旅の終盤もひき続きユカタン半島巡りです。下の地図中の➍から出発して、➏~➑を訪れました。
また、後の下線部の数字とも対応しています。
4・6・7 メリダ ⇒チチェン・イツァー ⇒カンクン (2008年3月29日)
2泊したアシエンダに別れを告げ、チチェン・イツァー遺跡に寄りながらカンクンへ移動することになっていたこの日。
遺跡ツアーの集合場所がメリダ中心部だったため、郊外のアシエンダまで迎えに来てくれる車をチャーターしてあった。ドライバーさんは見たところ60代と思われるおじいちゃん。この方がとても優しくて、英語で滑らかに会話できない私に道中1時間ずーっと話しかけてくれた。サルサが好きだというドライバーさんは、私がこの夜カンクンに泊まることを知ると、踊りに行かないかと誘ってくれた。なんでも、息子さんと一緒にカンクンにいるんだそうで。社交辞令だよねと思って断わったが、あきらめてくれるまで更に2度断わらなければならなかった。フレンドリーな国民性なんだろうなぁ・・・
メリダ市内の集合場所には白いバンが停まっていた。既に中はいっぱいで、2名掛けの助手席に座る2人の白人少年の横しか空いていなかった。なんとなく詰めてもらって ちょこんと腰掛けると、車は走り出した。さっそく年長の少年が「どこから来たの?」と話しかけてくる。日本と答えると、「日本てどんな国?」。あぁ、無垢でまばゆい瞳・・・私の英語力で応じられるんだろうか、そう思いながらほほ笑んでしまった。すると、すぐ後ろの座席にいたもう一人の少年が「この人、笑ってごまかそうとしているよ」とニヤリ。後で判明したのだが、3人の少年は祖母に連れられて参加していて、私の横の2人が兄弟(9歳くらいのホセ、5歳くらいのミゲル)、後ろが従兄弟のガブリエル(7歳くらい)だった。ガブリエルの皮肉も効いたし、利発なホセがもう一度たずねてきたので もはや逃げ道はなかった 「日本は黒髪に黒い瞳の人が多いです。四季があり、冬に雪が降る地域もあります。日本人は米と味噌汁が主食ですが、味噌汁を知っていますか?」・・・彼らに合わせたわけではなく、自分の表現力の乏しさゆえ小学生レベルの内容だったが、少年たちはそれなりに満足してくれたようだった。お返し(?)に、祖母はプエルトリコ出身だけど自分たちはマイアミに住んでいると教えてくれた。
メリダから東南東へ100㎞、1時間半ほどでチチェン・イツァー遺跡に到着。
【チチェン・イツァーの繁栄は2期に分けられる。7世紀以降のマヤ古典期(雨の神チャックに代表されるマヤ文明独自の特徴が顕著)と、メキシコ中央高原のトルテカ文明と融合した10世紀以降である。前者の遺物は敷地の南部にあるセノーテ(泉)・シトロクの周辺に栄えた「旧チチェン・イツァー」、後者のそれは北部に位置し「新チチェン・イツァー」と呼ばれる。10世紀初め、この地にトルテカ文明が到来すると芸術様式だけでなく政治・軍事・経済などあらゆる面に大きな変化が生じ、マヤ・トルテカ文明に発展した。ケツァルコアトル(水と農耕の神。羽毛を持つ蛇で表現される/メキシコ篇その1、テオティワカン遺跡で紹介)はここではククルカンと呼ばれ、特徴のひとつとなった(ククル=鳥、カン=蛇 を意味する)】
ツアーガイドに先導され、まずは旧チチェン・イツァーへ向かう。その途中で目に映ったものを撮影。
カラコル【天文台。マヤ文明では天文学を研究し、星の運行などを観測していたという。9mの基台の上に高さ13mがそびえる。通称「カタツムリ」は、内部にある螺旋階段から名づけられた】。
赤い家【一部の壁が赤く塗られていたことから命名された。古い建造物のひとつ】。
尼僧院【高さ20mの基壇の上に建物あり。尼僧院とは仮の呼び名で、実際の役割は不明という】。
この別館がすごいのである。壁面が雨の神チャックで埋め尽くされており、マヤ古典期建築の典型例。
ちなみに、上の画像に写るは左からガブリエル、ホセ、ミゲル。最年少のミゲルは腕白で、拾った長い棒で地面を叩いたりして しょっちゅう「ミゲ、やめなさい!!」とおばあさまに叱られていた。が、注意したところで止めるはずもなく・・・わが弟の在りし日の姿を見ているようで面白かった ミゲルとガブリエルは双子のように見えなくもないのだが、ガブ君は やや慎重で神経質な感じで性格は全然違うようだった。
尼僧院別館の目と鼻の先にある、教会【こちらも実際の役割は不明。尼僧院のすぐ脇に建っているため聖職者がいる場所っぽい、とこの地を “発見” したスペイン人が名付けたという。一切の装飾がない最下層とは対照的に、上層はおびただしい幾何学模様と雨の神チャックの装飾。トルテカ文明の影響を受ける前のプウク様式の傑作】。
なお、画像右端に見切れているのが先ほどの尼僧院別館。両者は7~8世紀にさかのぼり、この遺跡最古級の建造物。
教会と尼僧院別館の狭間をズームアップ。教会の右角に見ゆるはチャックの鼻 メキシコ篇その2で紹介したとおり、上向きなので雨乞いの意味が込められている。
次は新チチェン・イツァーへ。来た道を400mほど北へ戻ると、どでかい神殿(エルカスティージョ)が出迎えてくれた。ちなみに、左奥は戦士の神殿。
集合時刻を告げられ、ここからは自由行動となった。
別の角度から撮ったエルカスティージョ【10世紀初めに完成、高さ24m。メソアメリカのピラミッド式建築では階段は通常1つのみだが、これは4面全てに階段を持つ。特に、北側階段の下にはククルカン(羽毛を持つ蛇神)の頭が彫り出されており、春分と秋分の日にはククルカンが影となって階段側面に現れるように計算して設計されている】。
惜しむらくは、そのククルカンの彫刻を撮っていないこと せめてもと、1枚上の画像でその彫刻部分をマーカーで囲んでみた。
そして残念なことに、この神殿にのぼることができなかった ガイドブックにはそんな情報なかったし、人がのぼっている写真が載ってたのに・・・詳しいことはよく分からなかったが、訪れたタイミングが春分の日から1週間も経っていなかったことと関係しているのだろうか 何にせよ、悔し~い
(この記事を書くにあたり調べてみたところ、2020年時点でのぼれないという記載を見かけた。その昔は可能だったのに、保存等を理由に立ち入り禁止になるピサの斜塔パターンか・・・だから(?)規制が厳しくなる前にと、気になった遺跡にはすぐでも足を運びたくなるのだ)
気を取り直して、戦士の神殿へ近づく【10世紀後半築。トルテカ文明の中心的遺跡トゥーラ(メキシコシティの北北東65㎞)の神殿に似通っているという】。
こちらはのぼることができないと予め知っていたので、階段上部をズームで撮影する【階段の最上部にはククルカンの頭がある。その後方に立つユニークな形状の2本の柱はガラガラヘビを表現している。さらに後方の壁中央部に見える小さくて丸い彫刻は、羽の頭飾りを着けた人間の姿でククルカンを象徴している。これらは全てマヤ・トルテカ文明の特徴という。一方で、壁面にはマヤ文明オリジナルの雨の神チャックの彫刻も健在で、融合ぶりが見てとれる】。
上の画像の角度では写っていないのだが、階段をのぼりきった場所にはチャックモールの彫刻がある。メキシコシティの国立人類学博物館に展示されていた類例がこちら。お腹の部分に着目あれ、平らで皿のようになっている。この部分に生贄の心臓を載せたという。メキシコ篇その2で先述したように、本来のマヤ文明は生贄をつくる風習がなかったのだが、戦闘的なトルテカ文明の影響を受けて変化していったことが感じられる。
戦士の神殿の南側面。千本柱が林立している。
西へ進み、球戯場へ。ウシュマルのとは比べものにならないほど広いと思ったら、それもそのはず、長さ150mはメキシコ最大だった。右の壁に設けられている輪っかにボールを通して競う。なお、奥に建つは北の神殿。
球戯は娯楽ではなく純粋な宗教儀式であり、勝利したチームのリーダーが生贄として捧げられたという。負けて生贄となるのではない、生贄となるのが名誉であるという価値観が興味深かった。
球戯場に隣接するジャガーの神殿前でパシャリ 中央にジャガーの玉座あり。なお、これと同様の形で真っ赤に彩色され翡翠の瞳が嵌め込まれた玉座がエルカスティージョ内の神殿にあるらしい。
柱には戦士が彫られていた。
率直な感想として、圧倒的な時間不足は否めなかった。個人的にはウシュマルやカバー遺跡でプウク様式は目にしていたので、どちらかというと新チチェン・イツァーに時間をかけたかったのだが、結果は逆だった。尼僧院とか教会とか、より古いものを丁寧に紹介したいという趣旨は理解できるものの・・・
中でも、ユカタン半島最大といわれるCenote Sagrado(聖なる泉)まで足を運べなかったのが悔やまれる エルカスティージョから500mほど北に位置するのだが、その距離を往復する時間さえなかった 【セノーテ =泉。生活用水としても重宝されるが、特にSagradoは儀式の際に生贄が投げ込まれ、また願掛けのために人々が金銀財宝を投げ込んだという。実際、水底からは遺体や財宝が引き上げられている】
とはいえチチェン・イツァーを訪れるツアーは色々あるはずで、メリダからカンクンまで移動する途中で遺跡を観光するという自分の計画に無理があったのではと思う。じっくり時間をかけたいならば、遺跡周辺の宿に泊まって個人でまわればよかっただけのこと。仕事を離れて旅に充てられる期間の長さに比して、この国で訪れたい場所の数が多すぎた結果、こうならざるを得なかった。訪問地を減らして質の向上を求めるか、はたまたその逆か・・・正解はどこにもなく、自ら選び取っていくしかないのだろう
集合時刻に指定された場所へ戻ると、私以外は皆メリダへ戻るそうで、お別れとなった。3少年たちと離れるのは勿論のこと、友好的に接してくれたアメリカ人女性(ブロンドのボブカット。年の頃は自分と同じくらいと思われる)との別れも残念だった。ニューヨークで働いているという、いかにもキャリアウーマン風の彼女は翌日にはカンクンに泊まるそうで、別れ際に名刺をくれてホテル名も教えてくれて、気が向いたら連絡してねと言ってくれた。あぁ~ 英語で会話が弾むならなぁ、誘ってみなくもないのに・・・旅先でいつも思うことだが、英語が堪能だったらもっと世界が広がるんだろうなぁ
カンクン行きのバスまで見送ってくれたツアーガイドさんに、"Mucho gracias!” と言ったのだが、後になって“Muchas gracias!”ではなかったかと思い至った。自分の思いは伝わったとは思うが、正しい表現ではなかった。恥をかいて学ぶ、を地で行く私である
乗り継いだ観光バスは50人は乗れるかという大型だった。一番前の席が空いていたので座ったら、通路をはさんで隣りのコーディネーターさん(ダニ〇ル・カール似のメキシコ人。見た感じ40代半ば?)が日本語ペラペラでビックリ 聞けば、日本に10年くらいいたという。最初の8ヶ月は留学生として、その後N〇Kスペイン語講座に出演したりメキシコ料理屋で働いたりして東京に3年、JI〇Aに関わりスペイン語を教えて長野に6年。妻は北九州出身の日本人で、今も日本とメキシコを行き来するそうだ。なんだか・・・ツアーのメンバーといい、人との出会いが印象的な日だった
カンクンまでは東北東に200数十㎞、3時間ほどだった。この日の宿は、カリブ海に突き出した長洲にあるホテル【カンクンはホテルゾーンとセントロに大別される。前者はカリブ海とラグーンに挟まれマグカップの取っ手状をしており、長さ20㎞の細長い洲にリゾートホテルが建ち並ぶ、観光に特化したエリア。後者はカンクンの中心街】。
近くのスーパーで瓶ビールを買ったはいいが、栓抜きがないことに気づいた。部屋の備品として置いてないか探すものの、見当たらない。これはホテルのスタッフに頼むしかないか?? それでも未練がましく部屋中を探しまわっていたら、バスルームは洗面台脇の壁に取り付けられた窪みがふと目に入った。念のため、栓を当てて軽く引っ張ると、いとも簡単に外れたではないか これって栓抜きなの?? 日本の感覚だと、バスルームに栓抜きがあるとは思いもよらない・・・面白いなぁ~ これだから、旅って楽しい これからメキシコに向かわれる皆さん、もしも栓抜きが手元に無かったら、バスルームの壁を探してみてくださいね
7・8 カンクン ⇔トゥルム (2008年3月30日)
出国は翌朝だが、メキシコ観光できる実質的な最終日。カンクンから130㎞南西のトゥルム遺跡を目指す。
まずホテルを出てRuta1のバスに乗り、セントロのバスターミナルへ。自分が泊まった宿はホテルゾーンに位置するといってもカンクン岬の手前にあり、セントロに近めで便利だった。たぶん、料金の問題で逆算的に決まったホテルなのだろうけど
バスターミナルでトゥルム行きの1等バスのチケットを購入し、30分待つ。乗客が増えるまで待っていたのか、予定時刻より20分遅れて発車。乗り過ごしてトゥルム中心街まで行ってしまうと4㎞戻らなければならなくなるし、テオティワカンの前例もあるので、降りる場所を見逃さないようにドキドキしながら2時間以上揺られていると、シカレとシェルハ(いずれも海洋公園)で乗客のほとんどが降りてしまう 閑散とした遺跡なのかなぁ、なんて思いつつ予定通りトゥルム・ルイナスで下車。遺跡までの1㎞をつなぐシャトル(機関車を模している)に乗り継ぐ。
到着してみると、どこから集まったのか人・人・人・・・やっぱり一大観光地のようだ(笑)
【画像中央奥がエルカスティージョ、この遺跡で最も高い建造物。左手前がフレスコ画の神殿。マヤ後古典期の後期(13~15世紀)に栄えたトゥルム遺跡は40㎞内陸のコバ遺跡の外港として、メキシコ湾沿岸部・コスタリカ・パナマなどと盛んに交易を行なった】
上の画像の反対側(西)を見渡す。画像の奥、城壁に囲まれていることにお気づきだろうか【トゥルム=現地語で「壁」を意味する。ここは高さ3~5m・厚さ8m・南北400m・東西170mの壁を周囲にめぐらした城壁都市だった】。
大宮殿。中央部に掛かっている屋根が印象的だった。
イグアナも出現。てか、ウシュマルで見かけた時は相当ビックリしたのに、もはや驚きが薄れてきている・・・慣れって恐ろしいわ
神殿の柱の上部の壁には、"降臨する神” の彫刻の痕跡が見られた。
トゥルムのはかなり損傷しているが、メキシコシティの国立人類学博物館に展示されていた類例の彫刻はこんな感じ。
神様の顔の上に足 なんというか・・・自分が今まで訪れてきた国々では同様のを見かけたことがない。独特なんだよな~【専門的には、豊穣を願う地母神とか、沈む太陽とか、蜂を象徴しているなど諸説ある。ちなみに、マヤの人々は蜂蜜を重要な交易品としていた】
前置きが長くなったが・・・実はこの遺跡、カリブ海に臨む断崖の上に築かれている。エルカスティージョの真裏はこんな感じで海岸まで自由に行き来できるため、水着の人々が行き交う不思議な遺跡だった。
2002年ペルーを訪れた際に上空を飛んだと思われるが、初めて間近に見るカリブ海は遠浅で温かそうな青緑色をしていた。
ビーチに降りて見上げる遺跡【1518年、キューバを経由して来航したスペインの探検隊がトゥルムを発見し、セビーリャ(当時)と同じくらい大きな都市があると驚愕したという。ジャングルの中で数百年間発展してきたマヤ文明が最後にたどり着いたのは海辺の地だった。同様のマヤ文明末期の都市遺跡が海辺にいくつか残されているが、中でもここは保存状態が良いもののひとつらしい】。
階段をのぼり、再び遺跡に戻る。いよいよ旅のクライマックス お目当ての場所へと歩を進めると、自分をこの国へ呼び寄せた風景が目の前に広がっていた
カリブ海と風の神殿のコントラスト。山や森の中にある遺跡は数多訪れたが、穏やかな海辺の遺跡はレア・・・これほど自分好みの要素が詰まった景色はなかなか無い。
日本でこのポスターを見かけた時、絶対にこの目で見たいと心に決めた。メヒカーナ航空のロゴだけで遺跡名は示されていなかったため、メキシコの海辺の遺跡を検索しまくってトゥルムと割り出した。心底切望した景色ゆえ、自分がその場に立っていることがかえって信じられず、夢うつつだった。
別の角度から、これも風の神殿【ネーミングとは裏腹に、位置からして見張り台ではという説もある】。
はるか向こうにユカタン半島東岸を見晴らす。
来た道を逆になぞり、カンクンのバスターミナルへ帰着。
朝食後に何も口にしないまま、夕食には早い中途半端な時間になっていたが、目星をつけていたレストランへ向かう。こーいう時、通し営業なのはありがたい。ガイドブックの地図では200mほどの距離のはずが、迷って3倍近く歩く始末だったが、たどり着けてよかった
黒い豆のスープと、タンピケーニャ【牛ヒレ肉を薄く開いて焼いたステーキ】を注文。これにワカモーレ【ペースト状にしたアボカドに、ライムまたはレモン果汁・塩・刻んだタマネギやトマトなどを混ぜたディップ】と小さなエンチラーダ【元来はトルティージャに肉をはさみ、トマトと唐辛子のソースをかけたもの。現在は具に魚介・チーズ・野菜、ソースも緑のなど、トッピングにチーズ・コリアンダー・刻みタマネギなど、バリエーションが豊富になっている】が付いていて、最後のメキシコ料理を十分堪能することができた。画像を撮ってなくて、ごめんなさい
食後、Ruta1のバスに乗ってホテルの前を通り過ぎ、カンクン岬のショッピング・モールへ。お土産の最終調整である。
民芸品売り場では1時間も迷って、お店の人に相当嫌な顔をされた。あんなに時間かけてチョコレートとは、みたいな悪態をつかれれているようだった。テキーラ入りのチョコレートが美味しそうだったんだもん、いいじゃんねぇ。それにしても、さほど言葉も聞き取れないのに、悪口だろうなと分かってしまうのって不思議だよねぇ、本能なのかな
Ruta2のバスに乗り、ホテルの近くで下車。前日買いそびれたユカタン半島の地ビール「Montejo」をスーパーでゲット(こちらも画像なし)。胃腸をおもんぱかって1日2食にしていたため、滞在日数のわりにメキシコ料理を種類豊富に楽しめなかったけど ビールはかなり制覇したかも、何のこっちゃ
7 カンクン ⇒アメリカ(ヒューストン)へ出国 (2008年3月31日)
最後にひとつ失敗 カンクンの空港(正確に言うと、Terminal3)にはポストがなかった・・・ 前夜に書いた2枚のハガキは持ち帰るハメに。
この経験から、最終日に空港で投函はリスク大と以後の教訓にしている。転んでもただでは起きないぞっ
★ 終わりに ★
治安が気がかりなメキシコシティに始まり、北部のサカテカスを経由してユカタン半島へ飛んだ。コートを羽織って首都とこじんまりした地方都市を巡った後、半袖Tシャツに着替えて陽光まぶしい遺跡へ【3月の平均気温; メキシコシティ17℃、サカテカス14.3℃、カンクン26.4℃】。雪降る日に生まれたくせに寒さが苦手なもので、気候が温暖になってゆくにつれ自分の心も少しずつ開放されて軽やかになり、人々との出会いにも恵まれた。この記事を書くにあたり 無邪気な笑顔を向ける3少年の画像にモザイクをかけながら、みんな成人しているなぁ、どんな風に成長しているんだろうとしばし空想にふけった。例によって今回の旅もメキシコに強い旅行社に日程・訪問希望地・予算を伝えてアレンジしてもらったので、訪問の順番は全くのお任せだったのだが、正解だった気がする。
惜しむらくは、全体的な画像の乏しさ ソパ・デ・トルティージャとタコスの2品しか紹介できなかったメキシコ料理は論外だし、各遺跡では重要とされる彫刻や壁画を撮りそびれているものも多く、自分の見る目の無さ&訪問前の勉強不足にガッカリせざるを得ない。当時はブログをやる心づもりがなかったとはいえ、メキシコの魅力を十分に伝えきれず残念である。
が、この記事に触れた方々の中からメキシコに興味を持たれる稀有な方がいらっしゃるかもしれない、とかそけき望みをつなぐ図太い私なのだった
また、後の下線部の数字とも対応しています。
4・6・7 メリダ ⇒チチェン・イツァー ⇒カンクン (2008年3月29日)
2泊したアシエンダに別れを告げ、チチェン・イツァー遺跡に寄りながらカンクンへ移動することになっていたこの日。
遺跡ツアーの集合場所がメリダ中心部だったため、郊外のアシエンダまで迎えに来てくれる車をチャーターしてあった。ドライバーさんは見たところ60代と思われるおじいちゃん。この方がとても優しくて、英語で滑らかに会話できない私に道中1時間ずーっと話しかけてくれた。サルサが好きだというドライバーさんは、私がこの夜カンクンに泊まることを知ると、踊りに行かないかと誘ってくれた。なんでも、息子さんと一緒にカンクンにいるんだそうで。社交辞令だよねと思って断わったが、あきらめてくれるまで更に2度断わらなければならなかった。フレンドリーな国民性なんだろうなぁ・・・
メリダ市内の集合場所には白いバンが停まっていた。既に中はいっぱいで、2名掛けの助手席に座る2人の白人少年の横しか空いていなかった。なんとなく詰めてもらって ちょこんと腰掛けると、車は走り出した。さっそく年長の少年が「どこから来たの?」と話しかけてくる。日本と答えると、「日本てどんな国?」。あぁ、無垢でまばゆい瞳・・・私の英語力で応じられるんだろうか、そう思いながらほほ笑んでしまった。すると、すぐ後ろの座席にいたもう一人の少年が「この人、笑ってごまかそうとしているよ」とニヤリ。後で判明したのだが、3人の少年は祖母に連れられて参加していて、私の横の2人が兄弟(9歳くらいのホセ、5歳くらいのミゲル)、後ろが従兄弟のガブリエル(7歳くらい)だった。ガブリエルの皮肉も効いたし、利発なホセがもう一度たずねてきたので もはや逃げ道はなかった 「日本は黒髪に黒い瞳の人が多いです。四季があり、冬に雪が降る地域もあります。日本人は米と味噌汁が主食ですが、味噌汁を知っていますか?」・・・彼らに合わせたわけではなく、自分の表現力の乏しさゆえ小学生レベルの内容だったが、少年たちはそれなりに満足してくれたようだった。お返し(?)に、祖母はプエルトリコ出身だけど自分たちはマイアミに住んでいると教えてくれた。
メリダから東南東へ100㎞、1時間半ほどでチチェン・イツァー遺跡に到着。
【チチェン・イツァーの繁栄は2期に分けられる。7世紀以降のマヤ古典期(雨の神チャックに代表されるマヤ文明独自の特徴が顕著)と、メキシコ中央高原のトルテカ文明と融合した10世紀以降である。前者の遺物は敷地の南部にあるセノーテ(泉)・シトロクの周辺に栄えた「旧チチェン・イツァー」、後者のそれは北部に位置し「新チチェン・イツァー」と呼ばれる。10世紀初め、この地にトルテカ文明が到来すると芸術様式だけでなく政治・軍事・経済などあらゆる面に大きな変化が生じ、マヤ・トルテカ文明に発展した。ケツァルコアトル(水と農耕の神。羽毛を持つ蛇で表現される/メキシコ篇その1、テオティワカン遺跡で紹介)はここではククルカンと呼ばれ、特徴のひとつとなった(ククル=鳥、カン=蛇 を意味する)】
ツアーガイドに先導され、まずは旧チチェン・イツァーへ向かう。その途中で目に映ったものを撮影。
カラコル【天文台。マヤ文明では天文学を研究し、星の運行などを観測していたという。9mの基台の上に高さ13mがそびえる。通称「カタツムリ」は、内部にある螺旋階段から名づけられた】。
赤い家【一部の壁が赤く塗られていたことから命名された。古い建造物のひとつ】。
尼僧院【高さ20mの基壇の上に建物あり。尼僧院とは仮の呼び名で、実際の役割は不明という】。
この別館がすごいのである。壁面が雨の神チャックで埋め尽くされており、マヤ古典期建築の典型例。
ちなみに、上の画像に写るは左からガブリエル、ホセ、ミゲル。最年少のミゲルは腕白で、拾った長い棒で地面を叩いたりして しょっちゅう「ミゲ、やめなさい!!」とおばあさまに叱られていた。が、注意したところで止めるはずもなく・・・わが弟の在りし日の姿を見ているようで面白かった ミゲルとガブリエルは双子のように見えなくもないのだが、ガブ君は やや慎重で神経質な感じで性格は全然違うようだった。
尼僧院別館の目と鼻の先にある、教会【こちらも実際の役割は不明。尼僧院のすぐ脇に建っているため聖職者がいる場所っぽい、とこの地を “発見” したスペイン人が名付けたという。一切の装飾がない最下層とは対照的に、上層はおびただしい幾何学模様と雨の神チャックの装飾。トルテカ文明の影響を受ける前のプウク様式の傑作】。
なお、画像右端に見切れているのが先ほどの尼僧院別館。両者は7~8世紀にさかのぼり、この遺跡最古級の建造物。
教会と尼僧院別館の狭間をズームアップ。教会の右角に見ゆるはチャックの鼻 メキシコ篇その2で紹介したとおり、上向きなので雨乞いの意味が込められている。
次は新チチェン・イツァーへ。来た道を400mほど北へ戻ると、どでかい神殿(エルカスティージョ)が出迎えてくれた。ちなみに、左奥は戦士の神殿。
集合時刻を告げられ、ここからは自由行動となった。
別の角度から撮ったエルカスティージョ【10世紀初めに完成、高さ24m。メソアメリカのピラミッド式建築では階段は通常1つのみだが、これは4面全てに階段を持つ。特に、北側階段の下にはククルカン(羽毛を持つ蛇神)の頭が彫り出されており、春分と秋分の日にはククルカンが影となって階段側面に現れるように計算して設計されている】。
惜しむらくは、そのククルカンの彫刻を撮っていないこと せめてもと、1枚上の画像でその彫刻部分をマーカーで囲んでみた。
そして残念なことに、この神殿にのぼることができなかった ガイドブックにはそんな情報なかったし、人がのぼっている写真が載ってたのに・・・詳しいことはよく分からなかったが、訪れたタイミングが春分の日から1週間も経っていなかったことと関係しているのだろうか 何にせよ、悔し~い
(この記事を書くにあたり調べてみたところ、2020年時点でのぼれないという記載を見かけた。その昔は可能だったのに、保存等を理由に立ち入り禁止になるピサの斜塔パターンか・・・だから(?)規制が厳しくなる前にと、気になった遺跡にはすぐでも足を運びたくなるのだ)
気を取り直して、戦士の神殿へ近づく【10世紀後半築。トルテカ文明の中心的遺跡トゥーラ(メキシコシティの北北東65㎞)の神殿に似通っているという】。
こちらはのぼることができないと予め知っていたので、階段上部をズームで撮影する【階段の最上部にはククルカンの頭がある。その後方に立つユニークな形状の2本の柱はガラガラヘビを表現している。さらに後方の壁中央部に見える小さくて丸い彫刻は、羽の頭飾りを着けた人間の姿でククルカンを象徴している。これらは全てマヤ・トルテカ文明の特徴という。一方で、壁面にはマヤ文明オリジナルの雨の神チャックの彫刻も健在で、融合ぶりが見てとれる】。
上の画像の角度では写っていないのだが、階段をのぼりきった場所にはチャックモールの彫刻がある。メキシコシティの国立人類学博物館に展示されていた類例がこちら。お腹の部分に着目あれ、平らで皿のようになっている。この部分に生贄の心臓を載せたという。メキシコ篇その2で先述したように、本来のマヤ文明は生贄をつくる風習がなかったのだが、戦闘的なトルテカ文明の影響を受けて変化していったことが感じられる。
戦士の神殿の南側面。千本柱が林立している。
西へ進み、球戯場へ。ウシュマルのとは比べものにならないほど広いと思ったら、それもそのはず、長さ150mはメキシコ最大だった。右の壁に設けられている輪っかにボールを通して競う。なお、奥に建つは北の神殿。
球戯は娯楽ではなく純粋な宗教儀式であり、勝利したチームのリーダーが生贄として捧げられたという。負けて生贄となるのではない、生贄となるのが名誉であるという価値観が興味深かった。
球戯場に隣接するジャガーの神殿前でパシャリ 中央にジャガーの玉座あり。なお、これと同様の形で真っ赤に彩色され翡翠の瞳が嵌め込まれた玉座がエルカスティージョ内の神殿にあるらしい。
柱には戦士が彫られていた。
率直な感想として、圧倒的な時間不足は否めなかった。個人的にはウシュマルやカバー遺跡でプウク様式は目にしていたので、どちらかというと新チチェン・イツァーに時間をかけたかったのだが、結果は逆だった。尼僧院とか教会とか、より古いものを丁寧に紹介したいという趣旨は理解できるものの・・・
中でも、ユカタン半島最大といわれるCenote Sagrado(聖なる泉)まで足を運べなかったのが悔やまれる エルカスティージョから500mほど北に位置するのだが、その距離を往復する時間さえなかった 【セノーテ =泉。生活用水としても重宝されるが、特にSagradoは儀式の際に生贄が投げ込まれ、また願掛けのために人々が金銀財宝を投げ込んだという。実際、水底からは遺体や財宝が引き上げられている】
とはいえチチェン・イツァーを訪れるツアーは色々あるはずで、メリダからカンクンまで移動する途中で遺跡を観光するという自分の計画に無理があったのではと思う。じっくり時間をかけたいならば、遺跡周辺の宿に泊まって個人でまわればよかっただけのこと。仕事を離れて旅に充てられる期間の長さに比して、この国で訪れたい場所の数が多すぎた結果、こうならざるを得なかった。訪問地を減らして質の向上を求めるか、はたまたその逆か・・・正解はどこにもなく、自ら選び取っていくしかないのだろう
集合時刻に指定された場所へ戻ると、私以外は皆メリダへ戻るそうで、お別れとなった。3少年たちと離れるのは勿論のこと、友好的に接してくれたアメリカ人女性(ブロンドのボブカット。年の頃は自分と同じくらいと思われる)との別れも残念だった。ニューヨークで働いているという、いかにもキャリアウーマン風の彼女は翌日にはカンクンに泊まるそうで、別れ際に名刺をくれてホテル名も教えてくれて、気が向いたら連絡してねと言ってくれた。あぁ~ 英語で会話が弾むならなぁ、誘ってみなくもないのに・・・旅先でいつも思うことだが、英語が堪能だったらもっと世界が広がるんだろうなぁ
カンクン行きのバスまで見送ってくれたツアーガイドさんに、"Mucho gracias!” と言ったのだが、後になって“Muchas gracias!”ではなかったかと思い至った。自分の思いは伝わったとは思うが、正しい表現ではなかった。恥をかいて学ぶ、を地で行く私である
乗り継いだ観光バスは50人は乗れるかという大型だった。一番前の席が空いていたので座ったら、通路をはさんで隣りのコーディネーターさん(ダニ〇ル・カール似のメキシコ人。見た感じ40代半ば?)が日本語ペラペラでビックリ 聞けば、日本に10年くらいいたという。最初の8ヶ月は留学生として、その後N〇Kスペイン語講座に出演したりメキシコ料理屋で働いたりして東京に3年、JI〇Aに関わりスペイン語を教えて長野に6年。妻は北九州出身の日本人で、今も日本とメキシコを行き来するそうだ。なんだか・・・ツアーのメンバーといい、人との出会いが印象的な日だった
カンクンまでは東北東に200数十㎞、3時間ほどだった。この日の宿は、カリブ海に突き出した長洲にあるホテル【カンクンはホテルゾーンとセントロに大別される。前者はカリブ海とラグーンに挟まれマグカップの取っ手状をしており、長さ20㎞の細長い洲にリゾートホテルが建ち並ぶ、観光に特化したエリア。後者はカンクンの中心街】。
近くのスーパーで瓶ビールを買ったはいいが、栓抜きがないことに気づいた。部屋の備品として置いてないか探すものの、見当たらない。これはホテルのスタッフに頼むしかないか?? それでも未練がましく部屋中を探しまわっていたら、バスルームは洗面台脇の壁に取り付けられた窪みがふと目に入った。念のため、栓を当てて軽く引っ張ると、いとも簡単に外れたではないか これって栓抜きなの?? 日本の感覚だと、バスルームに栓抜きがあるとは思いもよらない・・・面白いなぁ~ これだから、旅って楽しい これからメキシコに向かわれる皆さん、もしも栓抜きが手元に無かったら、バスルームの壁を探してみてくださいね
7・8 カンクン ⇔トゥルム (2008年3月30日)
出国は翌朝だが、メキシコ観光できる実質的な最終日。カンクンから130㎞南西のトゥルム遺跡を目指す。
まずホテルを出てRuta1のバスに乗り、セントロのバスターミナルへ。自分が泊まった宿はホテルゾーンに位置するといってもカンクン岬の手前にあり、セントロに近めで便利だった。たぶん、料金の問題で逆算的に決まったホテルなのだろうけど
バスターミナルでトゥルム行きの1等バスのチケットを購入し、30分待つ。乗客が増えるまで待っていたのか、予定時刻より20分遅れて発車。乗り過ごしてトゥルム中心街まで行ってしまうと4㎞戻らなければならなくなるし、テオティワカンの前例もあるので、降りる場所を見逃さないようにドキドキしながら2時間以上揺られていると、シカレとシェルハ(いずれも海洋公園)で乗客のほとんどが降りてしまう 閑散とした遺跡なのかなぁ、なんて思いつつ予定通りトゥルム・ルイナスで下車。遺跡までの1㎞をつなぐシャトル(機関車を模している)に乗り継ぐ。
到着してみると、どこから集まったのか人・人・人・・・やっぱり一大観光地のようだ(笑)
【画像中央奥がエルカスティージョ、この遺跡で最も高い建造物。左手前がフレスコ画の神殿。マヤ後古典期の後期(13~15世紀)に栄えたトゥルム遺跡は40㎞内陸のコバ遺跡の外港として、メキシコ湾沿岸部・コスタリカ・パナマなどと盛んに交易を行なった】
上の画像の反対側(西)を見渡す。画像の奥、城壁に囲まれていることにお気づきだろうか【トゥルム=現地語で「壁」を意味する。ここは高さ3~5m・厚さ8m・南北400m・東西170mの壁を周囲にめぐらした城壁都市だった】。
大宮殿。中央部に掛かっている屋根が印象的だった。
イグアナも出現。てか、ウシュマルで見かけた時は相当ビックリしたのに、もはや驚きが薄れてきている・・・慣れって恐ろしいわ
神殿の柱の上部の壁には、"降臨する神” の彫刻の痕跡が見られた。
トゥルムのはかなり損傷しているが、メキシコシティの国立人類学博物館に展示されていた類例の彫刻はこんな感じ。
神様の顔の上に足 なんというか・・・自分が今まで訪れてきた国々では同様のを見かけたことがない。独特なんだよな~【専門的には、豊穣を願う地母神とか、沈む太陽とか、蜂を象徴しているなど諸説ある。ちなみに、マヤの人々は蜂蜜を重要な交易品としていた】
前置きが長くなったが・・・実はこの遺跡、カリブ海に臨む断崖の上に築かれている。エルカスティージョの真裏はこんな感じで海岸まで自由に行き来できるため、水着の人々が行き交う不思議な遺跡だった。
2002年ペルーを訪れた際に上空を飛んだと思われるが、初めて間近に見るカリブ海は遠浅で温かそうな青緑色をしていた。
ビーチに降りて見上げる遺跡【1518年、キューバを経由して来航したスペインの探検隊がトゥルムを発見し、セビーリャ(当時)と同じくらい大きな都市があると驚愕したという。ジャングルの中で数百年間発展してきたマヤ文明が最後にたどり着いたのは海辺の地だった。同様のマヤ文明末期の都市遺跡が海辺にいくつか残されているが、中でもここは保存状態が良いもののひとつらしい】。
階段をのぼり、再び遺跡に戻る。いよいよ旅のクライマックス お目当ての場所へと歩を進めると、自分をこの国へ呼び寄せた風景が目の前に広がっていた
カリブ海と風の神殿のコントラスト。山や森の中にある遺跡は数多訪れたが、穏やかな海辺の遺跡はレア・・・これほど自分好みの要素が詰まった景色はなかなか無い。
日本でこのポスターを見かけた時、絶対にこの目で見たいと心に決めた。メヒカーナ航空のロゴだけで遺跡名は示されていなかったため、メキシコの海辺の遺跡を検索しまくってトゥルムと割り出した。心底切望した景色ゆえ、自分がその場に立っていることがかえって信じられず、夢うつつだった。
別の角度から、これも風の神殿【ネーミングとは裏腹に、位置からして見張り台ではという説もある】。
はるか向こうにユカタン半島東岸を見晴らす。
来た道を逆になぞり、カンクンのバスターミナルへ帰着。
朝食後に何も口にしないまま、夕食には早い中途半端な時間になっていたが、目星をつけていたレストランへ向かう。こーいう時、通し営業なのはありがたい。ガイドブックの地図では200mほどの距離のはずが、迷って3倍近く歩く始末だったが、たどり着けてよかった
黒い豆のスープと、タンピケーニャ【牛ヒレ肉を薄く開いて焼いたステーキ】を注文。これにワカモーレ【ペースト状にしたアボカドに、ライムまたはレモン果汁・塩・刻んだタマネギやトマトなどを混ぜたディップ】と小さなエンチラーダ【元来はトルティージャに肉をはさみ、トマトと唐辛子のソースをかけたもの。現在は具に魚介・チーズ・野菜、ソースも緑のなど、トッピングにチーズ・コリアンダー・刻みタマネギなど、バリエーションが豊富になっている】が付いていて、最後のメキシコ料理を十分堪能することができた。画像を撮ってなくて、ごめんなさい
食後、Ruta1のバスに乗ってホテルの前を通り過ぎ、カンクン岬のショッピング・モールへ。お土産の最終調整である。
民芸品売り場では1時間も迷って、お店の人に相当嫌な顔をされた。あんなに時間かけてチョコレートとは、みたいな悪態をつかれれているようだった。テキーラ入りのチョコレートが美味しそうだったんだもん、いいじゃんねぇ。それにしても、さほど言葉も聞き取れないのに、悪口だろうなと分かってしまうのって不思議だよねぇ、本能なのかな
Ruta2のバスに乗り、ホテルの近くで下車。前日買いそびれたユカタン半島の地ビール「Montejo」をスーパーでゲット(こちらも画像なし)。胃腸をおもんぱかって1日2食にしていたため、滞在日数のわりにメキシコ料理を種類豊富に楽しめなかったけど ビールはかなり制覇したかも、何のこっちゃ
7 カンクン ⇒アメリカ(ヒューストン)へ出国 (2008年3月31日)
最後にひとつ失敗 カンクンの空港(正確に言うと、Terminal3)にはポストがなかった・・・ 前夜に書いた2枚のハガキは持ち帰るハメに。
この経験から、最終日に空港で投函はリスク大と以後の教訓にしている。転んでもただでは起きないぞっ
★ 終わりに ★
治安が気がかりなメキシコシティに始まり、北部のサカテカスを経由してユカタン半島へ飛んだ。コートを羽織って首都とこじんまりした地方都市を巡った後、半袖Tシャツに着替えて陽光まぶしい遺跡へ【3月の平均気温; メキシコシティ17℃、サカテカス14.3℃、カンクン26.4℃】。雪降る日に生まれたくせに寒さが苦手なもので、気候が温暖になってゆくにつれ自分の心も少しずつ開放されて軽やかになり、人々との出会いにも恵まれた。この記事を書くにあたり 無邪気な笑顔を向ける3少年の画像にモザイクをかけながら、みんな成人しているなぁ、どんな風に成長しているんだろうとしばし空想にふけった。例によって今回の旅もメキシコに強い旅行社に日程・訪問希望地・予算を伝えてアレンジしてもらったので、訪問の順番は全くのお任せだったのだが、正解だった気がする。
惜しむらくは、全体的な画像の乏しさ ソパ・デ・トルティージャとタコスの2品しか紹介できなかったメキシコ料理は論外だし、各遺跡では重要とされる彫刻や壁画を撮りそびれているものも多く、自分の見る目の無さ&訪問前の勉強不足にガッカリせざるを得ない。当時はブログをやる心づもりがなかったとはいえ、メキシコの魅力を十分に伝えきれず残念である。
が、この記事に触れた方々の中からメキシコに興味を持たれる稀有な方がいらっしゃるかもしれない、とかそけき望みをつなぐ図太い私なのだった
おしまい