彩を今に伝えるという。

風貌からてっきり聖ヨハネと思ったら、エチオピアの聖人アブナ・タクライマノットなんだそうだ。動物の表情もコミカル。この辺、とめどないオリジナリティーがあって面白いなぁ、やっぱり

木の皮に描かれた聖母子。俗に「エチオピアのモナ・リザ」と言われるらしい。


ガイドのH君はとてもカラリとしていて一見ビジネスライクなんだけど、やっぱり人柄はいいんだよなぁ~ 
自分の英語はどうかと聞かれたので、すっごく良いよ、説明も分かりやすいと言ったら素直に喜んでいた。なお、大学に日本人の先生が1年間いたそうで、「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」を知っていた。
逆に知っているアムハラ語をたずねられたので、“テナ・イストゥリヌ” =「こんにちは」と初めて使ってみたら、ドライバーさんまでウケていた そして、「さよなら」を教えてもらった。相手が男性なら“テナ・ドゥヌ”、女性なら“テナ・ドゥニ” なんだって。さっそく明日、お別れの時に使ってみよう。やっぱり言葉はカタコトでも使うといいなぁ。心の距離がぐっと縮まる

ホテルに戻ったら、ベルボーイに日本語で「こんにちは」と声をかけられた。そして、朝の挨拶と夜の挨拶を教えてほしいと請われた。日本からの客が来ることが多いのだろうか。
ちなみに、街中ではいつものごとく中国人と間違われた私。建設関係で中国人がたくさん滞在しているそうだ(使っているクレーンはコ〇ツやミツ〇シだったけど)。
たしかに、昼食をとったレストランとファシリダス王のプールで中国人とすれ違った。久々に東洋人を見かけた・・・この5日間、日本人には会っていない。

高台にあるホテルから、エチオピア第3の都市を見晴らすことができた。

先ほど訪れたゴンダール城も視界に入る。

夕食はホテルのレストランにて。恐縮ながら、allピンボケの画像を載せる。
赤ワインは飲みやすかった。エチケットが牧歌的で可愛い

メインの肉料理に、たっぷり添えられている野菜が嬉しい


★ 中締め ★

旅の最後は、地中に掘られた岩窟教会で名高いラリベラを訪れた後、アディスアベバに戻ります。
お楽しみに~
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