中学・高校時代にミッションスクールへ通った私と、正真正銘クリスチャンのCちゃん。いつか聖書の舞台を訪れたい・・・二人で飲むと、度々話題に出ていた。
いよいよ実行すべく旅の計画をしていたところ、政情が怪しくなった 多少躊躇したものの、訪問予定地はガザから離れているため旅立つことにした。
5日間の旅を2つに分け、前半をその1として紹介したい。
上の地図で浅葱色の部分がイスラエル、レモンイエローの部分がパレスチナ自治区である(浅葱色の部分はフリーハンドで塗ったため、粗い部分はどうかご容赦ください m(_ _)m)。
旅の前半では、➊~➌の都市を訪れた。また、後の下線部の数字にも対応している。
1・2 (イスタンブール)⇒テルアヴィヴ ⇒ヤッフォ ⇒エルサレム (2012年12月26日)
前日の夕方、イスタンブール空港からタクシーで5分もかからないホテルに宿泊。トランジット用なのであまり期待していなかったが、設備の整った良いホテルだった。そんな時に限って、夜中に発たねばならないとは
イスラエル便の離陸は朝6時45分だったが、審査に時間がかかるかもと警戒して3時間前に空港入りした。が、ト〇コ航空のカウンターが開いておらず、結果的に1時間待つハメに。
しかも審査はいたってフツーで、気負っていたぶん 肩透かし 少なくともあと1時間はホテルで眠れた、完全なる判断ミス。Cちゃんをつきあわせてしまって申し訳なかった
8時50分、テルアヴィヴに到着。入国審査も実にフツーで、異様に時間がかかるとか全くナシ
パスポート・コントロールではCちゃんが先に窓口へ行き、スタンプは不要と伝えたらしい【パスポートにイスラエルの入国スタンプがあると、アラブ諸国では入国を認めない国があるため、希望すれば別紙にスタンプを押してもらうことができる。この別紙は回収され、手元に残ることはない】。次に窓口へ進んだ私を連れとみなした係官は、質問なしに別紙にスタンプを押してよこした。即座に私は押印して!と反応できるはずもなく、かくて私のイスラエル入国日は記録がなくなってしまった・・・。スタンプをどうするのかCちゃんにあらかじめ聞いておくべきだった、トホホ
この日はエルサレム泊だったが、テルアヴィヴの数㎞南にあるヤッフォへ寄ってから行くことになっていた。
空港から1駅だけ電車に乗る。空港駅のホームはこんな感じ。
ハガナー駅から5分ほど歩いてバスステーションへ行き、タクシーをつかまえた。流しだけあって、なかなか英語が通じず苦労したけど、なんとか発車。
町のシンボルであるクロックタワーで降ろしてもらい、旧市街まで歩いて行くことにする。下の写真は、帰り際に撮影したもの。
まもなく、目の前に地中海東縁の海が現れた。旧市街の反対側(北東方向)には新市街が広がっている。
私たちが進むべきは旧市街。聖ペテロ教会の塔が遠目にも目立つ。
海沿いを進んで行くと、釣り人達に出会った。どんな魚が釣れるんだろう
ちなみに画像の右、沖に小さく浮かぶのはアンドロメダの岩(ギリシャ神話にまつわるエピソードを持つ)。イスラエル国旗がたなびいている。
ヤッフォは紀元前にさかのぼる歴史の古い港。ソロモン王の時代、エルサレム神殿の建築に使うレバノン杉がヤッフォで荷揚げされ運ばれたという。
現在も港の面影を残す。
道中のスーパーに陳列されていたケーキ。甘いものには興味のない自分だが、その大きさに思わずパシャリ
棚の上段にご注目あれ。南部鉄器に似ていると思うのは気のせい
旧市街の小路は整備されていて、そこかしこにある標識もステキ。英語の上のはヘブライ文字かなぁ?
小路の途中で現れた猫。犬派の私だけど、この仔は可愛いなぁ
目的地のひとつ、「皮なめしシモンの家」に到着。ガイドブック情報どおり、閉まっていて見学できず
【この家に滞在中の十二弟子ペテロに神の啓示があり、訪れた使者に伴われて50㎞北方のカイサリヤへ赴き、ローマ人のコルネリウスに洗礼を授けた。ユダヤ人以外に洗礼を施した最初のケースであり、異邦伝道へ向かう契機のひとつになったという】
旧市街の中心、ケドゥミーム広場に立つナポレオン【1798年、エジプトを攻略したナポレオンはヤッフォも占領】。
広場にある噴水のモニュメントは動物のような、そうでないような・・・
後で、旧市街周辺には芸術家が多く住むと知った。前衛的なのも納得
「願いの橋」越しに見る聖ペテロ教会【ペテロがヤッフォからローマへの伝道に出発したことを記念して、後世に建てられた】。
正午クローズの直前にすべり込み入場。祭壇には、天使から啓示を受けるペテロの絵が飾られていた。
空腹をおぼえて、広場近くに軒を連ねる食堂のひとつに入った。海辺でシーフードを、と安直に注文。ムール貝・イカ・エビ・カニのクリームソース煮は、アラブ風のスパイスが効いてて美味だった 明るいうちからビール・・・初日から不真面目全開
食堂のテラスから海が見えた。修復中のはジャーマ・アル・バフル(モスク)のミナレット。
2時間半ほどの観光を終え、エルサレム行きが出るセントラル・バスステーションを目指して歩き出したが、ほどなく迷ってタクシーを拾った。自力では到底ムリだった
14時15分、ヤッフォを出発。座ったところで睡眠不足の折から猛烈な睡魔に襲われ、車窓を楽しむ余裕がなかった
ガイドブックでは50分かかるとあったが40分で到着、寝ぼけまなこで降車。ホテルに向かうべく路線バスを探す勢いのCちゃんを制してタクシーを拾った。ケチるのも時と場合による。大きな荷物を持っていて、前夜あまり寝ていないとくればムリは禁物ということで
16時前、新市街のホテルを出てエルサレム観光Part1のスタート。旧市街を囲む城壁には8つの門が設けられているが、私たちのホテルから最も近く、また観光案内所の最寄であるヤッフォ門へ向かった。途中で道に迷い予想以上に時間を取られつつ、なんとか案内所で地図を入手 下はヤッフォ門付近で撮影。
次は、翌日乗る予定のバス乗り場を下見しなければならない。目の前のダビデ通りを進み、十字路で左折してダマスカス門を目指す。旧市街のメインストリートをたどるその道中、両側にはビッシリと商店が並び、にぎわいを見せていた。うずたかく積み上げられた色とりどりのスパイスに驚いてパシャリ。岩のドームをてっぺんに載せる遊び心もイイ
ダマスカス門に近づくほど、路上の食料品売りも目立った。
旧市街を出て、スルタン・スライマーン通りから撮影したダマスカス門。8つの門のうち、最も優美という。
こちらも、先ほどの通りから見た旧市街。実際に訪れてみて感じたのだが、エルサレム旧市街はひときわ小高い。もともと丘だった所へ町を築いたうえに、数千年の歴史の歩みの中で、前代の基盤の上へ上へと建てられていったからだろう。
バスステーションを確認し終え、再び旧市街へ戻った。すっかり日も暮れて18時過ぎ、大通りをそれて横道に踏み入るとけっこう薄暗い。クリスマスの名残のイルミネーションが浮かび上がる中を進む。
この時刻に開いているのはここだけという理由で、聖墳墓教会へ【イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘に建てられた教会。イエスの墓がありキリスト教徒にとっては重要な聖地、エルサレム観光の目玉のひとつ】。暗闇に浮かび上がる教会の入口。
イエスの墓(外観)。内部を撮影するのはさすがにためらわれ・・・画像がなくてごめんなさい m(_ _)m
天井の青色がとても印象的なモザイクの空間があった。降ろされた十字架に横たわるイエスの周りで死を悼んでいる。
イエスが息を引き取った後、身体を横たえて香油を塗った岩。熱心にお参りする方がいらっしゃった。
銀ピカの祭壇の下には岩があり、イエスの十字架が立てられていた場所という。この画像では見えにくいけど、これしかなくて・・・ごめんなさい
前菜をすっ飛ばしてメインにかぶりつくような訪問だなと最初は思ったが、この翌々日 2度目に訪問した時と比べると明らかに空いていた。並ばずにじっくり見学できて人垣なしに撮影できる夜は穴場、オススメかも
2・3 エルサレム ⇔ ベツレヘム (2012年12月27日)
エルサレム滞在あと2日の中で、10㎞南に位置するベツレヘム(パレスチナ自治区内)も訪れることになっていた。友人へのハガキを1枚だけパレスチナ自治区で投函したいと目論んでいたので、郵便局が閉まる金曜日(12月28日)を避けて訪問することになった。
が、神殿の丘【ソロモン王の神殿跡地であり、岩のドームなどがある。エルサレム観光の目玉のひとつ】も金曜休みしかも木曜14時までと判明し、神殿の丘を見てからベツレヘムへ向かうことにした。ダマスカス門から入ると道が分かりやすそうと判断。朝日を浴びる門をくぐった。
まだ8時過ぎというのに、もう行商に来ている人もいる。働き者だなー
とはいえ、通りに面する店の多くはまだ開いていない。夜とはまた異なる雰囲気漂う旧市街。
神殿の丘に至る門はいくつかあるが、観光客はモロッコ門からしか入れないことになっている。丘が目の前に見えてはいるものの、その門を探し当てるまで多少時間がかかった。
軽い荷物検査をくぐり抜けると、目の前に「嘆きの壁」が広がっていた【ユダヤ人の聖地のひとつ。B.C965年にソロモン王が第1神殿を築き聖櫃(シナイ山でモーセが神から授かった十戒を記す石板を収める)を安置するも、B.C586年に破壊される。バビロン捕囚後のB.C515年に第2神殿が築かれた後、B.C20年にヘロデ王が改築したが、A.D70年にローマにより破壊。現在残る壁は長さ50m・高さ20mで、ヘロデ王時代の神殿を囲む西壁の一部とされる。中世以降、ユダヤ人はこの壁を前に神殿の荒廃を嘆き、その復興を願うようになったという】。
壁に生える植物はヒソプ【イスラエルに自生するシソ科の宿根草。初夏には強い芳香を放つ白い花を咲かせる。出エジプトにおける過ぎ越しや、イエスの臨終の場面で聖書にも登場。ユダヤ教では清めの儀式に用いられる】。
男女の場所が分けられているため、女子部門へ近づいた。後から知ったのだが、この日はユダヤ教の祭りらしくにぎやかだった。黒・グレー・白といった控えめな色彩の衣服を着て、座る者あり立つ者ありで頭を振りながら祈る人々。
その光景を目の当たりにした自分は壁の1.5m手前で立ち止まった。非ユダヤ教徒がそれ以上近寄ってはいけないような気がして・・・
建設中の木製の通路(下の画像左端に見切れている)を通って、神殿の丘へ上がる。現在進行形で発掘作業中だった。
青のタイルに金色が映える岩のドーム【イスラム教の開祖ムハンマドが昇天した岩があり、ムハンマドの足跡と大天使ガブリエルの手の跡があるという】。
ムスリムではないので中に入ることはできず、外周をグルグル回るのみ。かつて見た内部の写真を思い出しながら。
件の岩の下には洞窟があり、アブラハムやダビデ、ソロモンが祈りを捧げた場所ともいわれる。
そして、この丘にはソロモン王の時代から神殿があり、イエスもたびたび訪れた。
イスラム教の聖地であり、ユダヤ教の聖地であり、キリスト教の聖地であり・・・領有をめぐって相争われるエルサレムを象徴する場所である。
神殿の丘から東を望むと、オリーブ山がある。金ピカの屋根を持つマグダラのマリア教会が目を引く。
再びダマスカス門から旧市街を出て、スルタン・スライマーン・バスターミナルから21番のアラブバスに乗車【エルサレム発着便は、ヨルダン川西岸地区との間を結ぶアラブバスと、イスラエルの各都市へつなぐエゲットバスの2種類あるので要注意】。
出入りの審査皆無のまま、40分かかって10時半にベツレヘムに到着。が、何の変哲もない道路脇で降ろされる。はて、ここから町の中心部へはどう行けばいいのか ガイドブックを広げてCちゃんと二人困っていると、タクシードライバーが声をかけてきた。土地勘ない場所あるあるで、No thank you. と断わる。が、それでオシマイかと思いきや、親切に道を教えてくれたのだ。その先を左に曲がって徒歩10分だよ、と。なんて優しいんだろう
後で分かったのだが、ヘブロン通りでバスから降ろされ、パウロ6世通りに入ってその先のスークを抜けた先がメンジャー広場だった。初めての道を恐る恐る進んだので、ゆうに10分以上はかかった 下の画像は、道中のルター派クリスマス教会から眺めたパウロ6世通り。星のオブジェはクリスマス装飾。
メンジャー広場に面して建つ聖誕教会【人口調査のためにやって来たヨセフとマリアの間にイエスが生まれたとされる場所に建てられた】。堂々とした印象を受けるのは、十字軍の時期に要塞化された名残だろう。
装飾された木の下にクリッペが置かれていた。この時節には世界中の教会にディスプレイされるが、正真正銘の本家本元
内部は訪問者でにぎわっていた。木の梁が幾重にも連なる天井、色あせたフレスコ画の残る列柱、所々に残されたモザイク・・・長い時間を超えて、大切にされてきた空間だなと感じる。
床に見られるモザイクは創建当初の古いものという【325年、ローマ皇帝コンスタンティヌスによる】。
右前方に地下へ通じる階段があり、イエスが生まれたとされる馬小屋跡へつながっている。我先にと狭い階段を押し合いへし合いしながら、聖なるスポットにあっても人間の欲望は醜いものだと逆説的に学ぶ(苦笑)
イエスが生まれたとされる場所。星形のプレートがはめ込まれている(肝心の画像がピンボケでごめんなさい。混んでいて、じっくり撮り直す時間がなかったもので)
聖誕教会に隣接する、フランシスコ派修道院(聖カテリーナ教会)の入口。手前の黒いシルエットがヒエロニムス(4世紀半ば生まれ、5世紀前半没)。
ヒエロニムスが籠っていた洞窟。ここで20年を費やし聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳した彼の努力により、キリスト教が更に広まったという。
教会を出てハガキを買い、郵便局へ。地図を見ながらそれらしき建物に入り来意を告げると、ストライキで休みだという。えええ~っ
が、土産物屋で切手が手に入るよと教えてくれた。この人もまた親切だ
正午過ぎ、メンジャー広場に面したレストランにふらりと入り昼食。料理が出てくるのを待ちながら、ハガキを書く。赤いのはトマトの辛いペーストで、左のピタに挟んで食す。
昼からビールをすする。人生初のパレスチナ自治区の地ビール、なかなか美味しかった
お料理は、奥がシュワルマ【大きな塊肉をあぶり、そいだもの】。手前のフムス【ひよこ豆のペースト】withミートは、フムスの堤防の中に羊肉が鎮座。
正直に告白すると羊肉の香りが得意ではない自分だが、これはものすごく美味しかった。処理が上手だから臭みがないんだろーな
ミルク・グロットへ向かう途中に土産物屋があった。ざっと見たところエルサレムよりかなり値段が安そうだし、パレスチナ自治区土産というのも稀有でいい。同僚に頼まれていた乳香のほか、いくつかお土産を買った。客引きの青年曰く、ここは祖父の店で1925年からやっていると。イギリス統治時代からとは・・・すごい。
店頭にあった、飼葉桶に眠るイエス像。このお店に限らず、このように手を片側に寄せて「合掌」している幼子イエスのモチーフが多くて面白かった
ミルク・グロット【イエスが生まれた後、エジプトへ逃げるよう天使がヨセフに告げた(←ヘロデ王による虐殺を免れるため)。出立の準備をしていたマリアが母乳をこぼすと、その地面が乳白色に変わったという伝説がある】。古くから教会堂があったらしいが、現在の建物は19世紀後半築。
ロバに乗り、まさにエジプトへ逃避行の様子。
中心街を去る前、クラシカルな銀色のポットを持って街頭に立つコーヒー売りから買ってみた。この人は英語が通じず手指で数字を確認、1杯2.5NIS(約76円)。パレスチナ自治区で英語が通じないのはこの場面だけだった。スパイスの入った不思議な味、チャイ風コーヒーだった。
エルサレムへ戻るべく、チェックポイントを目指す。タクシーを拾うこともできたが、面白そうだから歩いて行ってみることにした。
舗装されていて悪路ではなかったものの、結果的にはひと山のぼった先で、1時間以上かかった。しばらくのぼって見下ろしたら、こんな感じ(ベツレヘムの中心街は右外に切れている)。
途中の小さなワインショップで、パレスチナ自治区産の赤をゲット。銘柄にひとめ惚れ、ベツレヘムの星 フルボトルで13.5NIS也(約412円)。
自動車の向こうに見えるグレーの壁がチェックポイント。
チェックポイント前にはパレスチナ自治区の野菜売りが並んでいる。パラグアイとアルゼンチンの国境もこんなだったなと思いながら通り過ぎる。
審査は予想外に簡素だった。全員が靴を脱がされるほど綿密ではあるけど、遠隔監視で対人チェックじゃないため、威圧感はゼロ。
いわゆるパスポート・コントロールと思われる窓口はあったが、パスポートの提示すら求められず、もちろんスタンプを押されることもない。あぁ、自分がベツレヘムを訪れたという公的記録はどこにも残らないのね・・・記憶に刻み込むしかないのか。
再びアラブバスに乗り、16時半に帰着。翌日のヴィア・ドロローサの出発点を下見しに行く。
その後、この時間に開いているという理由で「最後の晩餐の部屋」を訪れようとしたが、付近にあるというダビデの墓には行き着いたものの、結局分からずじまい。
その近所のマリア永眠教会にも寄ったようだが、画像が残っていない。この夜のエルサレムで唯一収めていた、ダビデの塔付近の光景を載せておく。
備忘録によると、ホテルへの道すがらシュニッツェルサンドとオニオンリングをテイクアウトしたようだが、これまた画像がない
2 エルサレム (2012年12月28日)
8時にホテルを出てヤッフォ門からいったん旧市街に入り、アルメニア人地区をかすめてシオン門を出た。前日に時間切れで訪れることができなかった鶏鳴教会を目指す。門を出て、かなり下ったところにあった。途中、南側から旧市街を望むスポットで記念撮影。金に輝く岩のドームの右に見える黒いドームは、同じ神殿の丘にあるアル・アクサ―寺院【ムスリムにとって重要な巡礼地のひとつ】。
教会へ向かう途中、イエスが歩いたとされる階段を目の当たりにしてテンション【鶏鳴教会はかつて祭司カヤパの屋敷で、ゲッセマネでローマ兵に逮捕されたイエスがここを通って連行され、地下の牢獄で一晩を過ごしたとされる。石段は19世紀に発掘され、調査により当時のものであることが確認されている】
キリスト教も含めて3つの宗教の聖地であり、いつの時代にも繫栄してきた都市エルサレムなのに、2,000年前のものがフツーに残されているのだから凄い
件の石段から仰ぎ見た鶏鳴教会。風見鶏よろしく金のニワトリが青空に光っている。
イエスの逮捕後、弟子ではないかと声をかけられたペテロがニワトリの鳴く前に「イエスを知らない」と3度言った場所もここ。教会の庭にモニュメントがあった。
新しい教会らしく、内部はとてもモダンだった。
天井から下がる十字架に注目 上に鍵、下に羊飼いの杖、左に網、右に船・・・全てペテロの象徴が刻まれている。なんて素敵なデザイン
この地下礼拝堂の脇にあった絵。手前右がイエス、左がペテロ。中央奥には知らないと言うペテロの姿が小さく描かれている。
ペテロの絵に囲まれながら、私は彼を思った。イエスの逮捕に我が身の危険を感じ、恐れて関係を否定したペテロに正直な面を見て深い共感をおぼえる。イエスを裏切ることはないと誓いながら、師の予言通りにニワトリが鳴いた後、ペテロはどれほど悔んだろうか。
中学の「聖書」の授業の時間に、先生(牧師である)がおっしゃった。イエスは人間の罪を一身に引き受け、十字架で処刑されることによって私たちを救い、復活したと信じるのがキリスト教徒であると。それでいうなら、聖誕の馬小屋跡や香油の岩に触れ 十字架を立てた跡を見ても何ら感情が湧き上がってこなかった自分は信心がない。
しかし、イエスの復活と福音を異国に伝えて殉教したペテロを思う時、その鮮やかな改心に清々しさを感じるいっぽうで、何が彼をそこまで変えたのだろうと考えずにはいられない。イエスと彼との間に何がしか重大な出来事があったからこそ、壮絶な後半生を歩んだのではないか・・・
イエスが留置されたといわれる地下牢。壁には十字架のように見える傷 気のせいだろうか・・・
上の礼拝堂もまたモダンだった。十字架の形をしたステンドグラスを天井に施すとは
シオン門から旧市街に再入城し、ダビデの塔へ【B.C20年にヘロデ王が建てた要塞に起源をもち、幾多の増改築を経てきた。現在は、旧約聖書の時代からイスラエル建国までの歴史を解説する博物館となっている】。丁寧に見れば何時間でもかかりそうな充実した展示だったが、1時間で見学を終えた。下は、展望台からの眺め。
ヤッフォ通りをはさんで、新市街が広がっている。キッパおよび山高帽をかぶったユダヤ教徒に行きあった。
こちらは旧市街の中心部を望む。右端に岩のドームが見切れている。中央のひときわ大きい屋根の左側に見切れているグレーのドームが聖墳墓教会。
午後はケデロンの谷を経由してオリーブ山を訪れるべく、糞門を目指した。旧市街にある8つの門のうち真東の黄金門以外は出入りできるので、全部はムリにしても可能な限りあれこれ通ってみたいと思っていた【糞門とは、かつてここから排泄物を運び出していたことに由来するという。事実とはいえ、なんてネーミングだ】。
糞門を出て東を向くと左手に旧市街、前方にユダヤ人墓地が広がる。
オリーブ山へ向かう道中、右手にはケデロンの谷【旧市街の南東部とオリーブ山の間にある。ユダヤ教では最後の審判の日にここで死者が甦ると信じられており、紀元前からユダヤ人の墓地がつくられてきた】。所々に大きなお墓もある。
こちらはアブサロムの塔【ダビデ王と折り合いの悪かった息子アブサロムの墓という】。
前方に万国民の教会(画像の左)とマグダラのマリア教会(画像の右上)が見えてきた。
マグダラのマリア教会へ向かうも入口を見落としてしまい、探しながら上っていくうち、先に昇天教会へたどり着いてしまった。
ここで韓国人青年2名と行き合い、軽く挨拶を交わした。クリスチャンである彼らは、Cちゃんがクリスチャンと知って驚いていた。だよねー 私も大学でCちゃんと知り合った時、珍しいと思った記憶がある【文化庁の「宗教年鑑」と総務省の人口統計をつきあわせると、日本におけるキリスト教徒は人口の1.5%(2020年末時点)】。
ここ昇天教会は、十字架上で息を引き取ったあと復活したイエスが弟子たちと共に40日間を過ごし、オリーブ山から天に昇ったことを記念して建てられた。
内部の岩には、昇天した際のイエスの足跡が残されている。
1997年、初めて訪れたローマはアッピア街道沿いのドミネ・クォ・ヴァディス教会でイエスの足跡を見たことがある(殉教を恐れてローマを去ろうとした使徒ペテロの前にイエスが現れたという伝説に基づく)。それに比べるとこの跡は粗削りで、それゆえ生々しい感じがした。
昇天教会向かいのレストランで腹ごしらえ。備忘録にはケバブにサラダ・パン・ビールとあるが、画像がない
食後、下山しながら再びマグダラのマリア教会を探す。往きに通ってない道をたどるべく路地っぽい方向へ進もうとすると、近くで遊んでいた少年(8~9歳くらい?)が「この先に道はないよ」「どこへ行きたいの?」と声をかけてくれた。幼いのにとても美しい英語を話す。
下手クソな英語を恥じつつ応じると、教えてくれた道はやはり来たのと同じ。キツネにつままれた思いで山を下り、ようやく事の次第を知る。週2日しかオープンしないレアな教会だった・・・下調べ不足を鼻で嗤うしかない
下山途中に見えたエルサレム旧市街。遠くの高層ビルは新市街のもの。
オリーブ山麓にある万国民の教会は、イエスがたびたび祈りに訪れたというゲッセマネの園に建つ【かつてこの一帯はオリーブの林で、盛んに油を産出していたという】。
幹の太いオリーブの木が何本も生い茂るなか、静かに祈る白人青年が目の端に映った。
教会の外観はこんな感じ。最初の会堂は4世紀に建てられたというが、現存するのは1919年築。
教会の扉にはオリーブの木・・・これまで世界各地の教会をまわってきたが、珍しい意匠だと思う。モダンといえばそれまでだが、この場所を象徴しているのだろう。
正面の祭壇。夜空の下、岩にうずくまるイエス。これまた稀なモチーフと、美しい青がとても印象的だった。
祭壇の手前にある岩は、「ゲッセマネの祈り」をした場所とされる【弟子たちとの最後の晩餐を終えた後、イエスはゲッセマネを訪れて逮捕の時が迫るのを憂えた。近づく受難に心を震わせ、できれば自分の前の盃を取り除いてほしいと祈る。しかし最後には、「御心のままに」と神に委ねる】。
避けたいと思いながらも、人間の罪をあがなうために苦杯をあえて飲み干した(=十字架で処刑された)イエスの愛の深さ・・・と一般的には説く。
私はクリスチャンではないので、愛を感じ取る域には達していない。が、つらい現実から逃れたいと思ってしまうところに人間らしさを見て、共感せずにはいられない。
ステパノ門から旧市街へ入った。お目当ては15時にスタートするヴィア・ドロローサ【「苦難の道」。ローマ総督官邸で死刑判決を受けた後、十字架を背負いながら刑場であるゴルゴタの丘へ向かう道、全長1㎞を指す。毎週金曜のみ、フランシスコ派の修道士がこの道を行進して14の留(ステーション)をたどり、各留でイエスの身に起きた出来事に思いを馳せて祈禱する。観光客も参加することができる】。集合場所(エル・オマリヤ・スクール前)で待つものの、なかなか修道士たちが現れない。ざわつく参列希望者・・・そして20分経った頃、クリスマスだから今日はナシと告げられた
正確にはクリスマス後の業務繁忙期ということだろう。残念だが、やむを得ない。自分たちで地図をたどりながら進むことにした。
なお、過去に変遷があった留もあり、考古学的・文献学的に立証できないものも多いとされるが、たどりながら雰囲気を味わうことに徹した
第3留はイエスが最初につまずいたとされる場所。その地に建てられた聖堂の壁に彫刻がある。
その付近には、十字架を背負ったイエスを聖母マリアが見かける場面が彫られていた。
第7留は2度目につまずいたとされる場所。手をついた跡と膝をついた跡が残り、小さなチャペルが建てられ ひっそりと守られていた。
第9留は通りから脇の階段をのぼって更に狭い路地の先にあり、本当にこれで合っているのかと疑いながら進んだ。
下の画像で入口左脇の、人が座っている横にある円柱の所でイエスは3度目につまずいたとされる。柱に刻まれた十字は後世のものだろうか。
タンパン(入口上部の半円形の部分)の前に電飾があるようだ。夜は分かりやすく表示されるのね・・・遊び心がいいなぁ
ちなみに正面はコプト教会の入口。左上の十字架を戴くグレーのドーム屋根が聖墳墓教会。
私たちはなんとなくコプト教会に入った。壁に彫られたシンプルなクロス。
鮮やかな色彩の聖母像が垣間見える。
順路が示されているわけでもなし、なんとなくでしかないのだが、狭く薄暗い堂内を進むうち、いつのまにか聖墳墓教会へたどり着いていた。なんとか自力で留をたどり終えたのだ 【第10留以降は聖墳墓教会内にある。初日に紹介した、十字架を立てた岩が第12留、イエスの墓が第14留】。
下は聖墳墓教会の中央ドーム。
夕方の聖墳墓教会は混んでおり、2日前の晩は難なく入れたイエスの墓に長~い行列ができていた。
そうこうするうち、イエスの墓前から修道士の一団が聖歌を口ずさみつつチャペルへ向かっていった。それに負けじと、別の会派の修道士たちも歌いながら他の聖堂へ進んで行く。生で男声聖歌を聴くのは初めてなうえに、聖堂のドームに心地よく響いて・・・とてもカッコよかった
ヴィア・ドロローサで迷っていたら、この場面に遭遇することはなかった。“なんとなく” ではなくて、導かれたのかもしれないと思ってしまう
3晩(実働2日)いたエルサレムに別れを告げることが信じられない感覚のまま、ヤッフォ門を出てホテルへ向かった。
途上の小売店で赤ワインを買い求め、部屋で2人飲んだ。聖都に乾杯 ←結局、オチはそれかい
★ 中締め ★
旅の後半はSPと見紛う強面のガイド兼ドライバーさんとともに、北部のナザレやガリラヤ湖周辺を訪れます。
お楽しみに
いよいよ実行すべく旅の計画をしていたところ、政情が怪しくなった 多少躊躇したものの、訪問予定地はガザから離れているため旅立つことにした。
5日間の旅を2つに分け、前半をその1として紹介したい。
上の地図で浅葱色の部分がイスラエル、レモンイエローの部分がパレスチナ自治区である(浅葱色の部分はフリーハンドで塗ったため、粗い部分はどうかご容赦ください m(_ _)m)。
旅の前半では、➊~➌の都市を訪れた。また、後の下線部の数字にも対応している。
1・2 (イスタンブール)⇒テルアヴィヴ ⇒ヤッフォ ⇒エルサレム (2012年12月26日)
前日の夕方、イスタンブール空港からタクシーで5分もかからないホテルに宿泊。トランジット用なのであまり期待していなかったが、設備の整った良いホテルだった。そんな時に限って、夜中に発たねばならないとは
イスラエル便の離陸は朝6時45分だったが、審査に時間がかかるかもと警戒して3時間前に空港入りした。が、ト〇コ航空のカウンターが開いておらず、結果的に1時間待つハメに。
しかも審査はいたってフツーで、気負っていたぶん 肩透かし 少なくともあと1時間はホテルで眠れた、完全なる判断ミス。Cちゃんをつきあわせてしまって申し訳なかった
8時50分、テルアヴィヴに到着。入国審査も実にフツーで、異様に時間がかかるとか全くナシ
パスポート・コントロールではCちゃんが先に窓口へ行き、スタンプは不要と伝えたらしい【パスポートにイスラエルの入国スタンプがあると、アラブ諸国では入国を認めない国があるため、希望すれば別紙にスタンプを押してもらうことができる。この別紙は回収され、手元に残ることはない】。次に窓口へ進んだ私を連れとみなした係官は、質問なしに別紙にスタンプを押してよこした。即座に私は押印して!と反応できるはずもなく、かくて私のイスラエル入国日は記録がなくなってしまった・・・。スタンプをどうするのかCちゃんにあらかじめ聞いておくべきだった、トホホ
この日はエルサレム泊だったが、テルアヴィヴの数㎞南にあるヤッフォへ寄ってから行くことになっていた。
空港から1駅だけ電車に乗る。空港駅のホームはこんな感じ。
ハガナー駅から5分ほど歩いてバスステーションへ行き、タクシーをつかまえた。流しだけあって、なかなか英語が通じず苦労したけど、なんとか発車。
町のシンボルであるクロックタワーで降ろしてもらい、旧市街まで歩いて行くことにする。下の写真は、帰り際に撮影したもの。
まもなく、目の前に地中海東縁の海が現れた。旧市街の反対側(北東方向)には新市街が広がっている。
私たちが進むべきは旧市街。聖ペテロ教会の塔が遠目にも目立つ。
海沿いを進んで行くと、釣り人達に出会った。どんな魚が釣れるんだろう
ちなみに画像の右、沖に小さく浮かぶのはアンドロメダの岩(ギリシャ神話にまつわるエピソードを持つ)。イスラエル国旗がたなびいている。
ヤッフォは紀元前にさかのぼる歴史の古い港。ソロモン王の時代、エルサレム神殿の建築に使うレバノン杉がヤッフォで荷揚げされ運ばれたという。
現在も港の面影を残す。
道中のスーパーに陳列されていたケーキ。甘いものには興味のない自分だが、その大きさに思わずパシャリ
棚の上段にご注目あれ。南部鉄器に似ていると思うのは気のせい
旧市街の小路は整備されていて、そこかしこにある標識もステキ。英語の上のはヘブライ文字かなぁ?
小路の途中で現れた猫。犬派の私だけど、この仔は可愛いなぁ
目的地のひとつ、「皮なめしシモンの家」に到着。ガイドブック情報どおり、閉まっていて見学できず
【この家に滞在中の十二弟子ペテロに神の啓示があり、訪れた使者に伴われて50㎞北方のカイサリヤへ赴き、ローマ人のコルネリウスに洗礼を授けた。ユダヤ人以外に洗礼を施した最初のケースであり、異邦伝道へ向かう契機のひとつになったという】
旧市街の中心、ケドゥミーム広場に立つナポレオン【1798年、エジプトを攻略したナポレオンはヤッフォも占領】。
広場にある噴水のモニュメントは動物のような、そうでないような・・・
後で、旧市街周辺には芸術家が多く住むと知った。前衛的なのも納得
「願いの橋」越しに見る聖ペテロ教会【ペテロがヤッフォからローマへの伝道に出発したことを記念して、後世に建てられた】。
正午クローズの直前にすべり込み入場。祭壇には、天使から啓示を受けるペテロの絵が飾られていた。
空腹をおぼえて、広場近くに軒を連ねる食堂のひとつに入った。海辺でシーフードを、と安直に注文。ムール貝・イカ・エビ・カニのクリームソース煮は、アラブ風のスパイスが効いてて美味だった 明るいうちからビール・・・初日から不真面目全開
食堂のテラスから海が見えた。修復中のはジャーマ・アル・バフル(モスク)のミナレット。
2時間半ほどの観光を終え、エルサレム行きが出るセントラル・バスステーションを目指して歩き出したが、ほどなく迷ってタクシーを拾った。自力では到底ムリだった
14時15分、ヤッフォを出発。座ったところで睡眠不足の折から猛烈な睡魔に襲われ、車窓を楽しむ余裕がなかった
ガイドブックでは50分かかるとあったが40分で到着、寝ぼけまなこで降車。ホテルに向かうべく路線バスを探す勢いのCちゃんを制してタクシーを拾った。ケチるのも時と場合による。大きな荷物を持っていて、前夜あまり寝ていないとくればムリは禁物ということで
16時前、新市街のホテルを出てエルサレム観光Part1のスタート。旧市街を囲む城壁には8つの門が設けられているが、私たちのホテルから最も近く、また観光案内所の最寄であるヤッフォ門へ向かった。途中で道に迷い予想以上に時間を取られつつ、なんとか案内所で地図を入手 下はヤッフォ門付近で撮影。
次は、翌日乗る予定のバス乗り場を下見しなければならない。目の前のダビデ通りを進み、十字路で左折してダマスカス門を目指す。旧市街のメインストリートをたどるその道中、両側にはビッシリと商店が並び、にぎわいを見せていた。うずたかく積み上げられた色とりどりのスパイスに驚いてパシャリ。岩のドームをてっぺんに載せる遊び心もイイ
ダマスカス門に近づくほど、路上の食料品売りも目立った。
旧市街を出て、スルタン・スライマーン通りから撮影したダマスカス門。8つの門のうち、最も優美という。
こちらも、先ほどの通りから見た旧市街。実際に訪れてみて感じたのだが、エルサレム旧市街はひときわ小高い。もともと丘だった所へ町を築いたうえに、数千年の歴史の歩みの中で、前代の基盤の上へ上へと建てられていったからだろう。
バスステーションを確認し終え、再び旧市街へ戻った。すっかり日も暮れて18時過ぎ、大通りをそれて横道に踏み入るとけっこう薄暗い。クリスマスの名残のイルミネーションが浮かび上がる中を進む。
この時刻に開いているのはここだけという理由で、聖墳墓教会へ【イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘に建てられた教会。イエスの墓がありキリスト教徒にとっては重要な聖地、エルサレム観光の目玉のひとつ】。暗闇に浮かび上がる教会の入口。
イエスの墓(外観)。内部を撮影するのはさすがにためらわれ・・・画像がなくてごめんなさい m(_ _)m
天井の青色がとても印象的なモザイクの空間があった。降ろされた十字架に横たわるイエスの周りで死を悼んでいる。
イエスが息を引き取った後、身体を横たえて香油を塗った岩。熱心にお参りする方がいらっしゃった。
銀ピカの祭壇の下には岩があり、イエスの十字架が立てられていた場所という。この画像では見えにくいけど、これしかなくて・・・ごめんなさい
前菜をすっ飛ばしてメインにかぶりつくような訪問だなと最初は思ったが、この翌々日 2度目に訪問した時と比べると明らかに空いていた。並ばずにじっくり見学できて人垣なしに撮影できる夜は穴場、オススメかも
2・3 エルサレム ⇔ ベツレヘム (2012年12月27日)
エルサレム滞在あと2日の中で、10㎞南に位置するベツレヘム(パレスチナ自治区内)も訪れることになっていた。友人へのハガキを1枚だけパレスチナ自治区で投函したいと目論んでいたので、郵便局が閉まる金曜日(12月28日)を避けて訪問することになった。
が、神殿の丘【ソロモン王の神殿跡地であり、岩のドームなどがある。エルサレム観光の目玉のひとつ】も金曜休みしかも木曜14時までと判明し、神殿の丘を見てからベツレヘムへ向かうことにした。ダマスカス門から入ると道が分かりやすそうと判断。朝日を浴びる門をくぐった。
まだ8時過ぎというのに、もう行商に来ている人もいる。働き者だなー
とはいえ、通りに面する店の多くはまだ開いていない。夜とはまた異なる雰囲気漂う旧市街。
神殿の丘に至る門はいくつかあるが、観光客はモロッコ門からしか入れないことになっている。丘が目の前に見えてはいるものの、その門を探し当てるまで多少時間がかかった。
軽い荷物検査をくぐり抜けると、目の前に「嘆きの壁」が広がっていた【ユダヤ人の聖地のひとつ。B.C965年にソロモン王が第1神殿を築き聖櫃(シナイ山でモーセが神から授かった十戒を記す石板を収める)を安置するも、B.C586年に破壊される。バビロン捕囚後のB.C515年に第2神殿が築かれた後、B.C20年にヘロデ王が改築したが、A.D70年にローマにより破壊。現在残る壁は長さ50m・高さ20mで、ヘロデ王時代の神殿を囲む西壁の一部とされる。中世以降、ユダヤ人はこの壁を前に神殿の荒廃を嘆き、その復興を願うようになったという】。
壁に生える植物はヒソプ【イスラエルに自生するシソ科の宿根草。初夏には強い芳香を放つ白い花を咲かせる。出エジプトにおける過ぎ越しや、イエスの臨終の場面で聖書にも登場。ユダヤ教では清めの儀式に用いられる】。
男女の場所が分けられているため、女子部門へ近づいた。後から知ったのだが、この日はユダヤ教の祭りらしくにぎやかだった。黒・グレー・白といった控えめな色彩の衣服を着て、座る者あり立つ者ありで頭を振りながら祈る人々。
その光景を目の当たりにした自分は壁の1.5m手前で立ち止まった。非ユダヤ教徒がそれ以上近寄ってはいけないような気がして・・・
建設中の木製の通路(下の画像左端に見切れている)を通って、神殿の丘へ上がる。現在進行形で発掘作業中だった。
青のタイルに金色が映える岩のドーム【イスラム教の開祖ムハンマドが昇天した岩があり、ムハンマドの足跡と大天使ガブリエルの手の跡があるという】。
ムスリムではないので中に入ることはできず、外周をグルグル回るのみ。かつて見た内部の写真を思い出しながら。
件の岩の下には洞窟があり、アブラハムやダビデ、ソロモンが祈りを捧げた場所ともいわれる。
そして、この丘にはソロモン王の時代から神殿があり、イエスもたびたび訪れた。
イスラム教の聖地であり、ユダヤ教の聖地であり、キリスト教の聖地であり・・・領有をめぐって相争われるエルサレムを象徴する場所である。
神殿の丘から東を望むと、オリーブ山がある。金ピカの屋根を持つマグダラのマリア教会が目を引く。
再びダマスカス門から旧市街を出て、スルタン・スライマーン・バスターミナルから21番のアラブバスに乗車【エルサレム発着便は、ヨルダン川西岸地区との間を結ぶアラブバスと、イスラエルの各都市へつなぐエゲットバスの2種類あるので要注意】。
出入りの審査皆無のまま、40分かかって10時半にベツレヘムに到着。が、何の変哲もない道路脇で降ろされる。はて、ここから町の中心部へはどう行けばいいのか ガイドブックを広げてCちゃんと二人困っていると、タクシードライバーが声をかけてきた。土地勘ない場所あるあるで、No thank you. と断わる。が、それでオシマイかと思いきや、親切に道を教えてくれたのだ。その先を左に曲がって徒歩10分だよ、と。なんて優しいんだろう
後で分かったのだが、ヘブロン通りでバスから降ろされ、パウロ6世通りに入ってその先のスークを抜けた先がメンジャー広場だった。初めての道を恐る恐る進んだので、ゆうに10分以上はかかった 下の画像は、道中のルター派クリスマス教会から眺めたパウロ6世通り。星のオブジェはクリスマス装飾。
メンジャー広場に面して建つ聖誕教会【人口調査のためにやって来たヨセフとマリアの間にイエスが生まれたとされる場所に建てられた】。堂々とした印象を受けるのは、十字軍の時期に要塞化された名残だろう。
装飾された木の下にクリッペが置かれていた。この時節には世界中の教会にディスプレイされるが、正真正銘の本家本元
内部は訪問者でにぎわっていた。木の梁が幾重にも連なる天井、色あせたフレスコ画の残る列柱、所々に残されたモザイク・・・長い時間を超えて、大切にされてきた空間だなと感じる。
床に見られるモザイクは創建当初の古いものという【325年、ローマ皇帝コンスタンティヌスによる】。
右前方に地下へ通じる階段があり、イエスが生まれたとされる馬小屋跡へつながっている。我先にと狭い階段を押し合いへし合いしながら、聖なるスポットにあっても人間の欲望は醜いものだと逆説的に学ぶ(苦笑)
イエスが生まれたとされる場所。星形のプレートがはめ込まれている(肝心の画像がピンボケでごめんなさい。混んでいて、じっくり撮り直す時間がなかったもので)
聖誕教会に隣接する、フランシスコ派修道院(聖カテリーナ教会)の入口。手前の黒いシルエットがヒエロニムス(4世紀半ば生まれ、5世紀前半没)。
ヒエロニムスが籠っていた洞窟。ここで20年を費やし聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳した彼の努力により、キリスト教が更に広まったという。
教会を出てハガキを買い、郵便局へ。地図を見ながらそれらしき建物に入り来意を告げると、ストライキで休みだという。えええ~っ
が、土産物屋で切手が手に入るよと教えてくれた。この人もまた親切だ
正午過ぎ、メンジャー広場に面したレストランにふらりと入り昼食。料理が出てくるのを待ちながら、ハガキを書く。赤いのはトマトの辛いペーストで、左のピタに挟んで食す。
昼からビールをすする。人生初のパレスチナ自治区の地ビール、なかなか美味しかった
お料理は、奥がシュワルマ【大きな塊肉をあぶり、そいだもの】。手前のフムス【ひよこ豆のペースト】withミートは、フムスの堤防の中に羊肉が鎮座。
正直に告白すると羊肉の香りが得意ではない自分だが、これはものすごく美味しかった。処理が上手だから臭みがないんだろーな
ミルク・グロットへ向かう途中に土産物屋があった。ざっと見たところエルサレムよりかなり値段が安そうだし、パレスチナ自治区土産というのも稀有でいい。同僚に頼まれていた乳香のほか、いくつかお土産を買った。客引きの青年曰く、ここは祖父の店で1925年からやっていると。イギリス統治時代からとは・・・すごい。
店頭にあった、飼葉桶に眠るイエス像。このお店に限らず、このように手を片側に寄せて「合掌」している幼子イエスのモチーフが多くて面白かった
ミルク・グロット【イエスが生まれた後、エジプトへ逃げるよう天使がヨセフに告げた(←ヘロデ王による虐殺を免れるため)。出立の準備をしていたマリアが母乳をこぼすと、その地面が乳白色に変わったという伝説がある】。古くから教会堂があったらしいが、現在の建物は19世紀後半築。
ロバに乗り、まさにエジプトへ逃避行の様子。
中心街を去る前、クラシカルな銀色のポットを持って街頭に立つコーヒー売りから買ってみた。この人は英語が通じず手指で数字を確認、1杯2.5NIS(約76円)。パレスチナ自治区で英語が通じないのはこの場面だけだった。スパイスの入った不思議な味、チャイ風コーヒーだった。
エルサレムへ戻るべく、チェックポイントを目指す。タクシーを拾うこともできたが、面白そうだから歩いて行ってみることにした。
舗装されていて悪路ではなかったものの、結果的にはひと山のぼった先で、1時間以上かかった。しばらくのぼって見下ろしたら、こんな感じ(ベツレヘムの中心街は右外に切れている)。
途中の小さなワインショップで、パレスチナ自治区産の赤をゲット。銘柄にひとめ惚れ、ベツレヘムの星 フルボトルで13.5NIS也(約412円)。
自動車の向こうに見えるグレーの壁がチェックポイント。
チェックポイント前にはパレスチナ自治区の野菜売りが並んでいる。パラグアイとアルゼンチンの国境もこんなだったなと思いながら通り過ぎる。
審査は予想外に簡素だった。全員が靴を脱がされるほど綿密ではあるけど、遠隔監視で対人チェックじゃないため、威圧感はゼロ。
いわゆるパスポート・コントロールと思われる窓口はあったが、パスポートの提示すら求められず、もちろんスタンプを押されることもない。あぁ、自分がベツレヘムを訪れたという公的記録はどこにも残らないのね・・・記憶に刻み込むしかないのか。
再びアラブバスに乗り、16時半に帰着。翌日のヴィア・ドロローサの出発点を下見しに行く。
その後、この時間に開いているという理由で「最後の晩餐の部屋」を訪れようとしたが、付近にあるというダビデの墓には行き着いたものの、結局分からずじまい。
その近所のマリア永眠教会にも寄ったようだが、画像が残っていない。この夜のエルサレムで唯一収めていた、ダビデの塔付近の光景を載せておく。
備忘録によると、ホテルへの道すがらシュニッツェルサンドとオニオンリングをテイクアウトしたようだが、これまた画像がない
2 エルサレム (2012年12月28日)
8時にホテルを出てヤッフォ門からいったん旧市街に入り、アルメニア人地区をかすめてシオン門を出た。前日に時間切れで訪れることができなかった鶏鳴教会を目指す。門を出て、かなり下ったところにあった。途中、南側から旧市街を望むスポットで記念撮影。金に輝く岩のドームの右に見える黒いドームは、同じ神殿の丘にあるアル・アクサ―寺院【ムスリムにとって重要な巡礼地のひとつ】。
教会へ向かう途中、イエスが歩いたとされる階段を目の当たりにしてテンション【鶏鳴教会はかつて祭司カヤパの屋敷で、ゲッセマネでローマ兵に逮捕されたイエスがここを通って連行され、地下の牢獄で一晩を過ごしたとされる。石段は19世紀に発掘され、調査により当時のものであることが確認されている】
キリスト教も含めて3つの宗教の聖地であり、いつの時代にも繫栄してきた都市エルサレムなのに、2,000年前のものがフツーに残されているのだから凄い
件の石段から仰ぎ見た鶏鳴教会。風見鶏よろしく金のニワトリが青空に光っている。
イエスの逮捕後、弟子ではないかと声をかけられたペテロがニワトリの鳴く前に「イエスを知らない」と3度言った場所もここ。教会の庭にモニュメントがあった。
新しい教会らしく、内部はとてもモダンだった。
天井から下がる十字架に注目 上に鍵、下に羊飼いの杖、左に網、右に船・・・全てペテロの象徴が刻まれている。なんて素敵なデザイン
この地下礼拝堂の脇にあった絵。手前右がイエス、左がペテロ。中央奥には知らないと言うペテロの姿が小さく描かれている。
ペテロの絵に囲まれながら、私は彼を思った。イエスの逮捕に我が身の危険を感じ、恐れて関係を否定したペテロに正直な面を見て深い共感をおぼえる。イエスを裏切ることはないと誓いながら、師の予言通りにニワトリが鳴いた後、ペテロはどれほど悔んだろうか。
中学の「聖書」の授業の時間に、先生(牧師である)がおっしゃった。イエスは人間の罪を一身に引き受け、十字架で処刑されることによって私たちを救い、復活したと信じるのがキリスト教徒であると。それでいうなら、聖誕の馬小屋跡や香油の岩に触れ 十字架を立てた跡を見ても何ら感情が湧き上がってこなかった自分は信心がない。
しかし、イエスの復活と福音を異国に伝えて殉教したペテロを思う時、その鮮やかな改心に清々しさを感じるいっぽうで、何が彼をそこまで変えたのだろうと考えずにはいられない。イエスと彼との間に何がしか重大な出来事があったからこそ、壮絶な後半生を歩んだのではないか・・・
イエスが留置されたといわれる地下牢。壁には十字架のように見える傷 気のせいだろうか・・・
上の礼拝堂もまたモダンだった。十字架の形をしたステンドグラスを天井に施すとは
シオン門から旧市街に再入城し、ダビデの塔へ【B.C20年にヘロデ王が建てた要塞に起源をもち、幾多の増改築を経てきた。現在は、旧約聖書の時代からイスラエル建国までの歴史を解説する博物館となっている】。丁寧に見れば何時間でもかかりそうな充実した展示だったが、1時間で見学を終えた。下は、展望台からの眺め。
ヤッフォ通りをはさんで、新市街が広がっている。キッパおよび山高帽をかぶったユダヤ教徒に行きあった。
こちらは旧市街の中心部を望む。右端に岩のドームが見切れている。中央のひときわ大きい屋根の左側に見切れているグレーのドームが聖墳墓教会。
午後はケデロンの谷を経由してオリーブ山を訪れるべく、糞門を目指した。旧市街にある8つの門のうち真東の黄金門以外は出入りできるので、全部はムリにしても可能な限りあれこれ通ってみたいと思っていた【糞門とは、かつてここから排泄物を運び出していたことに由来するという。事実とはいえ、なんてネーミングだ】。
糞門を出て東を向くと左手に旧市街、前方にユダヤ人墓地が広がる。
オリーブ山へ向かう道中、右手にはケデロンの谷【旧市街の南東部とオリーブ山の間にある。ユダヤ教では最後の審判の日にここで死者が甦ると信じられており、紀元前からユダヤ人の墓地がつくられてきた】。所々に大きなお墓もある。
こちらはアブサロムの塔【ダビデ王と折り合いの悪かった息子アブサロムの墓という】。
前方に万国民の教会(画像の左)とマグダラのマリア教会(画像の右上)が見えてきた。
マグダラのマリア教会へ向かうも入口を見落としてしまい、探しながら上っていくうち、先に昇天教会へたどり着いてしまった。
ここで韓国人青年2名と行き合い、軽く挨拶を交わした。クリスチャンである彼らは、Cちゃんがクリスチャンと知って驚いていた。だよねー 私も大学でCちゃんと知り合った時、珍しいと思った記憶がある【文化庁の「宗教年鑑」と総務省の人口統計をつきあわせると、日本におけるキリスト教徒は人口の1.5%(2020年末時点)】。
ここ昇天教会は、十字架上で息を引き取ったあと復活したイエスが弟子たちと共に40日間を過ごし、オリーブ山から天に昇ったことを記念して建てられた。
内部の岩には、昇天した際のイエスの足跡が残されている。
1997年、初めて訪れたローマはアッピア街道沿いのドミネ・クォ・ヴァディス教会でイエスの足跡を見たことがある(殉教を恐れてローマを去ろうとした使徒ペテロの前にイエスが現れたという伝説に基づく)。それに比べるとこの跡は粗削りで、それゆえ生々しい感じがした。
昇天教会向かいのレストランで腹ごしらえ。備忘録にはケバブにサラダ・パン・ビールとあるが、画像がない
食後、下山しながら再びマグダラのマリア教会を探す。往きに通ってない道をたどるべく路地っぽい方向へ進もうとすると、近くで遊んでいた少年(8~9歳くらい?)が「この先に道はないよ」「どこへ行きたいの?」と声をかけてくれた。幼いのにとても美しい英語を話す。
下手クソな英語を恥じつつ応じると、教えてくれた道はやはり来たのと同じ。キツネにつままれた思いで山を下り、ようやく事の次第を知る。週2日しかオープンしないレアな教会だった・・・下調べ不足を鼻で嗤うしかない
下山途中に見えたエルサレム旧市街。遠くの高層ビルは新市街のもの。
オリーブ山麓にある万国民の教会は、イエスがたびたび祈りに訪れたというゲッセマネの園に建つ【かつてこの一帯はオリーブの林で、盛んに油を産出していたという】。
幹の太いオリーブの木が何本も生い茂るなか、静かに祈る白人青年が目の端に映った。
教会の外観はこんな感じ。最初の会堂は4世紀に建てられたというが、現存するのは1919年築。
教会の扉にはオリーブの木・・・これまで世界各地の教会をまわってきたが、珍しい意匠だと思う。モダンといえばそれまでだが、この場所を象徴しているのだろう。
正面の祭壇。夜空の下、岩にうずくまるイエス。これまた稀なモチーフと、美しい青がとても印象的だった。
祭壇の手前にある岩は、「ゲッセマネの祈り」をした場所とされる【弟子たちとの最後の晩餐を終えた後、イエスはゲッセマネを訪れて逮捕の時が迫るのを憂えた。近づく受難に心を震わせ、できれば自分の前の盃を取り除いてほしいと祈る。しかし最後には、「御心のままに」と神に委ねる】。
避けたいと思いながらも、人間の罪をあがなうために苦杯をあえて飲み干した(=十字架で処刑された)イエスの愛の深さ・・・と一般的には説く。
私はクリスチャンではないので、愛を感じ取る域には達していない。が、つらい現実から逃れたいと思ってしまうところに人間らしさを見て、共感せずにはいられない。
ステパノ門から旧市街へ入った。お目当ては15時にスタートするヴィア・ドロローサ【「苦難の道」。ローマ総督官邸で死刑判決を受けた後、十字架を背負いながら刑場であるゴルゴタの丘へ向かう道、全長1㎞を指す。毎週金曜のみ、フランシスコ派の修道士がこの道を行進して14の留(ステーション)をたどり、各留でイエスの身に起きた出来事に思いを馳せて祈禱する。観光客も参加することができる】。集合場所(エル・オマリヤ・スクール前)で待つものの、なかなか修道士たちが現れない。ざわつく参列希望者・・・そして20分経った頃、クリスマスだから今日はナシと告げられた
正確にはクリスマス後の業務繁忙期ということだろう。残念だが、やむを得ない。自分たちで地図をたどりながら進むことにした。
なお、過去に変遷があった留もあり、考古学的・文献学的に立証できないものも多いとされるが、たどりながら雰囲気を味わうことに徹した
第3留はイエスが最初につまずいたとされる場所。その地に建てられた聖堂の壁に彫刻がある。
その付近には、十字架を背負ったイエスを聖母マリアが見かける場面が彫られていた。
第7留は2度目につまずいたとされる場所。手をついた跡と膝をついた跡が残り、小さなチャペルが建てられ ひっそりと守られていた。
第9留は通りから脇の階段をのぼって更に狭い路地の先にあり、本当にこれで合っているのかと疑いながら進んだ。
下の画像で入口左脇の、人が座っている横にある円柱の所でイエスは3度目につまずいたとされる。柱に刻まれた十字は後世のものだろうか。
タンパン(入口上部の半円形の部分)の前に電飾があるようだ。夜は分かりやすく表示されるのね・・・遊び心がいいなぁ
ちなみに正面はコプト教会の入口。左上の十字架を戴くグレーのドーム屋根が聖墳墓教会。
私たちはなんとなくコプト教会に入った。壁に彫られたシンプルなクロス。
鮮やかな色彩の聖母像が垣間見える。
順路が示されているわけでもなし、なんとなくでしかないのだが、狭く薄暗い堂内を進むうち、いつのまにか聖墳墓教会へたどり着いていた。なんとか自力で留をたどり終えたのだ 【第10留以降は聖墳墓教会内にある。初日に紹介した、十字架を立てた岩が第12留、イエスの墓が第14留】。
下は聖墳墓教会の中央ドーム。
夕方の聖墳墓教会は混んでおり、2日前の晩は難なく入れたイエスの墓に長~い行列ができていた。
そうこうするうち、イエスの墓前から修道士の一団が聖歌を口ずさみつつチャペルへ向かっていった。それに負けじと、別の会派の修道士たちも歌いながら他の聖堂へ進んで行く。生で男声聖歌を聴くのは初めてなうえに、聖堂のドームに心地よく響いて・・・とてもカッコよかった
ヴィア・ドロローサで迷っていたら、この場面に遭遇することはなかった。“なんとなく” ではなくて、導かれたのかもしれないと思ってしまう
3晩(実働2日)いたエルサレムに別れを告げることが信じられない感覚のまま、ヤッフォ門を出てホテルへ向かった。
途上の小売店で赤ワインを買い求め、部屋で2人飲んだ。聖都に乾杯 ←結局、オチはそれかい
★ 中締め ★
旅の後半はSPと見紛う強面のガイド兼ドライバーさんとともに、北部のナザレやガリラヤ湖周辺を訪れます。
お楽しみに